判断することが、恐れを現実化させ、無条件に許容することが、喜びを現実化させる
例えば、自分がしたいことをするのに、お金がある場合と、お金がない場合とを、どちらも強く条件付けし、お金がある場合よりも、お金がない場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
自分がしたいことが、お金があればできると、肯定的な判断をし、お金がなければできないと、否定的な判断をするとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、お金がなければできないという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、自分がしたいことをするのに、お金がある場合と、ない場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします(=どちらも同時に無条件に許容する)。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、お金がある場合も、お金がない場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、自分のしたいことができるという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
例えば、道端で遭遇する人物を、善である場合と、悪である場合とに、どちらも強く条件付けし、善である場合よりも、悪である場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
道端で遭遇する人物が、善であれば、こちらに危害を加えないと、肯定的な判断をし、悪であれば、こちらに危害を加えると、否定的な判断をしたとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、悪であれば、こちらに危害を加えるという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、道端で遭遇する人物を、善である場合と、悪である場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします(=どちらも同時に無条件に許容する)。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、善である場合も、悪である場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、こちらに危害を加えないという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
ある状況に直面するときに、その状況が、光である場合と、闇である場合とを、どちらも強く条件付けし、光である場合よりも、闇である場合の方が、条件付けの程度が強いとします。
この場合、部分的な(=相対的な)形に囚われた判断が入り、恐れが生じます。
直面する状況が、光であれば嬉しいと、肯定的な判断をし、闇であれば怖いと、否定的な判断をしたとします。
そうすると、否定的な判断の方に偏った、闇であれば怖いという、ネガティブな可能性(=恐れ)が現実化されます。
また、ある状況に直面するときに、その状況が、光である場合と、闇である場合とを、どちらも弱く、同じ程度に条件付けしたとします。
この場合、条件付けの程度が、どちらも弱く、同じなため、部分的な形に囚われた判断は入らずに、喜びが生じます。
そうすると、光である場合も、闇である場合も、どちらも同時に無条件に許容するため、見かけの形がどちらの場合でも、その見かけの形に囚われずに、偏りがなく、バランスが取れて、嬉しいという、ポジティブな可能性(=喜び)が現実化されます。
否定的な判断をした方が、肯定的な判断をした方と、振動の方向が逆になり、光の保有量が減少する方向に振動して、振動数が下がります。
そのため、光の成分と闇の成分が、ずれて合わさり、波形が歪み、合わさった全体としての振動数も下がり、光の保有量が減少した、ネガティブな波動になります。
だから、否定的な判断の方に偏って、光と闇がずれて合わさり、歪んで、光の保有量が減少した、ネガティブな可能性(=恐れ)である、闇が現実化するのです。
肯定するものがあるときには、必ず、その判断の基準となる、否定するものがあります。
光と闇のどちらともを、肯定も否定もせずに、無条件に許容することによって、偏りがなく、バランスが取れて、光と闇が一体化し、光の保有量が保たれた、ポジティブな可能性(=喜び)である、光が現実化するのです。