文藝春秋 2010年 07月号 [雑誌]/著者不明
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一学究の救国論


日本国民に告ぐ


           藤原正彦(お茶の水女子大学名誉教授)



とりわけ我が国は、真に誇るべき文明を育んだ国である。

それに絶大な誇りをもってよい。


一九世紀に書かれた『Character』の中でスマイルズは、

「国家とか国民は、自分たちが輝かしい民族に属するという感情に

 より力強く支えられるものである」(藤原訳)

と言った。


祖国への誇りを持って初めて、

先祖の築いた偉大なる文明を継承することができ、

奥深い自信を持つことができ、堂々と生きることができる。



(中略)



日本人の築いた文明は、

実は日本人にもっとも適しているだけではない。


個よりも公、

金より徳、

競争より和、

主張するより察する、

惻隠や「もののあはれ」などを美しいと感ずる我が文明は、

「貧しくともみな幸せそう」という、

古今未曾有の社会をつくった文明である。


戦後になってさえ、「国民総中流」という

どの国にも達成できなかった夢のような社会を実現させた文明である。


今日に至るも、キリスト教、儒教、その他いかなる宗教の行き渡った国より、

この美的感覚を原理としてやってきた日本で、

治安はもっともよく、

人々の心はもっとも穏やかで倫理道徳も高いのである。


この美的感覚は普遍的価値として

今後必ずや論理、合理、理性を補完し、

混迷の世界を救うものになろう。


日本人は誇りと自信をもって、

これを取り戻すことだ。


これさえあれば我が国の直面するほとんどの困難が自然にほぐれて行く。


さらに願わくばこの普遍的価値の可能性を

繰り返し世界に発信し訴えていくことだ。


スマイルズは前述の諸で次のように言った。


「歴史を振り返ると、

 国家が苦境に立たされた時代こそもっとも実り多い時代だ。

 それを乗り越えて初めて

 国家はさらなる高みに到達するからである」(藤原訳)


現代の日本はまさにその苦境に立たされた時代だ。

日本人の覚醒と奮起に期待したい。




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日本代表も絶好調ですし、


いまこそ、日本のいいところを振り返り、

日本人としての誇りと自信を取り戻すのに、ちょうどいい時なのかもしれません!



世界に誇れる文化、国民性であることを自覚して、

サムライ魂を如何なく発揮してほしいです!





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人生がうまくいかない本当の理由
『あなたの潜在能力を引き..........≪続きを読む≫





「7つの習慣」にも、同じことが書いてあります。




7つの習慣―成功には原則があった!/スティーブン・R. コヴィー
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第一の習慣 : 主体性を発揮する


人生の責任を引き受ける



人間の独特な性質――選択の自由――を発見することにより、

フランクルは正確な自己パラダイムを描き、

効果的な人生を営む最も基礎的な習慣を身につけ始めた。

それは、主体性を発揮する習慣である。


主体性とはよく聞く言葉だが、定義があいまいになっている場合が多い。

主体性をもつということは率先力を発揮するだけでなく、

人間として自分の人生に対する責任をとるということである。

私たちの行動は周りからの状況からではなく、

私たち自身の選択によって決まるのだ

私たちは感情を価値観に従わせることが出来る。

そして、物事を成し遂げる率先力を発揮する責任を負っているのだ。

責任は英語で、レスポンシビリティー(Responsibility)という。

この言葉の語源をみると、

レスポンス(Response : 反応)と、

アビリティー(Ability : 能力)という二つの言葉からなっている。


主体性のある人はそのレスポンシビリティー

「自分の反応を選択する能力」を発揮している。


彼らは自分の行動に対する責任をとり、

状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。


彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、

状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。

人間の本来の姿は主体的なものである。


だから、意識的な選択にせよ、無意識的な選択にせよ、

もし自分の人生が今までの条件付けや周りの状況にコントロールされているとすれば、

それは、そうしたものに主導権を譲った結果に他ならない
自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。

