二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)/司馬 遼太郎 (しば りょうたろう)
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君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

――自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。


   そして、すなおでかしこい自己を。 

21世紀においては、特にそのことが重要である。


21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。

科学・技術が、洪水のように人間をのみこんでしまってはならない。


川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、

よい方向に持っていってほしいのである。


(中略)


 鎌倉時代の武士たちは

「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。
人間は、いつの時代でも

たのもしい人格をもたねばならない。
人間というのは、男女とも、

たのもしくない人格に魅力を感じないのである。



もう一度くり返そう。


さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。
いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。


そして、“たのもしい君たち“になっていくのである。


以上のことは、

いつの時代になっても、

人間が生きていくうえで、

欠かすことができない心がまえというものである。



君たち。


君たちはつねに晴れあがった空のように

たかだかとした心を持たねばならない。 


同時に、ずっしりとたくましい足どりで、

大地をふみしめつつ歩かねばならない。 


私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、

以上のことを書いた。 

書き終わって、君たちの未来が、

真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。



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何べん読んでも、キュッと気持が引き締まります。



 近代科学は、心と体を明確に切断し
また現象を観察するものと観察される対象とに明確に切断する

この方法によって、観察された現象に関する普遍的な法則を見出し、
それを利用して対象を自分の望むように操作することが出来る。

そして、その結果が非常によく信頼できるので、
近代人は科学の進歩によって人間の望みが全て解決されたり、
人間の悩みがどんどん減少していったりする誤解するほどになった

 しかし現状を見ると事態はそうはなっていない。
科学の進歩によって、人間の悩みはますます多く、深くなってきているとさえ言える。

医療の領域にのみ限ってみても、問題は幾らでもある。

平均寿命が長くなるのは良いが、
多くの老人がいかに生きるか、そして、
いかに死ぬかの問題に悩んでいる。

近代医学は人間を延命させることに力を発揮するが、
延命された老人がいかに生きるかとか、
人間が死期を告げられたときそれをどう受け止めるか
いかに死ぬかなどの問題に対しては無力なのである。


 これは当然である。

近代科学は「私」という存在と現象を切り離して研究してきたのだが、
前述した問題は全て「私」という一人称にとっての問題である。

何も出来なくたった「私」は生きていていいのか。
「私の死とは何か」などのことは、近代科学の対象外のことである。
しかし、これらのことを不問にして「医療」は成立するだろうか

 医学の発展によって、身体や病気に関する知識が増え、検査の方法も精密になったので、
患者の病気によって、その死期を大体予想できるようになった。
癌で、あと三ヶ月ほどの命であることを患者に告げる。
このことは医学的に可能である。

しかし、それをその患者がどう受け止めるかについては医学は無関係である。
近代医学の性格からして、そんな事は関係のないことだから、
告知だけして後は宗教家にまかせることにする、というのも一つの考えである。


 しかし、その患者に対して医療関係者は常に接していかねばならない。
われわれは「無関係です」と言って接することが、
医療に携わるものとして当然のことと考えられるだろうか。

これからの日本」河合隼雄(潮出版社)



科学の進歩によって浮き彫りになっている問題ともいえるが、
「いかに生き、いかに死ぬか」という問題は、
何も最近になって登場したものではない。

人類の歴史とともにある課題である。

かといって、哲学や宗教を学ぶのも大変そうだが、
かつて、医学、哲学、宗教は、一つのものだった時代があった。

それは、本来一つの問題だからと言えなくもないからだろう。

死生観、人間学、生命観などが最近よく話題になるようになった。

避けては通れない問題ならばこそ、
医学生のうちに、これらについて少しでも学んでおきたいと思う。
医聖といえば、「ヒポクラテス」である。
「ヒポクラテスの誓い(The Oath of Hippocrates)」は、今も語り継がれている。

ヒポクラテスの時代は、病気の原因は恐らくほとんど分からず、
現代から見れば、医療らしい医療はできなかっただろう。

事実、ヒポクラテス医学は「楽天的な思想」といわれる。
「病気は身体を作る成分である体液の乱れからおこる。
 『体は、体液の乱れを正常にしようとする。
  それは内なる熱の働きであり、誤って混和した、あるいは生の体液をそれが調理する。』
 こうヒポクラテスは考えた」(医学の歴史


そして、全身、局所を問わず、発熱から化膿まで、すべてを治療効果のある過程とみた。
「自然治癒」にチャンスを与えることが医師の仕事としたそうである。


「ヒポクラテスにとって病気は単数diseaseだ。かれが扱った病人は、「急性病」が多かったが、
 それをかれは、つねに全身病として捉えていた。
 症例は違ってもそこには共通の病歴、共通する分利(熱が急に下がること)と予後(病後の経過)がある。
 その「病人」に対する一般病理学は「病名のない病理学」であった。

