すべてを無条件に許容し、ゆだねることによって、分離感・孤独感・虚しさを解消する
純粋な光を、形として投影したときに、分離という幻想が生じます。
条件付けの程度が強いほど、結晶化の密度が濃くなり、形として固定化(=個別化)され、光の保有量が減ります。
条件付けの程度が強いほど、条件付けの程度に差が出やすくなり、二元性が生じます。
二元性が生じると、相対的(=部分的)な形に囚われた判断が入りやすくなります。
そして、判断が入ると、恐れが生じ、その恐れから自分を守ろうとして、さらに条件付けと判断が入ります。
つまり、恐れから自分を守ろうとして、条件付けと判断の連鎖が起こり、分離と二元性が強化されるのです。
恐れのもとでは、すべてが別々になっていき、虚しさを感じることになります。
だから、分離と二元性から生じる、分離感・孤独感・虚しさを解消するためには、意識を、分離から統合し、二元性から合一の意識に変えることが必要になります。
純粋な光を、形として投影するときに、条件付けの程度が強いと、結晶化の密度が濃くなり、形が固定化(=個別化)され、光の保有量が少なくなることによって、分離という幻想を信じるようになります。
だから、分離という幻想を解消するためには、条件付けの程度を弱くし、結晶化の密度を薄くして、形に流動性(=全体性)を持たせ、光の保有量を増す必要があります。
すべてを無条件に許容することによって、条件付けの程度を弱くして、同じにし、条件付けの程度の差をなくすことによって、判断をなくします。
そして、創造の源とハートの意志にゆだねることによって、ハートの合一の認識の波動に同調します。
ハートの合一の認識の波動に同調することによって、条件付けと判断により、ネガティブな方向に抑制されていた振動が、ポジティブな方向に活性化されて振動し、ネガティブな方向に分離していた波動が、ポジティブな方向に統合され、分離が解消します。
波動の分離が解消されれば、二元性も解消されるので、判断も入らなくなるのです(=判断の入る余地がなくなる)。
この条件付けと判断のもととなっていた、部分的な形への囚われが消失したことに気付くときに、分離していた部分は、自らの全体に統合され、自らの一部であると認識することができるのです。
このようにして、部分的な形への囚われをひとつずつ解消し、小さな気付きを積み上げ、それらをすべての形への囚われの解消までに拡大していく、気付きを拡大していくことにより、すべては喜びのもとに、自ら(=ひとつ)であると認識する気付きである、ワンネスを経験することができるのです。
ワンネスとは、細かく分離した部分も、大きく統合された全体も、すべては、喜びのもとに、自ら(=ひとつ)であるという認識なのです。
条件付けの程度が弱くなれば、条件付けの程度に差がなくなるので、二元性が解消されます。
そして、二元性が解消されれば、相対的な形に囚われた判断は入らなくなるので、恐れではなく、本来の在り方である、喜びが生じます。
分離も二元性も解消し、すべてが喜びのもとにひとつになり、虚しさも解消するのです。
自分を恐れから守るために、嫌うことによって、否定・排除してきた、自らのすべての側面を、無条件に許容し、創造の源とハートの意志にゆだねることによって、自らの全体に光として統合していくのです。
そうすれば、恐れのもとに、すべてが別々になっていく(=自らではなくなっていく)ために生じていた、分離感や孤独感や虚しさは、すべてが喜びのもとに、自ら(=ひとつ)になっていくことによって、解消していくのです。
純粋な光として在るときの、本来の在り方である、無条件の愛に戻っていくのです。
自分を、恐れ(=純粋な光を、形として投影するときに、影によって分離し、闇として投影されていたすべてのもの)から守るために、嫌って否定・排除しようとしていたものすべてを、自らの一部分と認め、許し、自らの全体に、本来の在り方である光に戻して統合することによって、分離感や孤独感や虚しさが消えていくのです。
条件付けと判断の連鎖が、嫌いなものを、ますます嫌いにさせる。
