------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -16ページ目

心の喜びと物質的な喜びを融合させると、見るものすべてが輝いて見える

この物質的な現実の世界においては、心の喜びと物質的な喜びを融合させることが、無条件の愛の波動と調和することになり、本当の喜び(=すべてが喜びのもとにひとつとなる)を手に入れることになります。


心の喜び、あるいは、物質的な喜びのどちらか一方を肯定し、もう一方を否定すると、その否定的な判断の方に偏って(=凝縮して)、意識のバランスが崩れ、恐れが生じ、その恐れによって凝縮された、ネガティブな可能性が現実化しようとします(=恐れのもとではすべてが別々になる)。



左の翼:目に見える形のあるものを見る目(=物質的な目)、知的・理性的、物質的、能動的、男性的


右の翼:目には見えない形のないものを見る目(=心の目)、感情的・感覚的、心的、受動的、女性的


どちらか一方の翼だけを開いて、もう一方の翼を閉じると、両翼(=意識)のバランスが崩れ、恐れが生じ、飛ぶことができずに、空を飛ぶ本当の喜び(=無条件の愛の波動と調和する喜び)を手に入れることはできません。


左の翼も右の翼も、どちらか一方ではなく、どちらも同時に、同じように開くことによって、両翼(=意識)のバランスを取るのです。


左の翼も右の翼も、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容して、神の意志と魂の意志にゆだねることによって、両翼(=意識)のバランスが取れ、空を飛ぶ本当の喜び(=無条件の愛の波動と調和する喜び)が手に入るのです。


両翼(=意識)のバランスが取れて、ひとつになることが喜びで、偏ってバランスが崩れ、別々になることが恐れです。


心の目あるいは物質的な目の、どちらか一方を開いて、もう一方を閉じると、意識のバランスが崩れ、恐れのために、見るものすべてが暗く、歪んで見えます(=暗く、歪んだ心の喜び、あるいは、暗く、歪んだ物質的な喜びとなります)。


心の喜びと物質的な喜びが、恐れのもとに別々になる(=無条件の愛の波動と調和しない)のです。


心の目と物質的な目を、どちらも同時に、同じように開くと、心の喜びと物質的な喜びが融合して、見るものすべてが輝いて見えます。


心の喜びと物質的な喜びが、喜びのもとにひとつとなる(=無条件の愛の波動と調和する)のです。



心の目で見る夢を、物質的な目で見る現実に、融合させることによって、心の喜びと物質的な喜びを融合させることができ、すべてが輝いて見える(=すべてが喜びのもとにひとつとなる)のです。


だからこそ、まず先に、目には見えない形のないもの(=エネルギー的な純粋な喜び)を、心の目を開いて見ることができたのなら、次は、物質的な目も同じように開いて、物質的な現実に、目に見える形あるものとして融合させるために、実際に行動に移すことが必要なのです。



心の目で見る夢は、物質的な現実にはありえないと、あきらめて、心の目を閉じて、物質的な目だけを開いて、物質的な喜びに偏って追い求めるか。


あるいは、物質的な現実から、心の喜びを得ることはできないと、あきらめて、物質的な目を閉じて、心の目だけを開いて、心の喜びに偏って追い求めるか。


そのどちらも、両翼(=意識)のバランスが崩れて、恐れのために飛ぶことができずに、空を飛ぶ本当の喜び(無条件の愛の波動と調和する喜び)を手に入れることはできないのです。







物質的な喜びと心の喜びを、ひとつに融合させる

エネルギー的な傾向が、知的・理性的な要素が強く、その要素の中の、傾向の異なるものを、さらに、別々に形として投影し、細分化していく過程で、だんだん、条件付けの程度が強くなり、その細分化された異なる傾向の間での、条件付けの程度の差がはっきりとしてきます。


細分化された、知的・理性的な要素の間で、条件付けの程度の差がはっきりすると、そこに、精神体主導で、能動的マインドを使った、知的・理性的な判断が入るようになります。


すると、肯定する知的・理性的な要素の方ではなく、否定的な判断の方に偏った(=凝縮した)、否定する知的・理性的な要素の影響を受けた、ネガティブな可能性が現実化します。


精神体主導で、能動的マインドを使って、知的・理性的な判断をすることにより、感情体で恐れが生じ、その恐れを打ち消すために、感情体が、能動的マインドを使って、知的・理性的な側面から、能動的に働きかけることによって、形作られた、歪んだ、暗い物質的な喜びを得ようとします。


感情体は、歪んだ、暗い物質的な喜びを得るために、肯定・執着する方の形である欲を作り出し、その欲を恐れに組み合わせることによって、その欲を満たす原動力となる、恐れにもとづく感情が生じ、その欲を満たすことによって、満足感(=歪んだ、暗い物質的な喜び)を得ようとします。


