-主に弦ちゃんとゾディアーツ・ホロスコープスについて、おまけで555比較論-
※ 23時ごろタイトル他微修正かけました><
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・自分がフォーゼの何に引っかかってるかについて考えてた。で結論として、結局フォーゼってどういうお話なんだかわからない、ってとこに行き着いた。
・ややこしいのは、素直に考えて即座に思い当たる「弦ちゃんがみんなとダチになるお話」とは、やっぱり思えないこと。素直にそう思えたらいいんだろうけど、全校生徒と友達になれてるわけじゃないし(まぁこれは「最後に学校全体まとめてダチになるイベント」とか相当な力技でもないとそもそも無理な話だけど)、あとはやっぱり、弦ちゃんのダチの選別(特にスイッチャーに対して)がひっかかってしまうわけで…。
・では、そうなってしまった理由を、ここではシリーズ構成から考えてみたいと思う。シリーズ構成って要するに「この話をどういう話にするか」の大まかなライン作りだと思うので。その上で、結局フォーゼってどういうお話だったのか、弦ちゃんの友情観や作中のゾディアーツの立ち位置なんかも含めて、自分なりの解釈をまとめてみたいな、と。
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・とっかかりは、終盤のホロスコープス連続登場がマジレンの冥府十神的なものとして当初から予定されていたという中島氏インタビューから(塚P発案とのこと)。
・そこから全体を俯瞰して、まずシリーズ構成を以下のような(マジレン同様の)全3部構成と仮定してみる…
第1部:ライダー部結成編(1-16話、弦ちゃん来校からメテオ登場まで…転校してきた弦ちゃんがダチになった仲間たちとライダー部を結成しゾディアーツに立ち向かうようになるまでの話)
第2部:流星との友情編(17-32話、流星来校からコズミック登場まで…本心を隠しながら幹部ゾディアーツ・ホロスコープスの一員を探す流星=メテオとぶつかり合いながら友情を深め、またライダー部の仲間との絆も確かなものにしていくまでの話)
第3部:ホロスコープス決着編(33-48話、江本教授登場から理事長との決着まで…攻勢を強めるホロスコープスとの戦いの中で、彼らを統べ友情を否定する理事長ともダチになるまでの話)
・するとここで、第1部では基本弦ちゃんと賢吾らダチになるライダー部メンバーの関わり合いが物語の中心である、と捉えられると思う。ゾディアーツスイッチャーとの関わり合いは、中島氏と三条氏で程度の差はあれ、あくまでサブという構成ではないかと(スイッチャー主体の話は、第1部終盤、ライダー部の結束が固まった後の、三浦くん回・ペルセウス回になってから)。
・んで、ゾディアーツ≒スイッチャーの暗部、というのは初期から描かれている、と感じる。オリオン・カメレオン・ユニコーン・ハウンド・アルター・ピクシス、いずれもスイッチャーの暗い衝動がゾディアーツスイッチにより晒され暴走していると見て取れるかと。
・そして、弦ちゃんのスタンスは、暗部を晒したスイッチャー自身は(倒した後で)ダチとして受け入れるが、暗部そのものは否定する≒ラストワンゾディアーツとして倒す、という形かなと。この初期からして。
・この「悪人その人は受け入れるが、その暗部は否定して怪人として倒す」というのが、(Wにも通じる)フォーゼの基本的な勧善懲悪観なのかなと(JKにも本人が望まぬままにライダー部に引きずり込んでいるあたりがそれに相当するだろうか)。…でもこれ、ゾディアーツに関して言えば「暗部を爆散させて昇華している」とも「怪人として爆散させてるんだから暗部込みの相手は受け入れてない」とも、どちらとも取れるんだよなぁ…>< とりあえず閑話休題。
・続いて前述の通り、第1部終盤からスイッチャー主体の話も増えると同時に、ペルセウス・リンクスら復活するラストワンゾディアーツが登場する。彼らは、同時期に登場するメテオ=流星にとっては、親友の二郎を救い得るホロスコープス=アリエス・ゾディアーツとなるかもしれない存在であり、彼らの悪事をどうするかでフォーゼとメテオが対立する構図になっているのが第2部、と。
