7月25日付 編集手帳


「白血病です。5年生存率は3割」。


そう医師に告げられた新潟県長岡市の小学校教師水谷徹平さん(33)は、

入院先の無菌病室と担任だった5年生の教室を

テレビ電話システムでつないで授業をした


闘病体験命の大切さへの思い

 みんなの手紙に励まされていることなどを話した。


教室のスクリーンに大写しされる先生の姿を

子供たちは真剣な表情で見つめた。


快方に向かい、学校に戻れたのは奇跡と言えるだろう


◆総合学習の時間を使い、水谷さんは命の大切さを考える授業を始めた。


誕生と成長の過程を調べて自分史を作らせたり、

稲作体験や食物連鎖の学習で「いただく命」を考えさせたり、

緩和ケアに携わる医師に「生と死」を語ってもらったり



「命や生き方に対する子供たちの考え方が根本的に変わったと感じます」。


3年にわたった「いのちの授業」の実践で、

水谷さんは第59回読売教育賞を受けた



◆テレビ電話授業は

「学校にパソコンやプロジェクター、校内ネットワークがあったからできた」と水谷さん。


学校教育の情報化が進む。


無機的なハイテク機材が人と人の心をつなぐこともある。



2010年7月25日01時54分 読売新聞)



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どんな授業をされるんでしょうね。

こんな先生に出会えた生徒のみなさんは幸せですね。


もっともっと、こういう授業を、

色々な立場の人が、たくさんの場所で、

行われるようになったらいいなぁとおもいます。




茂木健一郎の「超一流の仕事脳」  2009年6月9日



“弱さ”に対する感受性が支える心の医療


            乳腺外科医・中村清吾



http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090605/158222/





今回お話を伺った外科医の中村清吾さんは、乳がん治療の第一人者だ。


看護師や薬剤師、さらに時には別の分野の専門医などと連携した

専門家のチームを作って治療にあたっておられる。


医療技術の提供だけで患者に向き合うのではなく、

患者のカウンセリングや子供のケアなども含めて、

患者のクオリティ・オブ・ライフを維持することを実践されている。


中村さん自身、以前はそうした

多岐にわたる患者との接し方のすべてを

医師が背負わなければならないと思い込まされていたという。


だから医師が患者の人間性まで思いやる余裕をなくしていたとおっしゃっていた。


今日、医療崩壊と言われている現状で、

医師に対する様々な批判が巻き起こっているが、

それを脱するヒントがそこにあるのではないかと感じた。



医師に対してもっと人間のことを考えろと言うだけでは事態は改善に向かわない。

医師の負担を軽減することも考えられるべきだろう。


患者の心のケアなどについては、

専門家をサポートすることによって、

医師は人間的な心の余裕をもって医療に臨むことができるかもしれない。


またチーム医療を実践するなかで、

医師がビラミッド構造のトップに立って指揮命令するという軍隊的な組織ではなく、

互いに個として尊重しあう意識を仲間内から持つという側面もあるだろう。


もちろん医師はその専門性においてリスペクトすべきである。

そして、ネットワークの一員として看護師や薬剤師の専門性とは

イコールのものであるという視点が大切なのだと思う。


こうした考えが必要なのは医療界だけの問題ではない。


以前から言われていることだが、

日本人はソフトウエアなど、形として表れない価値に対価を払わない傾向がある。


目に見えない専門性に対してそれに名前を付け職を与えて専門家を作り、

その人を生かすといったことが苦手である。


日本の多くの社会構造のなかで、自分がまず変わらないと始まらない

互いを人間として尊重しない現場には、必ずひずみが生まれる。


クオリティ・オブ・ライフとは数値化されないものである。

例えば医療技術のパフォーマンスの評価基準としては

例えば5年生存率や10年生存率といった数値がある。

それを基に論文を書いたりするわけだが、

クオリティ・オブ・ライフの維持・向上は、構造的に治験成績の定量的評価に入りようがない。


数値化されないものをどう大切にするのかは、

いろいろな現場で起きている本質的な問題である。


一般のビジネスではカスタマーサティスファクションというものも、

突き詰めれば数値化できないものである。


また、成果主義が導入されている現場では、

数値化されるものばかりが重視され、

数値化できないものはないがしろにされる傾向がある。


患者の側も、医師を人間として尊重する態度が求められる。

「先生にすべてお任せします」という態度は、従順な良い患者のように思えるが、

