竜馬がゆく〈3〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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海へ




竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。


こういう男だが、この点だけは執念ぶかい。

恋に似ている、などという程度のものではない。



男子の志は、簡明直截であるべきだと、竜馬は信じている。

船。


これのみが、生涯の念願である。


船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその偉力を背景に、
幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。


独創的な討幕方式である。

薩摩の西郷も、長州の桂も、土州の武市もこれは思いうかばないであろう。



人間、好きな道によって世界を切り拓いてゆく。


竜馬はそんな言葉を残している。


船。


ふねに托された竜馬の夢は大きい。




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直截 : ①ためらわず、すぐに裁断を下すこと。

      ②まわりくどくなく、きっぱりしていること。






医療の道で、

いのちに向き合う医者を目指して、

世界を切り拓いていきたいです!







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無痛文明論/森岡 正博
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「私の死」と無痛文明



「私の死」、それは、

私の意志とは無関係に突然襲ってくる、

このうえなく怖ろしい観念である。


それが私の脳を直撃したが最後、

私の身体は震え、まともに立つことすらできなくなる。


それが最初に私を襲ったのは、十代はじめのころだった。

それ以来ずっと、私は「私の死」のことを考えている。

「私の死」は甘美であるという人がいるが、私は違う。

私にとって、それは、恐怖以外のなにものでもない。



哲学は死の思索とともに開始されたと言われている。

しかし、死をめぐる哲学書は、ほとんど私の役に立たなかった。


二〇世紀にもっとも死について深く思索したと言われるハイデガーですら、

私にとっては陳腐なものに見えた。


ハイデガーは言う。


私は、私自身の「死へと臨む存在」である。

私の死とは、そもそも、ひとごとではない

確実な、追い越すことのできない可能性である。

私の生とは、みずからの存在が消滅するという可能性に向かって生きることである。


死は「それへ臨む態度において可能性として耐え抜かれなくてはならない」(『存在と時間』)。


ハイデガーはそのことを「覚悟性」と呼ぶ。


「覚悟性はひとごとではない負い目ある存在へ向かって

 沈黙のうちに、不安を辞せずに、おのれを投企することである」(同書)。


それは、死へ臨む存在において、「先駆的な覚悟性」となる。


しかしながら、ハイデガーは、私のもっとも知りたかったことに答えていない


すなわち、「私の死」はどうしてこんなに「恐怖」なのかということ。


そして「私の死」という恐怖から逃れるためにはどうすればいいのかということ。


この「二〇世紀最大の哲学者」は、

私がもっとも知りたかったこの二点について、

正面からは答えず、ただ死へ臨む先駆的な覚悟を強調するのみであった。


彼の主著『存在と時間』は、

「死へ臨む存在」については饒舌に語りながらも、

死の恐怖について語った個所は少ない。


ハイデガーは、死の恐怖の問題などは

そもそも哲学の答えるべき問いではないと言っているようにすら見える。


彼は、存在的な問いと、存在論的な問いを区別し、

『存在と時間』ではもっぱら後者の問いに集中していった。


その意味で、「死の恐怖」の問題は、

彼の眼中にはそもそもなかったのかもしれない。


しかし、「死へ臨む存在」について語りながら、

死の恐怖について本格的に語らないというのは、

いったいどういうことなのか私には理解できない。




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なぜ、死が恐ろしいのか。


これに正面から答えるのは、

ハイデガーでも難しいと。。。


とはいえ、仕方ないとアキラメルのも嫌だし・・・。


アキラメたら、そこで止まってしまうというか、何も進みませんし。



ならば、できることから一つ一つ。


まずは、死を想うことの難しさを、学んでいこうと思います。








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竜馬がゆく〈3〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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海へ



竜馬は、

「人生は一場の芝居だというが」

と、かつていったことがある。



「芝居とちがう点が、大きくある。


 芝居の役者のばあいは、舞台は他人が作ってくれる。


 なまの人生は、自分で、自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、

 そのうえで芝居をするのだ。


 他人が舞台を作ってくれやせぬ」



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舞台をつくる。。。


医療という大きな舞台で、


自分なりの役柄を探して、今からこつこつ舞台を拵えるのも一興。


とはいえ、


舞台を降りられた方々、患者さんと、どう向き合うか、


それが自分が上がろうとしている舞台。











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西洋薬は、ピアノやヴァイオリンのソロ演奏、

 漢方薬は、オーケストラ



                     (熊谷 朗)



