人間と自転車を語呂合わせして、自我とハートが一体化する方法を考察する
僕は、日常、自転車で信号待ちや、踏み切り待ちをするときに、自我とハートが一体になって、今、この瞬間に在る練習をしています。
自転車で足をつかずに、その場に留まるには、人間と自転車が一体になり、バランス(調和)が取れていないとできません。
人間と自転車とが、一体化せずに、バランスが取れていないと、人間は、自転車と共に倒れそうになり、肉体的な危険にさらされ、恐れの感情が生じます。
人間が自我、自転車がハートであるとすれば、自我とハートが一体になっていないと、バランスがとれずに、恐れの感情が生じ、自我が存在の危機に直面するということなのです。
人間(自我)と自転車(ハート)の全体として、ひとつとして、バランスを取るためには、元々、調和を取る性質のある自転車(ハート)に、人間(自我)がすべてを委ねて、一体化しなければなりません。
人間(自我)が自転車(ハート)と一体化せずに、分離して、自転車(ハート)をコントロールしようとすれば、その分離のために、バランス(調和)がとれずに、人間(自我)と自転車(ハート)が倒れそうになって、恐れの感情が生じ、人間は、肉体的な危険に直面します。
その自我が、ハートと分離していることによって生じる、恐れを持ったままで、自我だけで、人間と自転車のバランスを取ろうと、コントロールしようとすればするほどに、ますますバランスが崩れて、倒れそうになり、恐れが増すのです。
自我(人間)は、常に、ハート(自転車)と一体化せずに、分離して、コントロールすることにより、バランス(調和)を取ろうとしています。
人間(自我)が、自転車(ハート)と一体化せずに、分離したまま、バランスを取る方法があるのでしょうか?
原理的に、分離したままでは、一体化して、ひとつになる、全体としては、永遠にバランスはとれないということがわかると思います。
元々、自転車(ハート)には、すべてを無条件に許容し、信頼し、バランスを取る性質があります。
そのハートが、無条件に許容し、信頼する、すべての中には、もちろん、自我も含まれていますから、自我は、ハートから無条件に許容され、信頼されています。
だから、そのハートと一体化し、ひとつになり、全体として、バランスを取るためには、自我自身も、自ら、すべてを無条件に許容し、信頼すればよいのです。
そして、自我がそうするためには、まず、元々、すべてを無条件に許容し、信頼する性質のある、ハートを、自我自らが信頼し、そのハートに、すべてを委ねればよいのです。
それが、唯一、自我とハートが一体化し、全体として、ひとつとして、バランスを取る方法です。
自我が、元々、すべてを無条件に許容し、信頼している、ハートを信頼し、そのハートにすべてを委ねることが、まず、自我が自らを、無条件に許容し、信頼することにつながります。
そして、そのことが、自我が、すべてを無条件に許容し、信頼することにつながっていくのです。
自我がハートとのつながり、自我とハートとの信頼関係を無視したまま、分離したまま、すべてをコントロールしてバランスを取ることはできないのです。
人間(自我)が自転車(ハート)と一体化して、バランスを取って、今、この瞬間に在ると認識するためには、リラックスと集中をする必要があります。
リラックスするためには、人間(自我)が、あらゆる条件付けや判断をして、すべてをコントロールしようとするのをやめることによって、集中し、元々、すべてを無条件に許容し、信頼している自転車(ハート)に、すべてを委ねて一体化しなければなりません。
リラックスと集中とは、人間(自我)が自転車(ハート)から分離して、消えてなくなる状態ではなくて、人間(自我)と自転車(ハート)が一体化して、全体として、ひとつとして、バランスを取っている状態です。
もし、人間(自我)が、自転車(ハート)から分離して、消える、無くなる、ということになれば、この現実の世界で、人間(自我)として自転車(ハート)と一体化して、バランスを取るという、経験そのものができない、ということになってしまいます。