自由意志により、現実の経験の流れを選択する
まず、シンクロニシティ(共時性)に関して調べてみました。
synchronize:同時にする、時間を一致させる、2つ以上のことが同時に起こる、同時に進行する
synchronous:同時に起こる(存在する)、同時(性)の
以下は、バシャール2006 バシャール、ダリルアンカ、VOICE P.106、107から引用
共時性とは、任意に起きる要素(自分以外の誰かが選択し、投影し、反映された現実)が(自分の創造する現実の反映に)織り込まれてくることを許容すること。
以下は、バシャール2006 バシャール、ダリルアンカ、VOICE 『EXTRA 未来のトビラ』P.2、3から引用
「これこそ未来だ」というような固定化された未来などない。
「未来はこうなる。それ以外はない。」というように固定化された予言のようなものもない。未来についても多くの可能性がある。
パラレル・ワールド(並行生)は無限にあって、体験しうる経験はすべて同時に起こっており、そのパラレル・ワールドの中で、自分のさまざまなバージョンによって同時に起こっている。
その無限にある現実のうち、どれを実際に経験するかは、自分の波動、周波数によって決まる。
周波数によってフォーカスされる経験を、実際に経験している。
自分が変化を決断すると、そのたびに自分の周波数は別の波動に変わる。
そして、そのように自分の周波数を変え、波動を変えるとき、自分は、以前いたひとつの世界から並行する現実、パラレル・ワールドに移行する。
意識の中に同時に存在している別の経験に移行する。
自分の意識は、並行する現実を経験できるほどの大きさがある。
以下は、バシャール×坂本 政道 、VOICE 、P.162~187から引用
他の人々と互いに影響しあっているという概念を今も創造しており、そして、自分が創造している世界にいるのは、自分と互いに影響しあっているバージョンの彼らである。自分は彼らが含まれている現実に存在している。
この世界の中では、誰もがすべての人々を創造している。
自分の創り出した世界の中で、彼らと影響しあっているという概念を創っている。
自分の現実の中で、自分のバージョンによる彼らを創造している。
自分が移行した現実の中で、彼らを映し出している。
形をイメージとして投影しているだけなので、物質的な世界の中では、すべてが幻想なのです。
しかし、彼らもまた、自分と同じように「意識がある」という意味では、リアルです。
他の人々が自分と交流していると認識するために、自分の現実の中で、他のすべての人々の肉体を自分のバージョンで創造しなければならない。
しかし、自分が経験するすべてにおいて、自分の現実の中で彼らを経験するためには、自分のバージョンによる彼らを創造しなければならない。
意識の経験している、経験は、リアルなのだが、イメージは投影にすぎない。
自分が経験している現実においては、自分だけが自分にとってのリアル。
意識が経験しているということが、本当の現実、リアルであり、形として投影されているものは、イメージ(幻想)にすぎない。
そして、それは、他の誰にとってもそうである。
すべての可能性は存在しているが、ただ、自分がどの可能性を選択するのかは決まっていない。
自分がさまざまな宇宙が並行して存在している現実、パラレル・リアリティを創り出しているとしても、それはやはりすべて、その概念を表現するために、自分の意識の中に創られた便利な構造にすぎない。
すべては、自分の意識の中で起こっている。
だから、パラレル・リアリティはイメージの投影、幻想であり、唯一リアルなものは、その経験であり、それが本当の現実。
以下は、時間のない領域へ、マイケル・J・ローズ、ナチュラルスピリット、P.265、266から引用
同じ時間のフレームにいるが、異なる現実だ。
それぞれの時間のフレームに他の異なる現実がたくさんある。
極端に違っている場合は、一つのフレームに共に存在することができない。
その違いは、意識にある。
今現在の現実においては、世界の総意による現実が大半を占めている。
もちろん、世間一般の現実は、国、文化、宗教などによって、様々にある。
人類の意識における、二つの極端な表現が、まったく新しい現実というフレームを創り出す。
なぜなら、もはや世間の総意による現実と合わなくなっているから。
しかし、二つの現実は、同じ時間のフレームを占めている。
以下は、リサ・ランドール、異次元は存在する、リサ・ランドール+若田光一、NHK出版、P.49から引用
ランドール博士によると、わたしたちの3次元宇宙のほかに、5次元時空には別の3次元宇宙が並行して存在しているかもしれないという。この間を行き来しているエネルギーが重力だ。
以上を参照・参考して、以下にパラレル・ワールドと自由意志による選択について、考えてみます。
自分の創造の1サイクルの反映の中に、自分以外の誰かが選択し、投影し、反映された現実の経験が反映として入ってくる。
