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 我が生死観




私はここで、生死観を考えるにあたって、

人間が生命飢餓状態になった場合に、

無用の長物になるような観念的要素は、

すべて、問題の外におくこととする。


そして、生命飢餓状態になった私自身にとって

大映しになってきた問題だけにしぼって考えることにする。


生命飢餓状態に身をおいて考えてみると、

平生は漠然と死の恐怖と考えていたことが、

実は、二つの異なった要素を含んでいることがあきらかになる。



その一つは、死そのものではなく、死にいたる人間の肉体の苦痛であり、

他は、生命が断ち切られるということ

すなわち、死そのものに対するおそれである。



この二つは、質的には、まったく異なった要素でありながら、

両者は、時間的にはほとんど同時に人間を襲ってくる。

それで、多くの場合に、両者は混同されてしまう


ところかまわず襲ってくる激痛、高熱、吐瀉、下痢、喀血、呼吸困難、

このような思ってもゾッとするような苦痛なしには、

この人間の肉体は、生命を失ってゆくことのできない場合が多い。


それだけに心を奪われて

それだから自分は死ぬのが怖いのだと思っている素朴な人も多い


しかし、これは、前山の高さに気をとられて、

そのうしろにひかえている真の高山を見誤る考え方である。


肉体の苦痛はいかに激しくとも、

生命を断たれることに対する恐怖は、それよりももっと大きい



(中略)


そこで、死の恐怖について、

死にともなう肉体的な苦痛と、死そのものとを分ける。


そして、ここでは、死の、より中心的な問題として、

生命を断たれるということをめぐる問題だけに、焦点をおいてみる。



生命を断ちきられるということは、

もっとくわしく考えると、どういうことであるか。


それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、たしかである。


呼吸はとまり、心臓は停止する。

もはや肉体は、個体としての機能的活動をしなくなる。

その結果、肉体はあるいは腐敗し、あるいは焼かれ、自然的要素に分解する。

このように、死によって肉体が分解するというところまでは、

近代文化の中では、だれの考え方も一致する。


しかし、生命体としての人間を構成しているものは、

単に、生理的な肉体だけではない。


すくなくとも、生きている間は、

人間は、精神的な個と考えるのが常識である。

生きている現在においては、自分というものの意識がある。

「この自分」というものがあるのである。


そこで問題は、「この自分」は、死後どうなるかという点に集中してくる

これが人間にとっての大問題となる。





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死の恐怖を二つに分けると、


肉体的苦痛と、死そのものに対する恐れ。


後者は、いわゆる「スピリチュアルペイン」のことでしょう。



この混同が、死を余計に分からなくさせている。


(これは確か、ショーペンハウエルが「自殺について」で言っていた気が。

 後日、紹介したいと思います)



肉体的苦痛から逃れたいがために、安楽死を望む人がいるのも、

この当たりに注目した議論を中心に、展開するべきと思います。


肉体的苦痛に関しては、緩和医療の進歩によって、

かなりのことが出来るようになっていると聞きます。

(大津秀一先生の本とかによると)



なればこそ、いよいよ問題になるのは、

「この自分は、死後どうなるか」ということ。


人間にとっての大問題に、正面から取り組むべき時代になってきているようです。



とはいえ、肉体的苦痛は、医学の分野ですが、


「人間にとっての大問題」と言われるこの問題は、


正直、医学の範囲を超えた問題。



だからといって、放っておいていいことでもないはず。



その辺のバランスが、カギになりそうです。












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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 我が生死観