これは医師を万能なものとしていて人間として見ていないことに通じるのではないか


人間は間違いもおかすし限界もある。

それを認めないで、医師がすべてを解決しなければならないと要求するのは

とんでもないことだと強く思った。


医療崩壊の問題の根底には、医師と患者の相互不信がある


お互いが相手は完全な存在ではないことを認めあって、

お互いに成長しあう関係は構築しうるのではないか。

中村さんのお話を伺っていると、最後は「人間力」なんだと強く感じる。

それも数値化はできないものだ。

患者の弱さや苦しさに寄り添うことが中村さんの医療のベースにある。

相手の弱さやつらさに対する感受性は非常に大切なものだと思う。



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数値化されないもの、


目には見えないもの、


本当に大切なことは、そういうものであると、言葉ではよく言われるが、


なかなか実践は難しい。



人間存在そのものの、弱さや辛さ、儚さや苦しみ、


そういう、「人間らしい」、かっこつけない、赤裸々な姿にこそ、


向き合っていかないといけないとおもいます。









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竜馬がゆく〈4〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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  片袖



竜馬は、新撰組巡察隊の先頭と、

あと五、六間とまできて、ひょいと首を左へねじむけた。

そこに、子猫がいる。

まだ生後三月ぐらいらしい。

軒下の日だまりに背をまるめて、ねむっているのである。

竜馬は、隊の前をゆうゆう横切ってその子猫を抱き上げたのである。

隊列の前を横切るものは斬ってもいいというのが、当時の常法である。

一瞬、新撰組の面々に怒気が走ったが、

当の大男の浪人は、顔の前まで子猫をだきあげ、

「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」

とねずみ鳴きして猫をからかいながら、なんと隊の中央を横切りはじめた。

みな、気を呑まれた。

ぼう然としているまに、竜馬は子猫を頬ずりしながら、悠々通りぬけてしまった。

そのまま竜馬は西へ。
新撰組は、東へ。

「ね、そうでしょう」

と、まだ少年のにおいをのこした沖田総司は、土方歳三にいった。

「あれは斬れませんよ」

「変な男だな」

土方が、するどくふりかえったときは、

竜馬ははるか後方で、ちゅっ、ちゅっ、といいながら過ぎてゆく。

「驚きましたな」

と竜馬のそばにすり寄ってきたのは、安岡金馬と千屋寅之助だった。

「やつら、気が削がれたようですぜ」

「そういうものだ」

と竜馬はいった。

「ああいう場合によくないのは、気と気でぶつかることだ。

闘る・闘る、と双方同じ気を発すれば気がついたときには斬りあっているさ」

「では、逃げればどうなるんです」

「同じことだ、闘る・逃げる、と積極、消極の差こそあれ、おなじ気だ。

 この場合はむこうが無性やたらと迫ってくる。

 人間の動き、働き、の八割までは、そういう気の発作だよ。

 ああいう場合は、相手のそういう気を抜くしかない」


―――しかし。

と、いったのは新撰組の先頭をゆく土方歳三である。

「大胆な男だな」

「まあ、そうでしょうな」

と、沖田総司がうなずいた。

「しかしそれだけではない。

 われわれの気を一瞬に融かして行ってしまった。

 ごらんなさい。われわれの仲間の人相が、一変してしまっています。

 みな、子供にでも寄りつかれそうに、なごやかな顔になってしまっている」

「ふむ」

「翻弄されたのですよ、われわれは」

「らしい」

土方歳三は、にがい顔でうなずいた。

(妙な男だ。

 なにか容易ならぬ大事を企てているようでもあるし、

 単に、猫好きの怠け者のようにもみえる)




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かっちょいいですね~、こういうの。


相手の「気を抜く」。


よほどの達人でないと到達できない域なんでしょうが、


患者さんの緊張をほぐす時とか、


こういうことができたら、と憧れます。



少しでも、


心に怯えや、後ろめたさ、恐怖があったら、


こうはなれないと思います。



医師としての理想のかたちが、また一つ増えました♪







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茂木健一郎の「超一流の仕事脳」 2009年9月15日

「バガボンド」を生み出した“根っこ”

