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会社の、利害が絡んだわがままで冷たい個性を、利害を超えた優しく、暖かい個性に変える

会社の殺し合い、潰し合い、独占し合いの精神は、わがままで冷たい個性を量産しています。


会社と会社の利害がぶつかり合う。


利害関係では付き合うが、個人的な人間としては、付き合いたくない個性が蔓延しています。


今はまだ、会社や組織や団体の人間性は問われていません。


今まで問われてきたのは、会社や組織や団体のわがままで冷たい個性(=会社を構成する個人の優しく、暖かい個性を押し殺した、会社のわがままで冷たい個性)に協調することです。


会社を離れた個人レベルに戻っても、自らの優しく、暖かい個性を押し殺したままでは、会社のわがままで冷たい個性に縛られてしまいます。


会社のわがままで冷たい個性に縛られたままでは、自らの優しく、暖かい個性を押し殺しているので、自己否定による恐れや不安に支配され続けます。


自己否定による恐れや不安から自分を守ろうとして、自分自身や自分以外の誰かや何かに痛みを与える連鎖反応が生じ、そこから抜け出せなくなってしまうのです。



会社のわがままで冷たい個性と、個人の優しく、暖かい個性との間で、常に葛藤(=罪悪感、自責の念)が生じます。


だから、その葛藤を解消するためには、会社や組織や団体も、個人のレベルと同様に、男性エネルギーと女性エネルギーを融合して、優しく、暖かい個性を持たなければならないのです。


そうすれば、会社や組織や団体の集団間においても、個人レベルと同様に、見返りを期待しない、無償の助け合いの精神を持つことができます。


そのためには、まず、会社を構成している、個人の個性すべてが、自らの内側で利害を超えて、男性エネルギーと女性エネルギーを融合しなければなりません。


まず、会社や組織や団体の内部で、利害を超えて、男性エネルギーと女性エネルギーを融合していなければ、会社や組織や団体の集団間で、利害を超えて助け合うことはできません。


------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛-男性エネルギーと女性エネルギーの融合の概念図

男性エネルギー:能動的、知的・理性的


女性エネルギー:受動的、感情的・感覚的



例えば、学校や会社の成績では、助け合いのために必要な能力ではなく、殺し合い、潰し合い、独占し合いに必要な能力である、わがままで冷たい個性に協調するための能力が、高く評価されています。


男性エネルギーが主導権を握ると、殺し合い、潰し合い、独占し合いの、競争に勝つための能力が高く評価されるのです。


この男性エネルギーに偏った、意識のバランスを回復するためには、精神体の能動的マインド主導ではなく、霊体主導で精神体の受動的マインドを使うことによって、男性エネルギーと女性エネルギーを融合させればよいのです。







利害でつながるのは、絆ではなく、恐れによる支配です

会社や組織や団体の利害関係が、個人と個人が気持ちでダイレクトにつながるのを妨げています。


だから、利害関係を超えれば、個人と個人が気持ちでダイレクトにつながることができます。


利害を超えるためには、リンク(=絆)が必要です。


利害関係により、自分のところだけに利益を呼び込もうとするのではなく、見返りを求めない、無償の助け合いの精神で、リンク(=絆)を持つことにより、つながることが必要です。


物質的な形(=利)に囚われているから、心に恐れ(=害)が生じるのです。


物質的な形(=利)に囚われていると、心に生じる恐れ(=害)から、自分を守ろうとして、恐れに支配された、殺し合い、潰し合い、独占し合い(排除し合い)の精神が生まれます。


会社や組織や団体の利害関係による支配は、個人と個人が気持ちでダイレクトにつながるリンク(=絆)を破壊し、殺し合い、潰し合い、独占し合い(排除し合い)の精神を形作るのです。


隣人が、どこの誰だかわからないのは、その隣人が、自分と利害対立する集団に属している敵かもしれないから、その敵(=害・恐れ)から自分を守るために、つながりを持たないという、無縁社会を形作っているためです。



会社や組織や団体の利害でつながるのは、絆ではなく、恐れによる支配です。


恐れのもとでは、すべてが別々になります。


利害を超えた、見返りを求めない、無償の助け合い(=奉仕の喜び)の精神で、個人と個人が気持ちでダイレクトにつながるのが本当の絆(=リンク)です。


喜びのもとでは、すべてがひとつになります。



会社や組織や団体の利害関係は、多様性(=個人の個性・能力)を殺し、個人と個人が、利害を超えて気持ちでダイレクトにつながることは、多様性を生かします。


多様性を組み合わせることによって、新たな価値(=喜びのもとにすべてがひとつになるもの)を生み出すことができるのです。


会社や組織や団体の利害関係により、自分の集団だけに利益を呼び込もうとすると、多様性を破壊し、新たな価値(=喜びのもとにすべてがひとつになるもの)を生み出すことができずに、古い価値(=恐れのもとにすべてが別々になるもの)にしがみつこうとします(=恐れによる支配を作り出し、強化する)。


