神の意志に、自らのすべてをゆだねることによって、自分自身で自分を許すという意志を働かす
神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることは、自分自身で自分を許すという、意志(=意図)を働かせることです。
恐れから自分を守るために、恐れを自分の外側に形(=欲)として投影して、その形(=欲)を自分の思い通りにすることによって、満足感を得て、恐れを解消しようとします。
そして、恐れから自分を守ろうとして、自分がしたことと、恐れが生じるもととなる信念を持ったことに対して、罪悪感を感じます。
その罪悪感が自責の念を生じさせ、自分自身で自分を許すことができなくなり、自分自身で自分を許さない限り、恐れは解消しないために、その解消しない恐れから自分を守るということを繰り返すことになります。
自分が、最初からすべてを無条件に許容されているという気付きは、自分自身で自分を許すという意志(=意図)を働かさなければ、得ることはできないのです。
自分が、最初からすべてを許されているという気付きを、自分自身で自分を許すという、自らの意思(=意図)を働かせることによって、気付かなければならないのです。
なぜなら、恐れのために罪悪感を持って、自責の念によって、自分自身で自分を許すことができずに、自分を守ろうとしているのは、他の誰かではなく、自分しかいないからです。
だから、自分で自分を恐れから守ろうとすることは、自分で自分を許すことができないということと同じですから、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねるという、意志を、自ら働かせることによって、自分自身で自分を許すという意志が働き、自分は最初からすべてを許されていて、恐れから自分を守る必要はないのだという、気付きを得ることができるのです。
この気付きにより、恐れと罪悪感と自責の念が解消し、恐れから自分を守ろうとする必要がなくなるのです。
だから、恐れが生じたら、自らのすべてを、神の意志と魂の意志に、ただ、ゆだねて、自分は最初からすべてを許されているのだから、自分自身で自分を許すという、自らの意志(=意図)を働かせればよいだけなのです。
過去において、意識のバランスが崩れて、ネガティブな可能性の方を選択していたのが、今の気付き(=自分は最初からすべてを許されている)によって、意識のバランスが回復すれば、すべての時は今同時に存在していますから、過去においても、意識のバランスが崩れずに、ポジティブな可能性の方を選択することができるようになるのです。
つまり、これが、自分は最初からすべてを許されていて、恐れや罪悪感や自責の念を持つ必要がないということの意味なのです。
自分が、今の恐れと罪悪感と自責の念のもととなっている、ネガティブな信念を持ったことを許すことができずに、恐れから自分を守ろうとする。
自分で自分を守ろうとするのは、自分で自分を許すことができないから。
ネガティブな信念を解消するためには、自分自身で自分を許すという、自らの意志を働かせるために、自らのすべてを神の意志と魂の意志にゆだねなければならない。
自らのすべてを、神の意志と魂の意志に、ゆだねることによって、自分は最初からすべてを許されているという気付きを得て、ネガティブな信念が解消するのです。
過去にしたネガティブな選択を許すことができると、今も同時に存在している、その過去において、ポジティブな選択が可能になるのです。
過去のネガティブな選択に対する、今の、自分は最初からすべてを許されているという気付きが、今も同時に存在している、その過去において、ポジティブな選択を可能にするのです(=今の気付きが、今も同時に存在している過去に、ポジティブな影響を与えることができる)。
気付きによって、今が変われば、今も同時に存在している、過去の選択も変わるのだから、罪悪感と自責の念を感じて、過去を悔やむ必要はないのです。
今気付けば、今も同時に存在している過去の選択が、ポジティブに変わるから、罪悪感が消えるのです。
自分自身で自分を許せない人を、他の誰も許すことはできない。
殺し合いの精神(=ネガティブな信念)であれば、罪悪感と自責の念により、恐れから自分を守ろうとして、自分自身で自分を許すことができない。
助け合いの精神(=ポジティブな信念)であれば、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねて、自分自身で自分を許すことができる。
神の意志と魂の意志に、自らのすべてを、ゆだねることができないから、自分自身で自分を恐れから守ろうとして、自分を許すことができない。
ゆだねることができないということは、「助けて(=心の叫び)!」と叫ぶことができないということです。
だから、助け合いの精神ではなく、恐れから自分で自分を守ろうとして、殺し合いの精神になってしまう。
神の意志と魂の意志に、自らのすべてを、ゆだねることは、自ら「助けて!(=心の叫び)」と叫ぶことであり、自らを自らの意志によって助けることなのです。
だから、「助けて!(=心の叫び)」ということを、恥ずべきことだと思ってはいけないのです。
恥ずべきことだと思うのは、罪悪感と自責の念があるからです。
だから、自分で自分を守ろうとする。
神でも、自らの意志で「助けて!(=心の叫び)」と叫ばない人を、助けることはできないのです。
恐れから自分で自分を守るために、自分自身や自分以外の誰かや何かを傷つける。
これは殺し合いの精神(=ネガティブな信念)です。
自己責任論に支配され、常に、罪悪感(=罪の意識と恥の意識)と自責の念を持たなければなりません。
常に、自己責任論に支配され、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることができないから、「助けて!(=心の叫び)」ということができずに、助け合うこともできない。
逆に、まず先に、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねることができれば、「助けて!(=心の叫び)」ということができるから、助け合うこともできる。
これは、本当の自分を、責めずに任せることだから、本当の自由と許しによる、助け合いの精神です。
自分の内側に最初から在る、本当の喜び(=許し)により、自らを責める必要はなく、本当に自由であり、恐れと罪悪感と自責の念ではなく、情熱感を持って、その喜びを、ありのままに表現し、助け合うことができるのです。
本当の喜びと自由と許しは、自分で自分を恐れから守ろうとする、自己責任論の、殺し合いの精神からは生まれずに、神の意志と魂の意志に、自らのすべてをゆだねる、助け合いの精神によって、自分は、最初からすべてを無条件に許されているという、気付きを得て、生まれるのです。