京都府宮津市 天橋立(日本三景)

2024年5月中旬訪問 山陰の旅 3日目~翌朝

 

国吉城攻城後、美浜駅前の道の駅 若狭美浜 はまびよりで休憩、お土産物色して、この日の宿泊地、天橋立がある京都府宮津氏を目指し、若狭湾海岸沿いを西走します。途中、三方湖に立ち寄り休憩しました。会社員時代、ポシャリましたが、温泉施設の案件あったのを思い出しました。現地調査にまで至りませんでしたが、今回懐かしくて、立ち寄ってみました。意外と濁ってました。想像と違いましたね。

 

 

道の駅 若狭美浜 はまびより

 

 

 

道の駅 三方湖

 

宿泊する、旅館に到着し、チエックイン後、徒歩で天橋立散策に向かいました。

 

 

日本三景 天橋立

天橋立は、京都府宮津市にある全長約3.6kmの砂嘴(さし)です。宮津湾と阿蘇海を隔てるように延びる砂浜には、約8,000本もの松が茂り、その美しい景観から日本三景の一つに数えられています。特に有名なのが、高台から体をかがめて股の間からのぞき込む「股のぞき」。天地が逆転し、天橋立がまるで空に架かる橋のように見えることから「飛龍観」「昇龍観」と呼ばれ、古くから多くの人々を魅了してきました。

 

散策マップ

 

まずは、天橋立ビューランドに行き、山の上から景観を楽しみました。ロープウェイとリフトがあり、景色と空気を堪能したいので、10数分の待ちでリフトで登りました。山頂から見る天橋立は美しかったです。「股のぞき」、妻はしましたが、私は三半規管弱いんで止めました。直前に、股のぞき最中におふざけで押されて滑落の痛ましい事故が記憶に新しかったからです。帰りのリフトは、待つ時間1時間近かったでしょうか。結構混んでました。

 

 

 

 

 

 

 

 

天橋立の砂州は、翌朝、旅館の朝食後散策しました。自然の摂理は須郷ですね。砂州の途中で引き返しました。レンタサイクル借りると行動範囲広がりますね。

 

 

智恩寺

 

 

 

砂州

 

※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

 

 

 

山陰の旅 2024

福井県美浜町 国吉城 攻城245 (2024年5月中旬訪問)

続百名城No139 46/100

 

気比の松原を後にして、若狭湾沿いを西に進み、美浜原発で有名な、美浜町にある山城、国吉城を攻城しました。一説では、金ケ崎の退け口でしんがりを務めた、秀吉が朝倉軍に追い詰められ、同じく、国吉城に逃げ伸びた徳川家康に、助けられたと言われているようです。

 

案内図

 

 

城郭図

 

城郭概要

国吉城は、山頂から北西の尾根筋にかけて、複数の曲輪(郭)が段々に配置されている、連郭式山城で、近年行われた発掘調査により、石垣造りの城郭に改修された時期があったことも明らかになっています。

 

国吉城の主な城主は以下の通りです。

・粟屋勝久(あわや かつひさ): 弘治2年(1556年)に築城したと伝えられる人物で、若狭国守護武田氏の重臣でした。越前朝倉  氏の侵攻に対し、長年にわたり籠城戦を戦い抜き、「難攻不落」の城としての名声を確立しました

・木村常陸介定光(きむら ひたちすけ さだみつ): 天正11年(1583年)に豊臣秀吉の家臣として城主となり、城の石垣化や城下町(佐柿)の整備を行いました。

・その他、一時的に浅野氏や多賀氏が城代を務めた時期もあります。

 

国吉城の主な特徴は以下の通りです。

  • 難攻不落の堅城: 越前朝倉氏の度重なる攻撃を数年にわたって撃退し続けたことから、「難攻不落の城」として知られています。

  • 境目の城: 若狭国と越前国の国境に位置し、国防の要衝として重要な役割を果たしました。

  • 三英傑の滞在: 元亀元年(1570年)の織田信長の越前攻めの際、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が揃って国吉城に入城し、ここを拠点に戦略を練ったとされています。

