桑の葉 お蚕さん御用達
本の名を忘れたが塩野七生の著作に、彼女がたまたま旅行中、内戦下のキプロスの軍人に会って話をしたときのことを書いたエッセイがあった。どうすれば、部下は上官のために死んでくれるのかと凄いことを訊いたらしい。
軍人曰く、大意、普段から部下の面倒をよくみる。訓練も最善を尽くす。部下の為にできることは何でもやる。そうすれば、いざというとき自分のために死んでくれる。上司は選べないのが組織の原則であり、こういう上官に恵まれればよいが、旧軍には「上官の命令は陛下の御命令である」などという奴もいたらしい。
掲題の七生は仏教用語とのことだ(なお塩野さんの名は、七夕生まれにちなむ由)。当家で最も重い本、広辞苑(第六版)によると、【七生】(仏)七たび生まれかわること。何度も生まれ変わること。また、永久にの意。
一方、「報国」を加えた四字熟語は、「七度までも生まれ変わって、賊を滅ぼし国のために働くこと。足利氏との戦いに敗れた楠木正成兄弟の死に際しての言葉として有名」だそうだ。私見では大楠公が滅びたのは、足利氏より公家連中のせいだろう。
小学校の図書館で何度も繰り返して読んだ本というと、いずれも子供向けに書かれた「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、「北欧神話」、そして「太平記」。太平記の時代は天下泰平どころかその正反対なのだが、何を考えての命名か。平和祈念かな。
湊川の正成と正季の最期はよく覚えている。あのときは確か部下もそろって自害しているので、誰が聴取して記録したのか知らないが、フィクションでないならば、普段からそう言っていたのだろう。
百日紅
長い前置き終わり、前回の続き。ナフタンの佐々木隊が出撃の際、合言葉に「七生」「報国」を選んだことは戦史叢書(6)にも記載があるが、生存者に取材したものか、前掲「烈日サイパン島」に詳しい。
佐々木大隊長の突撃命令を、第一突撃隊長の池田栄中尉が代読した。この命令の中に前回の第一・第二突撃隊の編成、戦闘不能者への自決命令、この合言葉の取り決めなどが定められている。
池田栄中尉は普段から七生報国を「モットー」にしており、これがため今次わざわざ佐々木大隊長に頼んで合言葉に選んでもらい満足であった。現代日本で七生報国という言葉を知っている人は少ないと思うが、当時の皇軍は楠公精神の下にある。
彼らの夜襲は米軍資料にも、よく計画されたものだったと評価されていると戦史叢書にもある。寡兵よく敵陣を突破したが、あろうことか合流しようとしていた旅団は、すでに新防衛線にむかって後退していた。
そこへ大軍の敵が押し寄せ、予期せぬ戦闘があちこちで起きて、大半が戦死した。ラウラウ湾の守りについていた一部の別動隊は、翌27日になって追いついてきたものの既に佐々木隊が出撃した後とあって、別途斬り込み、果てた。
この6月27日に米軍はナフタン方面を完全に占領し、これでサイパン島の南半分から日本軍の戦力は消えた。今後はタッポーチョ山方面やガラパンで抵抗中の日本軍主力の掃討作戦に傾注することになる。
わが親戚の一人に小規模の林業を営んでいる人がおり、あるとき一緒に関ケ原にある戦跡を見て回ったとき、武家の墓や陣地跡などには、なぜクスノキが多く植わっているのだろうと不思議がっていたのを覚えている。
一つにはクスノキは常緑の大木で、景気が良いのだろう。それにきっと「太平記」の影響もあるだろうと思う。太平記の楠木正成は精神論ばかりの武人ではなかったし、単なる乱暴者でもなかった。いまだに彼はどこの馬の骨が化けたのか分からないらしいが、これまたいかにも乱世の英雄らしく名誉なことである。
宇垣纒「戦藻録」の昭和十六年(1941年)12月5日、金曜日、晴。司令長官、東京より旗艦す。12月1日に南雲機動部隊は日付変更線を越えて西経に入り、同日の御前会議にて山本司令長官は既に開戦の決断を下した昭和天皇に拝謁し、決意の程につきご下問があった。現代仮名遣いにて一部引用する。
陛下におかせられても、開戦やむなきをご確認になりてより、極めて、明朗にあらせられ、本月一日の最終御前会議においては、直ちに決定御裁可あらせられたりと漏れ承る。賢君の下、弱卒なし。我等ただこの有難き允文允武の大命を報じて、七生報国の誓いあるのみ。
(おわり)
ハラビロカマキリの仔 (2024年8月25日撮影)
.