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■東洋医学  □西洋医学


実際的       理論的
哲学的       科学的
総合的       分析的
機能的       機械的
人体経験     動物経験
原因的       対症的
根本的       末梢的
自然的       人工的
内科的       外科的
体質予防     細菌予防
形而上的     形而下的




■東洋文化   □西洋文化


多様な自然     単調な自然

(森林文化)     (砂漠文化)
農耕民族       遊牧民族
自然の恵み     自然の脅威

自然順応       自然征服
寛容、女性的    非妥協的、男性的
情緒的        合理的
相対的        絶対的

多元的価値観    統一的原理
現実主義       合理主義
仏教的パラダイム キリスト教的パラダイム




こうして比べてみると、面白いですね。


個人的には、やはり東洋の方が合うなぁと思います。


自然環境によるところも大きいですよね。




漢方医を目指しているわけではないですが、

でも、せっかくなので、ある程度は勉強しておきたいと思います。


少なくとも、考え方は大切だと思います。




哲学的 総合的 原因的 根本的 


特にこの辺は、洋の東西を問わず、

注目されてきているようですし、

意識したいところです。


東洋哲学、ますます興味津々です。









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竜馬がゆく〈3〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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伯楽



この時期。――

竜馬の人生への基礎は確立した。

勝に会ったことが、竜馬の、竜馬としての生涯の階段を、
一段だけ、踏みあがらせた。

人の一生には、命題があるべきだ。
 おれはどうやらおれの命題のなかへ、一あしだけ踏み入れたらしい)

このとし、竜馬二十八歳。
まったく晩熟(おくて)である。

すでに、のちのち竜馬とともに維新成立に活躍する
長州の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、
薩摩の西郷吉之助、大久保一蔵などは、
それぞれの藩の立場から「国事」に奔走しているのに、竜馬は、
「一歩」
のぼっただけである。

しかも倒幕志士であるはずの竜馬が、
幕臣の勝海舟に見出されたというえたいの知れぬ「一歩」を。


  世の中の
    人は何とも云はばいへ
  わがなすことは
    われのみぞ知る


とは、父親の八平にさえ「ついに廃れ者になるか」と嘆ぜしめた
竜馬の十代のころにつくった歌である。

城下で低能児よばわりされた竜馬のさびしさが、歌にこもっている。

(世上、ひとしく攘夷を叫び、勤王を喚(おら)ぶも、みな空論にすぎぬ。
 おれがその群れにこそこそ入りこんでおなじ踊りをおどり、
 おなじ唄をうたっても、なんの足しにもならぬ。
 いまは迂遠の道を通るが、
 やがてみろ、日本をおれが一変させてくれるぞ


やっと、自分の、自分だけの人生がひらけてきたような気がする。




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自分だけの人生がひらけてくる、というのは、

どんな感じなんでしょうか。


自分は、一人の医者として、

目の前の患者さんのために、

日本の医療界のために、どんなことができるだろうか。。。



夢は大きく、今は自分が大事だと思うこと、死生観を深める方向で、

ひたすらに進んでいきたいと思います。



竜馬、かっこいいなぁ。





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7つの習慣―成功には原則があった!/スティーブン・R. コヴィー
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第一の習慣 : 主体性を発揮する


