拙宅では東京都内で唯一の村である桧原村に、何年かに一度、一泊の家族旅行をしています。今回は天気が今一つでしたが、楽しみました。上が払沢の滝。下が忠助淵。
何回か前に、2007年に台湾旅行をした際、謝さんという現地ガイドのお世話になったという思い出話に触れた。台湾関連の記事連載も終わりを迎えつつあり、こぼれ話のようなエピソードも書き遺しておきたいものがある。
司馬遼太郎「街道をゆく 第43巻 台湾紀行」の中に、例によって寸劇のような著者の回想があり、研究者でもあり、台湾で観光ガイドもやっているという謝新發という知己が出てくる。同氏には高砂族に関する著書もある。
この人は私が会った現地ガイドと、ほぼ同年代らしい。先に結論から言うと同一人物かどうか、調べたけれど分からなかった。謝さんという苗字は台湾では珍しくないようで、旅行ガイドの謝さんで検索すると何人も出てくる。そして私は謝さんの下の名を知らないのだから、先に進まない。
それでも、うろ覚えの現地旅行代理店に問い合わせてみた。丁寧なお返事が返ってきて2007年に勤務していた謝さんは、もう退社して連絡が取れない由。無理もない。昭和八年生まれだから、今年で93才になる。上皇陛下と同い年なのだ。司馬書から少し引用する。
謝さんは戦前に少年期を送り、戦後苦学して近江大学に学び日本文学を専攻した。拙宅をたずねてきてくれたこともある。六年前である。当時、五十半ばながら、無人島から人里に帰ってきた人のように爆竹がはじけるように喋った。むろん、無意味なことは一語も話さない。
この情熱家が、駅前のキオスクで買った両手いっぱいのお菓子の類を家内に与えようとしている光景をみたとき、あやうく涙ぐみそうになった。その著作の一つを読むとガイドもしているらしく、当時、台湾にくる日本人観光客のお行儀の悪さについて触れている。おおかた見当のつくことである。
ご迷惑をかけた覚えはないものの、同一人物ではないほうがよいかもしれない。この逸話は「馬のたとえ」という章の導入部分に出てくる。馬のたとえ話をしたのは、台湾出兵の際、陸軍中将で第二師団長だった乃木希典。同地に6か月滞在した。
宿に置いてあった古いアンプ。数十年ぶりに真空管を見た。
以下は乃木さんにまつわる話題。彼が所属する台湾の日本軍は「討伐軍」であった。日本国内の知り合いに出した手紙の中で(以下、現代日本語に換える)、「台湾施政も誠に苦々しき事ばかり、人民の謀反も無理からぬことに御座候」と書いた。
司馬遼太郎は「本来、人の土地を植民地にするという荒仕事は、乃木の情緒にはむかないことだったにちがいない」と評している。上記引用箇所はこう続く。「乞食が馬をもらいたるが如く、飼うこともできず乗ることもできず」。
この比喩は江戸時代からあるそうで、「分不相応をいう場合の慣用句」であるそうだ。幕末生まれの乃木中将は、日清戦争に勝利したとはいえ、まだまだ日本が貧しく遅れているのに、人の土地に手出しして乱暴するのが不愉快らしい。
では先の戦争ではどうだったろうか。もしも終盤の惨状を見れば、乃木さんも「相変わらず、飼うこともできず乗ることもできず」だと言うのではなかろうか。さらに言えば現代日本はどうか。拙ブログはそれを問い続けている。
やや唐突だが、最後に本書に出てくる一文を引用して終わる。その箇所の全体は、複雑かつ長いので内容を端折るが、ある台湾人の一家の悲劇が描かれている。戦争や災害や事件事故の報道には、「語り継がなければならない」という慣用句が付きものだが容易ではない。
この悲劇の最後に司馬さんはこう書いている。「悲しみのみが、時間をこえて人間の伝承を伝えるものらしい」。そのとおりだ。私も祖父の悲しみを語り継いでいる。
私が謝さんの消息を知りたかったのは、あの時のお礼と2024年の花蓮地震のお見舞いを伝えたかったからだ。私たちが花蓮で宿泊したホテルの写真が一枚手元に残っているが、看板に「花蓮中信大飯店」とある。その後ホテル名が変わり、さらに花蓮地震で建物が損壊し、安全が担保できず閉鎖されたそうだ。
司馬遼太郎が花蓮に行ったとき泊まった宿は「花蓮中信ホテル」と本書にあるので、同じところに宿泊したらしい。そのときは司馬の親友で当時の台湾総統、李登輝氏の訪問があった。李登輝の面長で温和な顔写真を見ると、子供のころテレビで何度も見た周恩来の姿を連想する。漢語の大人(たいじん)という表現を思い出す。
(おわり)
宿の窓より。桧原村はこの山々の向こう側が山梨県という位置にある。台湾の霧社もこんなところだろうか。 (2026年9月4日撮影)
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