医療のための人間学/産業医科大学綜合人間学カリキュラム小委員会
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死から目をそむける医師



内科医であり、かつ日本で最初の医学教育の教授であった

順天堂大学の故・吉岡昭正氏は、

死を見取る医療について学生に講義する立場にありながら

自分自身大腸がんにおかされ、

最後の一日まで自らの死を見つめながら

『死の受容』(毎日新聞社刊)という手記を書き残されました。


その一節に、医師が死にゆく患者から足を遠ざける過程

次のように描写されています。



「患者の死がだんだん近づき、苦痛を訴える回数が増え、

 あきらめながらも もの問いたげな患者の眼を避けるために、

 次第にベッドから遠ざかって会話を避け、

 もっぱら看護婦に鎮痛剤の投与を支持するだけになる」



この傾向は、死を真近にした患者の受持ち医の大部分に

共通した態度といえましょう。


このような患者を喜んで受け持つ医師はごくまれです。

看護婦も同様です。



ある病院で、重症患者がナースコールを鳴らしてから

看護婦がその部屋のドアを開けるまでの時間を計ってみました。


すると、患者が重症で、死に近ければ近いほど、

看護婦がたどり着くまでに時間がかかっていることがわかりました。

彼女らもまた、臨死患者のそばへ行くのつらいのです。


この傾向はさらに、患者に病名を告げない習慣によって増幅されます。

一度ついたウソは最後までつき通さなければなりません。

それどころか、患者自身が病状の悪化から今までの説明に不信感を抱いたとき、

さらにウソの上塗りをしてだまし通さなければならないのです。


疑わしげな本人の眼と眼を合わせないようにして、

「今によくなるからがんばって」など、空々しい言葉を交わすときのつらさ

――これは共謀関係にある家族も同様でしょう。



患者自身も、自分の病状が重いことがうすうすわかっているときに

病室をノックする医師は、脈を取りながら何気ないお天気の話などをして、

「明日は晴れるといいですね」

などとその場を取り繕ってそそくさと立ち去るのです。

死に近い患者を避けるこの態度は、

医師(あるいは看護婦・家族も)自身の死への恐怖の投影ではないでしょうか。



患者の死にあたってセレモニーのように続けられるはかない救命処置も、

医師自身が懸命に死を否定したい願望の表現ではないでしょうか




(つづく)



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医師自身が、死と向き合うことが、

死に瀕して、一番支えを必要としている患者さんに寄りそうための、

第一歩である気がします。



病理学の授業で、


「自分が知らないことは、

 たとえ目の前にそれがあっても、それを見ることはできない」


というようなことを教わりました。



臨床においても、患者さんの心においても、

同じことが言えるのではないかと思いました。







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なぜ生きる/明橋 大二
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闇の中を走っているから、

何を手に入れても、安心も満足もない




過剰なまでの「健康ブーム」です。

どんな食生活が病気にならないか、遺伝子組み換え食品は安全か、

環境ホルモンの汚染は大丈夫か、テレビでも雑誌でもさかんに取り上げられています。

風邪だと言われても驚きませんが、

「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎです。


それらは死に至るからでしょう。

ティリッヒ(ドイツの哲学者)は『生きる勇気』で、

人間は一瞬たりとも、死そのものの『はだかの不安』には耐えられない

と言いました。


死と真っ正面に向き合うのは、あまりにも恐ろしいので、

病気や環境問題と対決しているのでしょう。


核戦争が怖い、地震が恐ろしい、不況が心配というのも、

その根底に「死」があるからではないでしょうか。


私たちは、「死神の掌中で弄ばれる道化」ともいわれます。


どれだけ逃れようともがいても、死に向かってひた走っているのです。


しかもその壁の向こうはどうなっているのか、まるで知りません。


未来がハッキリしないほどの、不安なことがあるでしょうか。


先の見えない闇の中を走っているから、

何を手に入れても、心から明るくなれないのでしょう。


「この苦しみは、どこからくるのか」

----人生を苦に染める真因が分からなければ、真の安心も満足も得られません。



苦しみの元を断ち切って、

「人間に生まれてよかった!」という生命の歓喜を得ることこそが、

人生究極の目的なのです。



死をありのまま見つめることは、

いたずらに暗く沈むことではなく、

生の瞬間を、日輪よりも明るくする第一歩といえましょう。



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「医学の役割は、死を考えないようにさせること」


と言った医者がいましたが、

それは、どんなに頑張ってもできないことでしょう。


気持ちは分からないでもないですが。


逃げられないことは、逃げられないと、潔く受け止め、

嫌なことでも、ありのままに見つめる勇気を持つことが大切だと思いました。









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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 どうしようもない