  • 山城と居館の遺構: 山頂部の曲輪群(本丸、二の丸など)や石垣、土塁、堀切といった山城の遺構が良好に残されています。また、麓には城主の居館跡とみられる石垣なども残されており、戦国時代の典型的な「居館と山城」の形態を今に伝えています。これは全国的にも珍しい特徴です。

  • 連郭式の縄張り: 狭い山の尾根筋の高低差を利用して、曲輪が段々に配置された連郭式の縄張りが見られます。特に、中腹にある出丸は食い違い虎口を持ち、高さ2メートル以上の高土塁で囲まれた堅固な構造をしています。

  • 歴史資料館: 城の麓には「若狭国吉城歴史資料館」があり、国吉城の歴史や構造について学ぶことができます。資料館は江戸時代の大庄屋であった旧田辺半太夫家住宅の母屋を移築したもので、国の登録有形文化財にもなっています。

城郭南西にある、国吉城址駐車場に駐車して、攻城開始です。若狭国吉城歴史資料館(旧田辺半太夫家住宅)で資料を入手して、登って行きます。途中、石垣、居館跡があり、林を歩いていくと、電柵がありました。クマ出没注意の看板があり、最近は、老齢化で危険を冒さないこととしているため、いかにも、獣がいそうな雰囲気に負け、ここまでとしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

居館跡

 

 

 

 

クマ出没注意 電柵

 

観光協会パンフより

 

心残りの思いを胸に、この日の宿泊地、「天の橋立」に向かいました。

 

※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

 

 

福井県敦賀市 気比の松原(松原公園)

2024年5月中旬訪問 山陰の旅 3日目

 

金ケ崎城から次の目的地、国吉城に向けて、敦賀市内を走行中に、妻から「気比の松原」の看板を見たと報告があり、ググってもらうと、何とすぐ近くに、日本三大松原の一つである、「気比の松原」があることがわかり、急遽、立ち寄ることにしました。過去旅で、静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原に行っているので、日本三大松原制覇です。

 

 

観光マップ

 

概要:

「気比の松原」は、福井県敦賀市にある景勝地で、 静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原と並び、「日本三大松原」の一つに数えられています。 広大な砂浜に松の緑、そして海と空の青が広がり、そのコントラストが非常に美しい景観を作り出しています。 『万葉集』や『日本書紀』にもその名が記されており、古くから知られた景勝地です。

 

敦賀湾に沿って弧を描くように、東西約1.5km、南北400mにわたり約100万本もの松が群生しています。特に、海岸では珍しくアカマツが多く(約60%)生育しているのも特徴です。これは、海岸に近いクロマツが塩害からアカマツを守っているためと考えられています。

 

 聖武天皇の時代に異賊が来襲した際、一夜にして数千本の松が出現し、その松に群がる白鷺が敵には大軍に見え、退散させたという伝説が残っているようです。

 

散策コースや歴史文化コース、森林浴コースなど、複数の遊歩道が整備されており、ウォーキングや森林浴を楽しむことができ、 夏の海水浴はもちろん、冬には雪化粧された松林と荒波の日本海が織りなす壮麗な風景も楽しめます。

 

 国の指定名勝であり、防風や防潮の役割を持つ潮害防備保安林、そしてレクリエーション活動の場としての保健保安林にも指定されています。  

 

 

 

 

 

 

 

思いがけず立ち寄ることができて良かったです。久しぶりの日本海は綺麗でした。

 

金ケ崎城、遺構は殆んど残っていませんが、大谷吉継の敦賀城跡とセットで訪問するとお得です。

 

※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

 

山陰の旅 2024

福井県敦賀市 金ヶ崎城 攻城244(2024年5月中旬訪問)

 

この日は、京都府宮津市(天橋立)に宿泊なので、彦根からの途中、名だたる戦国オールスターが集合した、金ヶ崎の退き口で知られている、金ケ崎城に立ち寄り、攻城しました。織田信長最大の試練の場所であると同時に、退却のしんがりに、豊臣秀吉、明智光秀がいたとされ、この次に行く国吉城に陣を張っていた徳川家康に、危機一髪秀吉が助けられたとか、ロマンが尽きないですね。もしここで、織田軍が全滅していたら、日本の歴史はどうなっていたんでしょうね。朝倉家浅井家が天下を取ったんでしょうか。

