光は混ぜれば混ぜるほど明るくなり、色(=物質的な形)は混ぜれば混ぜるほど暗くなる。
光(形のないもの)は混ぜれば混ぜるほど明るくなり、物質的な色(形)は混ぜれば混ぜるほど暗くなります。
だから、形(物質的な色)への囚われが強ければ強いほど暗闇(=物質的な形により光が反射・吸収される)を経験し、形への囚われを外して、自ら光れば光るほど光そのもの(=反射ではない、自らの光)を経験することができます。
つまり、自分の外側にある、目に見える形(物質的な色)のあるものを手に入れることによって感じる喜びは、光が吸収・反射されることによって見える、形作られた間接的な喜びであり、自分の内側に最初から在る、目には見えない形のない光を、ありのままに外側に形として表現するときの喜びは、吸収と反射による間接的な光ではなく、その表現された形の内側から自ら光る、本当の喜びです。
見返り(=目に見える形のあるもの)を得ることによって感じる喜び(=物質的な色)は、吸収・反射された間接的な喜び(=物質的な色)であり、形への囚われを外して、自分の内側に最初から在る、物質的な目には見えない形のない光(=喜び)を、自分の外側にありのままに表現することは、その表現された形の中に、吸収・反射された間接的な光(=物質的な喜び)ではなく、直接、光そのもの(=本当の喜び)を感じることになるのです。
自分の外側にある喜びを手に入れることによっては、自分の内側の恐れを打ち消すことはできない。
色は物体そのものが持つ性質ではなく、当てられた光によって見え方が変わります。
自分の内側にある、目には見えない形のない恐れを打ち消すために、自分の外側にある目に見える形のある喜び(=見返り)を手に入れても、恐れを打ち消すことはできません。
本来、自分の内側に最初から在る、目には見えない形のない喜び(=光)が、自分の外側に自然ともれ出るときに、本当の喜びを感じることができます。
目に見える形のある、この物質的な現実の世界を生きることによって、形への囚われ・執着心が作り出され、その形への囚われが防壁(=ボーダー)となり、本来、自分の内側に最初から在る、目には見えない形のない喜び(=光)が、自然に外にもれ出ることを妨げるようになります。
本当の喜びは、本来、自分の内側に最初から在る、目には見えない形のない喜び(=光)が自然と外にもれ出るときに感じることができるものですから、形への囚われがあって、執着心が強いと、ボーダーが厚くなり、光(=喜び)が外にもれ出ることができずに、喜びを感じることができなくなります。
だから、自分の内側(=ボーダー)に形作られた、目には見えない形のない恐れから自分を守るために、自分の外側の目に見える形のある喜びを手に入れることによって、恐れを打ち消そうとします。
自分の外側に目に見える形のある喜びを手に入れることは、常に、見返りを求めることになります。
なぜなら、本来、喜びは自分の内側から自然にもれ出てくるものですが、自分を恐れから守るために、自分の外側に何かをすることによって、自分の外側から喜びを手に入れようとすることは、常に、その自分が外側にした何かと引き換えることによってもたらされるものであり、自然ともれ出てくるものではない、形作られたものだからです。
自分の外側の目に見える形のある喜びを手に入れようとする、形への囚われ・執着心は、恐れから自分を守るための防壁であり、恐れそのものです。
つまり、自分の内側の目には見えない形のない恐れから、自分を守るためにすること自体が恐れになっているのです。
だから、自分の内側の目には見えない形のない恐れは、自分の外側の目に見える形のある喜びを手に入れることによっては、打ち消すことはできないのです。
自分の内側の、目には見えない形のない恐れを打ち消すためには、本来、自分の内側に最初から在る、目には見えない形のない喜び(=光)が、自分の外側に自然ともれ出ることができるように、自分を守るために形作っている防壁(=形への囚われ・執着心・ボーダー)を外す必要があるのです。
その防壁(=形への囚われ・執着心・ボーダー)は、自らのすべてをゆだねることによって、外すことができます。
自分の内側に形作られた恐れは、自分の外側の目に見える形のある喜びを手に入れることによってではなく、自分の内側に本来、最初から在る、目には見えない形のない喜びを、自らのすべてをゆだねることによって、防壁(=恐れそのも)を外すことができたときに消えるのです。
まず、自分自身に自分で水をやることによって、自らの花を咲かせる
まず、自分自身 で自分に水をやることです。
そうすれば、必ず、自ら咲かせた自分の花(=自らの内から湧き出る喜びが外に形として表現されたもの)を見て、自分以外の誰かが喜んでくれます。
まず先に、自分自身で自分に水をやらずに、自分以外の誰かに水をやったり、自分に水をもらおうとしても、自分は枯れてしまうから、それを見て、誰も喜んでくれはしないでしょう(=本当の喜びは、まず先に、自らの内から湧き出てくるものであり、喜びをもらったり、与えたりすることはできないのです。もらっている、与えていると思っている喜びも、本当は常に、それぞれの内から自ら湧き出てくるものなのです。)。
何がなくても、自分は、自分自身で自分に水をやることができるから、大丈夫なんだと、今、気付くことです。
枯れてしまう前に、自ら気付いて、自分自身で自分に水をやり始めることが、自らのすべてをゆだねるということです。
自分自身で自分に水をやるということは、自らの内から湧き出る喜びによって、自らに必要なものすべてを創造できるということです。
だから、何がなくても、自分は大丈夫なんだと、今気付くために、すべてをゆだねるのです。
自分の存在そのものが、喜び(=水が自らの内から湧き出る喜びで、花がその喜びを外に形として表現したもの)であることを、思い出すのです。