例えば、反応的な人の多くは

周りの物的な環境に大きな影響を受ける

天気が良ければ、気分も良い。

しかし、天気が悪ければ、気分も悪くなり、遂行能力も低下する。

主体的な人は、自分の天気を持ち合わせている。

雨が降ろうが日が照ろうが関係ない。

彼らの行動は価値観に導かれており、

質の高い仕事をする価値観を持っていれば、

天気がどうであろうと関係ない。

反応的な人は社会的な環境(社会の天気)にも大きく影響される

人が親切にしてくれると気分がいい。

そうでないときは、不機嫌になったり落ち込んだりする。

反応的な人の精神状態は他人の行動や言葉に左右され、振り回されることになる

「自分の価値観に基づき行動する」ことは、

主体的な人の最も基本的な性質と言える。


反応的な人は

「その時折の感情、状況、条件づけ、環境などに左右される」が、

主体的な人は

深く考え、選択し、内面化した価値観に基づいて自らを支配するのだ。

だからといって主体的な人が、

天気などの物的、社会的、心理的な刺激に影響されないかというと、そうではない。

しかし、それに対する彼らの反応は、価値観に基づいた選択なのである。



エリナー・ルーズベルトは次のように表現している。
「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない」

またガンジーの言葉によれば、
「自分で投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」



本当の意味では、自分の身に起こる出来事によって傷つけられるのではない。
自分がその状況を容認するという選択によって、傷を受けるのだ。

これが精神的に受け入れにくい概念だということは、百も承知している。

特に何年にもわたって環境や他人の行動を、

自分の不幸の理由にしてきた人にとっては、そうだろう。


しかし、心底から正直に

「今の状況はこれまで私が行ってきた選択の結果だ」と言えるようになるまで、

「他の道を選ぶ」ということはできない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「反応を選択する」

というのは、目からウロコの発想でした。


簡単に言えば、起きていることは一緒でも、

ポジティブなときの反応と、

ネガティブな時の反応は、全然違います。



再試験になっても、

「これでもう一度しっかり勉強できる」と前向きに受け止めるか、

「またか~、もうイヤだ・・・」と悲観的になるかで、

全然違いますからね。



「原因と結果の法則」 はまだ読んでませんが、

立ち読みした限りでは、同じようなことが書いてあった気がします。



日本文化でいえば、「因果応報」でしょうか。


他人のせいにせず、主体性をもつことの大切さを学びました。




1st habbit : Be proactive.

第一の習慣 : 主体性を発揮する








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文藝春秋 2010年 07月号 [雑誌]/著者不明
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一学究の救国論


日本国民に告ぐ


           藤原正彦(お茶の水女子大学名誉教授)




日本文明とは一体どんな文明なのだろうか。

これは難しい問題である。


とりわけその中で暮らしている日本人には見えにくい。

空気の中で暮らしている人間が空気の存在に気付いたのは、

17世紀になってトリチェリが真空の存在を発見したからであった。


人類誕生から数百万年もかかっている。

自らの文明は自らは認識しにくく、異質の文明との比較によって

ようやく見えるものと言ってよい。


幸いにして、幕末から明治にかけて来日した

欧米人を中心とする多くの論者が様々な考察をしてくれた。


彼らは、長い航海の後、

アジアの各地によりながら日本までやってきて、

「日本人はなぜこうも他のアジア人と違うのか」ということに驚愕しつつ、

日本とは何かについて自問自答を繰り返したのである。


多くの欧米人が日本を訪れ、新鮮な目で日本を見つめ、

断片的であろうと、個人的印象にすぎないものであろうと、

多くの書物に残してくれたのは実に幸運であった。

日本文明が成熟を見た江戸時代の直後だった、ということはなおさら幸運であった。


彼らの言葉をいくつか『逝きし世の面影』を引用し、参考にしつつ考えてみよう。

日米修好通商条約締結のために訪れた、

タウンゼント・ハリスは、日本上陸のたった二週間後の日記にこう記している。


「厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代が始まる。

 あえて問う。

 日本の真の幸福となるだろうか」。


(中略)