 

 

 

金ヶ崎城案内図

 

城郭説明

金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘に築かれ、尾根筋を細長く削平した構造の山城です。堀切や竪堀といった山城特有の防御施設がよく残っていて、国の史跡に指定されています。

 

城主:歴史の中で複数の勢力によって利用され、主な城主としては、以下の人物・勢力が挙げられます。

  • 平通盛(たいらの みちもり): 平安時代末期に、木曽義仲との戦いのために築城したと伝えられています。

  • 新田義貞(にった よしさだ): 南北朝時代、後醍醐天皇の皇子らを奉じて金ヶ崎城に籠城しましたが、足利方に兵糧攻めに遭い落城しました。

  • 甲斐氏(かいし): 南北朝時代以降、足利方が越前を平定した後、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城とも称されました。

  • 朝倉氏(あさくらし): 応仁の乱以降、越前を掌握した朝倉氏が支城として機能させました。元亀元年(1570年)の織田信長による越前侵攻の際に開城しています。

特徴:敦賀湾に面した岬の先端に位置しており、三方を海に囲まれた要害地形で、陸路と海路を同時に押さえることができる要衝    でした。

  • 南北朝時代の激戦地: 特に南北朝時代には、新田義貞が後醍醐天皇の皇子である尊良親王・恒良親王を奉じて籠城した「金ヶ崎の戦い」の舞台となりました。この戦いでは、兵糧攻めの末に尊良親王や新田義顕(義貞の嫡男)らが自害するという悲劇的な結末を迎えました。

  • 「金ヶ崎の退き口」: 戦国時代には、元亀元年(1570年)に織田信長が越前朝倉氏を攻めた際、浅井長政が裏切って背後から挟撃する形勢となったため、信長が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せて京へ撤退した、いわゆる「金ヶ崎の退き口」の舞台としても知られています。

  • 遺構: 現在も月見御殿跡(本丸)、曲輪、堀切、竪堀などの遺構が良好に残っており、国の史跡に指定されています。月見御殿跡からは敦賀湾が一望できます。

  • 焼米石出土: 兵糧庫跡と推定される場所からは、炭化した米が出土しており、当時の激戦の様子を物語っています。

  • 未発掘のロマン: 歴史的に重要な場所でありながら、地権者などの問題から未発掘の箇所も多く、今後の調査に期待が寄せられています。

城郭南側にある、金ヶ崎公園駐車場に駐車して攻城開始です。金前寺、金満宮を通り花換の小道を登って行くと、本丸跡である月見御殿跡がすぐありました。ここからの敦賀湾の景観は最高でした。帰路は、東に進み、三の木戸跡、焼米石出土跡、二の木戸跡、七曲がりと経由して、戻りました。

 

金ヶ崎公園駐車場

 

 

 

登城路

 

花換の小道

 

 

 

登城路、石垣

 

 

月見御殿跡、景観

 

 

 

竪堀、三の木戸跡

 

 

焼米石出土跡

 

 

二の木戸

 

 

堀切、七曲

 

戦国の世、日本の歴史の分岐点、戦国オールスター揃いふみ、ロマンあふれる、金ケ崎城、行ってみる価値ありです。来て良かったです。

 

※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

 

 

 

 

 

 

 

山陰の旅 2024

滋賀県彦根市 彦根城 再訪 (2024年5月中旬訪問)

百名城No50

 

この日の宿泊地は滋賀県彦根市です。目的は、彦根城を攻城することと、ひいきにしている鰻屋で、日本酒「七本槍」飲んで、ひつまぶしを食べることです。彦根には、以前仕事で毎週1年ほど来ていたので、懐かしいです。TVで良く知られている、「鳥人間コンテスト」会場もすぐ近くにありました。

駅前のホテルにチェックイン後、駅前通りを北西方向に歩くと10数分で表門橋に着き、券売所で登城券を買って攻城開始です。

 

案内図

 

城郭図

 

登城券

 