自分の創造した現実の経験の反映の中に、自分以外の誰かが、選択し、投影し、反映された現実の経験がシンクロしてきて、共時性が起こる。
自分以外の誰かが創造し経験している現実は、自分にとっては、その現実に意識の焦点を当てて、経験していないという点では、リアルではない。
しかし、その自分以外の誰かの創造の反映との間で、自分が創造し経験している現実と影響を及ぼしあっているという経験をすることにより、次の自分の創造の1サイクルの選択のときに、影響を及ぼしあっているという経験をしたことにより、単独で創造する場合とは、異なる可能性を選択する場合が出てくる。
自分が創造する現実の経験において、自分以外の誰かは、すべて、自分バージョンで創造される。
自分バージョンの誰かも意識であり、その他の誰かのバージョンの現実の経験を独自に創造して経験している。
そして、その他の誰かの創造の反映が、自分が創造する現実の経験の反映の中に入り込んで来る。
自分の選択や他の誰かの選択が途中で変わる場合もあり、必ず、すべてが、確定的に、自分の創造する現実の経験の、反映の中に入ってくるとは言えない。
だから、偶然、任意に入ってくると言える。(選択が変わると、経験の流れが変わるために、選択しなかったパラレル・ワールドで起こる現実の経験の反映は入って来ない)
創造の1サイクルごとに、選択の機会がある。
意識の焦点を当てて、選択しなかったパラレル・ワールドは、すべて他のバージョンの自分が意識の焦点を当てて経験している。
すべての人が、それぞれに、自分バージョンの現実の経験を、それぞれの意識の中で選択・投影・反映し、経験している。
意識の中で起こっている別のパラレル・ワールドに、意識の焦点を当てて、移行し、その現実を経験している。
すべての経験は、それぞれの人の意識の中で起こっている。
だから、その人の意識の中のパラレル・ワールドの経験を、意識の焦点を変えて、移行し、経験している。
そして、その現実の経験をするときに、その人がその世界のすべて(=宇宙)を創造して経験している。
これは、どの人も、すべて同じやり方をしている。
個の視点で創造された現実の経験の中に、他の人々の意識もすべて含まれている。
これは、個の視点が、他の誰に変わったとしても、すべて同じことであり、すべての現実の経験は、同時に創造されているので、矛盾は生じない。
誰か一人の個の視点で創造された現実の経験が、すべての人のそれぞれの視点の現実の経験にはなっていない。
それぞれの人の視点で、それぞれの現実の経験が創造され、それぞれに経験されている。
それぞれの人が、それぞれの意識の中で、それぞれの現実の経験を創造して、それぞれに経験している。
同じ時間枠の地球上で、さまざまな現実の経験を、それぞれの人が創造している。
つまり、それぞれの創造の反映の中に、さまざまな現実の経験の反映がシンクロして来て、お互いに影響を及ぼしあっているという概念を創造している。
創造の1サイクルごとに、自由意志による選択によって、望む現実の経験があるパラレル・ワールドに、意識の焦点を当てて、移行し、経験し、その創造の1サイクルを繰り返して、現実の経験の流れとしてつなげていくのです。
だから、新たな1サイクルが経験される前には、前の1サイクルとの繋がりで、現実の経験の流れとして、矛盾がなく繋がる現実の経験が、経験し得る、あらゆる可能性、パラレル・ワールドとして存在しており、その無数にあるパラレル・ワールドの内、選択して、意識の焦点を当てた世界と繋がり、現実の経験の流れとして、経験しているということなのです。
川の流れで例えたなら、前の1サイクルの流れが終了し、新たな1サイクルの流れに入る前に、無数の支流が流れていて、その支流の内、どの経験の流れに乗るのかを、必ず、自分の自由意志で決めなければならないということです。
もし、現実の経験が流れていく方向を、自分の自由意志で選択できるということを、知らなければ、知らない内に、自分が望んでいない方の支流に入り込み、その現実の経験の流れを経験し、自由意志で、意識を変えることによって、自らが経験する、現実の経験の流れていく方向を、自ら変えることができると、気付くまでは、望まない経験をし続けるということになります。
現実の経験の流れとしては、流れていく無数の支流の選択を、その前の流れのサイクルに遡って、戻って、選択し直すことはできません。
だから、前の1サイクルの流れが終了して、新たな1サイクルの流れが始まる前に、必ず、自由意志による、現実の経験の流れの、新たな選択の機会がありますので、そのときに、自らの意識(波動)を変えることによって、自分が本来望んでいる、現実の経験の流れに移行することができるのです。
常に、新たな現実の経験の、流れの可能性、無数のパラレル・ワールドの、選択の機会があるのですから、前のサイクルの、現実の経験の流れを、過去に遡って後悔して苦しむ必要はないのです。
