医療の限界 (新潮新書)/小松 秀樹
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日本人の死生観が変容したように思います。

あるいは、日本人が死生観といえるような考えを失ったのかもしれません。

これが、医療をめぐる争いごとに影響を与えています。


(中略)


現代では、日本人が死を眼前にすることはめったになくなりました。

家庭で死を看取ることが少なくなっています。

死にゆく家族の世話を病院に委ねてしまうのが普通になりました。


しかも、日本人の少なからざる部分が、

生命は何より尊いものであり、

死や障害はあってはならないことだと信じています。


一見、筋が通っているようですが、

そのために死や障害が不可避なものであっても、

自分で引き受けられず誰かのせいにしたがる


私は、あえてそれを「甘え」と呼びます。


しかし、メディアや司法はそれを正当なものとみなし、

ときに十分な責任を果たしている医師を攻撃するのです。


(引用 以上)




死にたくない、

生きたいという思いが、

現実を直視すること無しに、

暴走してしまっているのかもしれません。


医療崩壊の原因は、

死生観、人生観に根差したところにあるとするならば、

制度云々では、なかなか解決は難しいのではないでしょうか。


国民一人一人が、

自分の生と死とを見つめなおすことが大切のように思います。


もっとそういうことを、

学校で教えてくれればいいと思うのですが。


死生観という言葉、最近はよく聞くことはありますが・・・。



医の本質と構造
 -医にたずさわる人々に-


高山坦三 著 (札幌医科大学名誉教授), 1977



Ⅱ.病気を診断するとはどういうことであるか


 1.問診 - 前歴


 病人はある訴えをもって医師のもとにくる。

かれは自分の病苦について語る。

医師はこれを聴いて、質問する。

対話がふたりのあいだではじまる。

対話によって医師と患者という関係が始まる。


診察室が英語では Consulting Room,

独逸語で Sprechzimmer といわれるのは故なきに非ずである。

多くのばあい両者はもともとは未知の人間達であった。

がしかし今からのちは、

かれらは一つの道程を一緒に進まねばならない

--医師は教導者として、患者は教導される者として。


患者は医師を信頼し切っている

かれは自己の羞恥心を克服し、

肉体的にも精神的にも赤裸々になる心になっている。

母や妻のような最も身近な者たちにも打ち明けない秘密をも、

かれは医師に告白する。

医師は当然全力を持ってその信頼にこたえるであろう


患者ははじめから、

自分は間違いない医師の門を叩いたのである、

医師は自分をよく理解してくれる、

自分のための時間を割いてくれるのである、

自分の苦悩に真から関心をもってくれている、

という気持ちでいる。


そして医師もまた、患者によく理解してもらおうと努力する

--知識人には知識人に通用する言葉で、

   教養少ない人にはそれなりに 理解できるように、

   場合によっては、理解を助けるために方言を交えてさえも、そうする。


 患者はおしなべて、むしろよくしゃべる。

それはこれまでは自分がただ独りで、その疾病について不安の重荷を負っていたが、

今ではその道の専門家に

自分の苦悩を語り、不安を打ち明けることが、

心の解放となり、

心の慰めとなるからである。


今では病気については自分より強い人がそこにいて、助けてくれる

今では、その人が自分について考えてくれ、危険な症状か心配のない症候かを判断してくれる

自分はただその指示に従っていればよいのである、と考える。



(引用、以上)



1977年の本ということもあり、

インフォームドコンセントとは反するかもしれませんが、
患者さんの心理を表す文章としては、とても勉強になると思います。


インフォームドコンセントは、これを踏まえた上で試みることであり、

上記の文章と対立するものではないとも思います。


患者さんに安心してもらうためであり、

医師が責任を逃れるためにあるものではないのは、

言うまでもありませんが、

自戒すべきことではあります。


■ 人はいつか死ぬものだから  ■

~ これからの終末期ケアをかんがえる ~
 Final Exam : A Surgeon's Reflections on Mortality



(つづき)