また日英修好通商条約を締結するため来日した

エルギン卿の秘書オリファントはこう記す。


「個人が共同体のために犠牲になる日本で、

 各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」


多くの欧米人がいろいろの観察をしているが、

ほぼすべてに共通してるのは、

「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。


だからこそアメリカ人のモースは

「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」

といったのだ。


欧米では、裕福とは幸福を意味し、

貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など

絶望的な境遇を意味するのだが、

この国では全くそうでないことに驚いたのである。


明治六年に来日し、日本に長く生活したイギリス人バジル・チェンバレンはこう記す。

「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である。

 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。

 ・・・

 ほんものの平等精神、

 われわれはみな同じ人間だと心底信じる心が、

 社会の隅々まで浸透しているのである」


イギリスの詩人エドウィン・アーノルドなどは、

明治二十二年に東京で開かれたある講演で日本についてこうまで言っている。


「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。

 ・・・

 その景色は妖精のように優美で、

 その美術は絶妙であり、

 その神のようにやさしい性質はさらに美しく、

 その魅力的な態度、

 その礼儀正しさは、

 謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、

 精巧であるが飾ることもない。

 これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、

 あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」


無論ここには詩人らしい誇張も含まれているだろう。

しかし実に多くの人々が表現や程度こそ異なれ

類似の観察をしているのである。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




古き良き日本の文化に立ち返ることで、

見えてくる明るい未来はきっとあると思います。


武士道をはじめとした、

日本の古典に流れる仏教思想など、

いまにも通じるものはたくさんあることは、

実際に読んでみれば分かります。


医療崩壊の一因と言われる死生観の復興の手掛かりも、

日本古典の中にある気がします。




ガンバレ、ニッポン!





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竜馬がゆく〈2〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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若者たち



「ここに、坂本くんがいる。君を坂本くんに紹介したい」

「御無用にねがいます」

 これには、武市も竜馬もおどろいた。喧嘩腰ではないか。

「なぜだ」

「私は、剣術使いには興味はありませんよ」

「中岡君」

 武市は、刀をひきよせた。

「先輩を侮辱すると、そのぶんにはおかぬぞ。第一私も剣術使いだ」

「武市先生はちがいます。剣を天下のことに生かそうとなさっています。
 だからこそ敬慕しています。

 が、先生のお隣りにいらっしゃる方は単なる剣客で、

 いや失礼、事実ですから。

 せっかく腰間に剣を帯びながらいま天下がどうなっているか

 われわれ若い者は何にむかって命を捧ぐべきか、

 お考えになっているような御様子はない。

 そういう方とは、慎太郎、お近づきねがう気がしません」

(おどろいたなあ)