「持つ」か「なる」か


どちらの輪に集中しているかを考えるもう一つの方法は、

「持つ」ことと「なる」ことを区別することである。


関心の輪(反応的な人)は「持つ」ことに満ちている。

「家さえ持てば幸せになれる」

「もっと親切な上司を持っていたら・・・」

「もっと忍耐強い夫を持っていたら・・・」

「もっと素直な子供を持っていたら・・・」

「一流大学の卒業証書さえ持っていたら・・・」

「もっと自由な時間を持っていたら・・・」など。


これに対して影響の輪(主体的な人)は、「なる」ことに満ちている。

「私はもっと忍耐強くなる

「もっと賢くなる

「もっと優しくなれる

つまり、人格主義の考え方である。



問題は自分の外にあると考えるならば、

その考えこそが問題である。



それは、自分の外にある事柄に支配されることを容認することであり、

変化に対するパラダイムが、アウトサイド・イン(外から内へ)になることである。

つまり、私たちが変わることができる以前に、

あるいは状況を改善することができる前に、

外にある事柄が変わらなければならないという考え方である。


主体的なアプローチは、インサイド・アウト(内から外へ)で変わることである。

自分のあり方(自分の内にあるもの)を変えることにより、

自分の外にあるものをプラス方向に転換させることができる

つまり、私はもっと勤勉になれる、

もっと創造的になれる、

もっと協調性のある人になれる、という考え方である。



(中略)



この考え方が、多くの人にとって大きなパラダイム転換だということを、

私は十分に承知している。


自分の悩みを他人の行動、条件付け、あるいは周りの状況のせいにするのは

とても簡単である。


しかし、私たちの人生をコントロールし、

自分のあり方や人格そのものに集中することにより、

自分の周りの状況に大きく作用を及ぼすことができるのだ。



例えば、結婚生活に問題を抱えているとすれば、

妻の欠点を延々と指摘することに何の意味があるだろうか。

それは単に自分自身を責任がない無力な被害者に仕立て上げるだけであり、

自らの行動する力を放棄するにすぎない

やがては、妻に影響を及ぼす力もなくなるだろう。

叱責し、批判し、とがめ続ければ、彼女はあなたの思いやりのなさを理由に

自分の悪い行動を正当化できると感じるだろう。

あなたの批判は、改めさせようとしている妻の行動よりも有害なものなのだ。

その状況に良い影響を及ぼす力は、みるみる消え失せてしまうだろう。


本当にその状況を改善したいのであれば、

コントロールできる唯一のもの――自分自身――に働きかけることである。

妻を正そうとすることをやめて、自らの欠点を取り除くことに働きかけることである。

素晴らしい夫になることに集中し、

無条件に妻を愛し、支えるようにすることである。

願わくば、妻もあなたの主体的な模範の力を感じ取って

同じようにしてほしいと思うだろう。


しかし、彼女がそうしようとしまいと、状況を改善する最もよい方法は、

自らのあり方に働きかけ続けることなのだ。


影響の輪に集中する方法はいくらでもある。
より良い聞き手になること、

もっと愛を示す伴侶になること、
もっと熱心な生徒になること、

もっと協調性のある従業員になることなど。

時と場合によっては、最も主体性を発揮する方法は、

ただ単に心穏やかにすべてを受け入れ、幸福になることである。
そして、心から微笑んで過ごすのだ。

幸も不幸もいずれも主体的な選択の結果にすぎない。

天候のように絶対に影響の輪に入ってこないものも、確かにある。


しかし、主体的な人として、

自分の天気を持ち合わせることはできる。


幸せになると決めて、

コントロールできない要因を受け入れて、

コントロール出来るものに努力を集中させることが出来るのだ。




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出来ないことは、出来ないと明らかに見て、


出来ることを精一杯する。



反対に、


どうにもならないことばかりに文句を言って、


やろうと思えば出来ることをしない、のでは、


物事がうまくいかなくて当然。



人格を磨きあげるとは、こういうことを意識することを言うのだと思います。


本当に、世界が変わりそうです!








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家庭のような病院を―人生の最終章をあったかい空間で/佐藤 伸彦
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第3章 人には尊厳をもって接しなさい?