その肯定・執着する方の形である、欲(=歪んだ、暗い物資的な喜び)を満たそうとする過程では、否定・排除しようとする方に、現実化する可能性が、ネガティブに凝縮しているために、摩擦、衝突、歪み、エネルギーの滞り、消耗などが生じ、恐れと苦痛と困難に直面します。


だから、その恐れと苦痛と困難から、自分を守るために、自分に、財力、権力、資本力、人力、武力などの、歪んだ、暗い物質的な喜びを得るために、必要な力を集めようとします。


自分に物質的な力を集め、物質的に支配することによって、恐れと苦痛と困難から、自分を守ろうとするのです。


しかし、たとえ、欲(=歪んだ、暗い物質的な喜び)を満たして満足感を得たとしても、それは、一時のものであり、すぐに虚しさから恐れに変わり、そのことに、本当は満たされていないということに、気付かないようにするために、さらに、休みなく、もっと多くの欲と力を追い求めるということを繰り返します。



エネルギー的な傾向が、感情的・感覚的な要素が強く、その要素の中の、傾向の異なるものを、さらに、別々に形として投影し、細分化していく過程で、だんだん、条件付けの程度が強くなり、その細分化された異なる傾向の間での、条件付けの程度の差がはっきりとしてきます。


細分化された、感情的・感覚的な要素の間で、条件付けの程度の差がはっきりすると、そこに、感情体主導で、能動的マインドを使った、感情的・感覚的な判断が入るようになります。


すると、肯定する感情的・感覚的な要素の方ではなく、否定的な判断の方に偏った(=凝縮した)、否定する感情的・感覚的な要素の影響を受けた、ネガティブな可能性が現実化します。


感情体主導で、能動的マインドを使って、感情的・感覚的な判断をすることにより、感情体で恐れが生じ、その恐れを打ち消すために、感情体が、能動的マインドを使って、感情的・感覚的な側面から能動的に働きかけることによって、形作られた、歪んだ、暗い心の喜びを得ようとします。


感情体は、歪んだ、暗い心の喜びを得るために、肯定・執着する方の形である欲を作り出し、その欲を恐れに組み合わせることによって、その欲を満たす原動力となる、恐れにもとづく感情が生じ、その欲を満たすことによって、満足感(=歪んだ、暗い心の喜び)を得ようとします。


その肯定・執着する方の形である、欲(=歪んだ、暗い心の喜び)を満たそうとする過程では、否定・排除しようとする方に、現実化する可能性が、ネガティブに凝縮しているために、摩擦、衝突、歪み、エネルギーの滞り、消耗などが生じ、恐れと苦痛と困難に直面します。


だから、その恐れと苦痛と困難から、自分を守るために、自分に、歪んだ、暗い心の喜びを得るために必要な、ネガティブな心の力と、その力を手に入れるのに必要であれば、物質的な力も集めようとします。


しかし、たとえ、欲(=歪んだ、暗い心の喜び)を満たして満足感を得たとしても、それは、一時のものであり、すぐに虚しさから恐れに変わり、そのことに、本当は満たされていないということに、気付かないようにするために、さらに、休みなく、もっと多くの欲と力を追い求めるということを繰り返します。



精神体と感情体の間での自己否定と、知的・理性的な要素と感情的・感覚的な要素の、それぞれの中での否定的な判断には強い関連があります。


つまり、精神体と感情体の間での自己否定がなければ、それぞれの要素の中での否定的な判断は生じないのです。


なぜなら、否定的な判断をすれば、感情体において恐れが生じますが、精神体と感情体のそれぞれの要素を、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容していれば、それぞれの要素は、喜びのもとにひとつとなり、恐れを生じさせる否定的な判断は、入る余地がないからです。


受動的マインドは、エネルギー傾向の異なるものを、エネルギー的に、全体として、ひとつとして、受け取ることができます。


能動的マインドは、エネルギー傾向の異なるものが、全体として、ひとつに融合しているものを、形として、別々に分けて認識し、さらに、それらを形として、全体に再構成することによって、表現します。


だから、すべてを無条件に許容し、神の意志と魂の意志にゆだねることによって、霊体主導で、受動的マインドを使って、エネルギー傾向の異なるものが、エネルギー的に、全体として、ひとつに融合している、合一の認識を受け取り、その受け取った合一の認識を、能動的マインドにより、知的・理性的要素と感情的・感覚的要素を、それぞれありのままに、形として、全体に再構成して表現することによって、物質的な喜びと心の喜びを融合することができるのです。