城郭説明

彦根城は、井伊家が代々城主を務めました。特に初代藩主である井伊直政が関ヶ原の戦いの功績により近江国北東部に封じられ、その居城として築城が開始されました。しかし、直政は築城中に亡くなり、その遺志を継いだ息子の井伊直継が築城を開始しました。最終的に城を完成させたのは、直継の弟である井伊直孝です。江戸時代を通じて、彦根藩主として井伊家が一度も変わることなく居城とし続けたことは、当時の配置替えが頻繁に行われた時代において非常に異例であり、徳川家からの厚い信頼と井伊家の高い行政手腕を示しています。

 

彦根城の様式は、平山城に分類されます。これは、小高い山(丘)の地形を利用して築かれた城を指します。天守は「複合式望楼型」で、3重3階地下1階の構造を持っています。

建築様式としては、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての近世城郭の様式を取り入れています。特に天守の外観は、多様な破風(切妻破風、入母屋破風、唐破風)が巧みに組み合わされ、2階と3階には花頭窓、3階には高欄付きの**廻縁(まわりえん)**を巡らせるなど、装飾美に重きを置いた華やかな意匠が特徴です。壁や軒裏、破風は漆喰で塗り込められ、金箔を押した飾り金具や黒漆が多用されています。

また、彦根城は、急いで築城するために周辺の城(特に大津城の天守など)の部材を移築して再利用している「リサイクルの城」という側面も持っています。

 

彦根城には、以下のような特徴があります。

  • 国宝の天守: 日本に現存する12の天守のうち、国宝に指定されている5城の一つです。

  • 「戦う城」としての機能性: 近世城郭のスマートな外観を持ちながらも、戦国時代の山城のような高い戦闘能力を秘めています。刀や槍での戦が行われた中世と、鉄砲戦に備えた近世の両方の時代の城の特色を兼ね備えています。

  • 多様な石垣: 築城当初からの「牛蒡積み(ごぼうづみ)」や、幕末に積み直された「落し積み」など、異なる石垣の積み方を見ることができます。

  • 登り石垣: 全国的に珍しい「登り石垣」が5カ所に築かれています。これは山の傾斜を登るように築かれた石垣で、敵の侵入を阻止する目的がありました。

  • 天秤櫓: 左右非対称の二重櫓が廊下橋で連結された独特の構造を持つ櫓で、その形状から「天秤」の名がつけられました。

  • 馬屋: 国の重要文化財に指定されている大規模な馬屋が現存しており、平和な江戸時代に入っても武術や馬術の修行を怠らなかった井伊家の名残を感じさせます。

  • 急な階段: 天守内の階段は傾斜角度が62度にもなり、敵の侵入を阻むための仕掛けの一つでもあります。

  • 彦根城博物館: かつて井伊家の城主が住んでいた表御殿を復元した博物館が併設されており、井伊家ゆかりの武具などが多数展示されています。

  • 玄宮園と楽々園: 広大な庭園である玄宮園や、藩主の居間であった楽々園(槻御殿)も城内にあります。

彦根城は、美しい外観と堅固な防御機能を兼ね備え、井伊家の歴史と文化を今に伝える貴重な文化遺産です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひつまぶし

 

純米吟醸酒「七本槍」

 

 

2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

 

 

 

山陰の旅 2024

愛知県犬山市 犬山城 再訪 (2024年5月中旬訪問)

百名城No43

 

2024年中旬に、世界遺産の「石見銀山」に行く途中に立ち寄りました。 各地の城の攻城を始めてから4城目の現存天守です。2016年9月24日に攻城以来の再訪です。相変わらずの急階段と、床の軋み音、石垣は感動ものでした。

 

案内図

 

城郭説明

犬山城は、室町時代の天文6年(1537年)頃に織田信長の叔父である織田信康によって築城されたとされています。その後、戦国の世を反映するかのように、織田信清、池田恒興など、めまぐるしく城主が交代しました。