 医師であろうとなかろうと、

死を免れ得ない自己と対峙することは、

人間にとってとりわけ厳しい試練となる。


「誰もが無意識においては、自分が死ぬことを信じていない」


とフロイトは述べる。


日々の仕事に邁進しながら、

自分の命を限りあるものとして語るのは、たいへん難しい。


それでも、私たちの患者(と愛する人たち)に良き死をもたらす為には、

命の有限性について語り合うしかない。


たとえ、それぞれが心の中では分かっていたとしても、

それを口に出して語り合わなければ意味はない。



フロイトは次のように続ける。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ここでわたしは古い格言を思い出す。


「平和を保とうとすれば、戦に備えよ」

 しかしここでのこの格言を修正するのは時宜に適ったことだろう。


「生に耐えようとすれば、死に備えよ」と。



  フロイト『人はなぜ戦争をするのか』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 死に備えることが、

人生においてとりわけ過酷な試練であったとしても、

それをかいくぐってこそ、

私たちは存分に人生をまっとうできるのではないだろうか。



(以上)




「Memento Mori」(死を想え)


に通ずるところがあります。


本当の意味で、「生きる」とはどういうことなのか、

今の自分は、そうできているのだろうか。


自問自答するところから始めたいと思います。



人はいつか死ぬものだから/ポーリーン・W・チェン

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 ~ これからの終末期ケアをかんがえる ~
 Final Exam : A Surgeon's Reflections on Mortality


著者 

ポーリーン・W・チェン (チェン,P・W)


ハーバード大学、ノースウェスタン大学にて学び、

イェール大学、国立癌研究所、UCLAなどで外科医としての研鑽を積む。

1999年にはUCLの年間優秀外科医の一人に選ばれている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~