現実の経験を創造(=想像)するときに、思考のイマジネーションによる、条件付けの度合いによって、結晶化の密度が決まり、光の保有量と振動数が決まります。
思考のイマジネーションによる、条件付けの度合いが強いほど、結晶化の密度が濃くなり、形として固定化し、光の保有量が少なくなるので、振動数が低くなります。
逆に、思考のイマジネーションによる、条件付けの度合いが弱いほど、結晶化の密度が薄くなり、形としては流動性があり、光の保有量が多くなるので、振動数が高くなります。
条件付けの度合いが強いほど、形への囚われの度合いが強くなり、異なる条件付けをするものの間で、条件付けの度合いに差ができやすくなります。
そして、条件付けの度合いに差ができると、振動数が異なってくるので、その異なる振動数の波動を組み合わせると、分離してずれて合わさり、波形に歪みが生じ、合わさった全体としての振動数も低下します。
また、条件付けの度合いに差ができると、部分的な形への囚われが強くなり、相対的な形に囚われた判断が入りやすくなります。
異なる条件付けをしたものの間で、条件付けの度合いに差があると、そこに、一方を肯定し、他方を否定・排除しようとするような、相対的(=部分的)な形に囚われた判断が入ることによって、恐れの感情が生じ、その恐れの感情が、否定・排除しようと条件付け・判断したものの波動を、ネガティブな方向に振動させ、その結果、振動数が低下します。
相対的な形に囚われた判断が入った波動が、ネガティブな方向に振動数を下げて、振動することによって、その波動と、肯定しようと条件付けしたものの波動が合わさるときに、分離して、ずれて合わさり、波形に歪みが生じ、合わさった全体としての振動数も低下します。
ネガティブな方向に、らせん状に振動する波動は、光を取り入れるのを妨げる方向に振動します。
ポジティブな方向に、らせん状に振動する波動は、光を取り入れる方向に振動します。
ネガティブな方向の振動と、ポジティブな方向の振動は、方向が逆なのです。
保有できる光の量は、条件付けの度合いによって決まり、その決まった光の保有量を、光を流す方向を変えたり、光を流す量を調節して、多くしたり、少なくしたりしているのが、感情なのです。
光を流す方向:ポジティブな感情では、光を取り入れる方向になり、ネガティブな感情では、光を取り入れるのを妨げる方向になります。
光を流す量の調節:感情の度合いにより決まり、感情が強いほど、流す量が増え、感情が弱いほど、流す量が減ります。ポジティブな感情の度合いは、光を取り入れる量を変化させ、ネガティブな感情の度合いは、光を取り入れるのを妨げる量を変化させます。
異なる条件付けをした波動を、どちらも無条件に許容して、条件付けの度合いが
同じ場合は、振動数も同じになるので、それらの波動は、一体化して、ずれずに合わさるので、振動数も低下しません。
そして、条件付けの度合いが同じ場合は、相対的な形への囚われが生じずに、判断が入る余地がなくなります。
判断が入らなければ、どちらの波動も、振動する方向は、ポジティブな方向になるので、生じる感情もポジティブな感情になります。
どちらもポジティブな方向に振動するので、光を取り入れる方向の振動になります。
また、異なる条件付けをした波動の、条件付けの度合いに差がある場合は、一方を肯定し、他方を否定・排除するような、相対的な形に囚われた判断が入るので、恐れの感情を生じ、その恐れの感情により、否定・排除しよとしている方の波動が、ネガティブな方向に振動し、振動数が下がります。
そして、否定・排除しようとしている方の波動が、肯定している方の波動と合わさるときに、一体化せずに、分離してずれて合わさり、波形が歪み、合わさった波動の振動数も下がります。
一方がポジティブな方向に振動し、他方がネガティブな方向に振動しますから、光を取り入れながら、同時に光を取り入れるのを妨げる方向の振動になります。
だから、自分が喜びを感じられるものに対しては、条件付けの度合いが弱く、形への囚われの度合いが弱くなります。