今の現実の流れを経験している自分が、選択しなかった現実の経験の流れは、他のバージョンの自分が、すべて、経験しているのですから、常に、新たな1サイクルの現実の経験の流れを、自由意志により選択し、その流れに意識の焦点を当てて経験していけばよいのです。
恐れがあって、喜びがないから、喜びを形作ろうとする(=形に囚われて結果に執着する)、現実の経験の流れから、恐れはなく、最初に、喜びがあるから、その喜びの波動の流れのまま、現実を経験(表現)していく(=最初から形を超えた、本当の喜びとして在るから、形に囚われずに結果にも執着しない)、現実の経験の流れに、自ら自由に流れることのできる意識(波動)として、流れを変えることができるのです。
精神体と感情体の分離が、観念の分離を強化する
精神体の持つ観念が、無条件の愛から分離した場合に、恐れを感じるのは、感情体であり、精神体は、恐れを感じませんから、精神体は、無条件の愛から分離した、どんなにネガティブな観念でも持つことができます。
自我の構成要素である、精神体と感情体が機能の上で、分離しているために、精神体において、どんなに、無条件の愛から分離した観念でも持つことができます。
精神体主導で、思考を使って、感情体を抑圧(固定)して、引っ張り、引き離そうとすると、そのストレス(緊張)により、感情体に歪みが蓄積されます。
この場合、感情体が抑圧されますので、抑うつ(気分が沈みこむ・無感動・不安感)の状態になります。
感情体が感情的・感覚的にしたいと思わないことを、精神体が思考を使って、しなければならない、という強迫観念を持って、無理に、周囲の環境に適応しようとしますので、感情体と精神体の分離が大きくなり、精神体の持つ観念の分離が強化されます。
精神体主導で、思考を使って、感情体との分離が大きくなると、その分離を止めようとする作用が生じ、適応拒否する場合には、精神体は思考をうまく使えなくなるので、無気力になります。
つまり、精神体主導で、思考を使って、感情体を抑圧(固定)して、引き離そうとして、引っ張り過ぎると、伸びきったゴムのようになってしまい、精神体において、思考をうまく使うことができなくなり、何もしないことによって、感情的・感覚的にやりたくないことでも、知的・理性的にやってしまうという、矛盾に気付こうとする作用が生じます。
感情体主導で思考を使って、精神体を抑圧(固定)して、引っ張り、引き離そうとすると、そのストレス(緊張)により、精神体に歪みが蓄積されます。
この場合、精神体が抑圧されますので、躁(恐れがあって、喜びがないから、喜びを作り出そうと騒ぎ立てる)の状態になります。
精神体が知的・理性的にしたいと思わないことを、感情体が思考を使って、感じている恐れを打ち消すために、ない喜びを形作るために、欲望(肉体により密接した感情体が肉体的・物質的な快楽を求める)に執着して、周囲の環境に適応しようとしますので、精神体と感情体の分離が大きなり、精神体の持つ観念の分離が強化されます。
感情体主導で、思考を使って、精神体との分離が大きくなると、その分離を止めようとする作用が生じ、適応拒否する場合には、感情体は、うまく思考を使えなくなるので、無気力になります。
つまり、感情体主導で、思考を使って、精神体を抑圧(固定)して、引き離そうとして、引っ張り過ぎると、伸びきったゴムのようになってしまい、感情体において、思考をうまく使うことができなくなり、何もしないことによって、知的・理性的にやりたくないことでも、感情的・感覚的にやってしまうという、矛盾に気付こうとする作用が生じます。
精神体と感情体の分離が大きくなり、伸びきったゴムのようになってしまったら、精神体または感情体主導で、その伸びを元に戻すのは、難しくなります。
伸びきったゴムのようになってしまった原因が、精神体の持つ観念が、無条件の愛から分離しているために、精神体と感情体のそれぞれで、矛盾が生じ、その矛盾を、精神体と感情体が、それぞれ別々に思考を使って、解消しようとしたためですから、ハート主導で、思考を使って、精神体の観念の分離の解消(気付き)をしなければならないのです。
感情体において、感情的・感覚的にしたくないことを、精神体主導で思考を使って、知的・理性的に、無理にしようとする。
感情体において、感情的・感覚的にしたくないことは、精神体主導で思考を使って、知的・理性的に、無理にしなくてもよい、と暗示して、精神体主導で思考を使って、感情体を抑圧する状態を解除する。
ここで、暗示とは、精神体に対して、暗に示すことであり、精神体のみ肯定して、感情体を否定するという、暗に支配する、無条件の愛からの分離ではなく、精神体も感情体も、どちらも同時に無条件に許容するという、無条件の愛を示すことです。
精神体において、知的・理性的にしたくないことを、感情体主導で思考を使って、感情的・感覚的に、無理にしようとする。
精神体において、知的・理性的にしたくないことは、感情体主導で思考を使って、感情的・感覚的に、無理にしなくてもよい、と暗示して、感情体主導で思考を使って、精神体を抑圧する状態を解除する。