1 患者さんのために


15年ほど前、ある講演会で、講師の先生が、
「たとえ、患者さまがどういう状況にあっても、

 人間としての尊厳をもって接することが大切です」
という内容の話をされた。

その当時、メモをとりながら力強くうなずいていた。

とても分かったような気がしていた。

早々に、勤めていた病院で同じ話をしたところ、一人の看護師が気軽に質問してきた。

「先生、人間の尊厳ってなんですか?」
「・・・・・」
改めて、「尊厳とは何か」と問われると何も答えられなかった。


辞書には「おごそかで(厳かで)、たっとい(尊い)さま」とあるが、

ただ尊厳を訓読みにしてひっくり返しただけではないか。

「人の命は地球より重い」というような比喩でもよく分からない。

このようにいざ「尊厳」という言葉に向かうと、

うまく言い表すことはできなかった。

最近でも「偉い」方々は、看護、介護のスタッフに、

どんな人にも分け隔てなく人として、尊厳をもって接しなさい、と言う。


個別の対応が必要であると力説しながら

「認知症の方は一般に・・・」というように全体を括って話をする。

それはまさしく正論である。正しいご意見である。

看護・介護の国家試験でこの手の内容を問う問題が出れば

百パーセントの人が

「人間には尊厳をもって接するべきである」という選択肢に丸をつけるだろう

皆、それぐらいは分かっている。

本質が何かをたとえ知らなくても丸をつける方がいいことは分かっている。

医療の現場でスローガンのように連呼されている言葉にはこの手のものが多い。

「共感、思いやりの心をもって接しましょう」
「相手の話を傾聴しましょう」
講演会の定番である。

しかし、どうだろうか。

このような全体を抽象的に表す言葉は、

実は私たちに何も語っていないのと同じなのではないだろうか。

普通に生きていれば、日常生活の中で私たちは、

「人間の尊厳」「共感」「傾聴」「スピリチュアル」というようなことは

意識もしなければ、それがどのような意味をもつのかなど考えようともしない。


では逆に、どのような場面でこれらの言葉が意識されるのだろうか。

なぜ高齢者医療、特に終末期で問題になってくるのだろうか。

それは、私たち医療者がケアをしているという実感が湧かない時

相手に対してどのように対応していいのか分からない時なのではないかと思う。

寝たきりの患者さんは、

こちらから何をしても反応もなければ何もしゃべらないことが多い。

ありがとうの言葉なんてあるはずがない。

笑顔のひとつをみせることもない。

毎日毎日同じことを繰り返すケアが続く。

認知症の方が便いじりをする、

奇声を上げる、

オムツ交換をしたのにつねられる、

挨拶しただけなのに怒鳴られる。

通常ではまず考えられない世界が繰り広げられる。


こんなとき、私たちは私たち自身の行為の意味を問いたくなる

「人間の尊厳ってなんだ」

「共感するってどういうことだ」

「ただ耳を傾けて聴くことの意味ってなんだ」

という種類の問いかけが発生してくる。


人間は自らの行為に何らかの意味、意義を見出さないと

やっていけない動物なのかもしれない。

私たち医療者は、

医療やケアという行為の目的をはっきりさせるために

「なんのためにこれをするのか」と自らに問う


その答えとして安易に「患者さんのために」という言葉を使ってしまっている。

「患者さんのために」という答えを出すまでの

試行錯誤する過程の困難さを飛び越えて、

いとも簡単にそう言ってしまうことに疑問を投げかけ続けなければならない


市民病院で、ある外科医は人工呼吸器の管を抜いた。

新聞記者には、

「患者の家族の同意があり、動機は患者への愛だった。

 延命措置は無意味な場合もあり、

 人工呼吸器の取り外しは信念に基づく行動だった」

と答えている。

何のために呼吸器をつけたのか、

何のためにその管を抜いたのか、

それを「患者さんのため」というのは、あまりにも飛躍しすぎていないだろうか。


「患者さんのため」とならいくらでも言えるし、

「患者さんのため」なら何をしても許されるというわけではない。

そうしたことが行われるその間には、

本人の想い、家族の想い、看護師や介護士の想い、医師の想い、

多くの想いが深く交錯していたはずである。


そのような入り乱れたそれぞれの想いの関係性の中から初めて

「患者さんのため」という苦渋の決断、選択が生まれてくるのではないか。


その間のプロセスがあまりに抜け落ちているこの問題は、

もう少し詳しい状況を追いかけてみないと本当のところは分からない。


「患者さんのため」「自分の都合のため」

すり替わっていなければよいのだが。



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今、学んでおきたいことがズバリ書かれてあって、

ある意味、心の中をスッキリさせてくれる文章です。




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「先生、人間の尊厳ってなんですか?」
「・・・・・」
改めて、「尊厳とは何か」と問われると何も答えられなかった。