二十年前、医学校を志願した時の私は、

人命を救うという自分の未来に疑いを抱いていなかった。


心に描く医師のヒーローさながらに患者に迫る死と戦って勝利する

そんな人生を夢見ていた。


一命をとりとめ元気になった患者たちが笑みを浮かべて私の診察室を訪ね、

私を抱擁し、感謝を込めて背中を叩くだろうと。


そのころのわたしは、この仕事に就くと、

どれほど多くの死と出会うことになるかを、およそ考えていなかった。


 若者達は、病を治す力に憧れて、医療の道を志す。

最初から終末期ケアを専門にしたいと夢見るような学生はごくまれだろう。


しかし九割以上の人々が何らかの病を患った後に命を落とすこの社会で、

医師は患者の人生の最後を見守る番人

末期患者とその家族の道案内という役割も担っている。


そして多くの患者とその家族が、人生の終わりを安らかに過ごすことを望み、

それに対する支援を医師に期待している


つまり、終末期にある患者をケアすることは、

患者に対する最後の診療(Final Exam)であると同時に、

私たち医師にとっての最終試験(Final Exam)でもある。


 しかし残念ながら、この役割を十全に果たせる医師はわずかしかいない。


(以上)


~~~~~~~~~~~~~~~~~

終末期ケアに携わる人だけでなく、

そしてまた、医療従事者だけでなく、

どんな人にも降りかかる「Final exam」。


決して、他人事と思っていてはならない問題だと思います。


すべての医学生に贈られた言葉だと思います。

実際、授業で紹介されていました。




2002年4月16日 朝日新聞
前金沢大学病院長 河崎一夫先生




医学生へ 医学を選んだ君に問う


 医師を目指す君にまず問う.

 高校時代にどの教科が好きだったか?

物理学に魅せられたかもしれない,

英語が得意だったかもしれない.

しかし医学が大好きだったことはありえない

日本国中で医学を教える高校はないからだ.

 高校時代に物理学または英語が大好きだったら,

なぜ理学部物理学科や文学部英文学科に進学しなかったのか?

物理学に魅せられたのなら,物理学科での授業は面白いに違いない.

 君自身が医学を好みか嫌いかを度外視して,

医学を専攻した事実を受容せねばならない.

結論を急ぐ.

授業が面白くないと言って,授業をサボることは許されない.

医学が君にとって面白いか否か全く分からないのに,

別の理由(動機)で医学を選んだのは君自身の責任である




 次に君に問う.

 人前で堂々と医学を選んだ理由を言えるか?
万一 「将来,経済的社会的に恵まれそう」 以外の本音の理由が想起できないなら,

君はダンテの「神曲」を読破せねばならない.

それが出来ないなら早々に転学すべきである.




 さらに問う.

 奉仕と犠牲の精神はあるか?

医師の仕事はテレビドラマのような格好いいものではない.

重症患者のため連夜の泊まり込み,

急患のため休日の予定の突然の取り消しなど日常茶飯事だ.

死に至る病に泣く患者の心に君は添えるか?

 君に強く求める.

医師の知識不足は許されない.

知識不足のまま医師になると,罪の無い患者を死なす.

知らない病名の診断は不可能だ.

知らない治療をできるはずがない.

そして自責の念がないままに

「あらゆる手を尽くしましたが,残念でした」と言って恥じない.

 こんな医師になりたくないなら,

「よく学び,よく遊び」は許されない.

医学生は「よく学び,よく学び」しかないと覚悟せねばならない.

 医師国家試験の不合格者はどの医学校にもいる.

全員が合格してもおかしくない医師国家試験に1,2割が落ちるのは,

医師という職業の重い責任の認識の欠落による.

君自身や君の最愛の人が重病に陥った時に,

勉強不足の医師にその命を任せられるか?

医師には知らざるは許されない.

医師になることは,身震いするほど怖いことだ.



 最後に君に問う.

 医師の歓びは二つある.

その1は自分の医療によって健康を回復した患者の歓びが、すなわち医師の歓びである.

その2は世のため人のために役立つ医学的発見の歓びである.

 今後君が懸命に心技の修養に努め,

仏のごとき慈悲心と神のごとき技を兼備する立派な医師に成長したとしよう.

君の神技の恩恵を受けうる患者は何人に達するか?

1人の診療に10分の時間を掛けるとしよう.

1日10時間,1年300日,一生50年間働くとすれば

延べ90万人の患者を診られる.

多いと思うかもしれない.

だが日本の人口の1%未満,世界の人口の中では無視し得るほど少ない.
 
 インスリン発見前には糖尿病昏睡の患者を前にして医師たちは為すすべがなかった.

しかしバンチングとベストがインスリンを発見して以来,

インスリンは彼らが診たことがない世界中の何億人もの糖尿病患者を救い,

今後も救い続ける.