漫画家・井上雄彦


http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090914/181078/




今回、漫画家の井上雄彦さんにお話を伺って、

「SLAM DUNK」にしても「バガボンド」にしても、

クオリティが高くてしかも人気も得ているという現象の秘密が

どこにあるのかが理解できた。

作品作りのなかで井上さんがもっとも苦労されるのは

「ネーム」と呼ばれるコマ割りやセリフなどを含めた全体構成を考える時だという。


作品の成否を決めるのは絵のうまさでもなく、

ストーリーの良さやキャラクターの立ちかたでもない。

もっと総合的なものである。


マンガの場合、それがネームであり、

ネームができると1つの作品が出来たということだ。

それと同じようなことは、ほかのいろいろな仕事でもあるのではないだろうか。

ネームを作る時に

「自分の内面を奥を掘り下げていって、“根っこ”にぶつかると、

 それは必ずいろんな人に通じる普遍的なものである」

と、井上さんは言う。


だからこそ、井上さんの本は1億冊以上売れているのだが、

大切なことは、その根っこに行き着くためには、

格好をつけていたり、意気がっていたり、

中途半端なところに留まっていたのは駄目で、

裸にならなければならないという。


これはすべてのクリエーターや表現者が肝に銘じなければならないことだと共感した。

 「バガボンド」は、戦国時代を背景に描いていながら、

実は現代を描いているのだと井上さんは言う。


登場する宮本武蔵にしろ、佐々木小次郎にしろ、あれは現代の若者である。

多くの人の心を動かすものを生み出すにはどうすれば良いのかを考えるうえで、

そこには現代の感覚が投影されていなければならない。


その創造性論はとても本質的なことだと思った。

吉川英治の原作があるとはいえ、「バガボンド」は感覚が違う。

時代の風俗やトレンドという意味で、

「バガボンド」は登場したとき以来、ずっと時代の気分の先端に位置している。

その感覚があるからこそ、若者たちも読む。


作品における「感覚とは何か」というのは、

脳科学的にはまだ研究が十分に進んでいないのだが、

例えばマンガの場合、コマ割りであり絵である。

井上さんの場合、それが自分の内部に確かに存在していて、

それ追いかけながら作品を作っているのだと強く感じた。


また、商業主義の中で仕事をしている以上、

どうしても締め切りや世の中のしがらみなどで、

内容がいろいろと規定されてしまうのは仕方のないことだが、

そういうなかにあっても作者として

「正直であること」が大事だと井上さんはおっしゃっていた。



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「自分の内面を奥を掘り下げていって、“根っこ”にぶつかると、

