意識の連続性と気付きの関係について考察する
自我がハートに意識を開いて、ハートとつながり、意識の連続性を保っていなければ、現実の経験をありのままに見ることができません。
自我は、現実の経験のうち、自分にとって都合の良い部分だけを選別して切り取り、形作ろうとするからです。
自我は、自分にとって都合が悪く見たくないところは、排除しようとします。
自我は、現実の経験の、自分にとって都合の良いところも、悪いところも、判断せずに、同時に全体として、ひとつとして見ることができないからです。
自我がハートとつながり、意識の連続性が保たれていないと、無条件の愛の視点で、ありのままに、偏見なく見ることができません。
修正する(=気付く)とは、自我の相対的な形に囚われた判断により、悪いものを正しく直すという意味ではなく、本来、純粋な在り方としては、正面にひとつとして在るハートの意識の、その正面から分離して側面として在る自我意識を、本来の純粋な在り方である、ハートの正面にひとつとして修めること、ひとつに戻すことです。
自我意識の、別々な側面に分離していた見方から、本来のハートの正面にすべてをひとつに合わせて見る見方(=無条件の愛)に戻すのです。
ハートの側面に分離していたすべての自我意識を、ハートの真正面にひとつとして戻して、自我意識の分離した側面に偏った見方ではなく、すべてをひとつとして、ありのままに見る見方に戻すのです。
自我意識がハートに意識を開いて、真正面を見る目を開く、真面目になることです。
現実の経験の中に、鏡として映し出されている、自分のありのままの姿を、偽らず、ごまかさずに見るために、自我が、本当の自分である、ハートの意識と真正面で向き合うことです。
鏡に映し出されている、自分のありのままの姿に恐れて、心の目を閉じて、逃げ出さない、正直さと、勇気を持つことです。
現実の経験の、ありのままを見るのを恐れているのは、ハートの意識と分離している、自我意識の側面があるからです。
自我とハートの意識の連続性の中で、自我意識を通して、現実の経験を認識しているのですから、自我がハートに向けて開いている意識の範囲を超えて、自我は認識することはできないのです。
自我意識が、ハートの意識の、すべてはひとつの認識に近づくためには、自我がハートに向けて、意識を開いて、その範囲を拡げていかなければならないのです。
自我意識の分離した側面と、ハートの意識との分離が解消し、ハートとの意識の連続性が正面に回復した側面においては、自我意識は、ハートに向けて意識を開いたので、本来覚えていることに目を向けること、目覚めることができたということになります。
しかし、ある現実の経験の鏡を見たときに、恐れが生じ、それを隠そう、排除しようと反応している場合には、まだ、心(自我意識)の中に、ハートの意識と分離した側面が残っている、自我がハートに向けて、意識を開いていない、本来、覚えていることに目を向けていない、目覚めていない、分離した側面があるということなのです。
今を生きるとは、自我意識をハートに向けて開く、心の目を開いて、本来、覚えているもの(無条件の愛)に目を向け、自我とハートの意識の連続性を回復し、自らの意識が映し出された現実の経験を、ありのままに、真正直に見て生きる、ということです。
そして、その意識の連続性を保ったまま、今を生きることによって、現実の経験を見て、恐れが生じたとしても、恐れは、本来、正面として在るハートの意識から、分離した自我意識の側面であるから、そのすべての側面の分離を解消し、正面のハートの意識にひとつとして修めれば、本来の在り方に修正され、気付きがなされ、自我意識のすべての側面は、正面のハートとの意識の連続性の中では、ひとつであると、認識できるのです。