自由自在:自ら由(よし)とするところに従って、自らの在り方を決めることができる
今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、ポジティブな観念(一切の条件付けや判断をしないことにより持つ観念の波動)から意味づけをする(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択する)場合。
精神体または感情体主導で思考を使わずに、ハート主導で受動的に思考を使って、インスピレーションを受けて意味づけする(現実の経験を選択する)。
自分が持つ観念から、意味付け(選択)をしなければ、本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、ポジティブな意味付けをすると、ポジティブな感情が出てきて、ハート主導で受動的に思考を使って、インスピレーションを受けて、先に結果を形作ることなく、ただ、そのポジティブな感情のままに、行動・反応する。
今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、ネガティブな観念(条件付けと判断をすることにより持つ観念の波動)から意味づけをする(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択する)場合。
精神体または感情体主導で思考を使って、条件付けと判断によって意味づけする(現実の経験を選択する)。
自分が持つ観念から、意味づけ(選択)をしなければ、本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、ネガティブな意味づけをすると、ネガティブな感情が出てきて、精神体または感情体主導で思考を使って、条件付けと判断によって、先に結果を形作って、そのネガティブな感情のままに行動・反応する。
今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)に対して、自分の持つ観念から、何の意味づけもしない(そのシンクロニシティの影響を受けた、次の1サイクルの現実の経験を選択しない)場合。
何も意味づけをしなければ、その状況や出来事(シンクロニシティ)の影響を受けた、現実の経験は選択されないので、その状況や出来事に対して、何の感情も出てこないし、行動・反応も引き起こされない。
つまり、今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事(シンクロニシティ)の影響を受けた、現実の経験を、自らの自由意志により、自分の持つ観念から、意味づけして、選択することができるし、意味づけせずに、選択しないこともできる、ということなのです。
本来、何の意味も持たない、ある状況や出来事に対して、自分の持つ観念から意味づけをするということは、その状況や出来事の影響を受けた、現実の経験を選択するということであり、ネガティブな観念から意味づけをした場合は、ネガティブな経験をする、現実の経験を選択し、ポジティブな観念から意味づけした場合は、ポジティブな経験をする、現実の経験を選択することになります。
今、経験している1サイクルで、その現実の経験の反映の中に、任意に起こってくる、ある状況や出来事に対して、自分の持つネガティブな観念から意味づけをして、次の1サイクルでネガティブな現実の経験をしたとします。
そのネガティブな現実の経験から、どんな波動(=意味づけ)であれば、どんな経験ができるのかを、自らの意志で、意欲的に学んでいれば、そのネガティブな現実の経験の反映の中にも、任意に、何も意味づけされていない、新たな状況や出来事が起こってきますから、そのネガティブな経験から学んだ波動をもとにして、今度は、その新たな状況や出来事に対してポジティブな意味づけをして、次の1サイクルでは、ポジティブな現実の経験を選択することもできます。
つまり、1サイクルだけでみれば、ネガティブな現実の経験であっても、そのネガティブな経験をもとにして、次の1サイクルでは、ポジティブな意味づけをして、ポジティブな現実の経験を選択することが可能なのです。
一見、ネガティブな経験だと思っていたことが、現実の経験の流れとして見れば、実は、ポジティブな経験だったということになります。
だから、ネガティブな意味づけをすること、そのものがネガティブということではないのです。
意味づけすることにも、最初から固定化された、決まった意味はないのです。
経験することすべてにおいて、これが正しくて、あれが間違っていて、これが価値があって、あれが価値がない、というような意味は何もないのです。
最初から、意味が固定化されたものなど、何ひとつとしてない、すべては中立なのです。
一切の条件付けと判断なしに、すべての経験が無条件に許容されています。
経験することにおいて、すべてが最初から、決めれた固定化された意味などなく、無条件に許容されているからこそ、どんな意味づけをすることも、自由自在にできるのです。
自ら由(よし)とするところ(自由意志)に従って、自らの在り方を、意味づけして決めることができるのです。
本来、すべては、無条件に許容されていて、何の意味も持たないからこそ、そこに、自らの意志で、自由に意味づけして、自らの在り方(=自我の三つの意識の波動)を決めることによって、自らが望む現実の経験を選択することができるのです。
自我の三つの意識(精神体・感情体・肉体)の波動において、今、信じていること、感じていること、行動・反応していることを、次に、信じたいこと、感じたいこと、行動・反応したいことに、意味づけし直して、自らの在り方を変えて、自らの意志で自由に、望む現実の経験を選択することができるのです。
現実の経験の反映の中に起こってくる、ある状況や出来事に対して、どんな意味づけをすれば(どんな波動であれば)、どんな経験ができるのかを、自ら意味づけした現実の経験を通して、よく知る学びをしているのです。
本来、何の意味づけもされていない、無条件の愛の波動、そのものである自らを、自らの意志で自由に意味づけして、経験し、よく知る学びをしているのです。