ここで、暗示とは、感情体に対して、暗に示すことであり、感情体のみ肯定して、精神体を否定するという、暗に支配する、無条件の愛からの分離ではなく、感情体も精神体も、どちらも同時に無条件に許容するという、無条件の愛を示すことです。
そして、感情体または精神体の、一方のみ肯定して他方を否定するという状態を解除できたら、精神体の持つ観念が、無条件の愛から分離せずに、精神体と感情体の、どちらも同時にひとつとして働き、矛盾の生じないことを探してやってみればよいのです。
精神体または感情体のどちらか一方を、どちらかの主導で、思考を使って、抑圧しなくてもよい状態になれることを探すのです。
それは、創造の源とハートの純粋な光の波動が奏でる、完璧なメロディ(喜びに満ちた振動)を聴いて、その波動に、自我も一体化して調和する波動を持って、ありのままに、歌い、話し、描き、書き、つくり、動き、感じ、考え、憩い、休み、安らぎ、・・・・・・
すべては、本来の在り方は、喜びに満ちている(=すべてが喜びのもとにひとつとしてある)のですから、ただそれを、自らが制限せずに、自由に表現(経験)すればよいだけなのです。
意識の連続性と気付きの関係について考察する
自我がハートに意識を開いて、ハートとつながり、意識の連続性を保っていなければ、現実の経験をありのままに見ることができません。
自我は、現実の経験のうち、自分にとって都合の良い部分だけを選別して切り取り、形作ろうとするからです。
自我は、自分にとって都合が悪く見たくないところは、排除しようとします。
自我は、現実の経験の、自分にとって都合の良いところも、悪いところも、判断せずに、同時に全体として、ひとつとして見ることができないからです。
自我がハートとつながり、意識の連続性が保たれていないと、無条件の愛の視点で、ありのままに、偏見なく見ることができません。
修正する(=気付く)とは、自我の相対的な形に囚われた判断により、悪いものを正しく直すという意味ではなく、本来、純粋な在り方としては、正面にひとつとして在るハートの意識の、その正面から分離して側面として在る自我意識を、本来の純粋な在り方である、ハートの正面にひとつとして修めること、ひとつに戻すことです。
自我意識の、別々な側面に分離していた見方から、本来のハートの正面にすべてをひとつに合わせて見る見方(=無条件の愛)に戻すのです。
ハートの側面に分離していたすべての自我意識を、ハートの真正面にひとつとして戻して、自我意識の分離した側面に偏った見方ではなく、すべてをひとつとして、ありのままに見る見方に戻すのです。
自我意識がハートに意識を開いて、真正面を見る目を開く、真面目になることです。
現実の経験の中に、鏡として映し出されている、自分のありのままの姿を、偽らず、ごまかさずに見るために、自我が、本当の自分である、ハートの意識と真正面で向き合うことです。
鏡に映し出されている、自分のありのままの姿に恐れて、心の目を閉じて、逃げ出さない、正直さと、勇気を持つことです。
現実の経験の、ありのままを見るのを恐れているのは、ハートの意識と分離している、自我意識の側面があるからです。
自我とハートの意識の連続性の中で、自我意識を通して、現実の経験を認識しているのですから、自我がハートに向けて開いている意識の範囲を超えて、自我は認識することはできないのです。
自我意識が、ハートの意識の、すべてはひとつの認識に近づくためには、自我がハートに向けて、意識を開いて、その範囲を拡げていかなければならないのです。
自我意識の分離した側面と、ハートの意識との分離が解消し、ハートとの意識の連続性が正面に回復した側面においては、自我意識は、ハートに向けて意識を開いたので、本来覚えていることに目を向けること、目覚めることができたということになります。
しかし、ある現実の経験の鏡を見たときに、恐れが生じ、それを隠そう、排除しようと反応している場合には、まだ、心(自我意識)の中に、ハートの意識と分離した側面が残っている、自我がハートに向けて、意識を開いていない、本来、覚えていることに目を向けていない、目覚めていない、分離した側面があるということなのです。
今を生きるとは、自我意識をハートに向けて開く、心の目を開いて、本来、覚えているもの(無条件の愛)に目を向け、自我とハートの意識の連続性を回復し、自らの意識が映し出された現実の経験を、ありのままに、真正直に見て生きる、ということです。
そして、その意識の連続性を保ったまま、今を生きることによって、現実の経験を見て、恐れが生じたとしても、恐れは、本来、正面として在るハートの意識から、分離した自我意識の側面であるから、そのすべての側面の分離を解消し、正面のハートの意識にひとつとして修めれば、本来の在り方に修正され、気付きがなされ、自我意識のすべての側面は、正面のハートとの意識の連続性の中では、ひとつであると、認識できるのです。