物質的な形を得ることによって、物質的な喜びを得る。あるいは、心的な形を得ることによって、心の喜びを得る。


物資的な喜びと、心の喜びが、恐れのもとに、別々に切り離されてしまったために、形作られた、歪んだ、暗い喜びを追い求めるようになってしまったのです。


だから、形作られない、純粋な本当の喜びを得るためには、まず、最初に、知的・理性的な要素と感情的・感覚的な要素が、エネルギー的に、全体として、ひとつに融合したものを、直観的に感じ取ることによって受け取り、その感じ取ったエネルギー的に、全体として、ひとつのものを、能動的に、物質的な形を介して、全体に再構成して、表現することによって、心の喜びと物質的な喜びを、ひとつに融合させる必要があるのです。



























なぜ自分が、期待(肯定)する方の可能性が、現実化しないのか?

自分が期待する方の可能性が、現実化してほしいと思っていても、なぜか、否定・排除しようとしている方の可能性が現実化し、その現実と強く関わることを、余儀なくされてしまいます。


なぜなら、それは、現実の経験を通して、その否定・排除しようとしている方からも、肯定・執着する方と同じように、価値を見出すためです。


否定・排除しようとする方にも、肯定・執着する方と同じように、価値を見出し、意識のバランスを取って、無条件の愛の波動の本来の在り方と、調和することを学ぶためなのです。


肯定・執着しているものの、執着とは、否定・排除しようとして生じる、恐れがもたらしている(=影響を及ぼしている)ものです。


だから、そういう判断をすることによって生じる、意識の偏りをなくし、バランスを取るために、肯定も否定もせずに、条件付けの程度を弱くして、同じにし、どちらも同時に無条件に許容するのです。


肉体を持って人間として、この物質的な世界に生きる目的は、肉体的・物質的な現実の経験を通して、無条件の愛の波動と調和することを学ぶためなのです。


だから、そのために必要な現実の経験が、現実化するのです。


したがって、否定的な判断の方に偏っていた、自分の意識を、肯定も否定もせずにバランスを取って、無条件の愛の波動の、本来の在り方と調和できれば、もう、同じようなネガティブな可能性は、現実化しないのです。


ネガティブな現実を経験することによって、恐れや苦痛や困難を味わい続けるためにではなく、意識のバランスを取って、無条件の愛の波動と調和することによって、本当の喜びを得るために、ネガティブな可能性が現実化しているのです。


自分の意識が、形として反映されたものが、現実の経験であり、自分の意識において、影(=否定的な判断の方に偏った意識・恐れ)を光(=喜び)に変えることができれば、もう闇は、現実化されないのです。


だから、影(=否定的な判断の方に偏った意識・恐れ)を光(=喜び)に変えて、本当の喜びを得ることができるということさえ、知っていれば、恐れから自分を守ろうとして、自分が作り出している、恐れと苦痛と困難に、直面し続ける必要はないのです。


恐れから自分を守ろうとすればするほど、恐れと苦痛と困難が増大した、ネガティブな可能性が、次々に、連鎖反応的に現実化してしまうのです。


だから、その、恐れと苦痛と困難の連鎖を断ち切るためには、恐れから自分を守ろうとするのではなく、本当の喜びを得るために、すべてを無条件に許容することによって、ゆだねて、気付き、無条件の愛の波動と調和することを、学べばよいのです。


一度、気付きを得て、学んだことに関しては、もう同じようなネガティブな可能性を現実化させて、経験する必要はなくなるのです。


この地上界は、一つのネガティブな思い(意識)や、一つのポジティブな思い(意識)だけではなく、さまざまな思い(意識)が反映された世界です。


だからこそ、意識がネガティブになっている人に対して、意識がポジティブになるようにサポートして、その人の意識が、ポジティブに変わる喜びに、共鳴することができるのです。


逆に、ネガティブな意識の鏡として、反面教師になることもできます。


ネガティブな意識の反面教師も、その鏡を見る人の意識が、ポジティブに変わるサポートをしているのです。


自分の意識がポジティブに変われば、もう、そのネガティブな意識の反面教師の、自分にとっての役目は終わり、その鏡を見ることによって、ネガティブな影響を受けることはなくなります。


だから、反面教師に感謝はしても、その人の意識を変えようとして、攻撃する必要はないのです。


今度は、そのネガティブな意識の人たちを、サポートする側にまわればよいのです。


ポジティブな意識とは何かを、ありのままの鏡として、示せばよいのです。


これらの連鎖反応が起こることによって、最終的には、さまざまなポジティブな意識を反映する鏡だけになって、そのさまざまなポジティブな意識が共鳴して、喜びが拡大するのです。