凝縮している今から、拡大する今に変えることによって、ネガティブな囚われの世界から抜け出す
恐れのために、満たされない今を否定すると、今に凝縮してしまい、結晶化の密度が濃くなり、光の保有量が少なくなります。
そのため、現実化する可能性が、否定的な判断の方に偏って固定化(=個別化)し、今が過去や未来と分離してしまいます。
恐れのために、満たされない今を否定し、楽しかった過去や、楽しいと期待する未来を肯定・執着すると、その部分的な形に囚われた、満たされない今に、現実化する可能性が凝縮し、ネガティブな囚われの世界に閉じ込められてしまいます。
その恐れのために、今に凝縮したネガティブな囚われの世界から抜け出すためには、満たされない今と、すべての時を、肯定も否定もせずに、無条件に許容して、今から過去や未来へ、拡大しなければならないのです。
拡大すれば、結晶化の密度は薄くなり、光の保有量が多くなります。
そのため、現実化する可能性が、偏らずにバランスが取れて、流動化し(=全体性を持ち)、今から過去や未来へ拡大し、すべてが今となるのです。
つまり、今からすべての時へ、光(=喜び)が拡大し、闇(=恐れ)であるネガティブな囚われの世界から抜け出すことができるというわけです。
恐れがあって、今が満たされていないから、その満たされていない今を否定して、いつかの未来に何かを達成することによって、満たされようとしても、今を否定することによって、現実化する可能性が、その否定する今に、ネガティブな可能性として凝縮してしまいます。
そのために、過去、今、未来が別々となり、未来が満たされている今に変わることはないのです。
たとえ、無理に形だけでも、楽しいと期待する未来に現実化しようとしても、現実化する可能性が、否定する満たされていない今に凝縮しているために、結晶化の密度が濃くなり、光の保有量が少なくなり、今に固定化(=個別化)しようとします。
そのために、楽しいと期待する未来を、形作ろうとして、無理に現実化しようと行動すると、摩擦や衝突や歪みや、エネルギーの消耗、滞りなどの不調和が生じるのです。
現実化する可能性が、否定する今に凝縮し、光の保有量が少なく、流動性がないために、期待する形の現実化に、多くの困難と苦痛が伴ってくるのです。
そして、たとえ、自分の期待する形として、現実化できたとしても、未来においても、恐れのために、否定する今に凝縮しているために、手に入れたという満足感は、すぐに虚しさに変わってしまいます。
だから、その、消えない、恐れと虚しさを打ち消すために、多くの困難と苦痛を感じながらも、また、楽しいと期待する未来という形を、現実化しようとしてしまいます。
ネガティブな囚われの世界から抜け出すためには、満たされない今を否定するのではなく、満たされない今も、楽しいと期待する未来も、楽しかった過去も、すべての時を、肯定も否定もせずに、無条件に許容することによって、今から光(=喜び)を、過去や未来などのすべての時(=可能性)に、拡大させる必要があるのです。
今を光(=喜び)として拡大すれば、結晶化の密度は薄く、光の保有量が多くなり、流動性(=全体性)があるので、部分的な形に囚われずに、すべてが今となり、あらゆるポジティブな可能性が、喜びを伴って、スムーズに現実化されるようになるのです。
現実化する形と、喜びの意識が、一体化しているのが、本来の喜びの在り方であり、一体化せずにずれていると、たとえ、形を、楽しいと期待する形にしても、意識は恐れのままなので、一時の満足感だけで、すぐに虚しさに変わってしまうのです。
なぜなら、形は幻想であり、意識が本質だからです。
恐れのために、部分的な形に囚われて、満たされない今を否定すると、現実化する可能性が、その否定する今に、闇(=恐れ)として凝縮し、狭められ、ネガティブな囚われの世界に閉じ込められてしまいます。
そして、過去、今、未来のすべてのときを、肯定も否定もせずに、無条件に許容すると、現実化する可能性が、今から光(=喜び)として、すべてのときに拡大し、閉じ込められていたネガティブな囚われの世界から、部分的な形に囚われない、あらゆるポジティブな可能性へと開かれていくのです。
過去も、今も、未来も、すべてを無条件に許容すれば、すべては喜びのもとに、今(=ひとつ)となる
例えば、過去の方が楽しかった、今は楽しくない、
だから、今、過去にした選択を変えて、未来を楽しかった過去に戻したいと思う。
その場合、楽しくない今を否定して、未来に楽しくなることを期待するために、その否定的な判断の方に偏った、楽しくない今が、ネガティブな可能性として現実化することになります。
つまり、今、過去にした選択を変えて、未来を楽しかった過去に戻したいと思っても、今を否定することによっては、楽しかった過去が戻って来ることはないのです。
なぜ、今が楽しい、今にならないのか?