 その1の歓びは医師として当然の心構えである.

これのみで満足せず,その2の歓びもぜひ体験したいという強い意志を培って欲しい.

心の真の平安をもたらすのは,

富でも名声でも地位でもなく,

人のため世のために役立つ何事かを成し遂げたと思える時なのだ.


BLACK・JACK (手塚治虫)


天才外科医の痛快な医療漫画を、久しぶりに読んだ。


患者ひとりひとりの人生に向き合いながら、生命の尊厳を問うているように思えた。


法外な治療費を請求するブラックジャック。

医師免許を持っていないことと相まって、

悪徳医師っぷりを存分に発揮する姿もまた、爽快だが、

そこにこそ、彼の信念が垣間見える。





「治る見込みは少ない。90%生命の保証はない。

 だがもし助かったら3000万円頂くが」


「さ、3000万円?」


「あなたに払えますかね?」


「い いいですとも!

 一生かかってもどんなことをしても払います!

 きっと払いますとも!」


それを聞きたかった





「無免許の医師なんかにまかせられますか!!

 ひきわたしてくださいっ」


「ただじゃひきわたされませんぜ」


「なんだって!!ゴネる気か!?」


「一千万円でゆずりましょう」


「-おどす気かっ け 警察を呼ぶぞ!!」


「いやならいやでいいんだ。

 それなら私が手術をしようといってるんだ。
 私なら母親の値段は百億円付けたって安いもんだがね。





ブラックジャックが聞いているのは、

お金を払うかどうか、それ自体ではなく、この問いを通して、

「命の価値」をどう思っているのか?

ということではないか。


中には、家族の命がかかっていても、お金のほうが大事だと言わんばかりに渋る人もいる。


また、治療が終わってから、そんな大金を要求するのは犯罪だと、恩を仇で返す者もいる。



お金は誰にとっても大事なものだ。


生きていくためには。


なればこそ、時に、

お金が生きることよりも重視されるという、本末転倒の、

欲に目がくらんだ、人間の迷った姿が浮き彫りになることもある。


他人の命、他人の子供の危機でさえ、

財欲、名誉欲などの、損得勘定が優先されてしまう。


「自分の」大切な人、あるいは「自分自身」が追いつめられるまでは、

この利害打算で生きていることを教えてくれる。


・生命の尊厳

・命を大切にしよう

・たった一つのいのちだから


など、言葉は綺麗だが、

中身が空っぽの、虚しい響きしかないことを気づかせてくれる。



・命に直結するものと知りつつも、募金を渋ったりケチったり、


・自分の健康に関わるとわかっていても、お菓子を我慢できなかったり、


・医学部の授業で教わることは、患者の命に関わることとは思いつつも、

 寝坊して遅刻したり、居眠りしてしまったり。。。



本来、命の重さは、何かと比べられるようなものではないはず。

比較すること自体、生命の価値を貶めるようなものだ。


「priceless」 とは、まさにこのことだろう。



しかし、我々は、何かと比べないとわからない。

残念なことに。

比べてはじめて、その重さに気づく。

失いかけてようやく、そのかけがえなさを思い知る。

亡くしてから後悔しても遅いのだ。


私たちは、ものごとの価値を何でもお金で計る。


 「私なら母親の値段は百億円付けたって安いもんだがね


ブラックジャックは、もっとも大切なものは何かを、

皆に気づいてほしいのではないだろうか。




最も大切なことに気づけないまま時を過ごし、

失ってから後悔するほどの、悲劇はない。


ただ命を延ばせばそれで幸せではないことは、

安楽死問題や、自殺の悲劇がそれを物語っている。


生きるのは幸せとは何かを知り、

その幸せになるためだ。



幸せとは、

価値あるものの価値を知り、

喜ぶべきことを喜ぶことだ。



尊厳ある生命を重んじ、

「生きてきて本当によかった!」

命あることに心から感謝できる人生を送ることをサポートすることが、

医学の役割であり、医師の使命だ。




「ブラック・ジャックは


 医療技術の紹介のために描いたのではなく、


 医師は患者の延命を行なうことが使命なのか、


 患者を延命させることでその患者を幸福にできるのか


 などという医師のジレンマを描いた」


             手塚治虫   (wikipediaより)



「知らなくてはならないことを、


知らないで過ごしてしまうような、


勇気のない人間になりたくない。」



(灰谷健次郎)



医者も患者も、医学生も、

それぞれの立場である前に、一人の人間。


人間として大切なことは何なのか、

それに向き合わずして、


この立場の違いを超えた、

本当の信頼も生まれないだろうし、

真の医療も施せないのではないかと思います。



恐れを知らずに突き進む蛮勇ではなく、

