アカエイ
前回の続き。昭和十九年(1944年)2月のマリアナ大空襲におけるテニアン島の様子は今回で終わり。それにしても、在テニアンの七六一空は戦闘機の護衛もなく、練習を積んだはずの戦爆連合を組まずに、一式陸攻だけで出撃したのか。
答えは戦史叢書(6)にあると思う。マリアナ諸島に到着したばかりだった第一航空艦隊は、一部の戦闘機隊がサイパン島に、一方で、司令部と陸攻・所在の中攻がテニアン島に在った。そして肝腎の戦闘機隊の主力は進出が遅れ(理由不明)、2月21日に硫黄島に在り、23日にサイパンに移動する予定だった。その間隙を突かれたのだろう。
井上昌巳氏著「テニアンの空」によると、著者の機は離陸に失敗して大破し、2月23日の夜が明けるころは、戦闘中の東の空をおおう黒雲陸攻機にを見上げていた。爆音がきこえ、雲間から航空灯が見えた。黒い機影が一つ、「一直線に急降下してきた」。
陸攻機にしては速いなと訝っていたところ、「いきなりバリバリッと、飛行場めがけて銃撃」してきた。驚いたことに敵戦闘機、艦戦のグラマンだった。単騎突進とは、いつの時代もどこの国にも、命知らずがいるものらしい。
やがてハゴイ飛行場には各方向から、グラマンが数を増やして低空射撃を始めた。「大変なことになったぞ!」と声を挙げた。第三次攻撃隊の命運やいかに。実際、一機で帰還してきた陸攻が、著者の目前でグラマンに襲われ陸地に墜落した。
グラマンの標的は、まず陸上に残置されている九六陸攻だった。わが対空機銃が火を噴いたが、一向に成果が上がらない。著者の〇七号で一緒だった天野明機長は、粉砕した愛機から七・七ミリ機銃を引き抜き、近くの樹木に縛り付けて射撃を始めた。
敵戦闘機隊はこれに気づくと、「われわれの方に反転してきた」。甘藷畑に逃げ込んだが、搭乗員と知れるとしつこく集中的に撃って来る。防空壕に避難してひとまず難を逃れてから、一式陸攻を掩体壕に引き入れた。
とうとう次に艦爆アヴェンジャーが遅れて登場し、この掩体壕を焼夷弾で空襲してきた。超低空からバラバラと「一連の割木状の焼夷弾」を落としてゆく。掩体壕は爆音と黒煙に包まれた。
ミズクラゲ
戦闘開始後、三十時間が経過し、午後八時に全員集合の命が出た。七六一空の搭乗員は初陣を終えて、「士官・准士官八名、下士官兵七十余名、大きな宿舎にこれだけである」。損害については次のとおり。
第一次、第二次、第三攻撃隊として出撃した一式陸攻三十三機のうち二十二機が未帰還となり、百余名が一夜の間に戦死したのだ、帰艦機および残留の七機は、いずれも空襲により地上で撃破されてしまった。
このあと著者らは、建て直しのため本土に戻り、新しい航空機を受領して戻った。第七八一空の進出第二波もテニアンに来た。陸軍の歩兵第五〇連隊も来て、基地構築を始めた。しかし戦場はマリアナだけではない。
マッカーサーの部隊が、東ニューギニアを西進し、ホーランジアに向かいつつある。さらに日本陸海軍の中央は、艦隊決戦の場をその後方のパラオと定め、5月3日に「あ号作戦」の方針を指示。七六一空も同月中旬以降、その本部をパラオに移し、一部をマリアナに残すのみとなった。
著者も豪北のソロンやビアクの空を飛び、そちらでも部隊は多くの搭乗員と航空機を失った。5月3日、著者はビアクからダバオ、ペリリュー経由でグアムに向かった。まだ5月のうちは比較的、平穏だった。6月に「あ号作戦」で戦闘状態になるまでは。
(つづく)
アオサギとアカエイ (2025年4月29日撮影)
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