RYUの生き方、逝き方 -11ページ目

最近こころが疲弊(ひへい)している

最近こころが疲弊(ひへい)している。

こころは他者の行為では、疲弊しない。

他者のこころで疲弊するのだ。

疲弊したこころは2つのもので癒される。

それは「美」と「愛」だ。

この2つは時間軸に対して垂直に存在する。

いわば時間を超越しているのだ。

「美」と「愛」を探すのにどこかの、遠い聖地まで行く必要はない。

なぜなら両方自分自身の純化したこころが、創造するものだからだ。

俺はこの2つを具現化してから生を終えたい。

RYU















その意見の内容が低俗だと無視するか、相手の低俗さまで自分をおとしめて闘うかしか選択肢がない

俺は昔から基本的に人が好きだ。

だから起業した当初は苦楽園でCAFEの経営していた。

もちろん経営だけでなくペーパードリップ1杯だてで、珈琲をいれていた。

カウンターと4人がけのテーブル5つの20坪の店だったが、カウンターでお客さんと話しながら一杯ごとに珈琲をいれるのが楽しかった。

今でもそんな人好きの俺だが、先妻と再婚相手は好きになれない。

意見が違うのはいい。

その意見の内容が低俗だと無視するか、相手の低俗さまで自分をおとしめて闘うかしか選択肢がない。

それが辛いのだ。

娘の事なので無視という選択肢は省かなければならない。

残るは、低俗まで自分をおとしめて闘うしかない。

それを考えると今日一日気分が悪かった。

弁護士に言われ意見書を書いたが、俺からすれば低俗な文書だ。

低俗はある種のムードを伴っており、そのムードに吐き気がする。

俺はサラリーマンではないが、嫌でも嫌悪する人と一緒に仕事をしなければならない場合、今日の俺のような嫌な気分に浸食されながら仕事をするのだろう。

それは過度なストレスとなると思う。

愛して止まない娘とは、離ればなれ、無視したい相手とは、接近戦ではやってられない。

今日、少し自分の人生に悲哀を感じた。

明日が見えない。

そんな日もあるか、、、、、、、、、、。

RYU











先妻と先妻の再婚相手の自己中に我慢も限界だ

先妻と先妻の再婚相手の自己中に我慢も限界だ。

先妻と離婚裁判で、養育費、娘との面接交渉の頻度(基本月1泊、春休みは2泊3日、夏休み、冬休みは6泊7日)などを決めて和解して離婚した。

俺が離婚にさいして「婚姻を継続しがたい重大なる事案」が無いにも関わらず和解した背景には、娘と頻繁に会えるという条件があったからだ。

しかし先の家事調停では、1学期に1回、つまり年3回に面接交渉を大幅に減らす事を求めてきた。

俺は本当は先妻が5年前に再婚し、娘を再婚相手の養子にした時点で、養育費の支払い義務は滅失しているので「養育費減額の申し立て」をすれば養育費を支払わなくてもよかったのだ。