恐れを知って、しかもそれを恐れない勇気をもちたいです。


【医は仁術なり】 3



優しい医療者になるためには、何を学ぶべきか。


優しさとは、「人の憂いに敏感なこと」という太宰の言葉 から、引き続き考えてみたいと思います。



優しくなるためには、「自分も傷ついた経験が必要」という考え方もあるかと思います。


手術の不安は、手術を経験したことがない人にはわからないでしょうし、

病気や怪我で、体の一部を失うことになってしまった方の苦しみ、

余命わずかと宣告された方の苦悩、

遺族の悲しみ、

などは、共感することはできないのかもしれません。



ですが、そんなことを言っていたら、何も始まりません。


大切なのは、具体的な何かを経験することそのものよりも、

「憂い」という、心、気持ち、本質を掘り下げることだと思います。


具体からその本質を抽象し、自分のこととして想像してみる。

これは、誰にでも出来ます。

病気になった経験がなくても。

考えてみようという、その気があれば。


手術の不安なら、

「本当に成功するだろうか」

「大丈夫とは言われたけど、万が一ってことも」

など、不確定な未来に対する不安です。

まさに「一寸先は闇」という状況です。

こういう心は、程度の差こそあれ、だれにでもあります。


大事な試験のとき、

人前で何か発表する機会のとき、

就職活動のとき、

彼女(彼氏)に告白するとき、などなど。


「そんなのと一緒にしていいんかい」

という気がしなくもないですが、

こういうときの「気持ち」を掘り下げることが大事だと思うのです。


もちろん、手術前の患者さんに対して、

「自分も試験前は不安でしたけど・・」なんて口が裂けてもいえませんが、

患者さんの気持ちを察する努力の手がかりの一つしては、

こういう考え方もあるんじゃないかと思います。


不安なときは、誰にもあります。


どんなときかは、人それぞれ違います。

それこそ全く同じ経験なんて出来ません。

そんな経験はしたことがないから、と言い訳して、相手に歩み寄る努力を怠るのは、

優しさの対極にある、まさに遠仁の心 でしょう。



同じ経験は出来なくても、

「本当に大丈夫だろうか」、と心配な気持ち、

「自分は、これからどうなっちゃうんだろう」、という不安な思いに、

寄り添う勇気をもつ支えとすることはできると思うのです。


また、

「自分にもそういう不安なときはあった。辛いよなぁ。。。」と思えることが、

患者さんの傍に行く、話を親身になって聞こうという思いを後押しする気がします。


「患者さんが苦しんでいるのはわかるけれど、自分にはその気持ちはわからない。」

と思ってしまうと、正体不明の恐怖に耐えられず、

自分自身が不安になってしまって、

話を聞いたり、近づくこともできなくなってしまうのではないでしょうか。


何を考えているのか分からないクラスメイトや知人、近所の人とかには、

近づきにくいのと似てるような気がします。



優しくあるためには、人の憂い、悲しみ、苦悩を知る努力が必要です。

そのためには、自分の心を見つめなおすことが、第一歩であり、大いなる力となると思っています。



♪ 涙の数だけ強くなれるよ 


               岡本真夜 「Tomorrow」


と歌われたりもしますが、

自分を見つめていくことで、

涙の数より、強くなれるはずです。


また、医療従事者たるもの、強くならなければならないと思います。



また、ただ自分だけで考えるのではなく、

先人の智恵に学ぶことが大切でしょう。

歴史に学ぶことが。


歴史とは、人間の歴史。

同じようなことを考え、悩み抜き、生み出された数々の箴言。

歴史の重みに耐えてきた言葉は、現代の私たちにも通ずるところは多いのです。



「汝自身を知れ」 ソクラテス


自分自身を知るとは、人間を知ることであり、

それは、「自己に厳しく、相手にはやさしく、そして自己を確立せよ」

とあたたかな眼差しで21世紀を見つめ続ける、司馬遼太郎の願い にも通ずるところがあるように思います。





【医は仁術なり】2


仁術とは如何なるものか。


仁術とは、「優しさ」であるとして、前回に続いて考えてみます。



「優しい人」の反対として、

冷たい人、人の心を持たないんじゃないかしら、と思うような人を、

「鬼のような人」と言われたりします。


」は、「遠仁(オニ)」が、語源(音標された字)だと言われます。


文字通り「仁から遠い」。

優しくない、優しさから縁遠い人が、「遠仁」です。



鬼のイメージは、おとぎ話などにでてくる、

青鬼、赤鬼、黒鬼などの、

角や牙を生やして、虎のふんどしを履いて、金棒を振り回している地獄の獄卒

って感じですが、

地獄というどこか、人里離れたところにいるのではなく、

本来の意味から言えば、人の心に棲むもののようです。