(つづき)



昔、秦の始皇帝は、

自分の肉体的生命を保ち続けるためであれば、

どのような努力も惜しまなかった。


不老長寿の薬を探し求めるために、

わざわざ、使いを東海の果てにある日本にまで送ったという。


それは、子供の夢にも等しいことであった。

しょせん、達することのできないあがきであった。


しかし、現代人は、あえてこれを嘲笑することができるであろうか

現代人が死に立ち向かった場合に、

秦の始皇帝より、少しでも、すぐれた態度をとり得ているということができるであろうか。




死を予想させるような病気にとりつかれた場合に、

現代人はどうするか。


現代人の大部分は、それに対する心の用意を何も持っていない。


そこで、生命を医者に任せるよりほかはない。


ところで、医者は、決して病人を死に直面させない。

現代医学の慣習的常識である。


医者は、病人に、「あなたは、もうダメです。覚悟なさい」とは言わない。

最悪の場合でも、「まだまだ、だいじょうぶです」という。


半ば、死の恐怖に襲われ、わらでもつかみたい気持ちの瀕死の病人は、

その言葉に、自分から進んでだまされる。

それを信じきった気持になる。


そして、しいて、迫りつつある死から、目をそむける


もう一度、肉体の健康を回復したときのことなどを考えて、

弱った心の中に、わずかな希望の光を見出す。

このようにして、瀕死の病人は、一寸刻みに、残された生命に取りすがっている

そのうちに、病気が頭を冒して、意識が混濁してしまうのである。



すなわち、現代人は、肉体的生命だけをたよりにして

ついに、最後まで死を意識することなしに、死んでゆくのである。

これが普通の人間の死に方である。


肉体的生命の存続を唯一のたよりとして、

必死でそれにすがりついている態度は、

秦の始皇帝と少しも変わりはない。




それなら、結局のところ、死の問題はどうなるのか
どうにかして解決する方法があるのか。

現代人が、すべて、簡単に納得するような解決は、

どこを見回しても見当たらないようである。


どうしようもないところが、問題の実状である。


しかし、この問題は、どうしようもないといって済ましてはいられない


死は、解決の方法があろうとなかろうと、現実の事実として迫ってくる。


死が迫ってくるということだけは、動かすことができない。

宿命的な事実である。


死の問題は、どうしても解かなければならない問題として、

人間のひとりひとりに対して、くりかえしくりかえし提起される。







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できることを精一杯やることは大事です。


だから、医学としてできる精一杯のことを、


肉体的生命に対して施すことは、大事です。




しかし、その肉体的生命と、


「死そのもの」 あるいは 「『私』は死んだらどうなるのか」


の問題を、混同しては、本質を見失ってしまいます。



どうしても解かなければならない問題は、


正面から取り組む以外になく、


肉体的な問題で忙しいから、手がつけられなかった、というのは、


言い訳にはならない問題であることを、忘れないようにしたいです。













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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 どうしようもない




人間は、どうしても死ななければならない。

しかし、どうしても死にたくない。

この矛盾を解くためには、どうすればよいのか。



(中略)


自分は死んでも、自分の成し遂げたものは残る。


これは一つの解決である。

「人は死しても名は残る」


家族や親しい友人たちは、死後も自分のことを覚えていてくれるであろう。

時々は思いだして、自分の墓に詣でてくれるかもしれない。

このような考え方は、たしかに一つの慰めになる


単に慰めになるのみならず、最近の心理学の研究も、

これを死の問題に対する部分的な解決としては、支持するであろう。


自我構造に対する心理的分析が進んできた結果、

こうした意識も、自我意識の大切な一部であろうことが、立証されてきたからである。



しかし、これは結局のところ、部分的な慰めでしかない



自分の生命に対する執着のすべてを、

後に残る人々の思い出の上にのみ託して

従容として、死につくことができる人は、極めてまれだからである。



つきつめたところ、人間は、

この自分自身が、いつまでも生きていたいのである。



(つづく)