形への囚われの度合いが弱くなると、異なるものの間で、条件付けするときに、条件付けの度合いに差ができにくくなり、部分的な形への囚われが弱くなり、相対的な判断が入る余地がなくなります。
つまり、自分が喜びを感じられる状態にあれば、現実の経験を創造(=想像)するときに、受動的なイマジネーションを使って、条件付け(=意味づけ)するので、全体を無条件に許容し、条件付けの度合いに差がなくなり、部分的な形への囚われが生じなくなるのです。
その結果、思考の能動的なイマジネーションによる、相対的な形に囚われた判断が入る余地がなくなるので、判断により生じる、恐れなどのネガティブな感情も生じないのです。
また、自分が喜びや情熱などを感じることのできる状態に在れば、思考の受動的なイマジネーションにより、全体を無条件に許容しているので、自分が持つ波動の振動数も全体として高くなり、結晶化の密度が薄くなり、形としては流動的になり、光の保有量が多くなります。
つまり、部分的な形に囚われなくなり、多少のことは気にならなくなる、楽観的な、ポジティブな状態になるのです。
逆に、恐れを感じる状態に在れば、思考の能動的なイマジネーションにより、条件付けと判断の連鎖が生じ、自分が持つ波動の振動数が全体として低くなり、結晶化の密度が濃くなり、形としては固定化され、光の保有量が少なくなります。
つまり、部分的な形への囚われが強くなり、多くのことが気になって、不安になる、悲観的な、ネガティブな状態になるのです。
簡単に言えば、好きなものに対しては、細かなことが気にならなくなり、条件付けと判断が少なくなり、全体を無条件に許容して、ますます好きになります。
逆に、嫌いなものに対しては、細かなことが気になりだし、条件付けと判断の連鎖が生じ、ますます、嫌いになるということです。
自ら望む強い意志と、自らの決断によって、恐れと苦痛の連鎖を断ち切る
思考の能動的なイマジネーションを使って、自分を守ろうとしているときは、受動的なイマジネーションを使って、自分をすべてに委ねる、すべてを無条件に許容して受け取ることができていない状態です。
思考の能動的なイマジネーションを使って、自分を守ろうとすることが、恐れを生じさせ、その恐れが、自分を守ろうとさせます。
ある状況に直面したときに、思考の能動的なイマジネーションを使って、ある特定の可能性のみを肯定・執着する場合は、他の可能性の受け取りを拒否し、抵抗しようとしています。
そして、他の可能性を否定・排除しようとする場合は、それらを隠そうとしています。
自分で自分を守らなければ、恐れにより、自分が苦痛を受けてしまうと、恐れているのです。
恐れが苦痛を生じさせ、その苦痛を恐れ、またその恐れが苦痛を生じさせ・・・・・
恐れと苦痛の連鎖が続きます。
この恐れから、自分を守ろうとすることによって生じる、苦痛の連鎖から抜け出すことができなくなります。
恐れから自分を守ろうとすることが、苦痛を生じさせます。
だから、癒す(=恐れと苦痛を消す)ためには、自分を守ろうとするのではなく、すべてに委ねる必要があります。
ある状況に直面したときに、能動的なイマジネーションにより、ある特定の可能性を肯定・執着し、他の可能性を否定・排除することによって、自分を守ろうとするのではなく、受動的なイマジネーションにより、すべてを無条件に許容して、創造の源とハートの意志に委ねるのです。
思考の能動的なイマジネーションは、創造の源とハートから、思考の受動的なイマジネーションが受け取ったものを、ありのままに表現するのが本来の働きです。
形のない全体から、形のある部分に分けて、形のある部分を組み合わせて、形のある全体に再構成するのです。
本来、思考の受動的なイマジネーションが、創造の源とハートから、インスピレーションとして受け取ったものには、部分的な形に囚われた、条件付けと判断が入る余地はありません。
思考の受動的なイマジネーションがインスピレーションを受け取る前に、思考の能動的なイマジネーションにより、自分を守ろうとして、受け取り拒否したり、隠そうとすることによって、部分的な形に囚われた、条件付けと判断が入るのです。