 竜馬は、正直、眼をまるくしている。

「中岡君」

 武市は、刀をさげて立ちあがった。

「表へ出ろ。わしは自分の友人を侮辱されてだまっていられない」

「いや、拙者が」

とびあがるようにして立ったのは、例の岡田以蔵である。

足軽の身分だからさきほどから末座で小さくなっていたのだが、

竜馬を侮辱されてたまらなくなったのだろう。

さらにこの男は剣は武市の弟子である。

師匠の手をわずらわすより、自分がやる、と思ったのだろう。

「拙者がやります。中岡さん、表へ出ろ」

 鯉口を切っている。さすがに後年、人斬り以蔵といわれたほどの男だ。

「いやこれは」

 底ぬけに明るい声を出したのは、当の被害者の竜馬だった。


「参った」

 と、竜馬は、素直に頭をさげた。

「中岡君、お前のいうとおりじゃ。

 わしァ、学がないために何も知っちょらせん。

 天下がどうなっちょるか、

 その天下にむかって、お前のようにどう咆えたくったらよいか、何も知らん。

 わずかに知っちょるのは、北辰一刀流の組太刀ぐらいのもんじゃ」

「・・・・・・」

 一座が、シンとなっている。

 竜馬が中岡の無礼をとがめて一刀で斬りすてるかと緊張していたのだが、

意外にも本気であやまっているのである。

「坂本さん」

 これには、中岡のほうがうろたえた。

「わしァ、こういう性分です。

 近頃、国の行く末を案じていると、夜もねむれん。

 それじゃのにわが土佐藩の若者は、

 せっかく江戸に出てきても遊興にうつつをぬかし、

 端唄の一つも覚えて得意になり、

 多少実直体な者は、剣術一本で、世を憂えようともせぬ。

 つい、いらいらして、今夜のように腹中に酒が入ると、

 血が鼻の奥までツンとのぼってきて、座にいたたまれなくなります」

 すこし、酒乱の気があるらしい。

「いや、お前はえらい」

 竜馬は、本気である。

「土佐安芸郡北川郷の山里の庄屋どんの家にうまれながら、

 肝の上に天下を載せちょる。

 酒に酔うても載せちょる。

 わしもお前の心掛けに学ばにゃならんが、

 なにぶん子供のときからの鈍根じゃ。

 ボチボチやる。

 世がわしを必要とするまでボチボチやる。

 それまでは剣術ばかりをやっていても、怒らんでこらえてつかァされ」

「いや、酔いがさめました」

 中岡は、竜馬の前にすわった。

「暴言、おわびします」

「ほう、あれが暴言か」

 竜馬は、あくまで無邪気である。

「ほんとに暴言か」

「はい」

「これァ、おどろいた。

 わしは、お前が真剣に忠告してくれたものと思うた。

 それが暴言じゃったのか」

「しかし」

「いや、驚いた。

 自分で暴言じゃとみとめたからこそ、あやまっているのじゃろう。

 武士が吐く言葉には、一語といえども命を賭けるべきじゃ。

 それをすぐ暴言じゃと自認したり、あやまったりするのは、

 わしのような剣術つかいの性にはあわん」

「では、あやまりません」

「それでいい」

 竜馬は杯を置いて、

「お前もいいたいことを言って気が晴れたじゃろう。

 かわりに、わしにも気を晴らさせてくれるか」

「どうぞ」

 竜馬はいきなり中岡の胸ぐらをつかんだ。

 中岡はふりはなそうとするが、とほうもない馬鹿力だから、体が動かない。

「御免」

 竜馬はコブシをかためるなり、力まかせに中岡の頬げたをなぐりつけた。

「あっ」

「気が晴れた。中岡君、飲もう」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




竜馬の器の大きさに、胸踊らされます。


自分はいったい、何をすべきなのか。


今は分からないけれども、つまらないことで終わりたくはない。


ゆくゆくは、大きなことをしてみせる、


という秘めたる気概が、


こういう大きな懐になるのかなぁ、と考えてみたりします。



自分には何ができるだろうか。


医学の勉強と、読書三昧の日々を、ボチボチ過ごしながら、


何かをしてみたいという、志は大切にしていきたいものです。








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文藝春秋 2010年 07月号 [雑誌]/著者不明
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一学究の救国論


日本国民に告ぐ


           藤原正彦(お茶の水女子大学名誉教授)





1807年、ナポレオン占領下のドイツで哲学者フィヒテは、

「ドイツ国民に告ぐ」という講演の中で、

打ちひしがれた国民に祖国再生の熱いメッセージを送った。

熱き想いを共有する私は、フィヒテのひそみに倣い、

その柄でもないことを顧みず、以下を認(したた)めた。


日本が危機に立たされている。

何もかもがうまくいかなくなっている。

経済に目を向けると、バブル崩壊後20年近くにもなり、

その間あらゆる改革がなされてきたがどれもうまくいかない。

グローバル化に構造改革も社会を荒廃させただけで、

デフレ不況は一向になおらない。

財政赤字は世界一となり、なお増え続けている。

一人当たりGDPもどんどん低下するばかりだ。

失業率は増え続け、自殺者数はここ12年間毎年3万人以上を記録し、

世界トップうラスの自殺大国となっている。


(中略)



それに、学校にはモンスターペアレンツ、

病院にはモンスターペイシェンツと、

不満が少しでもあればおおげさに騒ぎ立てて

訴訟にまで持ち込む人々が多くなった。

人権をはじめとしてやたらと権利を振りかざす人間が多くなった。

かつてこういう人間は「さもしい」と言われたものだが。


政治、経済の崩壊からはじまり、モラル、教育、家族、社会の崩壊と、

今、日本は全面的な崩壊に瀕している。

それぞれの分野で、崩壊に気付いたそれぞれの専門家が、

懸命に立て直そうと努力しているものの、どんな改革もほとんど功を奏さない。



この国の当面するあらゆる困難は互いに関連し、

絡み合った糸玉のようになっていて、誰にもほぐせないでいる。

部分的にほぐしたように見えても大抵は一時的なものにとどまり、

全体の絡みには何の影響も及ぼさない。

我が国の直面する危機症状は、足が痛い、手が痛い、頭が痛いという

局所的なものではなく全身症状である。

すなわち体質の劣化によるものなのである。


漂流し沈下しつつある日本はどうなるのか。

日本人は今、深淵に沈み行くことを運命と諦めるか、

どうにかせねばと思いながら確たる展望もないままただ徒に焦りもがくばかりである。


古くより偉大なる文学芸術を生み、

明治以降に偉大なる経済発展をなしとげ、

五大列強の一つともなった優秀で覇気に富んだ日本民族は

一体どうなったのだろうか。

祖国再生の鍵はどこにあるのだろうか。



(つづく)