それでも、支払い続けた理由は「お互い離婚しても人として仲良くやれれば」という思いがあったからだ。

そんな思いも通じず今回家事調停をしかけてきた。

先妻側には、家事調停中も月1回の娘との面接交渉は続ける義務があったのだが、それを無視し結局2月から7月まで会えなかった。

だから和解条項を守らず娘と半年近く会えなかったのでアホらしくなって養育費の支払を止めた。

調停は娘が「お父さんが寂しがるというのもあるけど、私が月1度は泊まりで会いたい。」とはっきり言ってくれたので月1のお泊まりは確保された。

ただ春休みに2泊3日はなくなり、夏、冬休みとも2泊3日にされてしまった。

それで和解したのだが、今度は支払いが止まった月からの養育費の一括支払いを求めてきた。

そのくせ「9月は用事で会わせられない」と言う。

我慢して我慢してきたが、もう我慢も限界だ。

なんかアホらしくなってきたのだ。

RYU


















































村上龍氏がエッセイで、「今、元気がいいのはバカだけだ」と書いていたが俺も同意見だ

最近飲みに行かなくなった。

飲みに行くとしても居酒屋、スナック、キャバクラ、ラウンジ、クラブと多岐にわたるが、俺は断然クラブ派だった。

以前は、新地の全日空ホテルで本業はモデルのホステスさんと待ち合わせて、乾山 〔けんざん)で俺の飲み仲間と合流しホステスさん2人、男2人、計4人食事して12万払ってからclubピアジェ〔お座り5万)あたりにくりだしていたが、 ある時から疲れをおぼえ止めた。