地獄は、自業苦(ジゴク)とも書くそうで、

自分の業(やったこと、思ったこと)が生み出す苦しみ、を言うそうです。



では、遠仁とは、どんな心をいうのでしょうか。


相手の立場に立ち、人の憂いに敏感であることが優しさならば、

逆に、

自分のことしか考えられず、

我が身の保身のためならば、周りの迷惑も顧みない

自己中心的な心。


自分のことでいっぱいいっぱいになっている時の自分を思い出すと、反省せずにおれません。




♪ 弱音さらしたり グチをこぼしたり

   他人の傷みを 見て見ないふりをして 


       Mr.Children 「Everything ~It's you~」


「自分だって大変なんだ」

「私のほうこそ、助けてほしい」

など、それぞれが悩みを抱えてはいるわけですが、


それが時に、そして人知れず、無自覚なまま

誰かの苦しみに気付きつつも、

「手を貸してやりたいのは山々だけど・・」

「いま忙しいから・・」

と、自分に言い訳をして

見て見ぬふりをして

本当はもっと大変な人をも、更なる孤独に追いやっているのかもしれません。


そういえば、医療の現場は、鬼のように忙しいと言われることも・・・。

遠仁の心は、

人間だれしもが抱いてしまうことはあると思いますので、

こういう心を持っていることが悪いとか、酷いとか、

そういう議論がしたいのではなくて、


そんな自分の心に気づくことで、

「これではいけない」と反省できる謙虚さと強さが、

優しい、患者さんの立場に立って医療につながるのではないかと思います。



【医は仁術なり】


よく言われる言葉ですが、「仁術」という意味がいまひとつピンとこないので、

調べて、考えてみました。


「真心」 「情け深さ」 「慈しみ」

「思いやり」 「やさしさ」 などの意味でしょうか。


患者さんの立場に立つ、

苦しみに向き合う、

「病気を診るのではなく、病人を診よ」

など、いろいろな表現で言われます。



このことについても、いろいろな角度から学んでいければと思います。


今回は、太宰治の言葉から学びたいと思います。




『私は「」といふ字を考へます。


これは優れるといふ字で、

優良可なんていふし、


優勝なんていふけど、


でも、もう一つ 読み方があるでせう?


優しいとも読みます。

さうして、この字をよく見ると、


偏に、ふると書いてゐます。

人を憂へる、人の淋しさ侘しさつらさに敏感な事、

これが優しさであり、また人間として一番優れてゐる事ぢやないかしら。』


   太宰治 (河盛好蔵にあてた手紙)




優しいという言葉は、


相手を傷つけない

気が利く


などの意味で使うことが多いような気がしますが、

これは何んとなく、消極的な意味合いが強い気がします。


相手のためを思って、敢えて距離を置くような、そんな優しさもあります。


けれども、太宰のいう優しさは、

もっと積極的な、そして勇気のいる優しさに感じます。


医療の現場で求められる優しさ、

それは、「患者さんの意見を尊重する」、という言葉を盾にして距離をおいてしまう優しさだけでなく、

病める人の心に寄り添い、人の憂いに向き合う強さを伴った優しさではないかと思うのです。


誰だって、他人の苦しみに近づきたくはありません。

自分も、居たたまれなくなってしまうから。

不安や悲しみは、周りに伝わってしまうといわれます。


そしてまた、病気で苦しむ人の憂いは、健常な人には分かりにくいものでしょう。

余命わずかと宣告された方の心境を、想像することはできないことかもしれません。


しかし、分からない、想像できないのは、

「できない」のではなくて、「したくない」だけなのかもしれません。


「自分が同じような立場になったとしたら」、なんて、

想像するのもつらい、と思っているから、

そもそも考えようともしていないのかもしれません。


そうだとしたら、

目の前で、独り苦しみに耐える患者さんの憂いを、

見て見ぬふりをしているんじゃないかと思うことがあります。


誰もが、何かを失った経験、以前はできていたけれどもできなくなってしまったことはあるはずです。

そして何より、すべての人が、限られた命を抱えて生きているのは同じです。

いまは健康な人も、病気の人も。


一人ひとりが、

生きることのせつなさや、

時折感じるむなしさ、悲しみから目をそらさずに、

よく考えてみることが、大切な気がします。


いたずらに暗く沈み、ネガティブになるのではなく、

本当の意味での笑顔になれるために。


そうすれば、

誰にも本心を分かってもらえず、寄り添ってもらえずに、独りで堪え忍び続ける、

そんな患者さんの寂しさに、優しさを持って接することができるのではないかと思うのです。


医療従事者が、(医学の知識や技術だけでなく)

「人の憂い」を学ぶことの意義は、大きいと思います。