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本質を、避けては通れない。


辛くとも、どんなに困難でも、


正面からぶつからなければならない壁が、あるということを、


まずは受け入れることを、訴えているように思います。




A/浜崎あゆみ
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End roll     浜崎あゆみ


 もう戻れないよ

 どんなに懐かしく想っても

 あの頃確かに 楽しかったけど

 それは今じゃない



死に臨む際に、「今」の心を支えてくれるものとして、


思い出だけでは、足りないのかもしれません。



思い出を、後悔の色に染めないためにも、


死と正面から向き合い、人間としての大問題を解決するために、


注力したいと思います。











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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 死は必ず来る




人間の、自分の生命に対する自信と安心感とは

心の表面に張った薄氷のように、薄い意識の層にすぎない。

それを、一枚めくれば、その裏には、危うい限りの生命の現実がある


死は、いつ襲いかかってくるかわからない。

死は、いたるところで、牙をみがいている。

まっくらな口を大きく開いて、忍び寄ろうとしている。


ただ、人は、薄氷の上をわたりながら、

自分の踏んでいる氷が、

そのように薄いものであることを感じないだけである。


いつ崩れ始めるかわからない安心感の上にあぐらをかいて、

たよりにならないものをたよりにして、

生きているのである。



死が実際に自分の上に襲ってきたら、どういうことになるのか。


自分は床の上で、最後の息を引きとる。

息の絶えた自分の死体は、棺桶に納められる。

火葬場に運ばれる、この身は、牢獄のような火葬場の釜の中に置き去りにされる。

そして、一瞬のうちに、焼き尽くされてしまう。

自分は、白骨と髑髏とひとにぎりの灰だけになる。



自分がなくなるというのは、一体どういうことか。


いま、ものを考えているこの自分というものがなくなるのである。

自分にとっての、何もかもがなくなってしまうのである。

これは、考えようとしてみても、うまく考えられない。

つかみどころのないような事柄でありながら、

思っただけでも、身の毛のよだつようなことである。



死というものは、

自分から遠いところにあるものだと思うことは、各人の勝手である。

健康な人間の特権と考えてもよいかもしれない。



しかし、生きることに安心しきっている人間にも、

死は、ことによると、そのすぐそばまで来ているかもしれない


死は突然にやってくる。

思いがけない時にやって来る。

いや、むしろ、死は、突然にしかやって来ないといってもよい

いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じないのである。


生きることに安心しきっている心には、

死に対する用意が、何も出来ていないからである。


現代人の場合には、ことにそうである。

平生、死を全く忘れているだけ、

死に直面すると、あわてふためいて、なすところをしらない。

しかも、死というものは、ひとたび来るとなると、実にあっけなく来る

まことに無造作にやって来る

無造作であるばかりでなく、傍若無人である。

死は、来るべからざる時でも、やってくる。

来るべからざる場所にも、平気でやって来る。



ちょうど、きれいに掃除をした座敷に、

土足のままで、ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。

それではあまりムチャである

しばらく待てといっても、決して待とうとはしない。


人間の力では、どう止めることも、動かすことも出来ない怪物である。




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自分の都合や、希望、願いや想いとは、無関係にやってくるところが、

死の恐ろしさの、一面です。


死は、


突然に、


あっけなく、


無造作に、


傍若無人に、 やってくる。



待ってもくれず、


抵抗もできず、


全てを奪われてしまう。




そんな未来を抱えながら、


ひとは、何のために生きるんだろうか。











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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 人は忘れている