もちろん不景気の影響もあるが、接待してもらう側でも断っている。

クラブ活動には元気が必要だからだ。

元気と言っても健康という概念ではない、テンション高めで快活に話すとか、声高に笑うとか、勢いよく酒を飲むとかそういう意味だ。

健康でも飲みに行って寡黙だと「元気ないね、何かあった?」と聞かれる。

そういうシチュエーションに疲れたのだ。

村上龍氏がエッセイで、「今、元気がいいのはバカだけだ」と書いていたが俺も同意見だ。

最近の俺の心境は、鏡のように澄んだ湖水のようだ。

クラブ活動より京都三千院に写経に行きたいぐらいだ。

ちなみに三千院は入館すると必ず写経しなければならない。

短時間コースと長時間コースがあり長時間コースは、般若心経の写経だ。

写経したら最後に願い事を書く。

なかなか風情があって何度も行っている。

話しを戻そう。

とにかくある時期からクラブ活動で「うさを晴らす」事が出来なくなったのだ。

一流の店に飲みに行くという事は「男を磨く」行為だから危険な兆候かもしれない。

だがそれで男がすたるならすたればいいと思う。

人は一生で一度だけ、かけがえのない恋愛が出来ればいいのだ。

それは新地のバカ騒ぎの対局にある純愛だと思う。

この頃秋が待ち遠しい。

今年の夏は暑いだけで風情がない。

頑張るという事は耐える事だ。

耐える事にはへきへきしてる。

肩肘張らず静心(しずごころ)で、秋を迎えたい。

RYU























娘との夏休みが終わった

娘との夏休みが終わった。

2泊3日のパパモードも終わりだ。

子供はいい。

嫌な事を忘れさせてくれる。

それにしても家裁で調停や裁判をしていると、

男親は断然不利だと思う。

男女同権なのだから公平にして欲しいが断然母親有利だ。

法の世界は女尊男卑がいまだまかり通っている。

司法の世界が、時代についていっていないのだ。

俺は改憲論者だが、旧態依然の「子供は母親のもの」という古い考えを見直す時期にきていると思う。

親権も養育権も母親が持ち、養育費だけ払っている男は間抜けだ。

季節はいつの間にか晩夏。

父権の復活を願う。

RYU













お知らせ

残暑お見舞い申し上げます。

今日から2泊3日で娘がお泊まりに来ます。

その間あえて短期間なのでペタ機能は止めませんが、

ペタ返しはスケジュールの関係で、出来ません。

ですからペタはボランティアでお願いします。

勝手なお願いですが、どうかご理解下さい。

RYU































身辺整理している

身辺整理している。

何も自殺するわけではない。

取引先が倒産したり、債務超過でギャラを支払ってもらえず不良債権化した金員が、無視出来ない額になっている。

その会社の不良債権に公的資金ならぬ個人資産をあてる為だ。

国のセーフティネットは形骸化して役にたたない。

だから身辺整理している。

マンションも3LDKは1人では広すぎるので、引っ越すつもりだ。

クルマも処分した。

最近はもっぱら社用車かタクシーだ。

こういう時に、独り者は機動性があって便利だ。

流れ流れて1人さすらいの旅だ。

港を出て行く船は哀愁があるが、行き先ははっきりしている。

俺の場合は「漂流」というのだろう。

「漂流」が「遭難」にならないように注意したい。




燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)『史記』



RYU

友達と仲間は根本的に違う

「親友が1人いれば多すぎると思わなければならない。」というフレーズをどこかで聞いた。

哲学者が言っていたのか偉人の言葉なのか忘れてしまったが、このフレーズだけは覚えている。

そして最近妙にこのフレーズに納得している。

親友の前に友がいて仲間がいる。

友達と仲間は根本的に違う。

仲間は仲間内での「批判」が許されない。

いわば仲良しクラブのようなものだ。

俺はそこに「甘えの匂い」を嗅ぎ取って嫌悪している。

友達はどうか?

真の友達はお互い批判しあえるし、友達の違う意見も尊重する。

だからいい友達関係の構築には、ある程度緊張感がいる。

それが刺激になり自己の向上に繋がる。

最近は仲間は多いが、親友をもたない人種が増えている。

要はみんな批判されたくないのだ。

ぬるま湯の仲良しクラブのソファで、だらしなく横になってゲームの話しでもしていれば、当面孤独は回避できる、、、。

本当はそれが真の孤独だと気づかない。

甘えは人の内部を浸食し、緊張感は自分磨きに繋がる。

お互い切磋琢磨出来る友をもっている人は、魅力的だ。

一度自分にとっての仲間と友達について考えてみるのも、夏の終わりに一興だと思う。

RYU





















3流のコーチほど選手に「ミスするな。」と言います

昔の人は言葉には魂が宿ると考えて、言霊(ことだま)信仰がありました。

これがまんざら迷信で無い事が最近の心理学の分野で立証されています。

それは言葉が心に大きく作用する事が証明されたからです。

それを「言葉のイメージング」と言います。

3流のコーチほど選手に「ミスするな。」と言います。

この言葉の核は「ミス」です。

これを聞いた選手は自分がミスするところをイメージしてしまいます。

1流のコーチは「おまえなら出来る。」と言います。

この言葉の核は「出来る」です。

「ミス」に支配された心と「出来る」に支配された心では、結果は180度変わってきます。

「あなたを忘れないわ。」と言う女性の心の核には「忘れる」があります。

この女性があなたを忘れる可能性は非情に高いのです。

だから大事な事は「忘れないでいよう」という「~しない」と言う否定の形よりも「覚えておこう」という肯定の形でイメージすればいいのです。

このイメージトレーニングはスポーツの世界ではよく活用されボクシングなどでもセコンドは「負けるなよ」とは絶対言いません。

「おまえなら勝てる」と思いこませて試合に挑ませます。

アメリカでは言葉のイメージングの重要性が理解されメンタルトレーナーを、選手につける事が多くなりつつあります。

スポーツに限らず言葉で受けるイメージに人は支配される事を覚えておけば、人生の歩き方が変わってきますよ。

RYU






















だから人は「明日ゴジラが暴れていて恐い思いをする。」というような事では悩まない

今、決断を迫られているいくつかの問題があり悩んでいる。

悩みというものは、将来起こる可能性のある最低の状況を想像するか、

逆に情報が絶対的に不足している場合の不安をいう。

だから人は「明日ゴジラが暴れていて恐い思いをする。」というような事では悩まない。

ゴジラが暴れる可能性がないからだ。

ただ悩みと身体の痛みは似ていて、身体の1カ所が痛む事によって人はその部分の異常を知り早期に治療出来る。

痛みが無いまま進行する病の方が怖い。

悩みもそうで、将来起こりえる最低の状況を想像して、対処するきっかけになる。

そう考えると悩みも痛みもポジティブに物事に対処する糸口を与えてくれるので、そうそう悪いものではない。

悩み多き人は想像力があり、悩み無き人は想像力が欠如している場合が多い。

だから芸術家のようなあふれる想像力のある人は、悩みぬいて疲弊し結果自殺する事が多い。

何事も中庸(ちゅうよう)が肝要である。

RYU