江戸時代に入ると、尾張徳川家の付家老となった成瀬正成が城主となり、以降、明治維新まで成瀬家が代々犬山城を守り続けました。

そして、犬山城の歴史で特筆すべきは、2004年まで日本で唯一の個人所有の城であったこと! 成瀬家が明治時代以降も私財を投じて城を維持し、その姿を現代に伝えてくれたことに、深く感謝せずにはいられませんね。現在は、公益財団法人犬山城白帝文庫が所有し、管理しています。

 

独特の形式美「望楼型天守」

犬山城の天守は、現存する日本最古の様式である望楼型(ぼうろうがた)です。 これは、下層の建物(入母屋造)の上に、見張り用の望楼を載せたような構造を指します。犬山城の天守は、3重4階地下2階という複雑な構造を持ちながらも、その優美な外観は多くの人々を魅了します。特に、白漆喰の壁と下見板張りの黒い腰壁のコントラスト、そして屋根にあしらわれた千鳥破風や唐破風は、戦国期の城としては非常に洒落た意匠と言えるでしょう。

また、犬山城は丘陵の地形を活かした平山城であり、天守までの道中には敵の侵入を防ぐための様々な防御の工夫を見ることができます。天守自体も複合式という形式で、天守に付櫓(つけやぐら)が付属しており、防御性が高められています。

 

天守最上階からの絶景と、歴史を物語る建築美

犬山城の最大の特徴の一つは、なんといっても天守最上階からの360度の絶景です。周囲を取り囲む廻廊からは、雄大な木曽川の流れ、遠くには御嶽山、さらには岐阜城や名古屋駅のビル群まで見渡すことができ、まさに「殿様気分」を味わえます。

また、現存天守である犬山城は、築城当時の木材がそのまま残されており、城内を歩くとギシギシと軋む音が聞こえ、床の隙間などからも歴史の重みを感じることができます。柱や梁といった主要構造部からは、長い年月の痕跡が刻まれており、まさに「本物」の迫力に圧倒されることでしょう。1階の「武者走り」と呼ばれる通路など、城兵が戦うための工夫も随所に見て取れます。

 

尾張名古屋は城で持つ→尾張名古屋は犬山で持つ

犬山城は、木曽川を流通路とした木材、ヒバの中継集散地として、江戸幕府の財源として大変重要だったようです。

 

国宝犬山城は、その独特の歴史と形式、そして天守からの絶景など、見どころ満載のお城です。木曽川沿いに佇むその姿は「白帝城」とも称され、多くの人々を惹きつけてやみません。歴史のロマンを感じながら、当時の武将たちが眺めたであろう景色を見て感動を隠せませんでした。

 

犬山城第1駐車場(キャッスルパーキング西面)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

アジサイを見にマザー牧場へ

 

アジサイの季節になり、家の周りもアジサイが咲き始めたので、何と、30数年ぶりに、マザー牧場に行ってきました。すぐ手前まで、高速道ができたので、便利になりました。入場料1,500円/大人1人、駐車場料金1,000円/1日でした。以前はいくらだったか、記憶にありませんでした。

グーグルニュースで、アジサイの有名な場所、千葉県第一位だったので、ここに来てみました。

アジサイは牧場の上部の斜面に咲いているので、山の上駐車場に駐車して散策開始しました。

いろいろな、種類のアジサイが咲いてました。8分咲きでしたが、とても綺麗でした。

お昼手前まで散策したのち、カフェ&ジンギスカン ファームダイナーで、ジンギスカン食べました。夫婦二人で4,000円くらいでした。故郷が夫婦とも札幌なので、どうしてもジンギスカンになってしまします。上ラムとラム頼みましたが、上ラムはパサパサして、ラムの方が美味しかったです。

食後、売店でお土産買って、帰途に着きました。

 

圏央道にでようと北上しましたが、事故渋滞で通行止めの情報で、下道に降り、ナビだよりで帰りましたが、途中、以前仕事で行っていた、ゴルフ場があり懐かしかったです。

 

ガイドマップ

 

入場券

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰宅途中、飯沼本家の純米大吟醸 甲子 初雪がパリのクラマスターという酒コンクールの日本酒純米大吟醸部門トップ受賞のニュースがあり、酒蔵に立ち寄って、尋ねたところ、限定酒で卸のみの販売ということで、売っていませんでしたが、別のいい日本酒あったので、買いました。