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古き良き日本の文化に立ち返ることで、

見えてくる明るい未来はきっとあると思います。





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日本国民に告ぐ (3) とりわけ我が国は、真に誇るべき文明を育んだ国である





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COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2007年 10月号 [雑誌]/著者不明
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《座談会 韓国×ロシア×アメリカ》

『だから、日本はおもしろい』 より一部抜粋



「日本語は人をけなす言葉がとても少ないですよね。
 それがいっこうに増える傾向にないというのがおもしろい。
 ロシアの本を読むと、どんどん新しいスラングが増えてるんです。」


(中略)


「英語の映画を見て字幕を読んでいるとよく分かるんですけど、
 英語の悪口は本当に多彩で訳しきれないですよ。
 それで、苦肉の策で「コノヤロー」の1行で終わらせてしまっている。」


「まず民族を侮辱する為の言葉が普通の会話にはそう入ってこないんですよね。
 ほかの民族をけなして笑う、などといったジョークを言い合う、
 という習慣がそんなにないというのが関係してるんだろうと思います。
 しかし、中学生の時いろいろな悪口言ってませんでした?」


「人を侮辱する言葉じゃなくてケンカ言葉なんですよ。
 関西弁で「何してんねん、てめえ、コノヤロー」と言ったとするじゃないですか。
 でも言い方次第では優しくなることもあるんです。
 悪口が少ないのは日本の良い文化だと思いますよ。」


「もっとひどく言いたくても言葉がないんですね。」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



日本人が自分で意識することは無いとおもいますが、

外国の方から見た、面白い指摘ですね。



日本の言葉を大切にしたいものです。








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武士道―人に勝ち、自分に克つ強靭な精神力を鍛える 知的生きかた文庫/新渡戸 稲造
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「勇」――如何にして肚を練磨するか


平静さに裏打ちされた勇気




勇気の精神的側面落ち着きである。


つまり、勇気は心の穏やかな平静さによって表わされる。

平静さとは、静止の状態における勇気である。

果敢な行為が勇気の動的表現であることに対して、
これはその静的表現である。

まことに勇気ある人は、

常に落ち着いていて、
けっして驚かされたりせず、

何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。


彼らは戦場の昂揚の中でも冷静である。
破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている

地震にもあわてることなく、嵐に立ち向かって笑う。


(中略)



文づかいや声音に何の乱れもみせない

このような心のひろさ――私たちはそれを「余裕」と呼んでいる――

はその人の大きさの何よりの証拠である。

それは圧しつぶされず、混乱せず、

いつも、より多くのものを受け入れる余地を保っている。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


医療の現場も、ある意味で戦場。


現に、人の命が失われていくかどうかの瀬戸際の闘いです。



医療従事者の、冷静な、的確な判断が、

生死を分けることも少なくないとおもいます。



死から目を背けない勇気をもてるかどうかが、

現場での落ち着いた言動につながるのだと思います。



慌てふためく医師に診てもらうのは、不安がつのるばかり。


医療技術を磨く努力と、

命に向き合う勇気を併せ持つドクターになりたいです。








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井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 (新潮文庫)/井上 ひさし
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司馬遼太郎さんは「思う」を漢字で書きません。





表記の仕方でも、中国生まれのことばであれば漢字で書くとか、

「持つ」というのは大和ことばだから、

開いちゃって平仮名で「もつ」としようとか、

厳密さを心がける方がいます。



司馬遼太郎さんは「思う」を漢字で書きませんでしょう。



このことについてわたし、一度、司馬さんにお聞きしたら、



≪おもう≫というのは、どう考えてみても、大和ことばなんだよ。

 これを漢字で書くのはおかしい。

 それで平仮名にひらいているんですよ」



というお答えでした。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





古今和歌集のことば と重ねると、なおのこと、

「ひらがな」というものを、大切に使いたくなります。



「平仮名にひらく」という表現も、なんだか面白いです。



「言葉に込められた心をひらく」みたいな印象で。





言葉を大切に、

そして、こころを丁寧に見つめていきたい、

そんな医者になりたいとおもいました。







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なぜ生きる/明橋 大二
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吐いた息が吸えないときから後生である。

