物質的な喜びと心の喜びを、ひとつに融合させる | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

物質的な喜びと心の喜びを、ひとつに融合させる

エネルギー的な傾向が、知的・理性的な要素が強く、その要素の中の、傾向の異なるものを、さらに、別々に形として投影し、細分化していく過程で、だんだん、条件付けの程度が強くなり、その細分化された異なる傾向の間での、条件付けの程度の差がはっきりとしてきます。


細分化された、知的・理性的な要素の間で、条件付けの程度の差がはっきりすると、そこに、精神体主導で、能動的マインドを使った、知的・理性的な判断が入るようになります。


すると、肯定する知的・理性的な要素の方ではなく、否定的な判断の方に偏った(=凝縮した)、否定する知的・理性的な要素の影響を受けた、ネガティブな可能性が現実化します。


精神体主導で、能動的マインドを使って、知的・理性的な判断をすることにより、感情体で恐れが生じ、その恐れを打ち消すために、感情体が、能動的マインドを使って、知的・理性的な側面から、能動的に働きかけることによって、形作られた、歪んだ、暗い物質的な喜びを得ようとします。


感情体は、歪んだ、暗い物質的な喜びを得るために、肯定・執着する方の形である欲を作り出し、その欲を恐れに組み合わせることによって、その欲を満たす原動力となる、恐れにもとづく感情が生じ、その欲を満たすことによって、満足感(=歪んだ、暗い物質的な喜び)を得ようとします。


その肯定・執着する方の形である、欲(=歪んだ、暗い物資的な喜び)を満たそうとする過程では、否定・排除しようとする方に、現実化する可能性が、ネガティブに凝縮しているために、摩擦、衝突、歪み、エネルギーの滞り、消耗などが生じ、恐れと苦痛と困難に直面します。


だから、その恐れと苦痛と困難から、自分を守るために、自分に、財力、権力、資本力、人力、武力などの、歪んだ、暗い物質的な喜びを得るために、必要な力を集めようとします。


自分に物質的な力を集め、物質的に支配することによって、恐れと苦痛と困難から、自分を守ろうとするのです。


しかし、たとえ、欲(=歪んだ、暗い物質的な喜び)を満たして満足感を得たとしても、それは、一時のものであり、すぐに虚しさから恐れに変わり、そのことに、本当は満たされていないということに、気付かないようにするために、さらに、休みなく、もっと多くの欲と力を追い求めるということを繰り返します。



エネルギー的な傾向が、感情的・感覚的な要素が強く、その要素の中の、傾向の異なるものを、さらに、別々に形として投影し、細分化していく過程で、だんだん、条件付けの程度が強くなり、その細分化された異なる傾向の間での、条件付けの程度の差がはっきりとしてきます。


細分化された、感情的・感覚的な要素の間で、条件付けの程度の差がはっきりすると、そこに、感情体主導で、能動的マインドを使った、感情的・感覚的な判断が入るようになります。


すると、肯定する感情的・感覚的な要素の方ではなく、否定的な判断の方に偏った(=凝縮した)、否定する感情的・感覚的な要素の影響を受けた、ネガティブな可能性が現実化します。


感情体主導で、能動的マインドを使って、感情的・感覚的な判断をすることにより、感情体で恐れが生じ、その恐れを打ち消すために、感情体が、能動的マインドを使って、感情的・感覚的な側面から能動的に働きかけることによって、形作られた、歪んだ、暗い心の喜びを得ようとします。


感情体は、歪んだ、暗い心の喜びを得るために、肯定・執着する方の形である欲を作り出し、その欲を恐れに組み合わせることによって、その欲を満たす原動力となる、恐れにもとづく感情が生じ、その欲を満たすことによって、満足感(=歪んだ、暗い心の喜び)を得ようとします。


その肯定・執着する方の形である、欲(=歪んだ、暗い心の喜び)を満たそうとする過程では、否定・排除しようとする方に、現実化する可能性が、ネガティブに凝縮しているために、摩擦、衝突、歪み、エネルギーの滞り、消耗などが生じ、恐れと苦痛と困難に直面します。


だから、その恐れと苦痛と困難から、自分を守るために、自分に、歪んだ、暗い心の喜びを得るために必要な、ネガティブな心の力と、その力を手に入れるのに必要であれば、物質的な力も集めようとします。


しかし、たとえ、欲(=歪んだ、暗い心の喜び)を満たして満足感を得たとしても、それは、一時のものであり、すぐに虚しさから恐れに変わり、そのことに、本当は満たされていないということに、気付かないようにするために、さらに、休みなく、もっと多くの欲と力を追い求めるということを繰り返します。



精神体と感情体の間での自己否定と、知的・理性的な要素と感情的・感覚的な要素の、それぞれの中での否定的な判断には強い関連があります。


つまり、精神体と感情体の間での自己否定がなければ、それぞれの要素の中での否定的な判断は生じないのです。


なぜなら、否定的な判断をすれば、感情体において恐れが生じますが、精神体と感情体のそれぞれの要素を、どちらも肯定も否定もせずに、無条件に許容していれば、それぞれの要素は、喜びのもとにひとつとなり、恐れを生じさせる否定的な判断は、入る余地がないからです。


受動的マインドは、エネルギー傾向の異なるものを、エネルギー的に、全体として、ひとつとして、受け取ることができます。


能動的マインドは、エネルギー傾向の異なるものが、全体として、ひとつに融合しているものを、形として、別々に分けて認識し、さらに、それらを形として、全体に再構成することによって、表現します。


だから、すべてを無条件に許容し、神の意志と魂の意志にゆだねることによって、霊体主導で、受動的マインドを使って、エネルギー傾向の異なるものが、エネルギー的に、全体として、ひとつに融合している、合一の認識を受け取り、その受け取った合一の認識を、能動的マインドにより、知的・理性的要素と感情的・感覚的要素を、それぞれありのままに、形として、全体に再構成して表現することによって、物質的な喜びと心の喜びを融合することができるのです。


物質的な形を得ることによって、物質的な喜びを得る。あるいは、心的な形を得ることによって、心の喜びを得る。


物資的な喜びと、心の喜びが、恐れのもとに、別々に切り離されてしまったために、形作られた、歪んだ、暗い喜びを追い求めるようになってしまったのです。


だから、形作られない、純粋な本当の喜びを得るためには、まず、最初に、知的・理性的な要素と感情的・感覚的な要素が、エネルギー的に、全体として、ひとつに融合したものを、直観的に感じ取ることによって受け取り、その感じ取ったエネルギー的に、全体として、ひとつのものを、能動的に、物質的な形を介して、全体に再構成して、表現することによって、心の喜びと物質的な喜びを、ひとつに融合させる必要があるのです。