 

純米生原酒無濾過直汲み純米吟醸生酒きのえねアップル

静岡県静岡市 駿府城 再訪 (2025年5月中旬訪問)

百名城No62 

 

高天神城から駿府城に向かいました。本日は、静岡市内のホテルにチェックイン後徒歩で攻城します。再訪は、発掘調査が進んでいるとの情報で決めました。明日は、大雨予想のため(実際、強雨でした)、本日中に何とかしたかったのですが、伊勢湾岸道1車線規制渋滞で、発掘現場閉門に間に合いませんでしたが。フェンス越しに見るのみでした。残念!

 

城郭説明

徳川家康が晩年を過ごし、「大御所政治」を行った地として名高い駿府城。残念ながら現在の姿は公園として整備されています。

 

駿府城の建築様式

駿府城は、堀が三重に巡らされ、その内側から本丸、二ノ丸、三ノ丸と配置された輪郭式の平城です。防御性と居住性を兼ね備えた、近世城郭の典型的な様式と言えます。

特に注目すべきは、徳川家康による「天下普請」で大修築された際の規模です。慶長年間に再建された天守は、連結式層塔型5重7階(いずれも非現存)という、当時としても非常に大規模なものでした。発掘調査では、天正期の天守台(南北37m、東西33m)に加えて、慶長期の天守台が南北68m、東西61mと、江戸城を凌ぐ日本最大級の大きさであったことが明らかになっています。これは、家康の権威を示すものとして、全国の大名が動員され、最新の技術と資材が投入された結果です。

また、現存する東御門(ひがしごもん)と巽櫓(たつみやぐら)は、寛永年間当時の姿を目指して本格的な木造で再現されており、当時の城郭建築の様子を体感することができます。

 

駿府城の主な城主

  • 徳川家康(築城主、初代城主、そして大御所として) 天正13年(1585年)に今川館跡に築城を開始。一度、豊臣秀吉の命により関東へ移封され、その間は豊臣方の武将である中村一氏が城主となりました。しかし、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた家康は、将軍職を秀忠に譲った後、慶長12年(1607年)に大御所として再び駿府城に入り、ここを拠点に政治を行いました。

  • 中村一氏(豊臣政権下での城主) 家康の関東移封後、豊臣秀吉の家臣として駿府城主を務めました。

  • 徳川頼宣(家康の十男) 家康の死後、慶長14年(1609年)に駿河・遠江50万石の藩主として駿府城主となりますが、後に紀州藩(和歌山藩)へ移封され、紀州徳川家の祖となりました。

  • 徳川忠長(徳川秀忠の三男、家康の孫) 寛永元年(1624年)に駿府城主となりますが、乱行が原因で蟄居を命じられ、城主不在となります。

徳川忠長以降は、駿府は幕府直轄領となり、城代が置かれるようになりました。

 

駿府城の主な特徴

駿府城は、徳川家康の隠居城として、また天下普請によって築かれた城として、多くの特徴を持っています。

  • 日本最大級の天守台:発掘調査により明らかになった慶長期の天守台は、その規模において日本最大級であり、家康の絶大な権力を象徴しています。

  • 三重の堀と輪郭式縄張り:堅固な防御と、本丸を中心に各曲輪が同心円状に配置された効率的な構造です。

  • 天下普請の痕跡:城内の石垣には、全国の大名が動員されたことを示す300を超える刻印が見つかっており、当時の土木技術や組織力を物語っています。

  • 再現された城郭建築:東御門と巽櫓は、当時の史料に基づいて忠実に木造で復元されており、内部には展示スペースもあります。また、坤櫓も復元されており、これらは駿府城公園のシンボルとなっています。

  • 紅葉山庭園:城内に整備された日本庭園で、池を中心に駿河国の4つの名勝を表現しており、四季折々の美しい景観が楽しめます。

  • 徳川家康公の銅像と手植えのミカン:本丸跡には家康の銅像が建立されており、また家康が植えたとされるミカンの木も残されています。

  • 天守台発掘調査現場:現在も発掘調査が進行中で、一般公開されています。歴史のロマンを感じられる貴重な場所です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
発掘調査現場
 