それは、過去に選択をしたときにも、その過去における楽しくない今を否定して、未来に期待したからです。
未来に期待したために、今が楽しくないという否定的な判断が入り、その否定的な判断の方に偏った、楽しくない今という、ネガティブな可能性が現実化したのです。
だから、過去も、今も、未来も、すべてを無条件に許容して、肯定も否定もせずに、偏りなく、バランスが取れれば、過去も、今も、未来も、すべて楽しいという、ポジティブな可能性が現実化するでしょう。
過去、今、未来のすべての条件付けの程度が弱く、同じになるということは、すべてが今になるということです。
すべてが今になれば、条件付けの程度に差がなくなり、判断が入りませんから、今よりも過去の方が楽しかった、今よりも未来に期待しようというような、否定的な判断もなくなるのです。
つまり、すべてが今になれば、楽しくない今を否定して、過去や未来に逃げ込む必要はなくなるのです。
楽しくない今を否定するから恐れが生じ、その恐れから自分を守るために、楽しかった過去や期待する楽しい未来に、逃げ込もうとするのです。
過去、今、未来のすべてを無条件に許容することによって、条件付けの程度が弱く、同じになる。
つまり、すべてが今になります。
過去も、今も、未来も、すべてを肯定も否定もせずに、偏りがなく、バランスが取れて、すべては喜びのもとに、今(=ひとつ)であるという、ポジティブな可能性が現実化するのです。
時間も、条件付けの強さと、程度の差から、形作られている、分離と二元性による幻想なのです。
条件付けの程度を弱くし、同じにすれば、本当は、今(=ひとつ)しかないのです。
そうであるならば、楽しくない今を楽しい今に変える、突破口は、楽しかった過去や、楽しいと期待する未来にあるのではなく、今にしかないのです。
今が楽しくないと、否定することによって、楽しかった過去や、楽しいと期待する未来に逃げ込み、よく見ようとしていない、今にこそ、すべては喜びのもとに、今(=ひとつ)であるという、ポジティブな可能性を現実化するための突破口があるのです。
自らの意識が形として反映されたものを、現実として経験するのですから、楽しかった過去という形や、期待する楽しい未来という形が現実化するのではなく、楽しくない今という、否定的な判断の方に偏った、ネガティブな意識の方が現実化されるのです。
判断することが、恐れを現実化させ、無条件に許容することが、喜びを現実化させる
例えば、自分がしたいことをするのに、お金がある場合と、お金がない場合とを、どちらも強く条件付けし、お金がある場合よりも、お金がない場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
自分がしたいことが、お金があればできると、肯定的な判断をし、お金がなければできないと、否定的な判断をするとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、お金がなければできないという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、自分がしたいことをするのに、お金がある場合と、ない場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします(=どちらも同時に無条件に許容する)。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、お金がある場合も、お金がない場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、自分のしたいことができるという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
例えば、道端で遭遇する人物を、善である場合と、悪である場合とに、どちらも強く条件付けし、善である場合よりも、悪である場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
道端で遭遇する人物が、善であれば、こちらに危害を加えないと、肯定的な判断をし、悪であれば、こちらに危害を加えると、否定的な判断をしたとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、悪であれば、こちらに危害を加えるという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、道端で遭遇する人物を、善である場合と、悪である場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします(=どちらも同時に無条件に許容する)。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、善である場合も、悪である場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、こちらに危害を加えないという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
ある状況に直面するときに、その状況が、光である場合と、闇である場合とを、どちらも強く条件付けし、光である場合よりも、闇である場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
直面する状況が、光であれば嬉しいと、肯定的な判断をし、闇であれば怖いと、否定的な判断をしたとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、闇であれば怖いという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、ある状況に直面するときに、その状況が、光である場合と、闇である場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、光である場合も、闇である場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、嬉しいという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
否定的な判断をした方が、肯定的な判断をした方と、振動の方向が逆になり、光の保有量が減少する方向に振動して、振動数が下がります。
そのため、光の成分と闇の成分が、ずれて合わさり、波形が歪み、合わさった全体としての振動数も下がり、光の保有量が減少した、ネガティブな波動になります。
だから、否定的な判断の方に偏って、光と闇がずれて合わさり、歪んで、光の保有量が減少した、ネガティブな可能性(=恐れ)である、闇が現実化するのです。
肯定するものがあるときには、必ず、その判断の基準となる、否定するものがあります。
光と闇のどちらともを、肯定も否定もせずに、無条件に許容することによって、偏りがなく、バランスが取れて、光と闇が一体化し、光の保有量が保たれた、ポジティブな可能性(=喜び)である、光が現実化するのです。