 それは必ずいろんな人に通じる普遍的なものである」





普遍的なものの、一つのテーマ(一つの側面)は、「死生観」だと思います。


それは、バガボンドを読んでいても、


やはり「死」と向き合う武蔵の姿が、大きく描かれていますし。




医療の道を進む際にも、


“根っこ”にぶつかるまで、自己の内面を掘り下げ、


普遍的なもの、


自分にとっても、患者さんにとっても、通じる、


そんなものを見つめていきたいです。







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  物情騒然




「おおぜいさんで来るんだなあ。

 考えてみるとお前さんも大変な仕事にありついたものだが、

 ながくやる商売じゃないよ。

 いい加減なところでおやめよ」

「・・・・・」

一同、容易にかからない。

竜馬が千葉道場で鳴らした使い手だということを知っているのである。

「おれも大仕事をやる身だ。

 それもいま緒についたばかりで、命が惜しいね。

 こういっちゃなんだが、ゆくゆく日本中がおれを頼りにするときが来るだろう」


月が淡く、竜馬の顔を照らした。


「だからお前さんらと付きあっていられないのさ」


あたりが暗くなった。
月が、雲に入ったらしい。虫が竜馬の足もとで鳴いている。



「もっともおれの仕事に諸君一同が参加するなら、よろこんで請け入れてやるよ。

 船をおしえてやる。

 万里の波濤を越えて、世界の海を日本武士の海にするという仕事だ。

 日本はせまい。が、海はどこの領国でもない。

 これを舞台に大いに儲け、あたらしい海の日本をつくる。

 男子の本懐ではないか


「・・・・・」


「見まわしたところ、それぞれすぐれた面魂(つらだましい)の男ばかりだ。

 一片の侠気義心のために死をも辞せぬのが諸君であろう。

 しかしそれは、所詮はおのれの範囲を出ぬ。

 心を変えろ、心を。

 日本を背負う気になってみろ。

 その気になって背負えば、日本などは軽いものだ。

 いやそれがむしろかなしい。病み呆けた老婆よりも軽い」



竜馬は眼に涙をいっぱい溜めている。

病み呆けた老婆、という自分の言葉に、惻々とした日本への感傷がせきあげてきたのである。



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日本を変えるという、大きな夢に向かって、

ひたすら突き進む竜馬の決意が、胸に響いてきます。



こういう気持ち、少しでも持ってみたいものです。







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すべり台




人生は、いつ地面に着くか分からない

すべり台を滑って行くようなものではないだろうか?

すべり台を滑りながら、周りに色々な風景が見えてくる。

その風景を眺めながら、私たちは、色々なことを考える。


そのまま滑って行ってしまえば、いつかは地面についてしまう。

地面に着けば、衝撃とともに、人生の終わり=「死」待っている



だけど、私たちには自分が滑り落ちていくのを止めることはできない。

時間の経過とともに、私たちはすべり台の終わりに近づいていく。


滑っている間、じっとしていてもつまらないので、

私たちは色々なポーズをとってみる

ポーズをとりながらも、すべり台を滑って行くことには変わりがない。


すべり台の終わりがどこにあるか知っているもの(=神?)にとっては、

そのことも知らずに懸命にポーズをとっている私たちは、

滑稽な存在に見えることだろう。


私たちは、毎日どのようなポーズをとろうかと苦心している。

だが、どのようなポーズをとるかということよりも、

すべり台を滑って行くという事実の方が、

人生にとっては重要なのかもしれない


哲学者の口にする、「人生とは、死に対する準備のようなものである」という言い方は、

このようなことを意味しているのであろう。

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かわいくても、滑って行くことには変わりない・・・。




すべり台、、、、深い。





滑り落ちていく恐ろしさは、


無意識のうちに、こういうことを連想される恐ろしさでもあるのでしょうか。







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最上の命医 7 (少年サンデーコミックス)/橋口 たかし
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今日、瀬名さんと信じることについて話したけどさ。


(医療って、信じるより

 もっと大切なコトが、いくつもあったりするワケだし・・・)


確かにそれも凄く大事なんだけど、

仲間を信じる

道具を信じる

薬を信じるっていうのは

信じたから仕方ないって

言い訳と裏腹なモノ・・・


その言葉で

自分は悪くないって責任逃れができてしまう。


本当は、人が死んだら

誰も責任すら取るコトができないのに、ね。




そっか・・・


私は単純に、

信じるより大切なのは

自分の意見を言えるようになることだと思ってた。


でも、それ以上に、さらに大事だったのは・・・

誰も取るコトができないほどの大きな責任を感じるコト。


それを、感じていれば

誰よりも真剣に考え、

誰よりも優れた治療ができるはず・・・



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信じる、というのは、

言い訳や、責任逃れのためにすることではないはず。


本当にこれでいいんだろうか?

という疑念もまた、強く信じればこそ出てくる想いです。


そういう意味で、

信じることと、疑うことは、同じことなのかもしれませんね。


信念を持つことの大切さと、

その危うさ、気をつけるべきことの、両面を知ることが大事だと思いました。



「信じる」 という言葉に含まれる意味、心は、

善くとられることもあれば、悪く取られることもあって、難しいところです。








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21世紀への医療―これからの医師の条件/著者不明
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人間の医学への転換期   柳田邦夫



