- 死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
- ¥470
- Amazon.co.jp
どうしようもない
(つづき)
昔、秦の始皇帝は、
自分の肉体的生命を保ち続けるためであれば、
どのような努力も惜しまなかった。
不老長寿の薬を探し求めるために、
わざわざ、使いを東海の果てにある日本にまで送ったという。
それは、子供の夢にも等しいことであった。
しょせん、達することのできないあがきであった。
しかし、現代人は、あえてこれを嘲笑することができるであろうか。
現代人が死に立ち向かった場合に、
秦の始皇帝より、少しでも、すぐれた態度をとり得ているということができるであろうか。
死を予想させるような病気にとりつかれた場合に、
現代人はどうするか。
現代人の大部分は、それに対する心の用意を何も持っていない。
そこで、生命を医者に任せるよりほかはない。
ところで、医者は、決して病人を死に直面させない。
現代医学の慣習的常識である。
医者は、病人に、「あなたは、もうダメです。覚悟なさい」とは言わない。
最悪の場合でも、「まだまだ、だいじょうぶです」という。
半ば、死の恐怖に襲われ、わらでもつかみたい気持ちの瀕死の病人は、
その言葉に、自分から進んでだまされる。
それを信じきった気持になる。
そして、しいて、迫りつつある死から、目をそむける。
もう一度、肉体の健康を回復したときのことなどを考えて、
弱った心の中に、わずかな希望の光を見出す。
このようにして、瀕死の病人は、一寸刻みに、残された生命に取りすがっている。
そのうちに、病気が頭を冒して、意識が混濁してしまうのである。
すなわち、現代人は、肉体的生命だけをたよりにして、
ついに、最後まで死を意識することなしに、死んでゆくのである。
これが普通の人間の死に方である。
肉体的生命の存続を唯一のたよりとして、
必死でそれにすがりついている態度は、
秦の始皇帝と少しも変わりはない。
それなら、結局のところ、死の問題はどうなるのか。
どうにかして解決する方法があるのか。
現代人が、すべて、簡単に納得するような解決は、
どこを見回しても見当たらないようである。
どうしようもないところが、問題の実状である。
しかし、この問題は、どうしようもないといって済ましてはいられない。
死は、解決の方法があろうとなかろうと、現実の事実として迫ってくる。
死が迫ってくるということだけは、動かすことができない。
宿命的な事実である。
死の問題は、どうしても解かなければならない問題として、
人間のひとりひとりに対して、くりかえしくりかえし提起される。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
できることを精一杯やることは大事です。
だから、医学としてできる精一杯のことを、
肉体的生命に対して施すことは、大事です。
しかし、その肉体的生命と、
「死そのもの」 あるいは 「『私』は死んだらどうなるのか」
の問題を、混同しては、本質を見失ってしまいます。
どうしても解かなければならない問題は、
正面から取り組む以外になく、
肉体的な問題で忙しいから、手がつけられなかった、というのは、
言い訳にはならない問題であることを、忘れないようにしたいです。