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こんにちは。

 

3月に入手した在営アルバム(前回記事で取り扱ったものです)の調査について、大きく進展がありましたので記事にします。

 

「大きく進展」と書きましたが、貼られていた写真のうち、多くのものについて情報が得られました。

 

早速ですが、このアルバムに関する基本的な情報をまとめると、以下の通りになります。

 

持ち主

陸軍歩兵上等兵:S(愛媛県出身)

 

1936年(昭和11)、徴兵で松山歩兵第二十二連隊に入隊。

入隊から二年目で、第二次上海事変(1937年)に参加。

その結果、負傷もしくは罹患し入院。

その後少なくとも1回は召集されている。

 

部隊名

松山歩兵第二十二聯隊 第十一中隊

( 永津部隊 =部隊長:永津佐比重)

(永津部隊 加藤隊)

 

時期

主に1936(昭和11)〜1938(昭和13)年

 

内容

・人物写真1(兵隊...持ち主の同年兵(「同期」)/古兵(入隊1年目当時の先輩兵)/初年兵(入隊2年目当時の後輩兵)

・人物写真2(上官...連隊長:永津佐比重、村治敏男/中隊長:加藤弥久里/第11中隊幹部[上海事変から帰還直後の小隊長以上と思われる]の集合写真)

・1936年(昭和11)に撮影されたと思われる 歩兵第22連隊 第11中隊の集合写真(人名参照紙付き)

・第二次上海事変の写真(戦地[中国]で撮影された写真)

・親戚や知己の軍隊個人写真

・1938年(昭和13)以降の軍隊写真

 

 

○集合写真と個人写真の照合

・写真が貼られていた人たちについて

 

 

入手時点ではちんぷんかんぷんだった写真の内容ですが、とりあえずよくよく見てみました。

するとまず、中隊の集合写真に写っている人たちの個人写真が、結構な枚数貼られていることに気づきました。

 

以下に、その照合(集合写真→個人写真)を貼っていきます。

戦没していない人も恐らく多いので、ここで掲載する情報は姓だけにしておきます。

 

まず、1936年(昭和11)に 歩兵第22連隊 第11中隊に入隊した人々です。

持ち主の同年兵になります。

 

柏原(第二次上海事変に参加、負傷)

 

 

一色(第二次上海事変に参加)

 

 

亀田

 

 

今村

 

 

三井

 

 

山下(第二次上海事変に参加)

 

 

山本(第二次上海事変に参加)

 

 

鹿島

 

 

曽我部(第二次上海事変に参加)

 

 

村本

 

 

武内

 

 

武内(2枚目左)

 

 

 

吉田(第二次上海事変に参加、のち下士官に任官)

この人は写真が多く残っていました。

仲が良かったんでしょうか......

 

 

菊地(第二次上海事変に参加)

 

 

 

次に、持ち主の入隊当時の先輩であった人たち(1935年[昭和10]に入隊した人たち)です。

 

高岡(2枚目右)

 

 

上田

 

 

和気

 

 

最後に、後輩兵です。

名前まで判明したのは1名だけですが、第二次上海事変で負傷していたことがわかっています(どう見ても同じ写真が地元紙に掲載されていました)

 

近藤

 

 

 

○戦没者

中隊の集合写真に写っている人たちは、全部で94名でした。

このうち、第二次上海事変における戦没者は、18名でした。

太平洋戦争以降に戦没した人たちを入れると、もう少しいるかもしれません。

 

詳細は前回の記事で書いているので省きます。

今回までに、新たに2名判明しました。

 

陸軍歩兵准尉

金崎

1937年9月

戦没地:中華民国

 

出動直後発病し、そのまま現地の病院で戦没したとのことでした。

 

また、沖縄戦当時の二十二連隊の幹部(小隊長)も1名写っていました。

アルバムの持ち主の方と同年兵で、1936年(昭和11)時点で初年兵だったようです。

単純に計算して、9年ほど軍隊にいた計算になります。

 

陸軍中尉

門田

1945年6月

戦没地:沖縄

所属部隊:歩兵第二十二連隊( 山第三四七四部隊 )

 

 

 

 

↑↑↑↑ですでに記事にした、二十二連隊の戦没者についても2名分のアナザーショットが見つかりました。

 

酒井

 

 

白石

 

○持ち主の上官について

・加藤弥久里

 

「ラッキー部隊長」こと加藤弥久里は、歩兵第22連隊(永津部隊)の第11中隊長として第二次上海事変に参加し、1937年11月に戦没しました。

地元紙に掲載された本人の略歴によると、なんと明治の末からずっと軍隊にいたようです。

戦没までをざっと計算しても、25年以上になります。

何度負傷しても後送を拒み続けたという話が伝わっていますが、そりゃ兵隊や軍隊への愛情も強いはずですな。

 

詳細は下の記事の後半にあります。

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・Y

 

加藤が戦没した後、第11中隊の中隊長となった人物がいました。

それが、Yです。

フォロワーさんがこの方の資料をまとまって所持しており、ご厚意に甘えて拝見させていただきました。

今回紹介はしきれませんが、素晴らしい資料がたくさんありました。

ありがとうございました。

 

Y。1937年の応召時に撮影と推定。

 

彼は明治半ば過ぎの生まれです。

上海事変が始まってまもなく召集され、補充要員として前線にあった二十二連隊に送られました。

地元の在郷軍人会の分会長を務めていて、事変後は国内(松山)の留守隊の中隊長や、中国に派遣されていた第40師団(鯨) 歩兵第二百三十四連隊でも中隊長をしていたようです。

 

Y。第二次上海事変より帰還直後(1938年3~4月頃)

 

○名簿との照合

 

このY中隊長の資料の中に、第2次上海事変に参加した歩兵第22聯隊 第11中隊の功績名簿がありました。

これは所属隊員の功績の列次(=順位)を決めるためのもので、いろは順になっています。

一般の兵士だけではなく、小隊長や下士官も載っていますが、担当が中隊長ではないからか、彼らの列次は記載されていませんでした。

 

T

 

なお、この中隊で1番とされていたこの兵士Tは、論功行賞(恩賞のようなシステム)で金鵄勲章(=生存者に与えられることがとても珍しい)を授与されたようです。

 

(((ところで、功績の評価ってどうやってするんでしょうかね...??情実とか絡んだりしないんですかね??ちょっと気になってきました)))

 

この資料のおかげで、はじめに紹介した集合写真中の方の一部について、情報(徴集年次・1938年(昭和13)当時の階級など)が照合できました。

 

こがなどマニアックな資料が、こんな形で役に立つとは......

