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生と死の省察
菅 邦夫
そもそも、死は医学が取り扱い得ない事柄であると思う。
もちろん、医学は死の事実を追認する。
また生の最後の闘いに患者とともに全力を傾注する。
しかし死そのものと対決するのは、
もはや医学以上のものである。
医学がどんなに進歩しても、
生命の統一的機序が
どこで最後の一転を終結するかを予知することはできないし、
またそれに介入することもできない。
これを当然のこととして、
医学が生命や死の前に謙虚にその分を守るとき、
医学はもっとも厳粛な学問として
生命に最高度に仕えることができるのではないだろうか。
生命について考えるための、この上ない方法は、
死について徹底的に考えることである。
ここで、死の最も本質的な意味として、
死において人は全く孤独の世界に移りゆくものであることに思い至るのである。
親兄弟、夫または妻、子や孫、師や友、すべての愛する人たちに永遠に別れて、
絶対的な孤独に帰するのである。
人にとって死の恐怖は、まずさしあたっては、
死に至るまでの肉体の苦痛(他人においては見たかもしれないが、
自分自身は当然経験したことのないもの)にたいする恐怖であろうが、
それにもまして不気味で底の知れない恐怖は、
絶対的な孤独についての恐怖ではないだろうか。
しかもそれは生前すでに断片的に現れることがある。
死とともに始まる絶対的な孤独の陰影は、
不治の病におかされた人の心の中に揺曳し、
孤独の深淵の断崖から、
明るく健康的な周囲を望見することの苦悩に人を責めさいなむのである。
その苦悩がどんなに深刻なものであるか。
若くして世を去られた稀有の優れた解剖学者、東大・細川宏教授の
魂の叫びに心の耳を傾けよう。
病者らが横たわる場所からはるかに遠く
重畳たる城壁に守られて
健康な人々の社会がある
そこに溢れる健康と精気
明るさと躍動の生活
人々はよく飲み よく食らい
自信と活力にみちて
日々の生業に余念がない
たまたま城壁の畔りに来て
病者の受難の場を幣(下が目)見する人は
思わず眉をひそめて口々につぶやく
「かわいそうに
相変わらず病人が多いな」
・・・・・・・・・・・・・
病者は黙然として心を動かさぬ
「無理もない
この俺だってつい先日までは
同じようなことを考えていたのだ」
そして過日
病気などとは全く無縁なはずのその身が
突然病者の烙印を打たれ
健康人の社会から隔離されてしまった
・・・・・・・・・・・・・
(詩集『病者・花』細川宏遺稿詩集、
小川鼎三・中井準之助編、昭和五十二年、現代社)
人みな孤独であること、そのことを私たちは幸いにも普段は忘れてすごしている。
しかしふとした機会に内省や観照にさそわれるとき、
まるで荒涼とした古里を想起するように、
深い孤独感におそわれることがある。
悲しみや失意のときはもちろん、歓びや愉楽の真っ最中にさえ、
思いがけず心の隙間に孤独の想念がふっと忍び込むことがある。
日本文化の特徴とされる「わび」や「さび」も、
その本質は孤独の芸術的側面と見なしてよいのではないかと思う。
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孤独と言うのは、
自分との関係の希薄さ、喪失を感じてしまうこと、と言えるような気がします。
健康だった過去の自分と、今の自分のギャップ。
目の前にいる健康な人と、病気になってしまった自分との差異。
もはや、対等ではない関係だと思ってしまうとき、
いいしれない孤独を感じるのかもしれません。
「あの時はよかった・・・」
「本当は私もあんなふうに・・・」
「病気さえなければ、自分だって・・・」
現実と、理想・夢・希望とのギャップの間にあるのが、孤独感なのかと思います。
なればこそ、その現実を直視することが大切になるような気がします。
孤独な現実を見つめることは、それはそれで恐ろしいことではありますが、
これは乗り越えなければならない壁なんだと思います。