健康な人間は、死が、いつ来るかわからないということを忘れて、

その日その日を暮らしている。


やがて死すべきものが、

いつまでも死なないような気持で、生きているのである。




その点では、厳密にいえば、

人間の日常生活は、一つのごまかしの上に営まれている。

これは、少しも悪意のないごまかしである。


しかし、もっとも深刻なごまかしであるというよりほかはない。


このごまかしは、現代人において、ことに著しい。


現代の社会生活のいくつかの要素が、

そのごまかしを、より容易ならしめているからである。

それは、現代文化のもつ必然的性格ともみることができる。






第一には、生活水準の著しい向上が、そのごまかしを助けている。


生活水準の向上によって、死が日常生活の表面から遠ざかったからである。



まず、人間の平均寿命は驚くほど長くなっている。


さらに、医学的技術の進歩によって、

死の床における肉体的苦痛は軽減された


のみならず、社会的施設の整備によって、

死体の処理が美化され、死が醜悪なものでなくなった



これらは、人間にとっての死の意味を変えずにはおかない。

現代人は、昔の人がどれほど朝夕死におびえながら生活していたかを

想像することすらできないほどになっている。


それほど、現代人は、生の自信になずみ、

死を忘れて生活しているのである。




第二には、近代社会の分業組織が、それである。


現代人の人生観に大きな影響を与ええている。


人間の生活が、分業組織の発達の結果として、

部分的な、断片的なものになった。


現代の大衆の生活は、ある一つの仕事の全体には向けられない。


断片的な部分に、労力の切り売りをするように仕組まれている。

その生活の様相は、人間の思考の仕方をも、必然的に規定する


生活態度全体が、断片的、刹那的になってきたことは、

やむを得ないといえば、やむを得ないことである。


目前の刺激に対しては、活発に反応する。

しかし、人生全体の見通しの上に立ってものを考えることをしない

いきおい、人生の究極にある死を思うというようなことは、困難になってきている




第三には、能率中心の機械文明である。


都市社会は、次第に、機械を中心にした構造に造りかえられつつある。

能率の良い機会に立ち向かうには、人間も能率的でなければならない。


こわれた機械は、たちまちにすてられ、新しい機械にとりかえられる。


人間も、病気で倒れ、あるいは生命を失って、役に立たなくなれば

健康な能率的な人間とおきかえられなければならない。


そして死んだ人間は、忘れられてしまう

機械文明の社会は、健康な人間だけのための社会である。

現代社会は、死を認めまいとするような構造をもっている。




このような特徴を内蔵する現代文化の、もう一つの性格は、

それが大衆のための分化であることである。



近代における、個人の目覚め、通信交通機関の発達、

マス・コミュニケーション、等々は、

現代文化をますます大衆のものにしてゆく。


いつの場合にも、人間の社会において、病者は少数である。

大衆は健康である。


それゆえ、大衆を中心とする文化は、健康な文化である。

現代文化は、そうした性格をもっている。





このような文化環境の中で育てられた人間が、

死を忘れて生活しているとしても、不思議はない。


それをとがめることは、むしろ、現代の文化の動向に逆行するものである。





しかし、現代社会が、たとい、死を忘れたとしても、

それは一人々々の人間が、

死の問題を解決したということではない


まして、人間が死ななくなったということではない。


問題はやはり、そのまま残っているのである。







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本質を見失わせるような要因が、


文化文明の発達とともに、増えてきてしまったという皮肉。




どんなに便利で豊かになっても、

それを扱う人間がいるのであり、


人間の幸せのための道具であることを忘れてはならないのでしょう。



便利さや、物質的な豊かさと、

人間にとっての幸せは、違うものであることは、

多くの人がうすうす気付いていることだと思います。



人は何のために生きるのか。


人間にとっての幸せとは何なのか。



現代の思想の流れ、社会の問題点は、

人類永遠のテーマに、向かおうとしているのかもしれません。













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なぜ生きる/明橋 大二
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「生きることに意味(何のため)もクソもないし、