   二つの立場



生死観を語る場合には、二つの立場がある。


第一の場合は生死観を語るにあたって、

自分自身にとっての問題はしばらく別として、

人間一般の死の問題について考えようとする立場である。


これは、いわば、一般的かつ観念的な生死観である。

もちろん、自分も人間であるから、

自分というものも、広い意味では、その中にはいっている。

このような生死観も有用である。


自分も含めた意味での人間の生死観の考え方を整理しておくことは、

いざという場合の基礎的な知識となるからである。



しかし、もっと切実な緊迫したもう一つの立場がある


それは、自分自身の心が

生命飢餓状態に置かれている場合の生死観である。


腹の底から突き上げてくるような生命に対する執着や、

心臓をもまで凍らせてしまうかと思われる死の脅威におびやかされて、

いてもたってもいられない状態におかれた場合の生死観である。


ギリギリの死の巌頭にたって、

必死でつかもうとする自分の生死観である。



この第二の立場の場合には、

第一の立場には含まれなかったもう一つのはげしい要素を加えている。


それは、人間が健康で生命に対する自信にみちて、

平安の日々の生活を営んでいる場合には、

まったく、思いもかけない要素である。


人間が、生命飢餓状態におかれた場合に表れてくる生命欲の激しさである。


生命欲は、生理心理的な一つの力である。

いつでも人間の心の底に潜んでいるに相違ない。

しかし、人間は、平生はそれをそのままでは感じない。

それがいざとなると、猛然と、その頭をもたげてくる。

そして、激しい生への執着となり、死に対する恐怖となって現れる。



この要素を加えると、人間の生死観は、

何か質的にも別個のものになったかと思われるほど、

第一の観念的な立場とは、ことなってくる。




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この二つの立場の違いは、


そのまま、医療者(健康な人)と、

患者さん(特に末期の)立場の違いでもある。




医療者の死生観と、患者さんの死生観は、

質的に別個のものと思われるほどに、かけ離れている、ということになる。



法律を作るのも、

治療方針を立てるのも、

生命倫理の決まりをつくるのも、

基本的には、前者の仕事。



この差を埋める努力こそが、

鍵を握るのは、間違いないと思います。








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「私の死」と無痛文明



本物の「私の死」は容易に発見できないけれども、

完全な次元にまで薄められた「死のイメージ」が、

あたり一面にあふれているような社会、

それが無痛化された社会だ。



本物の死を隠すために、偽物の死をばらまくのだ。


本物の「私の死」と「死の恐怖」を隠蔽しようとする文明こそが、

もっとも饒舌に、薄められた「死のイメージ」について語る



このような社会では、

本物の「私の死」について語ることは、

徹底して避けられなければならない。



語らざるを得ないときには、あくまでひそひそ声で、

他人には聴かれないようにして話さなければならない。


殺人、自殺、戦争、流血。

メディアにあふれるそれら「死のイメージ」の洪水からは

まったく切り離された、隠れた場所で、

ひそひそ声で本物の「私の死」についての会話がなされるという

倒錯した文明、それが無痛文明だ。



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遠回しな表現、婉曲的な言い方を好む日本人の言葉遣いに、


死のイメージを薄めて、和らげて、オブラートに包んでいる、


死を避けたい気持ちがよく表れている気がします。




もちろん、抜き身の刀のように、

誰もが嫌がる死について、傍若無人に語るのはどうかと思いますが、


けれども、極端に恐れ、本物を隠し、

偽物をばらまいて、わかったつもりになってしまっていては、

やはりしっぺ返しを食うことになります。



「無痛文明」とは、お見事な表現だと思いました。












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第三章「義」――武士道の光輝く最高の支柱


「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である





本章で私たちは、サムライの規範の中で

もっとも厳しい教えを明らかにしよう。


サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはない


ある高名な武士〔林子平〕はそれを決断する力と定義して次のように述べている。


「勇は義の相手にて裁断の事也。

 道理に任せて決定し猶予せざる心をいふ。」



また他の武士〔真木和泉守〕はいう。


士の重んずることは節義なり

 節義はたとへていはば人の体に骨ある如し

 骨なければ首も正しく上にあることを得ず。

 手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。


 されば人は才能ありても学問ありても、

 節義なければ世に立つことを得ず。


 節義あれば不骨不調法にても

 士たるだけのことには事欠かぬなり」と。


孟子は 「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」 といった。




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藤原正彦さんが、「国家の品格」や、文芸春秋の「日本国民に告ぐ」 でも紹介されているように、

