山陰の旅 2024
福井県敦賀市 金ヶ崎城 攻城244(2024年5月中旬訪問)
この日は、京都府宮津市(天橋立)に宿泊なので、彦根からの途中、名だたる戦国オールスターが集合した、金ヶ崎の退き口で知られている、金ケ崎城に立ち寄り、攻城しました。織田信長最大の試練の場所であると同時に、退却のしんがりに、豊臣秀吉、明智光秀がいたとされ、この次に行く国吉城に陣を張っていた徳川家康に、危機一髪秀吉が助けられたとか、ロマンが尽きないですね。もしここで、織田軍が全滅していたら、日本の歴史はどうなっていたんでしょうね。朝倉家、浅井家が天下を取ったんでしょうか。
金ヶ崎城案内図
城郭説明
金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘に築かれ、尾根筋を細長く削平した構造の山城です。堀切や竪堀といった山城特有の防御施設がよく残っていて、国の史跡に指定されています。
城主:歴史の中で複数の勢力によって利用され、主な城主としては、以下の人物・勢力が挙げられます。
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平通盛(たいらの みちもり): 平安時代末期に、木曽義仲との戦いのために築城したと伝えられています。
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新田義貞(にった よしさだ): 南北朝時代、後醍醐天皇の皇子らを奉じて金ヶ崎城に籠城しましたが、足利方に兵糧攻めに遭い落城しました。
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甲斐氏(かいし): 南北朝時代以降、足利方が越前を平定した後、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城とも称されました。
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朝倉氏(あさくらし): 応仁の乱以降、越前を掌握した朝倉氏が支城として機能させました。元亀元年(1570年)の織田信長による越前侵攻の際に開城しています。
特徴:敦賀湾に面した岬の先端に位置しており、三方を海に囲まれた要害地形で、陸路と海路を同時に押さえることができる要衝 でした。
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南北朝時代の激戦地: 特に南北朝時代には、新田義貞が後醍醐天皇の皇子である尊良親王・恒良親王を奉じて籠城した「金ヶ崎の戦い」の舞台となりました。この戦いでは、兵糧攻めの末に尊良親王や新田義顕(義貞の嫡男)らが自害するという悲劇的な結末を迎えました。
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「金ヶ崎の退き口」: 戦国時代には、元亀元年(1570年)に織田信長が越前朝倉氏を攻めた際、浅井長政が裏切って背後から挟撃する形勢となったため、信長が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せて京へ撤退した、いわゆる「金ヶ崎の退き口」の舞台としても知られています。
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遺構: 現在も月見御殿跡(本丸)、曲輪、堀切、竪堀などの遺構が良好に残っており、国の史跡に指定されています。月見御殿跡からは敦賀湾が一望できます。
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焼米石出土: 兵糧庫跡と推定される場所からは、炭化した米が出土しており、当時の激戦の様子を物語っています。
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未発掘のロマン: 歴史的に重要な場所でありながら、地権者などの問題から未発掘の箇所も多く、今後の調査に期待が寄せられています。
城郭南側にある、金ヶ崎公園駐車場に駐車して攻城開始です。金前寺、金満宮を通り花換の小道を登って行くと、本丸跡である月見御殿跡がすぐありました。ここからの敦賀湾の景観は最高でした。帰路は、東に進み、三の木戸跡、焼米石出土跡、二の木戸跡、七曲がりと経由して、戻りました。
金ヶ崎公園駐車場
登城路
花換の小道
登城路、石垣
月見御殿跡、景観
竪堀、三の木戸跡
焼米石出土跡
二の木戸
堀切、七曲
戦国の世、日本の歴史の分岐点、戦国オールスター揃いふみ、ロマンあふれる、金ケ崎城、行ってみる価値ありです。来て良かったです。
※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。





