 まして、生きなきゃいけない理由なんてない」

それを聞いた青年や女子大生は自殺した


 ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、

「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、

 苦悩を見ることが深くなる」

と言いました。


人生に、本当に求めるに値するものがあるのか

考えれば考えるほど、一切は無意味に思えてくるからでしょう。

「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ」と説く人も、皆無ではありません。

たとえば宮台真司氏(都立大助教授)は、

「なんのために生きるのか」という人生相談で、

「生きることに意味(何のため)もクソもないし、

 まして、生きなきゃいけない理由なんてない」

と断言しています。

その宮台氏の本を愛読した青年や、受講した女子大生が自殺しました。


宮台氏は

「誤解を恐れずに言えば、S君は僕の鈍感さによって『殺されて』しまったと言えるかもしれません」

と自著でふり返り、自分の話が

「結果的に、彼女の無意味感を高める方向に機能してしまった」ようだとも書いています。

生きる気力を喪失させる不真実な言説に、

猛然と怒りを覚えた人たちが

『<宮台真司>をぶっとばせ!』と批判書を編集したのも、もっともでしょう。

宮台氏の言うように、「なぜ生きるか」「何をなすべきか」などに悩まず

ただフワフワと外界の事象に流されるだけなら、

八十年生きるのも今死ぬのも、変わらないのではないでしょうか。


当の本人もそれに気づいてか、

そこまで流される生き方はとてもできないとも、告白しています。


  僕は「まったりと生きよう」っていったり書いたりしているけど、

  でも僕自身は女子高生たちみたいに“まったり”できない。

  ああは刹那的には生きられないよ。



人間の奥底には、

生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、

激しく鳴り響いている

とカミュは言いました。


どうしても生きる目的を知りたい、

いや知らなかったら生きてはゆけないのが人間です。

「目的なんて、考えなくても生きられるよ」と強弁する人は、

幸福なのでも不幸なのでもありません。

おそらく多忙なのでしょう。




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「結局、死について考えても、

 生きる目的を探そうとしても、

 どうせ答えはない、

 人それぞれの問題だし」


と考えてしまうと、そこで思考がストップしてしまいます。


それに、意味のないことは、何でもしたくないのが本音。


ましていわんや、自分の人生に意味がないとは思えませんし、思いたくありません。



自分の生きる目的が「分からない」「ハッキリしてない」ことと、

目的が「無い」ことは、同じではないはずなのに、


問題をすり替えているかのごとく、

目的なんてない、人生は無意味だと言う人が、意外に多い気がします。



「無知の知」

とソクラテスは言い残しましたが、


自分が、自分の人生の意義に「無知」であることを自覚すること自体が、

一つの知恵を持つことなんだと思います。

その自覚があって初めて、探求の第一歩を踏み出すことができるので。



「無知」であることを認めたくないがゆえに、

そもそも、生きることに意味なんてない、と根拠も無しに決めつけてしまうのは、

あまりに乱暴であり、無責任です。



臨床の現場では、もちろん、そんなことは言えないでしょうし。









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 人は忘れている





「徒然草」の中で、兼好は、

賀茂の「くらべ馬」(競馬)を見に行った時のことを書いている。


群衆が大勢で混雑していた。

ひとりの法師が、大きな樗(おうち)の木の上に登って見物していた。


ところが、その法師は、木の上で見物しながら、うとうとと居眠りをしている。

ときどき、木から落ちそうになる。


あわや、落ちたかと思うと、その途端に目を覚ましては、木にかじりつく。


それを、面白がってながめていたおおぜいの人々は

命知らずのばか者といって、その法師の悪口を言った



そのような光景を見ていて、兼好は、別のことを考えていた。


彼一流の考え方で、彼はむしろ、その悪口をいう大衆を、さらに批判している



  われらが生死の到来、ただいまにもあらむ。

  それを忘れて、もの見て日を暮らす。

  愚かなることは、なおまさりたるものを。



いつ死ぬ身であるか一瞬先も分からないことは、

だれもかれも変わりはない。

樹上の法師だけではない。


くらべ馬の見物をしている大衆は、みな、同じことである。


その自分の身の上を忘れて、樹上の法師のことだけを笑う愚かさを、

彼は指摘しているのである。




健康な人間は、死が、いつ来るかわからないということを忘れて、

その日その日を暮らしている。


やがて死すべきものが、

いつまでも死なないような気持で、生きているのである。




その点では、厳密にいえば、

人間の日常生活は、一つのごまかしの上に営まれている。


これは、少しも悪意のないごまかしである。

しかし、もっとも深刻なごまかしであるというよりほかはない。


このごまかしは、現代人において、ことに著しい。






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「忘れる」という漢字は、「心」を「亡くす」と書く。



「忙しい」も、「心」を「亡くす」。



忙しい、忙しい、と言い訳をして、

自分を誤魔化してはいないだろうかと、わが身を顧みることの必要性を、

徒然草では指摘している。



勉強で忙しい、

バイトが忙しい、

仕事で忙しい、などなど。


大切なことを忘れてはいないか、自問自答する機会が、もっと必要だと思いました。






関連 : 金持ち父さん ~ 忙しい人が一番の怠け者








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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 人は忘れている




