- なぜ生きる/明橋 大二
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吐いた息が吸えないときから後生である。
それは、一分後かもしれない。
死んだ後の後生と聞くと、
三十年も五十年も先のことのように思いがちだが、そうだろうか。
今晩死ねば今晩から後生であり、
いや一時間後、一分後かもしれない。
阪神大震災のときなどは、
机で勉強していた姿勢のままで亡くなっていた受験生もいた。
今日も全国各地で多くの人が、交通事故などで命を落としている。
死ぬなんて、ユメにも思っていなかった人たちばかりであろう。
私たちは、いつ後生へ突っ込んでゆくかもしれないのだ。
「出息入息不待命終」
“入る息を待たず、命終わる”と釈尊は説かれている。
吐いた息が吸えないときから後生がはじまる。
吸う息吐く息が、死とふれあっていることが知らされる。
たとえば十二月三十一日、午後十一時五十九分五十九秒では、
一秒後に
三十一日が一日に、
十二月が一月に、
今年が来年に変わるように、
今生が後生に変わるのも一瞬である。
されば「後生」といっても、吸う息吐く息の「現在」におさまるのだ。
後生暗い心とは、五十年、六十年先の闇ではない。
今に暗い心である。
現在に暗い心とは、現在の自己に暗いことにほかならない。
自己の現在を隠すもの、それが無明の闇なのだ。
無明が破れて、自己の素顔が明らかになると、
過去も未来も鮮明になる。
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「現在の自己に暗い」
自分はこのまま死んだらどうなるのかなぁ・・・、
と考えることはありますが、
そもそも、今の自分のことがよく分かっていない・・・?
確かに、自己紹介は苦手。
今、こころでおもっていることを素直に誰かに言えるかと言えば、
ちょっと言えないし。。。
自分の素顔が、自分で分かっていない。
仮面をかぶっていない、
演技ではない自分・・・。
自分を知るのは、なんだか怖い気がしますが、
避けては通れない道なわけですね。
「死生観」の問題は、「自分探し」につながり、
自分探しは、死生観の問題に続く・・・。
ん~、深い。