こういう精神を、今一度、振り返ってみることは大事なことだと思います。

お手本が、日本の中にあるならば、

日本に誇りを持てるきっかけにもなりますし、

一石二鳥ですし。







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「私の死」と無痛文明



「私の死」とは、

もっと存在を続けていたいという私の意志を裏切って

何か大きな力によって、「否応なく連れ去られてゆく」ことである。


私の意志に反して、私が否応なく連れ去られてゆくという、

この「無慈悲さ」に対して、大きな恐怖が生じるのである。


健康であっても、病気になっても、

私は出来ることならもっと長く生きていたいと思う。

死に直面するような事態になれば、なおさらそう思うことだろう。


もっと生きていたい、

もっと存在を続けていたい、

もっといろんなことを感じていたい、

考えていたい、おしゃべりをしていたいという願いを、

まったく聞き入れないかのようにして、

私は無慈悲に、残酷に、無へと連れ去られてゆく。


もう少しだけ待ってくれといくら懇願しても、

死はそれを聞き入れようとはしない。


砂時計の砂が最後の瞬間に落下し尽くすのを

もはや誰にも止めることができないように、

死は私を無慈悲に連れ去る。


いくらじたばたしても、泣き叫んでも、許しを請うても、もがいても、

これは夢に違いないと念じても、

まったく無関係に私は連れ去られてゆく。


私の意に反して、無理やりで、聞く耳をもたず、無慈悲であること、

これが恐怖の源泉である。





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不治の病に罹るということは、

少なくとも、こういう思いを抱えることになる、と言えると思います。



死ぬこと以上の不条理は、きっと無いのでしょうが、

そういう患者さんに接することになるんだという自覚をもつことを、

今は大切にして、自分に何が出来るだろうかと、考えていきたいです。









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「私の死」と無痛文明



死の恐怖は、末期医療の現場で、大きな課題となる


死にゆく患者は、

死ぬのは痛いのではないか、

苦しいのではないかという恐怖をもつ。

また、親しい人々や家族と永遠に別れなければならないことの恐怖もある。

やり残した仕事を完成できない苦しみもある。


医療従事者たちは、末期患者に適切な治療をほどこしながら、

こころの面でのケアを模索している。


近年、肉体的な痛みはかなりコントロールできるようになってきた。

家族や仕事についての苦しみも、

残される人々と密接なコミュニケーションを取り合うことによって、

緩和される可能性がある。


それらの苦しみが緩和されたあとに残るのが、

スピリチュアルな苦しみと呼ばれるもの、すなわち、

「私の存在」がこの世から消滅してしまうという観念のもたらす苦しみである。


「死んだら、もう何もなくなるんでしょうか」


と医師に切々と訴える患者が抱えているであろう苦しみ。


それは肉体や、人間関係の苦しみとはまったく別次元で生じてくる、

もっとも底の深い「死の恐怖」という苦しみなのである。



そもそも、私が私であるための中心軸は、

私の死という事態を正面から捉えたときに発見されるのであった。


「私の死」と「死の恐怖」をどう考えるのかという問いが、

無痛文明論の最底辺にあることは間違いない。


死の恐怖から目をそらそうとする衝動を利用して、無痛文明は肥え太る。

なぜなら、死の恐怖から逃れるために

われわれは無痛文明が供給する娯楽装置や目隠し構造などに全力でしがみつき

社会の無痛化を後押しするからである。


したがって、無痛文明をその根底から解体するためには、

「私の死」と「死の恐怖」について、十分に掘り下げておかなくてはならない。

「私の死」と「死の恐怖」について思索することは、

無痛文明を解体するための必須の作業である。


この重苦しい迂回路を、われわれはどうしても経なければならないのだ。




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無痛文明、というのは、

「痛いのはイヤだ」という文明であり、


だから、

「臭いものには蓋をしよう」として、

現実を、見て見ない振りしている社会のことを言われている、

と解釈しているんですが、


そうやって、死という現実から目を反らしているんだと。



自分がいざ死んでいかねばならない時まで、

逃げられなくなるまで、必死の抵抗を試みているのが、 私。



そんな文明の医療は、果たして大丈夫なのか。。。








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竜馬がゆく〈3〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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京の春