「たしかにヒポクラテス派は病名を知らなかった。
 しかし、そのために、かえって病名を越え、病む人そのものに肉薄することができた。
 それが「一般病理学」の精神として、長く引き継がれ、医学史の根底を流れ、伝えられてきたのである。(医学の歴史


科学とともに、医学発展が進み、ますます細分化され、専門性が深くなっている。
同時に、病める人の心が置き去りにされ、
病気・肉体だけが診断されるようになっているのではないかという批判は、少なくない。

医学が進展すること自体は素晴らしいことだ。
そして、医学技術の進歩と、人の心を大切にすることは、両立できるはずである。

医学の本来の目的を見失うことがなければ・・・。
学校では、必ずといっていいほど歴史を学ぶが、
医学部では、医学の歴史を学ぶ機会はほとんどない。

歴史に学ぶことは多いはずだ。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」(ビスマルク)

歴史を学ぶことは、医学生にとっては、とりわけ大切だと思う。

それは、医学の歴史は、「素人から、現代の医学」への道のりだからである。

昔は、医者(medicine man)といえば、まじない師や魔法使いと同じだったと言われる。
病気は、悪魔の呪いや、神のたたりなどと思われていたのである。

これはいずれも、病気の正体が分からなかったためである。
要するに、医学に関する知識・知恵が足りず、それでも何とか病の苦しみを取り除きたい、
という人類の涙ぐましい努力の結晶であるといえると思う。

それがまた、宗教を生んだ、とも言えよう。

医学の進歩発展は目覚しいが、進歩しているなればこそ、
ただの学生が、プロの医師へと成長していく過程は、
人類が医学を発展させてきた道を辿ることに準(なぞら)えることは、決して無意味ではないと思う。


二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)/司馬 遼太郎 (しば りょうたろう)

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 世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
 ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
 緒方洪庵のことである。
 この人は、江戸末期に生まれた。
 医者であった。
 かれは、名を求めず、利を求めなかった。
 あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。
 そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
 といって、洪庵は変人ではなかった。
 どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
 病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。

(中略)

 洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。

 その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。

 医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。
 決して有名になろうと思うな。
 また利益を追おうとするな。
 ただただ自分をすてよ。
 そして人を救うことだけを考えよ。


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このような言葉に触れることで、心が正される思いがする。
心の姿勢が変われば、言動も変わる。
人間が変わらなければ、医療界は変わらない。

いかに、素晴らしい言葉に出会えるか。
一人でも多くの医学生に、こういう言葉を紹介していきたいし、
知ってもらいたい。
そして、それらの期待に応えるお医者さんになりたい。

「いい医者」とは、どんな医者か。

学生時代にこそ、こういうことをもっと学ぶべきだと思う。


「朝にして食わざれば、即ち昼にして飢え、
 少にして学ばざれば、即ち壮にして惑う。
 飢うる者は、なお忍ぶべし。
 惑うものは、奈何ともすべからず。」


(言志四録)

朝食をとらなければ、昼には空腹を感ずるようになる。
同じように、少年(学生)時代に勉強しないと、壮年(医者)になって判断に惑うことになる。
空腹は我慢できるが、智恵がなくて判断に惑うのは、いかんともしがたい。



「そんなのは、医者になってみないと分からない。」
と言ってしまえば、それで終わる。


「現場に出れば、いやでも考える」のだろうが、
『学生のうちに』学ぶことのできることも多いはずだ。


鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクは、
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
と言った。

「経験しないと分かるものでないっしょ」
と言い張る人は、
今はそんなことを考えるよりも、遊びたいだけなのであろう。




 医学部というところは、将来、医師あるいは医学者になることを目指しているものを教育し、これからの医療の担い手を育てる、教育機関としての大きな役割をもっていることは言うまでもないことである。そして、教育においてことに高等教育においては、学習者の自覚的な目的意識に基づいて進められることが重要であるということを考えると、医学部がそのような場であるということが、当然、そこで学ぶ主体者である学生に実感されているべきえある。
 しかし、現状はどうであろうか?医学生は、本当に、「良い医師になりたい」と実感し、その気持ちを十分に生かしながら学んでいくことができているだろうか?

(中略)

 新入生のころ

 四月に入り、今年もまた、全国の医学部・医科大学で、約8000名が新しく医学生の仲間に加わった。私の母校である宮崎医科大学でも、入学式、オリエンテーションなど、大学、学生それぞれの用意した新入生歓迎行事も一段落つき、講義が始まっている。
 今年、宮崎医大で行われる全国医学生ゼミナールの準備を進めている現地実行委員会では、2月終わりに行われた入学試験で、その宣伝も兼ねて受験生からアンケートを集めた。大学に入ってからどんなことがしたいか、医学や医療、そして、広く社会のことについてどんあ関心があるか、ということについて受験生からの答えが返ってきた。大学に入ったら先ず、