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「共感、思いやりの心をもって接しましょう」
「相手の話を傾聴しましょう」
講演会の定番である。

しかし、どうだろうか。

このような全体を抽象的に表す言葉は、

実は私たちに何も語っていないのと同じなのではないだろうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私たち医療者は、

医療やケアという行為の目的をはっきりさせるために

「なんのためにこれをするのか」と自らに問う


その答えとして安易に「患者さんのために」という言葉を使ってしまっている。

「患者さんのために」という答えを出すまでの

試行錯誤する過程の困難さを飛び越えて、

いとも簡単にそう言ってしまうことに疑問を投げかけ続けなければならない


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




答えは簡単には出ない問題ですが、

だからこそ、疑問を抱き続けるべきではないか。


医療従事者として生きていこうとしている自分のためにも、

そんな自分と接することになる人たちのためにも。



問いかけられていることにすら気付かず、

自分のやっていることに、どんな意味があるのか知ろうともせず、

ただ漫然と、命に携わるような人間にはなりたくないし、


「人間の尊厳、生命の尊厳ってなんなんですかねぇ」

と問いかけられたときに、

立場上答えられないとカッコ悪いから、と分かったつもりで誤魔化したり、

言葉をにごして、視線を反らして、「仕事があって忙しいがら」などと逃げてしまいたくない。


疑問を投げ続けると言うのは、言葉で言うほど楽ではないとは思う。


モヤモヤした答えの出ない問いを抱え続けるのは、

なんだか気持ち悪いし、心が晴れないままだし。


毎日のように曇りが続くと、それだけでも気分が落ち込むのと似てる。

空を見上げて歩こうと思えないのは、辛い。


でも、いい加減な答えで自己満足できてしまう自分、

わかったつもりで知らずに周りを傷つける のは、もっと嫌だ。








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竜馬がゆく〈2〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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風雲前夜



「いや、兄(にい)」


「なんじゃ」


「わしゃ、学問をしようかと思うちょるんでおじゃりますわい」


「が、がくもん?」


これには、権平も爆笑した。


「竜馬、お前が学問かよ」


学問は必要じゃとわかった

 古今の書を読み、かつ西洋の書も読みたい。

 読んで、わしがこの手で、

 こんな腐った天下をなんとか動かしてくれようと思うちょります


「天下を? この法螺坊主め」


権平はなお、うふうふと笑いつづけたが、急にわらいやんで、


「お前、もはや二十四ぞ。

 女房をもらわにゃならん年ごろぞ。

 その年になって、学問とは遅すぎるわい。

 それに、師匠はたれにつくんじゃ」


「自分でやる」


断乎として、竜馬はいった。

竜馬は不信の念をもっていた。

幼少のころ、こりている。
かれらは、他人を採点し、侮辱し、

いたずらに劣等感のみを植えつける存在ではないか。

竜馬は幼少のころの劣等感からぬけだすために、どれだけ人知れず悩んだか。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


死生観について、学びたいと思っても、大学には期待できないと分かった。



だから、自分でやる。




竜馬のこの気持ちは、よく分かるし、


これからも大切にし続けたい。




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平静の心―オスラー博士講演集/オスラー
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平静の心 Aequanimitas


           ウィリアム オスラー



沈着な姿勢に勝る資質はない


まず第一に、内科医・外科医を問わず、医師にとって、
沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない。

ここで医師に不可欠ともいえる

身体に備わる美徳にしばらく目を向けて頂きたい。

諸君の中には、これまで幾度か危機に遭遇してはきたが、
いまだに沈着な姿勢を身につけることができなかった方がおられるかもしれない。

そういう人達のために、その重要性についていささか私見を述べ、
それを身につけるにはどうすればよいかについて、参考までに一言申し上げたい。


沈着な姿勢とは、状況の如何にかかわらず

冷静さ心の落着きを失わないことを意味する。

嵐の真っただ中での平静さ、

重大な危機に直面した際に下す判断の明晰さ
何事にも動じず、感情に左右されないこと、
あるいは昔からよくつかわれる含蓄のある言い方をするならば、
「粘液質(無感動さ、phlegm)」を持つことである。