最近のマスコミでは、

しばしば悪徳医師とか犯罪的な病院のことが話題に上り、

そういう例を全般的な医学界・医療界のモラルの低下を示すものとして批判をしていますが、


私がここであえて議論の対象にしたいと思いますのは、

「生命倫理と医療」の章でも述べたように、

医者が決して悪意ではなく、むしろ善意で行っていることが、

はたしてすべて本当の意味で人間の幸福につながるものなのかという点です。



医学界でも、その点についての議論が

もっとなされねばならないのではないかと考えます。


悪意のあるものなら法律を作ったり罰則規定を作ることによって排除することができます。

しかし、善意のもとに行われている技術先行的な医療行為に潜む

危険な側面について是正するのは、かなり難しい。

当事者は間違っているとは思っていないからです。


しかし、今こそそういう医療行為を、

人間の長い歴史の中で見据えて、それが正しいかどうかということを、
根本に遡って考え直す必要があるのではないでしょうか


現代医学は非常に高い水準に達しており、いろいろな恩恵を施している。

私たちは多くのものを得たけれども、失ったものもある。


このあたりで総合的に検討しなければいけない。


そのひとつの突破口が

ターミナルケアへの取り組みに象徴的に見られる医のあり方の見直しであると思います。


ターミナルケアは医学を根源から修復しようとする性質を持つものであり、

技術優位の医学における人間復権の問題を考える上での突破口なんですね。


そういう意味では、今、重要な時期にさしかかっているという気がします。



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善意の、難しい側面は、

「自分は間違ったことはしていない」という自惚れを含んでしまうこと、なわけですね。


まあ、間違っていると思えば、それを善意とはしないので、

当然と言えば、当然なわけですが。



大事なのは、むしろ、疑うこと、

本当にこれでいいのだろうか、という自信のなさもまた、

時に必要なのかもしれません。



「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」


謙虚に、より深い反省を自分に求めてこそ、

その道を進んでいるということなんでしょうね。


医療医術の進歩発展は、

「人間として生きるとはどういうことなのか」

と、

今一度、頭を垂れて考えて見よ、

という問題提起をしてくれているように思います。



まさに、

「人間の医学」への、パラダイムシフトが迫られているのだと感じます。





■関連記事  生きる意味を教えてください(田口ランディ) ~  悪意の方が制御可能





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生命倫理と医療   柳田邦夫




医者の意識の中に悪意があるなら、ある意味で問題は簡単だと思います。


悪意を持って多くの薬を使い、虚偽の診療行為をし、

保険点数を稼ごうというのであれば、

厳しい規則を作って取り締まればいいわけですから。


しかし、問題を困難にしているのは、

悪意でなく善意で行っている研究や医療行為自体に、

効用と倫理的問題の両方が潜んでいることが少なくないという点です。


医者として患者の命を救わねばならないとか、

一日でも一時間でも長くいかさなければならないという使命感と善意は、

それはそれで大事なことなのですが、

そういう使命感も善意も決してオールマイティでない

免罪符ではないというところに問題の難しさがあると思います。


今日のような高度技術先行の時代において、

延命を善とする一元論的な考えで突っ走っていいのか。


善意の人に、ちょっと待てよと考え直してもらうとか

あるいは自分で納得してある行為をしないというのは非常に難しいですね。





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医療の使命、善意の前提にあるのは、


「医療を施すこと = 善いこと」

であり、


「命を延ばすこと、生きること = 善いこと」

です。


これが大前提であり、これを疑ったら、

医者を目指そうとは思えなくなってしまいますが、


柳田さんが言われるように、

この大前提も、「決してオールマイティではなく、免罪符にはならない」

ということを自覚することは大事なことだと思います。


この大前提が成り立つのは、

「生きる」ことが、必ず「幸せ」につながる、という更なる大前提があるからのはずです。


この大前提こそが、医療を支えているはずですが、

実はこれは、難しい問題であり、

「本当にそうなんだろうか?」というアンチテーゼが突き付けられていたりします。


自殺の問題や、

安楽死の問題が、その代表でしょうか。


命を延ばすこと、生きることそのものを否定するかのようなことが、

現実に起きており、

そして、それを強く止められずにいるのもまた、悲しいかな、現実です。


良かれと思ってやっていることを、

真っ向から否定するような人が現にいる。


これは、「生きること」が、必ずしも幸せにつながっていないからです。

そういうことが、ありうるから。



この辺を、よく考えておかないと、

極端にいえば、医療行為さえもが、善意の押しつけになりかねない、という

哀しいことになってしまう気がします。



そんなことがあっては残念すぎます。







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(つづき)