    それは、一分後かもしれない。



死んだ後の後生と聞くと、

三十年も五十年も先のことのように思いがちだが、そうだろうか。


今晩死ねば今晩から後生であり、

いや一時間後、一分後かもしれない。


阪神大震災のときなどは、

机で勉強していた姿勢のままで亡くなっていた受験生もいた。


今日も全国各地で多くの人が、交通事故などで命を落としている。


死ぬなんて、ユメにも思っていなかった人たちばかりであろう。


私たちは、いつ後生へ突っ込んでゆくかもしれないのだ。


「出息入息不待命終」

“入る息を待たず、命終わる”と釈尊は説かれている。


吐いた息が吸えないときから後生がはじまる。

吸う息吐く息が、死とふれあっていることが知らされる。



たとえば十二月三十一日、午後十一時五十九分五十九秒では、

一秒後に

三十一日が一日に、

十二月が一月に、

今年が来年に変わるように、

今生が後生に変わるのも一瞬である。


されば「後生」といっても、吸う息吐く息の「現在」におさまるのだ。



後生暗い心とは、五十年、六十年先の闇ではない。

今に暗い心である。


現在に暗い心とは、現在の自己に暗いことにほかならない。


自己の現在を隠すもの、それが無明の闇なのだ。


無明が破れて、自己の素顔が明らかになると

過去も未来も鮮明になる。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「現在の自己に暗い」

自分はこのまま死んだらどうなるのかなぁ・・・、


と考えることはありますが、


そもそも、今の自分のことがよく分かっていない・・・?



確かに、自己紹介は苦手。


今、こころでおもっていることを素直に誰かに言えるかと言えば、

ちょっと言えないし。。。



自分の素顔が、自分で分かっていない。


仮面をかぶっていない、

演技ではない自分・・・。



自分を知るのは、なんだか怖い気がしますが、

避けては通れない道なわけですね。




「死生観」の問題は、「自分探し」につながり、


自分探しは、死生観の問題に続く・・・。





ん~、深い。





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自殺について 他四篇 (岩波文庫)/ショウペンハウエル
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我々の真実の本質は

 死によって破壊せられえないものである

       という教説によせて



現在は両面をもっている、

――客観的な面主観的な面である。


客観的な現在だけが時間の直観を形式として持っているのであり、

それ故にそれはとどまることなく進展してゆく。


それに反して主観的な現在

不動のままにとどまっているのであり、

それ故にそれはいつも同一である。


ここからして、

とうに過ぎ去ったものについての

我々の生き生きした回想も生まれてくるのであり、

我々が我々の現存在のはかなさ知っているにもかかわらず

我々の不滅性についての意識をもっているのもまた

このためである。



よし我々が如何なるときに生きているにしろ、

いつでも我々は我々の意識とともに

時間の中心に立っているのであって、

決してその末端にあるのではない。



そこからして、誰でもが無限な時間全体の不動の中心

自分自身のうちに担っているものであることが推量せられえよう。


これがまた結局は、

人間が絶えざる死の恐怖なしに、

その日その日を過ごしておられるような信頼

人間に与えてくれるゆえんのものなのである。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



今は元気だし、少しくらい寝不足でも大丈夫だろう・・・。

と、夜更かしして、体調を崩したり、


これだけ信頼し合ってるんだから、

きっと、いつまでも仲良くしていける!

と思っていたら、いつの間にか・・・。



いつも、「今」が基準

今の(いい)状態が、これからも続くだろうと、信じている。

いつまでも変わらないでほしいと、願っている。


相手の気持ちも、

自分の心も・・・。


そして、「今は」生きている。

まだ死んでない。



「今は」、という事実と、

「これまでも」、という経験からしか、判断できないために、


「人間は絶えざる死の恐怖なしに、

 その日その日を過ごしておられる」





そういうことでしょうか。


けれども、同時に言えることがある。


常に、「今」を生きているからこそ、


死がやってくるのもまた、「今」、だというのもまた事実


経験できないために、想像もできない現実。



誰にとっても、いついかなる時でも、


確実な未来である「死」は、


「今」の問題であるというのは、ちょっと想像できないし、


受け入れ難い。


しかし、否定できない事実でもある。


哲学者の言うことは、

小難しいけど、深みを感じます。







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