それぞれの資料を有機的に結びつけることによって、「アルバム資料」から引き出すことができる情報が拡大しました。

 

 

○戦地の写真

分隊の集合写真

(流石に写っている人の特定はまだ......)

 

中国の子供と写っている持ち主

 

第二次上海事変当時、二十二連隊の兵士たち(1937~1938年)

 

破壊された中国の街並み

 

○サブ発見

先程の名簿に載っているのは、復員完結時点(部隊が平時の態勢に戻ること)で中隊に所属していた人たちでした。

過去に入手した、別の二十二連隊アルバムに貼られていた個人写真についても、情報が繋がりました。

 

川﨑

 

この写真は、1930年に22連隊に入隊した方(現:今治市出身)のアルバムに貼られており、表に姓・裏に名前が書かれていました。

 

先ほどの名簿に同姓同名の方が載っており、徴集年次(1930年...入隊は翌1931年1月)から推定できる入隊年度も一致していました。

さすがに同じ年度の同じ中隊に、同姓同名の方がいる可能性も低いということで、キャプションとの整合性がとれました。

 

この方は1931年(昭和6)に二十二連隊に入隊し、翌1932年の第一次上海事変に参加しました。その時の功績により、既に勲章をもらっていたようです。(別資料で確認済み)

その後再び召集され、第二次上海事変に参加していたことが分かります。

 

この世代の人たち(1910年前後生まれ)は、第二次上海事変(1937年当時)のころにはもう後備役のおっさん兵士だったんですね〜...

 

もう一つ、プチ発見がありました。

 

中隊の集合写真に写っていた方が、最近入手した人事本にも掲載されていました。

 

S

 

略歴を見ると、彼は大正初期に生まれ、確かに1936年(昭和11)、松山の歩兵第22連隊 第11中隊に入隊した由が記載されていました。

その翌年夏、除隊(=青年学校を卒業していたため)になった直後、第二次上海事変が起こり召集されました。

応召後直ちに事変に参加し負傷。重症だったようで、国内に還送された後も関東を含む各病院を転々としました。

その経験あってのことか、戦後は県の傷痍軍人会の評議員だったようです。

 

 

話が個人の方にいってしまいましたが、このように、顔と姓名がわかっている人たちの入隊部隊や年度などの情報を整理して集積し、写真の時期推定のヒントにできないかな〜なんて考えています。

アルバムを1冊をじっくり見ても発見はありますが、数多く見ていっただけ、情報がまとまってくるのかもしれないですね......

頑張ってアルバムを入手します......

 

今回のように、もしほとんどキャプションのないアルバムであっても、他の資料と突き合わせることで、引き出せる情報の量が全然変わってくることがあります。

だから見つかっても破棄しないで......!!!

 

 

例えばこの写真をただ見ても、「陸軍大尉」や「歩兵第二十二連隊の軍人」「瑞宝章、昭和六年乃至九年従軍記章などを付けている」などの情報を得ることはできますが、この方が誰で、どういう方であったのか。

 

 

 

彼の場合のように、他ならない「地域の歴史」と結びつけることが可能なのではないかと考えています。

 

二十二連隊は、日清・日露・シベリア出兵・上海事変(一次、二次)・太平洋戦争(沖縄戦)と大きな戦いに参加しました。

「愛媛県と近代」を考える上では、存在した時代の長さ、関わった地元の人々の数からして、無視することはできない存在であると考えます。

しかしこの部隊には残念ながら、部隊資料や当事者の回想を集めるなどして作る、体系的な部隊史が存在していません。

それだけに、主要な戦争や事変における部隊の行動を復元するのが困難です。(中隊長以上の職員表ですら無理...)

 

上海事変(2)における連隊副官(=それなりに地位のある方)の戦没状況ですら、新聞掲載の伝聞・美談などしか伝わっておらず、諸説ある状態です。

ということは、一般の兵士たちのそれは..........

 

帰還者・戦没者を問わず、兵士たちの苦難というものに対する知識や、想像力が失われることにつながるのかな...なんて考えたりします。

 

だからこそ、(アルバムだけではないですが)地域に眠っている資料を発掘し、記録・発信する必要性を感じています。その上で、道府県単位で対象を絞って調査を行うことにも意義があるのではないかな......。

理想としては各県ごとに担当者がいて、人事や資料の状況について、相互に情報を共有したらいいのでは......など色々考えています。

 

...アルバム一冊からこんな壮大な話になってしまいましたが、引き続き、頑張ります。

 

(歩兵第二十二連隊・第十一・第四十・第五十五師団等々)資料や部隊関係者について情報をお持ちの方・愛媛県出身の陸軍軍人のご遺族様で、差し支えなければ、以下のメールまたはXアカウントまでお知らせください。

 

資料や軍歴の調査も行っています。

 

ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

 

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第二次上海事変における歩兵第二十二連隊の戦没者リストも、鋭意整理・公開中です。

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