「勉強したい」
「医学だけでなく様々なことを学びたい」
「正規以外の自由な研究」
「部活」
「友人を作りたい」など。

医学・医療の中で関心のあるテーマとしては
「脳死」
「尊厳死」
「AIDS」
「がんの治療法」
「地域医療」
「救急医療」
「小児医学」
「プライマリケア」
「精神医学」
「東洋医学」
「老人医療」
「心身医学」
「終末期医療」など、積極的な答えが返ってきた。

 近年、社会の医学・医療に対するニーズはますます複雑で高度なものになっており
国民の医学・医療に対する要求と関心は高まってきている。新聞に医学・医療関係の記事が載らない日はない。このような医学・医療の流れに対して自分がどのように関わっていくことになるのかを考える機会をもっており、医学・医療を学ぶ動機付けはより強くなってきているといえよう。このような中で、今年新入生から実際に聞かれた言葉はまさに、「『良い医者になりたい』というのは、みんな一致した目的」だ、というものだった。新入生にとってはごく当たり前な言葉かもしれないが、この言葉が私にはどれほど新鮮なものに聞こえたことか・・・。


 入学後、どのような気持ちの変化を辿るか?

 しかし、入学してきた後、このような気持ちを十分にいかして、大学生活を送っているかどうかを自分の経験も含めて見直してみると疑わしいものである。
 もちろん、「よい医師・医学者になりたい」という目標を自覚してがんばっている学生もいることだろう。しかし、大多数の学生の気持ちを代弁するとしたら、どうなるだろうか?
 現在の学生の気分、感情を知るための材料として参考にして頂きたいものがある。全国の医学部・医科大学の学生自治会が集まって作っている連合組織、全日本医学生自治会連合(医学連)は、今年三月、第10回を迎えた定期全国大会を開催した。この大会であげられた決議は、今の医学生の気分・感情に光を当て、それを率直に学生にも示し、大きな共感を学生に与えた。
 決議では、入学してから卒業するまでに、学年が上がるごとに不安が大きくなっていく様子を、非常にリアルにとらえている。

 まず入学してくる新入生が、医師・医学者になるという目標をもっており、そのために幅広い教養人間性を身につけたい、知識・技術を身につけたいという希望をもっていると述べる。
 その入学時の気持ちが、どのように変化していくのか、決議から抜粋する。

 「しかし、いざ大学に入ってみると
医学部に入った実感が得られない』
『大学の講義がどう役立つのか分からない。何を学んでいくのか目的がもてない』

という声が多く出ます。」と、入学後、早くも教養の時代から、医師・医学者になりたいという目標が見えなくなってしまうと述べている。そして、その実態として、マスプロ講義中心の教授形式、カリキュラムの中に動機付けのプロセスが欠けていること、また、試験にふりまわされ、留年におびえて、のびのびと勉強できない、などといったことがあがっている。学費やテキスト代など経済面への不安、勉学施設の不満なども大きくのしかかっている。

 さらに、このような不安は、上学年になるとどんな風に変わっていくのだろうか?決議は述べる。
「学年が上がると医学生の抱える不安は解決されるどころか、ますます深刻になります。臨床講義や実習が始まると
『各科の連携が取れていないため、講義内容に欠落があったり、順番が適切でないことがあり、分かりにくい』
そのうえ
『分からないことがあっても誰に聞いていいのかわからない』といった声が上がります」
として、教育内容が整理されていないうえに、教育体制も整っていない中で、学生の不安を更に大きくしてしまっていると訴えている。さらに、卒後に対する不安がそれに加わり、
「『大学に残っても、自分のやりたいことが出来そうにないがほかにいくところがない』・・」
などの声に代表されるように、研修内容の不備、自分のやってみたいことをやれる場所が見つからないという問題への不安が更にのしかかってくるのである。卒後の経済的保障の問題も深刻である。そして、そもそも卒後研修についての情報が十分に知らされていない不安になる、と述べている。

 このような不安、不満を大きく募らせているにも関わらず、
『周りの人とは、深い話が出来ない、出来る人がいない』」という声があり、ともに学ぶ仲間として、このような不安、不満を力を合わせて解決しようとする連帯感も生まれにくくなっている実情が述べられている。

 以上、医学生の実情を示すものとして、医学連の決議から、少し長く抜粋いてきた。読まれる方によっては、大げさではないかと思われるかもしれないが、これは医学生の側から見れば、うなずくところが非常に多く、少しも大げさではない。医学連の大会でも、この決議は大きな共感をよんだのである。


「現代のエスプリ」 中野 治
春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら肅む(言志四録)


春風:恩恵・教化が大きく深いこと

秋霜:(その冷たく厳しいことから)断罪・権威あるいは志操などの厳しく厳かなこと
   刀剣などの切れ味の鋭いこと、また、そのもの。



人には優しく。
自らには厳しく。

よく聞くことではあるけれど、
表現の仕方次第で、こうも印象が変わるんだなぁ、と感動してしまいます。

美しい表現は、人の心を動かす力があるんですね。