------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -21ページ目

恐れは縦に連鎖し、喜びは横に連鎖する。

恐れは縦に連鎖し、縦につながります。


自分自身を支える土台(=エネルギー的な基礎)が、自らにないために、常に、立場が上の者が下の者を踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)ことによって、上の者が下の者を支えさせる構造ができます。


つまり、ネガティブなエネルギーは、自分自身を自ら支えることができないために、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存しなければならないのです。


恐れの連鎖の中では、自らの在り方を、常に、自分以外の誰かや何かとの間での、条件付けと判断によって決めるので、上や下(形に囚われた相対的な差)ができ、すべてが別々になるのです。


一方、喜びは横に連鎖し、横につながります。


自分自身を支える土台(=エネルギー的な基礎)が、常に、自らにあるために、上や下はできません。


つまり、ポジティブなエネルギーは、自分自身を自ら支えることができるために、自分以外の誰かや何かにエネルギー的に依存しなくてすむのです。


喜びの連鎖の中では、常に、自らの喜びが自らの土台(=エネルギー的な基礎)になるので、自分以外の誰かや何かを踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)必要がないのです。


喜びの連鎖の中では、自らの在り方を決めるのに、自分以外の誰かや何かとの間での、条件付けと判断はせずに、無条件に許容するので、上と下はできずに、すべてがひとつとなるのです。



自分が純粋な喜びを感じるのに、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存しなくてもよいのです。


精神体において、無条件の愛の喜びの波動から分離していない、ポジティブな観念を持って、その観念から意味づけするのです。


そうすれば、最初に恐れがあって、喜びがないから、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存して、その、ない喜びを形作ろうとしなくてもよくなります。


自らを支えるエネルギーは、自らの純粋な喜びの波動なのです。


最初に、自らの内側に、純粋な喜びがあれば、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存して、ない喜びを、自分の外側に形作ろうとする必要はないのです。


純粋な喜びを、まず最初に、自らの内側に感じて、その喜びのままに、行動・反応すれば、自分以外の誰かや何かを踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)必要はありません。


最初に、自らの内側に純粋な喜びがあるので、お互いに、何の見返りも求める必要がなく、ただ与えあうことによって、横に連鎖して、つながるのです。




最初に恐れがあって、喜びがないから、その、ない喜びを形作ろうとして、奪いあい、すべてが別々になり、調和しない(=満たされない)。


最初に喜びがあって、ただ、それを、ありのまま表現することによって、与えあい、すべてがひとつになり、調和する(=満たされる)。









恐れではなく、喜びの連鎖の中で生きる

「自分が生き残るためには、自分以外の誰かや何かを犠牲にしてもかまわない。」


というネガティブな観念から意味づけした場合、


恐れにもとづく、ネガティブな意味づけの連鎖のピラミッドが形作られます。



△ネガティブな意味づけの連鎖のピラミッドでは、


上に位置するほど、恐れが強く、肉食度が高くなり、下に位置するほど、恐れは弱く、草食度が高くなります。


ネガティブな意味づけの連鎖のピラミッドは、多数の草食系が、少数の肉食系を支えるピラミッドになります。


多数の草食系が、少数の肉食系を支えるために、直接、自らの手を血で染めて、自分自身や自分以外の誰かや何かを犠牲にして手に入れたものを、分配するピラミッドは、草食系が肉食系を支えるピラミッドとは、逆のピラミッドになります。


つまり、人間の肉食系は、自分の手は血で染めることなく、草食系の手を血で染めさせて、草食系よりも多くの肉を喰らうのです。


肉食系の取り分を維持あるいは増やすために、草食系は、常に、無駄な競争を強いられ、その競争で発生した損失(=無駄)は、草食系の取り分を少なくするか、草食系を切ることによって調整されます。