死から目をそむける医師





アメリカでの最近の調査ですが、

死への関心死の恐怖について、

医師、患者、一般人の三つのグループについて態度調査を行ったところ、

医師群はむしろ死についてあまり考えたことがない反面、

死への恐怖が最も大きかったのもまた医師群であったそうです。


この調査者はこの結果から推論して、


「医師の中には、

 自分が人並み以上に死に対する恐怖心が強いために、

 それを克服する必要から医師になった者が多い」


と述べていますが、

この言葉は筆者自身が医学を志した動機と全く一致する点、おそろしいくらいです。


調査者はさらに続けて、医師になってからの態度として、


「死ぬ患者をしょっちゅう見ることによって、

 自分自身の死から目をそらす」


という奇妙な逃避法があるといっています。

それはつまり、こういうことです。


卒業したての若い医師や看護婦は、

初めて自分が看取った末期患者が亡くなるときには強烈な印象を持ちます。

それだけ心が新鮮であるからでしょうか。


しかし、次第に経験をつむうちに彼らは無感動になり

他人の死を職業的な葬儀屋のように冷ややかに処理することができるようになります


臨終の場に当たって、新米の看護婦ほどオドオドするものですが、

ベテランの看護婦は涙一つこぼさず、
テキパキと処理できるのを見た人は多いでしょう。

医師も同じことです。


ただ内心は決して平気ではありません。


さきほどの吉岡氏の言葉は、患者の臨終の場の医師の態度に及びます。


「・・・人工呼吸とか体外心臓マッサージのような、儀礼的とも思われる処置を行い、

 それらの効果もなく、“ご臨終です”と頭を下げて記録室に急いで戻ってくる。

 家族や親戚や友人の悲歎の場を見たくない、否、巻き込まれたくないからである。
 医師にとっては、厄介だった一人の“死ぬべき患者”が死んだに過ぎないことであり、

 あとに残されているのは、剖検の申し出を

 遺族の誰に、どういうタイミングでするか、

 そして死亡診断書を書き、霊安室でお線香を上げ、霊柩車を見送るだけである」


これを書いた吉岡氏も、ここに書かれた患者と同じ立場で、間もなく亡くなりました。

医者として経験するのは常に“患者の死”であって、

自分のことではありません


たしかに最近の医療技術の進歩は大したもので、

場合によっては死にかけた人を蘇らせることも不可能ではないのです。


“人の命を救うから”医者になりたい、と志す若い人々は

このような英雄的な場面にあこがれます。


しかし、どうにも手のつけようのない末期がんの患者を前にして、

英雄の出番はありません。


“末期医療”と聞いただけで顔をそむけ

甚だしきは、“診断のついた患者に興味はない” と全く病室に顔を出さない

極端な“英雄”もいます。


しかし、患者は訴え続けるでしょう。


「先生にとって、これが何回目の経験か知りませんが、

 私にとってこれはただ一回の経験なのです」と。




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最後の「患者さんの訴え」は、常に戒めとしておかねばならないことだと思います。



「初心、忘るべからず」

「初志貫徹」


とは、よく言ったもので、

医療従事者においては、特に大事なことなのかもしれません。



経験を積むことは、


「慣れ」という 、感覚の麻痺や鈍化、アキラメになってしまうのではなく、


知識や技術の熟練はもとより、

より深い人間理解、より人の心に敏感になっていくこと、としたいものです。


経験を生かすか殺すかは、

その土台があるかないかであり、

経験から、智恵を見出すためには、

ある程度の基礎知識なり、人生観・死生観が不可欠だと思います。


経験だけでは超えられないことは、確かにあるはずで、

経験するであろうことをより生かすためにも、

医学生の内に、少しでも深く、広く、

人間について、死生観について学んでおきたいです。





■関連記事  ブラックジャックによろしく ~ どうして目をそらすんですか・・・?





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