「藤兵衛、人間はなんのために生きちょるか知っちょるか

と、竜馬は膳ごしにいった。


事をなすためじゃ

 ただし、事をなすにあたっては、人の真似をしちゃいかん」


世の既成概念をやぶる、というのが真の仕事というものである、と竜馬はいう。
だから必要とあれば大名に無心をしてもよい。

竜馬自身がひそかに書きとどめた語録では、


「世に生を得るは事を成すにあり」


ということばになっている。



「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。

 いったん志を抱けば、

 この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、

 いやしくも弱気を発してはいけない。

 たとえその目的が成就できなくても、

 その目的への道中で死ぬべきだ。


 生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」



右の意味は、竜馬の持論で、

かれはつねづね友人に語っていたが、これを木の本の宿で藤兵衛にも語った。


ぶるっ、と藤兵衛の胴がふるえた。


竜馬の眼にめずらしく鬼気がある。



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こういう決意ができたら、強くなれるんだろうなぁ、と憧れます。


自分の進むべき道がハッキリして、

やるべきことを、ひたすら実践するのみ。



自分はいったい何を為すべきか。



よく考えて、ハッキリさせて、それに向かって驀進する人生を送りたいものです。






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無痛文明論/森岡 正博
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「私の死」と無痛文明




「私の死」の観念が私を襲うとは、(中略)