必要なときに、必要なものを、必要な人すべてが手に入れることができるのが、本当の豊かさであり、本当の豊かさは、多様性(=個人の個性・能力)の組み合わせにより生まれます。


ここでいう個人の能力とは、見返りを求めない、無償の助け合いの精神により、自らの心の喜びを、ただ、ありのままに表現することによって、必要なときに、必要なものを、必要な人に奉仕できる能力です。


究極のサービス(=心の喜びの表現)は、見返りを期待しない、無償奉仕の助け合いの精神によりなされるものです。



まず先に、インターネットによる情報のレベルから、この無償奉仕の助け合いの精神によるリンク(=絆)ができます。


インターネットは、会社や組織や団体の利害関係を超えて、個人と個人が気持ち(=情報)でダイレクトにつながることを促進し、多様性の組み合わせによる、本当の豊かさを作り出すベースとなるものです。


このベース(=個人と個人が気持ちでダイレクトにつながった絆・リンク)ができることによって、無限のエネルギーにアクセスすることが可能な技術が発明され、その無限のエネルギーにアクセスすることによって、エネルギーからの物質化が可能になり、物質レベルでも助け合いの精神による無償奉仕が促進されます。



多様性があるからこそ、助け合うことができます。


助け合うことができるから、本当の豊かさがあります。


本当の豊かさがあるから、必要なときに、必要なものを、必要な人すべてが手に入れることができます。



殺し合い、潰し合い、独占し合い(排除し合い)をするから、多様性が破壊されます。


多様性を破壊するから、偏りと格差が生まれ、本当の豊かさがありません。


絆(=リンク)を破壊するから、多様性の組み合わせによる、本当の豊かさが生まれないのです。


本当の豊かさが生まれる、もととなるものを破壊してしまっているのです。


だから、必要なときに、必要なものを、必要な人すべてが手に入れることができないのです。


多様性(=リンク・絆)があるから、全体としてのバランスが取れ、すべてに豊かさが行き渡ります。


多様性(=リンク・絆)を破壊すると、全体としてのバランスが崩れ、すべてに豊かさが行き渡らずに、偏りと格差が作り出されるのです。



恐れのもとにすべてが別々になっているものは、利害関係により支配されているために、多様性がなく、個々バラバラであり、複雑・暗たんとしており、組み合わせが困難・不能となり、豊かさを生み出すことができません。


逆に、喜びのもとにすべてがひとつになっているものは、利害を超えた、見返りを求めない、無償の助け合いの精神による多様性(=リンク・絆)があり、単純明快で、組み合わせがスムーズに行われるために、豊かさを生み出すことができます。



お金は価値のすべてではなく、価値の多様性の中の一つにすぎないから、価値の多様性をリンク(=絆)により媒介できる情報(=個人の気持ち)が、お金に換わる価値の交換媒体になりうります。

(お金に価値を過剰に集中させることが、価値の多様性(=個人の個性・能力)を破壊し、偏りと格差を作り出し、豊かさを生み出すことができないのです)



(『未来は、えらべる!』 バシャール 本田健    VOICE   P.179~187、

 『来たるべき地上界のために』 飯沼正晴・堀江克子 悠々塾 P.86~89参照) 






























神の意志に、自らのすべてをゆだねることによって、自分自身で自分を許すという意志を働かす

神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることは、自分自身で自分を許すという、意志(=意図)を働かせることです。


恐れから自分を守るために、恐れを自分の外側に形(=欲)として投影して、その形(=欲)を自分の思い通りにすることによって、満足感を得て、恐れを解消しようとします。


そして、恐れから自分を守ろうとして、自分がしたことと、恐れが生じるもととなる信念を持ったことに対して、罪悪感を感じます。


その罪悪感が自責の念を生じさせ、自分自身で自分を許すことができなくなり、自分自身で自分を許さない限り、恐れは解消しないために、その解消しない恐れから自分を守るということを繰り返すことになります。



自分が、最初からすべてを無条件に許容されているという気付きは、自分自身で自分を許すという意志(=意図)を働かさなければ、得ることはできないのです。


自分が、最初からすべてを許されているという気付きを、自分自身で自分を許すという、自らの意思(=意図)を働かせることによって、気付かなければならないのです。


なぜなら、恐れのために罪悪感を持って、自責の念によって、自分自身で自分を許すことができずに、自分を守ろうとしているのは、他の誰かではなく、自分しかいないからです。


