静岡県静岡市 駿府城 再訪 (2025年5月中旬訪問)
百名城No62
高天神城から駿府城に向かいました。本日は、静岡市内のホテルにチェックイン後徒歩で攻城します。再訪は、発掘調査が進んでいるとの情報で決めました。明日は、大雨予想のため(実際、強雨でした)、本日中に何とかしたかったのですが、伊勢湾岸道1車線規制渋滞で、発掘現場閉門に間に合いませんでしたが。フェンス越しに見るのみでした。残念!
城郭説明
徳川家康が晩年を過ごし、「大御所政治」を行った地として名高い駿府城。残念ながら現在の姿は公園として整備されています。
駿府城の建築様式
駿府城は、堀が三重に巡らされ、その内側から本丸、二ノ丸、三ノ丸と配置された輪郭式の平城です。防御性と居住性を兼ね備えた、近世城郭の典型的な様式と言えます。
特に注目すべきは、徳川家康による「天下普請」で大修築された際の規模です。慶長年間に再建された天守は、連結式層塔型5重7階(いずれも非現存)という、当時としても非常に大規模なものでした。発掘調査では、天正期の天守台(南北37m、東西33m)に加えて、慶長期の天守台が南北68m、東西61mと、江戸城を凌ぐ日本最大級の大きさであったことが明らかになっています。これは、家康の権威を示すものとして、全国の大名が動員され、最新の技術と資材が投入された結果です。
また、現存する東御門(ひがしごもん)と巽櫓(たつみやぐら)は、寛永年間当時の姿を目指して本格的な木造で再現されており、当時の城郭建築の様子を体感することができます。
駿府城の主な城主
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徳川家康(築城主、初代城主、そして大御所として) 天正13年(1585年)に今川館跡に築城を開始。一度、豊臣秀吉の命により関東へ移封され、その間は豊臣方の武将である中村一氏が城主となりました。しかし、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた家康は、将軍職を秀忠に譲った後、慶長12年(1607年)に大御所として再び駿府城に入り、ここを拠点に政治を行いました。
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中村一氏(豊臣政権下での城主) 家康の関東移封後、豊臣秀吉の家臣として駿府城主を務めました。
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徳川頼宣(家康の十男) 家康の死後、慶長14年(1609年)に駿河・遠江50万石の藩主として駿府城主となりますが、後に紀州藩(和歌山藩)へ移封され、紀州徳川家の祖となりました。
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徳川忠長(徳川秀忠の三男、家康の孫) 寛永元年(1624年)に駿府城主となりますが、乱行が原因で蟄居を命じられ、城主不在となります。
徳川忠長以降は、駿府は幕府直轄領となり、城代が置かれるようになりました。
駿府城の主な特徴
駿府城は、徳川家康の隠居城として、また天下普請によって築かれた城として、多くの特徴を持っています。
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日本最大級の天守台:発掘調査により明らかになった慶長期の天守台は、その規模において日本最大級であり、家康の絶大な権力を象徴しています。
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三重の堀と輪郭式縄張り:堅固な防御と、本丸を中心に各曲輪が同心円状に配置された効率的な構造です。
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天下普請の痕跡:城内の石垣には、全国の大名が動員されたことを示す300を超える刻印が見つかっており、当時の土木技術や組織力を物語っています。
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再現された城郭建築:東御門と巽櫓は、当時の史料に基づいて忠実に木造で復元されており、内部には展示スペースもあります。また、坤櫓も復元されており、これらは駿府城公園のシンボルとなっています。
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紅葉山庭園:城内に整備された日本庭園で、池を中心に駿河国の4つの名勝を表現しており、四季折々の美しい景観が楽しめます。
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徳川家康公の銅像と手植えのミカン:本丸跡には家康の銅像が建立されており、また家康が植えたとされるミカンの木も残されています。
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天守台発掘調査現場:現在も発掘調査が進行中で、一般公開されています。歴史のロマンを感じられる貴重な場所です。