死は、かならず、やってくる。

いまは生きている誰も彼もが、どうしても死ななければならない。


死が来れば自分は、永久にこの世から消えてなくなってしまわなければならない。

ところが、こうした必然の事実が、

日常生活の場においては、案外、

実感としては、心に浮かび上がってこない場合が多い。


健康な現代人は、

自分にとっては死は縁の遠いものだと思っている。


自分だけはどうしても死なないもののようにさえ

思っているのである。

人間の生きるという事に対する自信には、驚くべきものがある。

明日とも知れぬ身でありながら、

健康である限り、人間の心には、死の影がささない

死の不安がない。



きょう一日を生きてきたごとく、

明日も、また生きてゆくことは、

彼によって、問題の余地のないことである。

当然のこととされているのである。


その点、人間は、限りなく楽天的な生物だといってもよい


健康な人間が、生に対して持っている安心感は、

よく考えてみると、驚くべく強力なものである。

そのおかげで、人間は平静な気持で生きていられる。


理論的には、死刑囚と同じ立場にありながら

死の恐怖に心を脅かされることなく、生きてゆくことが出来るのである。


もし、この自信と安心感がなかったら、どうであろうか。


人間の、人生に対する態度は、全く変わったものになったに違いない。






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皮肉たっぷりですが、

反論もできません。



死に向き合おうとする心をも妨げるのが、

こういう心情な気がします。








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自殺について 他四篇 (岩波文庫)/ショウペンハウエル
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自殺について





一般的に言って、生命の恐怖が死の恐怖にたちまさる段階に到達するや否や、

人間は己が生命に終止符を打つものであることが、見いだせるであろう。


尤も、死の恐怖の抵抗も相当なものである、

――死の恐怖はいわば番兵として出口の前に立っている。


もしも生命の断末が何かしら純粋に否定的なもの、

現存在の突如とした中止のようなものであるとしたら、

まだぐずぐずして自分の生命に終止符を打っていないような人間は

誰もいなくなることであろう。


――ところが生命の断末には何かしら積極的なものが含まれている。


即ち肉体の破壊である。


この肉体の破壊に脅かされて、人々はしり込みするのである。

何故なら、肉体は生きんとする意志の現象に他ならないのだから。


それにしても、一般的に言って、

かの番兵との戦いは、遠くから我々にそう思われるかもしれないほどに

そんなに困難なものではない。


それというのは、精神的苦悩肉体的苦悩との対立ということがあるからである。


たとえば、われわれが肉体的に非常にひどく、或いは間断なく、悩んでいるときには、

他の一切の心配などはどうでもよくなってくる

――健康の回復ということが我々の唯一の関心事となるのである。



ちょうどそれと同じように、

深刻な精神的苦悩肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする

――我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。


否、もしかして肉体的苦悩が優位を占めるようなことでもあるとしたら

それこそは我々にとっては一種心地よい気保養なのであり、

精神的苦悩の一種の休止である。


ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。


即ち、並はずれて激烈な精神的苦悩に責めさいなまれている人の目には、

自殺と結び付けられている肉体的苦痛などは

まったくもののかずでもないのである。


このことが特に顕著に見られるのは、

純粋に病的な深刻な憂愁によって自殺へと駆られる人たちの場合である。



この人達にとっては、自殺は全然何らの克己をも必要としない。

彼らには自殺のための心構えすら全然必要ないのである。

彼らに付き添うていた見張り人がただの二分間でも留守したら最後、

彼らはただちに己が生命にとどめをさすことになるのである。



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肉体的な苦しみと、

精神的な、本質的な苦しみの対立、混同を見極めることが


如何に困難で、大切か、

ここ一つが問題になっているといっても過言ではないのかもしれません。



「私」というものの苦しみ、


これは、「私とは何か」という、自分探しが深く関わってきそうです。








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