無痛文明論/森岡 正博
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「私の死」と無痛文明



「私の死」とは、

もっと存在を続けていたいという私の意志を裏切って

何か大きな力によって、「否応なく連れ去られてゆく」ことである。


私の意志に反して、私が否応なく連れ去られてゆくという、

この「無慈悲さ」に対して、大きな恐怖が生じるのである。


健康であっても、病気になっても、

私は出来ることならもっと長く生きていたいと思う。

死に直面するような事態になれば、なおさらそう思うことだろう。


もっと生きていたい、

もっと存在を続けていたい、

もっといろんなことを感じていたい、

考えていたい、おしゃべりをしていたいという願いを、

まったく聞き入れないかのようにして、

私は無慈悲に、残酷に、無へと連れ去られてゆく。


もう少しだけ待ってくれといくら懇願しても、

死はそれを聞き入れようとはしない。


砂時計の砂が最後の瞬間に落下し尽くすのを

もはや誰にも止めることができないように、

死は私を無慈悲に連れ去る。


いくらじたばたしても、泣き叫んでも、許しを請うても、もがいても、

これは夢に違いないと念じても、

まったく無関係に私は連れ去られてゆく。


私の意に反して、無理やりで、聞く耳をもたず、無慈悲であること、

これが恐怖の源泉である。





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不治の病に罹るということは、

少なくとも、こういう思いを抱えることになる、と言えると思います。



死ぬこと以上の不条理は、きっと無いのでしょうが、

そういう患者さんに接することになるんだという自覚をもつことを、

今は大切にして、自分に何が出来るだろうかと、考えていきたいです。









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