 
再現CG

静岡県掛川市 高天神城 攻城257 (2025年5月中旬訪問)

続百名城No147 51/100

 

徳川家康が、高天神城を攻略するために築城した、横須賀城を後にして、車で10数キロ、20分前後の高天神城に行きました。家康の物語には、欠かせない山城です。今回は、高天神城搦手門駐車場(北口駐車場)に駐車して攻城開始です。

 

城郭説明

静岡県掛川市に位置する高天神城は、「高天神を制する者は遠江を制す」とまで謳われた、戦国時代の重要な山城です。武田氏と徳川氏による激しい攻防が繰り広げられたこの地は、歴史好きなら一度は訪れたい、見どころ満載の城です。

高天神城の様式と特徴

高天神城は、その地形を最大限に活かした山城の形式をとっています。標高132mの鶴翁山に築かれ、三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害であることが最大の特徴です。石垣はほとんどなく、多くの土塁堀切横堀といった土の防御施設が巧妙に配置されています。

特に注目すべきは「一城別郭(いちじょうべっかく)」と呼ばれる構造です。一般的な城郭が本丸を中心に形成されるのに対し、高天神城では井戸曲輪を境に東峰と西峰の独立した丘陵に分かれ、それぞれ異なる曲輪構造を持つ点が特徴です。東峰は主に居住空間、西峰は戦闘空間として機能していたと考えられています。これは、武田軍が占拠した際に、より複雑な防御構造へと改修された影響が大きいと言われています。

歴代城主と築城主:今川氏から武田・徳川の激しい争奪へ

高天神城の築城は、室町時代に今川氏によって行われたと考えられています。当初は今川氏の支城として、小笠原氏が城主を務めていました。しかし、今川氏の衰退に伴い、高天神城は徳川家康の支配下に入ります。

その後、「武田信玄でも落とせなかった」と言われるほどの難攻不落ぶりを発揮しますが、1574年(天正2年)には武田信玄の子である武田勝頼によって落城します。これにより、武田氏は遠江への足がかりを得ました。この頃の城主は、武田方の岡部元信が務めていました。

しかし、長篠の戦いでの敗戦を機に武田氏が衰退すると、徳川家康は高天神城の奪還を目指します。そして1581年(天正9年)、徳川軍の猛攻により高天神城は再び落城し、廃城となりました。まさに戦国時代の動乱を象徴する、波乱に満ちた歴史を持つ城です。

 

アクセス

 

 

 

案内図

 

 

人影ありませんねえ。南に向けて坂を上り登城していくと、搦手門跡があり、やや急な階段を登って行くと、三日月井戸がありました。さらに上ると、三の丸(南口追門)方面、本丸方面の分岐に出ました。今回は、時間の都合上、三の丸は省略して、本丸を目指します。

 

高天神城搦手門駐車場(北口駐車場)

 

搦手門跡

 

案内看板

 

搦手道

 

 

三ケ月井戸

 

本丸、三の丸分岐

 

三の丸、追手口方面

 

本丸方面に進むと、的場曲輪、御前曲輪があり、その先に、本丸がありました。本丸からの景色は最高でした。敵陣、一目瞭然でした。

 

 

本丸方面登城路

 

的場曲輪

 

 

御前曲輪

 

三の丸方面

 

本丸

 

本丸からの景観

 

駿府城の、発掘現場閉門が気になり、十分に攻城出来なかったのが心残りでしたが、戦国時代、徳川軍、武田軍の攻防の激戦地の難攻不落の山城、高天神城、攻城出来て良かったです。

 

 

静岡県掛川市 横須賀城 攻城256 (2025年5月中旬訪問)

 

滋賀県甲賀の宿を出発して、静岡県掛川市の海岸沿いにある、横須賀城に行きました。鈴鹿スカイラインの山道を走り、新名神に乗りましたが、何と、道路補修工事により、3車線が1車線規制になる区間があり、大渋滞で通過60分ほどかかりました。本日は、横須賀城、高天神城、駿府城と行く予定ですが、駿府城の発掘調査区域が17時までなので、暗雲がただよいました。13時半に、横須賀城跡公園駐車場に着き、早速攻城開始です。

