エリック·バーカー「残酷すぎる成功法則」にこんな話がある。
登山中、滑落してしまい、運良く命はとりとめたが、怪我をしてしまった。キャンプ地までは距離がある。そこまで歩いていかないと死ぬ。
登山家は、キャンプ地までの道中をゲームにしようと考えた。
よし、あの地点まで○時間で行こう。クリアできるかな?
そうやって、困難を「ゲーム化」することで、無事にキャンプ地までたどり着いた。
面倒な仕事、退屈な仕事。
ただ、やるには刺激が足りない。
イヤイヤやっているとストレスがたまり、疲労も増える。
心理的に葛藤があるとき疲れる。やりたいことをやっているとき、自然に流れて、あまり疲れを感じないものだ。
仕事や家事や育児がめんどうなとき、ゲームにしてみよう。
○分でやってみる。
歌いながら、楽しくやってみる。
課題を見つけ、クリアできるか挑戦してみる。
ただ、やるときとは何かが変わる。
人間には心がある。
心を敵にすると厄介だけど、味方にしたとき、成功が近づく。
藤田和日郎先生の「うしおととら」にこんなセリフがある。
「満足する死とは?」
それに対する真由子という女の子の答えは…
「泥なんてなんだい!よ」
泥をかぶるのはイヤなことだ。でも、それが誰かのためなら、泥なんてなんだい。
自分が汚くなっても、それで助かる人がいるなら、泥をかぶろう。
自分の命を失うことになっても、それで助かる人がいるなら、命を捨てよう。
それが…満足する死ではないか?
メメントモリは、死を思え。
死に面するとき、自分のこれまでの人生を振り返る。
満足できる人はいるのだろうか。
ほとんどの人は、後悔や未練や不満足な思いを駆り立てられるだろう。
満足する死は、それほど難しいものだ。
人のために生きることは美しい。
それは、そうすることが、難しいとわかっているから、そうするべきだとわかっていても、できない。
仕事で、お客さんのため、精一杯がんばる。
家族のため、身を尽くして働く。
自分のやりたいことをやりながら、それが誰かを喜ばすことにもなっている。
生きるのは、死ぬためだ。
どんな思いで死を迎えるか、そのときのために生きている。
メメントモリ。
死を思いながら、生きることを考える。

仕事でミスをしたら、注意される。
優しい注意ならいいけど、きつい注意をする人もいる。
そういう人をきらう。イヤだと思う。
注意されるのがイヤで、気をつけて仕事をするようになる。
やがて、ミスが減り、しっかり仕事ができるようになる。
優しい人は、注意しても優しい。
ミスのカバーもしてくれるかもしれない。
そうすると、甘えが出てくる。
そして、いつまでたっても、仕事が向上しない。
きつい人は、イヤだけど、その人のおかげで、自分が成長するということがある。
その人に負けなければ。
嫌な人に、嫌なことを言われた。
嫌だなと思う出来事。
敵は、その相手ではない。
敵は、ここ(脳)に居る。
変なことを言うと、脳に敵がいて、不満、愚痴、怒り、恨み、嫉妬という負のエネルギーを吸収して喜んでいる。
敵を太らせるために、負の感情が巻き起こる。
それを消すためには、有難うと思うこと。
感謝ではない。
礼儀やマナーとしての有難うではなく、言霊を発動させる呪文としての有難う。
有難い=めったになく素晴らしいこと
それで敵は衰退する。
でも、敵を倒すことが目的でなくて、相手への肯定が根底にある。
野生動物を馴らしてペットにする感じ。
負の感情を食べて喜ぶ敵を「有難う」で飼い慣らす。
敵と仲良くなれば、日常で奇跡が起きるかも。お試しください。
藤本タツキ「ルックバック」を読んだ。
創作の孤独から生み出される作品。
揺れる繊細な心に振り回されながら、淡々と作品を生み出す難しさ。
友の存在。
不意に訪れる……
創作に携わる人に刺さる作品。
セリフがなくても、描写だけで語る筆力の凄さを感じた。
才能は儚い。
手塚治虫だって、どれほどの苦悩と迷いから作品を生み出しただろうかと思う。
普通なことは、実は安全なことで、安定している。
みんなから突出した才能を発揮させることは、不安定の中から綱渡りのように作品を結晶させる繊細な作業だ。
うつにもなるそうにもなる。
揺れる心に翻弄されながら、孤独を肥やしとして、作品を輝かせる。
尖った才能は嫉妬の対象にもなる。
悲劇も起きる。
それでも、作品を世に生み出したいという熱のある人がプロになっていく。
才能は儚い。
それは天から与えられたギフトと試練。