肉食系は、自分以外の誰かや何かを犠牲にする、ピラミッド構造の上に位置するために、草食系よりも強い恐れを持っています。


肉食系は、その恐れを隠すために、必要以上に肉を喰らい、肉体的・物質的な快楽を満たすことによって、苦痛を感じないようにしています。


草食系は、恐れは弱いけれども、肉食系の取り分を維持するために、直接、自らの手を血で染めて、自分自身や他の誰かや何かを犠牲にするので、苦痛を強く感じます。


草食系は、その苦痛がプレッシャーとなり、恐れにもとづく、ネガティブな意味づけの連鎖の、土台となっている、「自分が生き残るためには、自分以外の誰かや何かを犠牲にしてもかまわない」というネガティブな観念を、ポジティブな観念に変えなければ、本当の喜びは得られないと気付きます。


恐れにもとづく、ネガティブな意味づけの連鎖から、喜びにもとづく、ポジティブな意味づけの連鎖に変えるのです。


最初に、土台となる恐れがあって、喜びがないから、恐れを肉を手に入れることに変えて、その肉によって、肉体的・物質的な快楽を満たし、苦痛を感じないようにしているのです。


恐れにもとづくネガティブな意味づけの連鎖により、恐れによる支配のピラミッド構造(=草食系が肉食系を支え、肉食系が肉食を維持するための分配をする構造)が形作られています。


最初に、土台となる喜びがあって、ただ、その喜びのままに生きることによって、肉をくらわなくとも、自分の喜びが、自分以外の誰かや何かの喜びにつながっていく、喜びにもとづく、ポジティブな意味づけの連鎖に変えるのです。


まず、最初に、肉と切り離して、自分にとっての喜びが、本当は何なのかに気付いていくのです。


少しずつでいいのです。


そうすれば、最初は自分だけの小さな喜びであっても、その小さな喜びが連鎖して、自分だけの喜びを超えて、自分以外の誰かや何かの喜びにつながっていく、喜びが連鎖するのです。


肉を喰らわなくとも、純粋な喜びを感じることができることに意味づけしていく。最初は自分だけの小さな喜びでかまわない。


なぜなら、喜びは喜びにつながっていく、連鎖して拡大していくからです。


その喜びの連鎖の過程で、ポジティブなエネルギーが拡大し、恐れにもとづいてやっていたことを支えるネガティブなエネルギーが縮小していけば、今まで、恐れにもとづいてやっていたことには、まったく意味づけができなくなって、何も感じなくなり、何もやる気がなくなります。


そのときには、ポジティブなエネルギーがネガティブなエネルギーより拡大して、恐れに打ち勝っていますから、恐れにもとづく、ネガティブな意味づけの連鎖のピラミッドから抜け出すことができるのです。


肉を喰らわなくとも、喜びの連鎖の中で生きていけます。



喜びの連鎖が拡大していけば、恐れの連鎖のピラミッドを支えていた、ネガティブなエネルギーがなくなり、恐れにもとづいて維持されていたものが、すべて崩壊していきます。


そして、その代わりに、喜びが土台となり、喜びの連鎖によって、ポジティブなエネルギーが支える、新たなものが創造されていくのです。



恐れにもとづく(恐れが土台となる)ネガティブな意味づけの連鎖。


喜びにもとづく(喜びが土台となる)ポジティブな意味づけの連鎖。


恐れは喜びには、連鎖しない。


喜びは恐れには、連鎖しない。


恐れは恐れに連鎖し、喜びは喜びに連鎖する。



恐れと喜びのどちらを土台にして、意味づけを連鎖させていくかの選択なのです。

















自由自在:自ら由(よし)とするところに従って、自らの在り方を決めることができる

今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、ポジティブな観念(一切の条件付けや判断をしないことにより持つ観念の波動)から意味づけをする(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択する)場合。


精神体または感情体主導で思考を使わずに、ハート主導で受動的に思考を使って、インスピレーションを受けて意味づけする(現実の経験を選択する)。


自分が持つ観念から、意味付け(選択)をしなければ、本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、ポジティブな意味付けをすると、ポジティブな感情が出てきて、ハート主導で受動的に思考を使って、インスピレーションを受けて、先に結果を形作ることなく、ただ、そのポジティブな感情のままに、行動・反応する。