自分を守ろうとさせる、恐れと苦痛の連鎖を、根本から断ち切るためには、最大の恐れと、最大の苦痛を生じさせている、自我の根幹を支えている、ネガティブな観念を明らかにして、気付き、それを諦めて、無条件に許容し、ハートから合一の認識を受け取ることによって、さらに気付く必要があります。
恐れと苦痛の連鎖のもとになっている、部分的な形への囚われを、明らかにして気付き、それらの期待と判断を諦めて、それらを全体として、無条件に許容し、ハートから合一の認識を受け取ることによって、部分的な形への囚われが消失し、それに気付くことによって、恐れと苦痛が消え、癒されるのです。
能動的なイマジネーションによる、部分的な形への囚われが明らかになって、それに気付くだけでは、恐れと苦痛の連鎖を断ち切ることはできません。
能動的なイマジネーションが形に囚われている部分を、受動的なイマジネーションによって、本来の全体として、無条件に許容し、ハートから合一の認識を受け取ることによって、部分的な形への囚われが消失し、それに気付くことによって、恐れと苦痛の連鎖が断ち切られるのです。
ある状況に直面したときに、能動的なイマジネーションで、条件付けと判断をして、部分的な形に囚われていることが明らかになって、それに気付いたら、能動的なイマジネーションにより、条件付けと判断をすることによって、自分を守り続けるのか、それとも、自分で自分を守るのをやめて、受動的なイマジネーションにより、すべてを無条件に許容して、創造の源とハートの意志に委ねるのかは、自我の自由意志による選択になります。
恐れと苦痛の連鎖は、形への囚われに気付いたら、自らの意志に関係なく、自動的に解消するのではなくて、自らの自由意志による選択によって、形への囚われを消失させて、気付き、自ら断ち切らなければならないのです。
恐れと苦痛の連鎖を解消するためには、自ら望む強い意志(=意図)と、自らの決断(=自ら断ち切ると決めること)が必要なのです。
自ら望む強い意志(=意図)と、自ら望むもの以外のものを断ち切り、自ら望むものに想像力を結びつける、ハートのエネルギー(=情熱)が必要です。
自我が、創造の源とハートの意志(=意図)にすべてを委ね、自我の意志(=意図)と創造の源とハートの意志(=意図)が一致したときに、創造(=想像)に必要な自我のイマジネーションの原動力となる、ハートのエネルギーである情熱(=ワクワク感)を自我が感じ、ハート主導で受動的に、自我のイマジネーションを使って、望む現実(=ポジティブな現実)の経験を創造(=想像)することができるようになるのです。
ポジティブな現実の経験とは、創造の源とハートと自我の意志(=意図=青写真)が一致し、ハートのエネルギーである情熱が原動力となって、すべてが喜びのもとにひとつになる、現実の経験です。
ネガティブな現実の経験とは、創造の源とハートと自我の意志(=意図=青写真)が一致せず、ハートの情熱のエネルギーから分離した、ネガティブな側面である、恐れが原動力となって、すべてが恐れのもとに別々になる、現実の経験です。
そして、自我の意志(=意図=青写真)を、創造の源とハートの意志(=意図=青写真)に一致させる方法が、思考の受動的なイマジネーションにより、すべてを無条件に許容して、ゆだねる、ということになります。
自我が思考の受動的イマジネーションにより、すべてを無条件に許容して、創造の源とハートの意志(=意図=青写真)にゆだねることによって、自我の波動がハートの情熱のエネルギーに同調し、自我自身によって、恐れと苦痛の連鎖を断ち切ることができるのです。
自我が思考の能動的イマジネーションにより、部分的な形に囚われた、条件付けと判断をして、創造の源とハートの意志(=意図=青写真)にゆだねずに、自分で守ろうとすると、自我の波動は、ハートの情熱のエネルギーに同調せずに、そのネガティブな側面である、恐れのエネルギーに同調し、自我自らで、恐れと苦痛の連鎖を断ち切ると、決断することができないのです。