そのときに私を襲う恐怖とは、どのようなものか。


それは、まず、私が地面に両足で立とうとする力を、

足元から骨抜きにするような恐怖である。


あるいは、肺を使って息をしようとする営みを、

大きな力で外側から締め付けてくるような恐怖である。


私が、この地上に立って、前に向かって進んでいける、

そのふんばる力のようなものが、一瞬にして無化されるような恐怖だ。


たとえて言えば、私の心身を支えるものが何もなくなる感じ


思考が働かなくなり、

身体もこわばって動かなくなる。

そして、暗黒の闇に無限に落ちてゆく感じ



その状態に陥ったとき、私は、

いままで自分が信じてきたもの、

大切にしてきたもの、

寄りかかってきたもの、

作り上げてきたものが、

一瞬のうちに無意味になるのをみる


いままで生きてきて、いろんなものを築き上げてきたし、

自分なりの世界観や価値体系も身につけてきたが、

それらが一挙に崩壊する


なぜなら、それらの多くは、

この私がこれからも生き続けていくということを前提にして

作り上げられたものだからであり、

さらには、私の死後もそれらがこの世界の中で存在を続けていく様子を、

私がどこからか覗き見ることが出来るだろうと

漠然とした前提のもとで作り上げられたものだからである。



「私の死」という観念は、その前提を崩壊させる

私がいままで漠然と依拠してきたものごとが、

瞬時に崩壊するという感覚が、私を襲う。




そのときに私が取る態度は、ひとつである。

「とにかくこの場を逃げ出したい

「私の死なんて見なかったことにしたい

「いますぐ別のところに目をそらして、この出来事を忘れ去ってしまいたい」。

そう、それを見なかったことにできるのならば、何をしてもいいという衝動。
それを見なくて済むのなら、他人を階段から蹴落としてもいい、

人殺しをしてもいいという感覚が、私にはある。


逃げ出しても、問題を先送りするだけのことだというのは分かっているのだが、

それでもとにかくいまは逃げ出したい。

その衝動に勝てない。


手元にあるラジオのスイッチを入れる。

深夜放送から流れてくるパーソナリティのしゃべりが、最高の救いに感じられる。


部屋のテレビをつける。お笑い番組をやっている。

こういうときに見る番組は、馬鹿馬鹿しいものほどよい

そこに感じられる、他愛のない人々の笑い声やざわめきが、

私を恐怖から遠ざけてくれる。



無痛文明が提供する目隠し構造に、私がすがりつく瞬間である。

こうやって私は、恐怖から逃げ出し、

考えるべき問題を先送りにしてきたのである。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



こういう風に、死を実感を込めて表現するのは、

なかなかできることではないかと思いますが、

なんとなく分かる気はします。




まだまだ生きていられる、という前提のもと、

色々なことを考え、計画を立てていますが、

そもそも生きていられる保証は、確かに無いわけで。


「でも、そんなこと言ってたら、生きていけないし」

と言いたくなりますが、

言うなれば、それもまた、死の前では、虚しい言い訳に過ぎないのでしょう。



そして、そうやって先送りにして、後回しにして、

臭いものに蓋をして、考えないようにして、

生きていることを大前提にしています。


迫りくる、恐ろしい未来については、

よほど意識しないと、

そして、重要性を自らに言い聞かせないと、

医者になっても、自分が病気になって、

いつまでも向き合おうとしない気がします。



まだ、学生のうちに、

というか、早いうちに、今のうちに、

手遅れにならないうちに、

よくよく自分の心を見つめていきたいものです。







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深海/Mr.Children

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 Mirror Mr.Children



人前で泣いたことのない
そんな強気なあなたでも
絶望の淵に立って迷う日もあるでしょう

夢に架かる虹の橋
希望の光の矢
愛を包むオーロラの
カーテン

そのすべてが嘘っぱちに見えて
自分を見失う様なとき


あなたが誰で何の為に生きてるのか
その謎が早く解けるように

鏡となり傍に立ち
あなたを映し続けよう
そう願う今日この頃です



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「自分は何のために生きているのか」


患者さんの、その謎が解けるように、


鏡となり、傍に立ち、心を映し続け、


心に光を与えられるような、医者になりたいと、


そう願う今日この頃です。。。




この歌も大好きです。








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7つの習慣―成功には原則があった!/スティーブン・R. コヴィー
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第一の習慣 : 主体性を発揮する


生活の主導権を取り戻す






私たちの影響の輪のもっとも中心にあるものは、

約束をし、それを守る力である。


自分自身や人に対してする約束それに対する誠実さが、

私たちの主体性の本質であり、その最も明確な表現だろう。



それは人間の成長の基礎でもある。

自覚と良心という人間の持つ独特の性質を活用することにより、

私たちは自分自身の弱点、改善すべき点、伸ばすべき才能、

または生活の中で変更すべき、あるいは取り除くべき点を意識することができる。

これを踏まえて改善を図るためには、想像力と自由意志を活用し、

自分自身に対して約束をつくり目標を設定し、それを守ることが必要になる。

これにより自分の人格の強さが作り上げられるのである。


その人格の強さこそが、質の高い生活を可能にするのだ。




ここですぐに自分の生活の主導権を取り戻す方法を二つ提案したい。

ひとつは、約束をし、それを守ることである。

もうひとつは目標を設定し、それを達成するために働くことである。

どんなに小さなことでも、

自他に対する約束を守ることによって内的な誠実さが育成され

自制心と自分の人生に対する責任引き受ける勇気と力が湧いてくる


自他に対して約束をしそれを守ることで

少しずつ私たちの誠実さと自尊心が、

その折々の感情よりも大きな意味と力をもつようになる。


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自分自身との約束。


決意。


やると決めたことを、きっちりやる。


実は、中々難しいことです・・・。



しかし、自分で自分を裏切ったり、ウソをついていると、

だんだんと元気がなくなってきたり、後ろめたくなってきたり、

自身が無くなってきたりと、善いこと無し。



自分との約束を守ることが、主体性を持つということであり、


自由な生き方をすること。




自分の思い描いた夢に向かう決意をして、

それに向かって、ひたすら走れれば、


一歩一歩に、大きな意味が生まれるし、


困難をも乗り越えようとする大きな力が湧いてきます。




自分の施す医療に、どんな意味があるのかを、

よく知った上で、医者になりたいです。



いのちに向き合う医者になる、と、自分と約束をしたので。




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