今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、ネガティブな観念(条件付けと判断をすることにより持つ観念の波動)から意味づけをする(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択する)場合。


精神体または感情体主導で思考を使って、条件付けと判断によって意味づけする(現実の経験を選択する)。


自分が持つ観念から、意味づけ(選択)をしなければ、本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、ネガティブな意味づけをすると、ネガティブな感情が出てきて、精神体または感情体主導で思考を使って、条件付けと判断によって、先に結果を形作って、そのネガティブな感情のままに行動・反応する。



今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、自分の持つ観念から、何の意味づけもしない(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択しない)場合。


何も意味づけをしなければ、その状況や出来事(シンクロニシティ)の影響を受けた、現実の経験は選択されないので、その状況や出来事に対して、何の感情も出てこないし、行動・反応も引き起こされない。



つまり、今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)の影響を受けた、現実の経験を、自らの自由意志により、自分の持つ観念から、意味づけして、選択することができるし、意味づけせずに、選択しないこともできる、ということなのです。



本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、自分の持つ観念から意味づけをするということは、その状況や出来事の影響を受けた、現実の経験を選択するということであり、ネガティブな観念から意味づけをした場合は、ネガティブな経験をする、現実の経験を選択し、ポジティブな観念から意味づけした場合は、ポジティブな経験をする、現実の経験を選択することになります。



今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事に対して、自分の持つネガティブな観念から意味づけをして、次の1サイクルでネガティブな現実の経験をしたとします。


そのネガティブな現実の経験から、どんな波動(=意味づけ)であれば、どんな経験ができるのかを、自らの意志で、意欲的に学んでいれば、そのネガティブな現実の経験の反映の中にも、任意に、何も意味づけされていない、新たな状況や出来事が起こってきますから、そのネガティブな経験から学んだ波動をもとにして、今度は、その新たな状況や出来事に対してポジティブな意味づけをして、次の1サイクルでは、ポジティブな現実の経験を選択することもできます。


つまり、1サイクルだけでみれば、ネガティブな現実の経験であっても、そのネガティブな経験をもとにして、次の1サイクルでは、ポジティブな意味づけをして、ポジティブな現実の経験を選択することが可能なのです。


一見、ネガティブな経験だと思っていたことが、現実の経験の流れとして見れば、実は、ポジティブな経験だったということになります。


だから、ネガティブな意味づけをすること、そのものがネガティブということではないのです。


意味づけすることにも、最初から固定化された、決まった意味はないのです。


経験することすべてにおいて、これが正しくて、あれが間違っていて、これが価値があって、あれが価値がない、というような意味は何もないのです。


最初から、意味が固定化されたものなど、何ひとつとしてない、すべては中立なのです。


一切の条件付けと判断なしに、すべての経験が無条件に許容されています。



経験することにおいて、すべてが最初から、決めれた固定化された意味などなく、無条件に許容されているからこそ、どんな意味づけをすることも、自由自在にできるのです。


自ら由(よし)とするところ(自由意志)に従って、自らの在り方を、意味づけして決めることができるのです。


本来、すべては、無条件に許容されていて、何の意味も持たないからこそ、そこに、自らの意志で、自由に意味づけして、自らの在り方(=自我の三つの意識の波動)を決めることによって、自らが望む現実の経験を選択することができるのです。


自我の三つの意識(精神体・感情体・肉体)の波動において、今、信じていること、感じていること、行動・反応していることを、次に、信じたいこと、感じたいこと、行動・反応したいことに、意味づけし直して、自らの在り方を変えて、自らの意志で自由に、望む現実の経験を選択することができるのです。



現実の経験の反映の中に起こってくる、ある状況や出来事に対して、どんな意味づけをすれば(どんな波動であれば)、どんな経験ができるのかを、自ら意味づけした現実の経験を通して、よく知る学びをしているのです。


本来、何の意味づけもされていない、無条件の愛の波動、そのものである自らを、自らの意志で自由に意味づけして、経験し、よく知る学びをしているのです。