恐れは縦に連鎖し、喜びは横に連鎖する。
恐れは縦に連鎖し、縦につながります。
自分自身を支える土台(=エネルギー的な基礎)が、自らにないために、常に、立場が上の者が下の者を踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)ことによって、上の者が下の者を支えさせる構造ができます。
つまり、ネガティブなエネルギーは、自分自身を自ら支えることができないために、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存しなければならないのです。
恐れの連鎖の中では、自らの在り方を、常に、自分以外の誰かや何かとの間での、条件付けと判断によって決めるので、上や下(形に囚われた相対的な差)ができ、すべてが別々になるのです。
一方、喜びは横に連鎖し、横につながります。
自分自身を支える土台(=エネルギー的な基礎)が、常に、自らにあるために、上や下はできません。
つまり、ポジティブなエネルギーは、自分自身を自ら支えることができるために、自分以外の誰かや何かにエネルギー的に依存しなくてすむのです。
喜びの連鎖の中では、常に、自らの喜びが自らの土台(=エネルギー的な基礎)になるので、自分以外の誰かや何かを踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)必要がないのです。
喜びの連鎖の中では、自らの在り方を決めるのに、自分以外の誰かや何かとの間での、条件付けと判断はせずに、無条件に許容するので、上と下はできずに、すべてがひとつとなるのです。
自分が純粋な喜びを感じるのに、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存しなくてもよいのです。
精神体において、無条件の愛の喜びの波動から分離していない、ポジティブな観念を持って、その観念から意味づけするのです。
そうすれば、最初に恐れがあって、喜びがないから、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存して、その、ない喜びを形作ろうとしなくてもよくなります。
自らを支えるエネルギーは、自らの純粋な喜びの波動なのです。
最初に、自らの内側に、純粋な喜びがあれば、自分以外の誰かや何かに、エネルギー的に依存して、ない喜びを、自分の外側に形作ろうとする必要はないのです。
純粋な喜びを、まず最初に、自らの内側に感じて、その喜びのままに、行動・反応すれば、自分以外の誰かや何かを踏み台にする(=土台にする、犠牲にする、抑圧する、支配する)必要はありません。
最初に、自らの内側に純粋な喜びがあるので、お互いに、何の見返りも求める必要がなく、ただ与えあうことによって、横に連鎖して、つながるのです。
最初に恐れがあって、喜びがないから、その、ない喜びを形作ろうとして、奪いあい、すべてが別々になり、調和しない(=満たされない)。
最初に喜びがあって、ただ、それを、ありのまま表現することによって、与えあい、すべてがひとつになり、調和する(=満たされる)。