だから、自分で自分を恐れから守ろうとすることは、自分で自分を許すことができないということと同じですから、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねるという、意志を、自ら働かせることによって、自分自身で自分を許すという意志が働き、自分は最初からすべてを許されていて、恐れから自分を守る必要はないのだという、気付きを得ることができるのです。


この気付きにより、恐れと罪悪感と自責の念が解消し、恐れから自分を守ろうとする必要がなくなるのです。


だから、恐れが生じたら、自らのすべてを、神の意志と魂の意志に、ただ、ゆだねて、自分は最初からすべてを許されているのだから、自分自身で自分を許すという、自らの意志(=意図)を働かせればよいだけなのです。



過去において、意識のバランスが崩れて、ネガティブな可能性の方を選択していたのが、今の気付き(=自分は最初からすべてを許されている)によって、意識のバランスが回復すれば、すべての時は今同時に存在していますから、過去においても、意識のバランスが崩れずに、ポジティブな可能性の方を選択することができるようになるのです。


つまり、これが、自分は最初からすべてを許されていて、恐れや罪悪感や自責の念を持つ必要がないということの意味なのです。


自分が、今の恐れと罪悪感と自責の念のもととなっている、ネガティブな信念を持ったことを許すことができずに、恐れから自分を守ろうとする。


自分で自分を守ろうとするのは、自分で自分を許すことができないから。


ネガティブな信念を解消するためには、自分自身で自分を許すという、自らの意志を働かせるために、自らのすべてを神の意志と魂の意志にゆだねなければならない。


自らのすべてを、神の意志と魂の意志に、ゆだねることによって、自分は最初からすべてを許されているという気付きを得て、ネガティブな信念が解消するのです。


過去にしたネガティブな選択を許すことができると、今も同時に存在している、その過去において、ポジティブな選択が可能になるのです。


過去のネガティブな選択に対する、今の、自分は最初からすべてを許されているという気付きが、今も同時に存在している、その過去において、ポジティブな選択を可能にするのです(=今の気付きが、今も同時に存在している過去に、ポジティブな影響を与えることができる)。


気付きによって、今が変われば、今も同時に存在している、過去の選択も変わるのだから、罪悪感と自責の念を感じて、過去を悔やむ必要はないのです。


今気付けば、今も同時に存在している過去の選択が、ポジティブに変わるから、罪悪感が消えるのです。



自分自身で自分を許せない人を、他の誰も許すことはできない。


殺し合いの精神(=ネガティブな信念)であれば、罪悪感と自責の念により、恐れから自分を守ろうとして、自分自身で自分を許すことができない。


助け合いの精神(=ポジティブな信念)であれば、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねて、自分自身で自分を許すことができる。


神の意志と魂の意志に、自らのすべてを、ゆだねることができないから、自分自身で自分を恐れから守ろうとして、自分を許すことができない。


ゆだねることができないということは、「助けて(=心の叫び)!」と叫ぶことができないということです。


だから、助け合いの精神ではなく、恐れから自分で自分を守ろうとして、殺し合いの精神になってしまう。


神の意志と魂の意志に、自らのすべてを、ゆだねることは、自ら「助けて!(=心の叫び)」と叫ぶことであり、自らを自らの意志によって助けることなのです。


だから、「助けて!(=心の叫び)」ということを、恥ずべきことだと思ってはいけないのです。


恥ずべきことだと思うのは、罪悪感と自責の念があるからです。


だから、自分で自分を守ろうとする。


神でも、自らの意志で「助けて!(=心の叫び)」と叫ばない人を、助けることはできないのです。



恐れから自分で自分を守るために、自分自身や自分以外の誰かや何かを傷つける。


これは殺し合いの精神(=ネガティブな信念)です。


自己責任論に支配され、常に、罪悪感(=罪の意識と恥の意識)と自責の念を持たなければなりません。


常に、自己責任論に支配され、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることができないから、「助けて!(=心の叫び)」ということができずに、助け合うこともできない。


逆に、まず先に、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることができれば、「助けて!(=心の叫び)」ということができるから、助け合うこともできる。


これは、本当の自分を、責めずに任せることだから、本当の自由と許しによる、助け合いの精神です。


自分の内側に最初から在る、本当の喜び(=許し)により、自らを責める必要はなく、本当に自由であり、恐れと罪悪感と自責の念ではなく、情熱感を持って、その喜びを、ありのままに表現し、助け合うことができるのです。



本当の喜びと自由と許しは、自分で自分を恐れから守ろうとする、自己責任論の、殺し合いの精神からは生まれずに、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねる、助け合いの精神によって、自分は、最初からすべてを無条件に許されているという、気付きを得て、生まれるのです。