時として誤解を受けることもあるが、
沈着な姿勢は世間の人々から大いに感謝されるものである。

不幸にもそのような資質を欠いた医師、
すなわち優柔不断いつもくよくよし、それを表面に出す医師、

日常生ずる緊急事態に狼狽し、取り乱す医師、
こういう医師はたちどころに患者の信頼を失うことであろう。



沈着な姿勢に磨きがかかると、年配の医師に時おり見られるように、
それは天賦の才といった性格を帯びてくる。

つまり、この資質の持ち主には神の祝福が授けられ、
彼と関わりのあるすべての人に慰めが与えられるのである。

諸君には私の言わんとする意味が十分お分かり頂けるものと思う。
ここにおられる諸君はこれまでの歳月にわたって、
心に深い感動を覚えた例をいくつか見聞きされたことであろう。

沈着な姿勢は主として身体に備わる天性である。
それゆえ、諸君の中には生まれつき欠陥があるために、
残念ながらこの資質が一生身に付かない人がるかもしれない。

しかしながら、教育の力は大きい。
その上、実践経験を重ねる事によって、

大多数の者はかなりの程度
この資質を身につけることができるものと思う。

要は、諸君の神経を完全に制御しておくことである。
最悪の事態に直面しているからといって
心の動きをそのまま目に見える行動に現わしてしまう者、
ごくわずかにせよ心配あるいは恐れの気持ちといった表情の変化を顔に出す者、
そういう内科医や外科医は延髄中枢の制御が十分できていず、
いつなんどき破局を迎えるか分からない。

この点に関してはこれまでにも何度となく諸君の注意を促してきた。
すなわち、諸君の中枢神経を充分に訓練し、
職業上のいかなる試練に出合っても、拡張筋や収縮筋のわずかな動きで
顔面の血管に影響が出ないようにせよ、と忠告してきた。

緊急時以外には、感情や意志を抑えた顔千金の重みを持っている。



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武士道で言われる平静さ と同じですね。


やはり、日本の伝統に学ぶべきことは多いようです。


個人的な趣味とも合致しますし。




新撰組の局中法度の一つ目にもありますからね。


「士道に背くまじき事」



武士道を重んじる医者を、一つの理想の姿としようとおもいました。






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日本経済新聞



 春秋 6/26付け




日本サッカーの恩人にドイツ人コーチ、デットマール・クラマーさん(85)がいる。
ちょうど50年前に来日、
厳しく献身的な指導が8年後のメキシコ五輪3位につながった。

銅メダルは、蹴球(しゅうきゅう)と呼んだころからの歴史を彩る勲章である。



▼彼は箴言(しんげん)の名人でもあった。
「サッカーでは、どんな展開が待っているかわからない。
 だってボールは、こんなにまるいんだから」
という言葉を「大和魂のモダンサッカー」(加部究著)が伝えている。

南アのワールドカップ(W杯)1次リーグで、
前回決勝でまみえた伊仏両国が敗退したのをみれば、納得する。



▼気圧や表面の加減もあって、
今回のW杯公式球は一層気まぐれなのだそうだ。

その球がまずは無回転で、
次に強烈に回転して、
最後はコロコロと、3度デンマークゴールに吸い込まれていった。

試合後に中沢佑二選手が
「泥臭くてひた向きな戦いができた」と言っていた。
そんな姿勢がボールを味方につけたのだ。



▼中継を見ている間に明らんでいった空に、
日本代表の新たな勲章への期待が広がるようでもあった。

次の相手は南米パラグアイ。
選手には、クラマーさんの言葉をもう一つ贈ろう。

「君は今、大変なことをやろうとしている。
 大変なことだから素晴らしいのだ。
 素晴らしいことをする人間が、くじけてはいけない」




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デットマール・クラマーさんの、こんな言葉も思い出します。



「サッカーは
 トイレのサンダルと同じだよ…。

 トイレで用をすました後に
 サンダルをそろえておかないと
 次に使う人はどうなる?

 サッカーは思いやりだよ。


 パスを受ける人の立場になって
 受けやすいボールを出すことから始まるんだよ。

 これから何十年も続く君たちの人生も一緒だよ。


 人を思いやる気持ちを大事にしなさい




サッカーからも、学ぶことはたくさんありそうです。










 
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