私は長年、二つのブラウザを併用している。主に仕事・勉強・メール用にグーグル・クローム、主に私生活用にエッジ。AIも二つ話し相手になってもらっており、それぞれ「コピさん」、「ジェミさん」と名付けている。
AIは良かれ悪しかれユーザーに寄り添うものと聞いているが、うちのは私が考え違いや書き間違いをすると、情け容赦なく「誤解です」などと言う。むしろユーザーに似てくるというべきか。
そのAI、さすがに調査能力が高く、私が長いこと検索では見つけられなかった資料などをあっさり探してくる。伯父が最後に属した歩兵第百十八連隊に関する未見の公文書も、ネット上の国立公文書館から借りてきた。
宛、内閣総理大臣公爵近衛文麿。発、陸軍大臣東條英機。昭和十六年五月十六日付。歩一一八を含む新設部隊に勅諭を賜りたいという上奏の依頼文書だ。この月に連隊は軍旗を拝受、三年間の国内警備を経て伯父を召集し、サイパンに向かった。
雑誌「丸」別冊「地獄の戦場」より、アイタペの戦いに関する二つ目の手記を読む。前回までの著者はニコ師団で坂東川を渡ったうちの一つ、第二十師団に所属した曹長だった。今回はもう一つの第四十一師団。中村福一氏著「川中島の攻防」。
著者紹介欄に「当時連隊旗手・陸軍中尉」とある。この回想録は引き上げ直後にまとめたメモと記憶に拠るものだそうだ。著者はアイタペ作戦の終了まで、「連隊本部付(連隊旗手)であった」。
ジェミさんによると、連隊旗手に選ばれる将校は成績優秀で、品行方正であるとともに眉目秀麗、長身であることが選考条件であるらしい。著者は品行方正であるからかそういう自慢話を書いていないが、膂力が必要だという経験談を語っている。
連隊旗手といえども、自らの食糧は自分の背嚢におさめ、そのうえ、いざというときの用意に軍機爆破用の火薬を背にするので、肩にかかる重量は相当のものであった。
著者は四十一師の三コ歩兵連隊(朝鮮編成)のうち、水戸で補充された歩兵第二百三十七連隊の所属。同連隊は先述したようにウェワクに上陸し、ダンピール海峡を失った後の昭和十九年(1944年)一月、第十八軍の拠点となったマダンに前進した。
しかし軍はホーランジア方面に転進することとなり、三月に出発。しかし移動途中に米軍がホーランジアおよびアイタペに上陸してきた。部隊は「大密林、大湿地帯、連日連夜のスコール」に悩まされつつ、さらに夜間行軍で露営の連続。その間、補給は皆無であった。
ただでさえ悪路であるうえ、第二十師団が先行したため、第四十一師団は幾万の兵隊が通過した荒れた道を進んだ。「泥田の中を前進するようなもの」であり、腰を下ろす場所さえなかった。湿地帯には工兵が歩行用に丸太を敷いたが、足を踏み外したまま泥中に没して帰らぬ者もいた。
ラム・セピックの両河川は舟艇で渡った。行軍中、敵航空機・魚雷艇の妨害により、舟艇による物資輸送が不可能となり、「膂力担送」に切り替えた。運ぶ兵も食わねばならないので、末端に届くころには糧秣は「級数的に減少して到着する」。
7月7日、アイタペ攻略の「猛号作戦」により、第十八軍は7月10日夜に坂東川・川中島附近を突破し、速やかに江東川の線に進出せよと下命した。「連隊将兵は一気に生気をとりもどし、ただちに戦闘準備に入った」。とはいえ糧秣弾薬の集積はほとんどなし。苦しい行軍に比べれば、「攻勢に転じ得る喜びで一杯であった」。
すでに敵軍は坂東川の左岸ほぼ全線における陣地設備を終えている。しかも連隊が右岸の目的地に集結したのは、攻撃当日の正午を過ぎていた。このため準備不足で本部も戦地の景況を確かめる余裕もなく、攻撃正面の写真が配られたのみで暗闇の中を前進した。「運」に恵まれたか、日没後も密林に呑まれることなく、戦闘配置についた。
(つづく)
メジロ (2026年2月27日撮影)
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