 

城郭概要

静岡県掛川市に位置する横須賀城は、徳川家康が高天神城攻略の拠点として築かせた城として知られています。その歴史的背景と、全国的にも珍しい「玉石積み」の石垣が特徴の魅力的な城跡です。

横須賀城は、徳川家康が武田氏との攻防の最中に、軍事拠点として築かせた城です。高天神城(たかてんじんじょう)攻略の最前線基地としての役割を終えた後も、近世城郭として改修・整備され、江戸時代を通じて遠州南部の拠点として重要な役割を担いました。

築城主と歴史

横須賀城は、天正6年(1578年)に徳川家康の命を受けた家臣の大須賀康高(おおすかやすたか)によって築城されました。 当初は高天神城を包囲するための陣城としての性格が強く、松尾山と呼ばれる小高い丘陵を利用した山城の要素を持っていました。高天神城落城後も大須賀氏の居城として存続し、康高の子である忠政によって近世城郭へと改修が進められました。その後、城主は目まぐるしく変遷し、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2年(1682年)に西尾忠成が入城してからは西尾氏が明治維新まで8代にわたって居城としました。

歴代城主(主要)

  • 大須賀康高(初代築城主)
  • 大須賀忠政
  • 松平氏(能見松平氏など)
  • 井上氏
  • 本多氏
  • 西尾氏(忠成以降8代)

城郭の様式と特徴

横須賀城は、平山城に分類され、中世城郭と近世城郭、両方の特徴を併せ持つ過渡期の城とされています。最大の特徴は、何と言っても「玉石積み(たまいしづみ)」と呼ばれる石垣です。 天竜川から運ばれた丸い河原石(玉石)を積み上げたもので、その独特な形状は全国的にも珍しく、見る者を惹きつけます。この玉石積みの石垣は、復元された部分が多いものの、築城当時の面影を今に伝えています。

また、縄張りは西側から二の丸、西の丸、本丸、三の丸が一直線に並ぶ「連郭式(れんかくしき)」に近い構造をしており、東西に細長い縄張りが特徴です。通常はひとつしかない大手門が東西に二つ設けられていたことから、「両頭の城」という異名も持ちます。

本丸にはかつて4層の天守がそびえていたとされ、天守台の礎石や周囲から出土した大量の瓦がその存在を物語っています。発掘調査の結果を基に、天守台や本丸周辺の石垣、土塁などが整備されており、当時の姿を偲ぶことができます。

横須賀城の見どころ

  • 玉石積みの石垣: やはり一番の見どころは、丸い河原石が積み上げられた美しい玉石積みの石垣です。本丸を中心に随所でそのユニークな石垣を見ることができます。
  • 本丸跡と天守台: かつて天守が建っていた本丸跡は、広々とした空間が広がり、天守台の遺構を見学できます。周囲から出土した瓦の展示なども見られ、在りし日の天守を想像することができます。
  • 東西の大手門跡: 「両頭の城」の異名を持つ横須賀城の東西に位置する大手門跡も、かつての城の規模を感じさせる場所です。
  • 三日月池: 本丸の東側に位置する堀の一部で、その形状から名付けられました。玉石積みの石垣と合わせて見学すると、より一層趣があります。
  • 松尾山: 横須賀城の城域で最も高い場所であり、初期の城の中心地だったと考えられています。多聞櫓(たもんやぐら)の跡も確認されています。
  • 関連施設: 撰要寺には移築された不明門が残り、初代城主・大須賀氏の墓があります。恩高寺には横須賀城の鯱瓦と鬼瓦が、本源寺や龍眠寺には歴代城主の墓があります。
案内図
 
縄張図
 
横須賀城跡公園駐車場入口(左側二の丸跡)
 
二の丸跡
 
横須賀城跡公園駐車場入口

 

 

城郭北西側の北の丸跡
 
 
本丸への登城路
 
西の丸跡
 
本丸、天守台跡
 
 
 
 
玉石積みの石垣