・一方で、第2部は前述の通り「弦ちゃんとライダー部がどのようにして流星とメテオを受け止めて行くか」が中心であり、そちらのドラマにもかなりの時間が割かれることになるわけです(流星登場回/リンクス・マグネット回/ドラゴン・プロム回/コーマ・メテオストーム回/キャンサーなどのエピソードでは、弦ちゃんと流星・ライダー部のドラマが主軸であり、スイッチャーのドラマが主軸ではないと取れる)。
・そして、第1部終盤から第2部にかけて活動が活発化するホロスコープスは、「≒完全に暗部に飲まれたスイッチャーであり、故に否定せざるをえない=倒すべき相手である」という構図が用意されているように思う。その象徴として、悪女の本質をひた隠しにした園田先生=スコーピオンと悪意全開の鬼島=キャンサー、晃星学園を支配したプレ理事長的存在としての山田=アリエス、と。
・さらにその補助線として、ペルセウス・リンクスら復活するラストワンゾディアーツが、≒簡単には変わらない暗部という構図を表し、キグナス・ムスカの長谷川脚本ゾディアーツが、ラストワンゾディアーツ≒スイッチャー本人にもコントロールできない悪意という構図を再強調している、と思う。これらの補助線を得て、「コントロール不能な悪意に完全に飲み込まれたスイッチャー=ホロスコープスは、倒してでも止めるしかない」という構図が完成する(あくまで構図としてで、視聴者の印象はここでは横におく)。
・ここまでをまとめると、第1部~第2部のシリーズ構成的に、弦ちゃんはダチの優先順位を、ライダー部(ダチとして付き合っていく)>撃破後のスイッチャー(一応はダチになる)>撃破前のゾディアーツ&ホロスコープス(倒すべき相手)、とせざるを得ない流れ・構成になっている、と考えられるのではないかと思います。
・一方、にもかかわらず、弦ちゃんは最初から最後まで一貫して「みんなとダチになる」「ダチの全てを受け入れる」と言っちゃうわけです…><; その辺の発言というかキャッチフレーズと実際の優先順位との矛盾は、ユニコーンとJKの扱いの差、アルターと友子の扱いの差、スコーピオンへの容赦の無さ、コーマ回での元ゾディアーツスイッチャーへの疑いの眼、などと枚挙に暇が無い。
・第2部クライマックスのコズミック回でも、流星=メテオの本気は一度死んでまでも受け止めて罰することもないのに、山田=アリエスは宇宙空間で迷わず撃破して運良く寝たきりになっても頓着しない、というやはり扱いの差があるわけで…。でもそれも、「ゾディアーツ・ホロスコープスは否定すべき・倒すべき存在である(倒してからでなければスイッチャーとはダチになることもできない)」という構成上・作劇上の縛りがあるならば、筋は通るわけです…一応ではありますが。
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・さて、もう一度シリーズ構成から見る物語の流れに返って見ると、1部で弦ちゃんの周囲を固め、2部で身内になったハードル高い相手ともダチになるけど、その間ゾディアーツ・ホロスコープスは撃破対象であり続けた、と。これが第3部で、やっとホロスコープスとダチになれるかどうかの話が浮上する、といった構成のようです。第3部は相変わらずの2話完結スタイルながら最終回に向けて連続劇としての色合いも増してきます。ここまでは第1部・第2部を俯瞰する形で考えてきましたが、今度はここまでの流れを踏まえつつ、長くなりますが各エピソード毎に考えてみたいと思います。
・して、まず京都回では「ダチを守るためにもゾディアーツは許さない」的なスタンスが、弦ちゃん自身のスタンスであるとして再確認されます。弦ちゃんがそのように思うからこそ、弦ちゃんは自らフォーゼとして戦うのだということで、ゾディアーツ・ホロスコープスを撃破対象とするこれまでの流れ・構成を、今一度示しているかと(メインの相手がこれまで幹部として立ちはだかり続けた、まさに倒すべき相手であるところのリブラ=校長というのもその表れかな)。
・次いでカプリコーン回では、そのチャラさ・身勝手さ・弱さ故にライダー部の中でも最もゾディアーツに近しかったJKに再度スポットが当たります。ホロスコープスであるカプリコーン=五藤と同じ目的でライダー部と袂を分かつJKだけれど、弦ちゃんはライダー部の仲間であるJKを受け入れる一方で、やはりカプリコーンは撃破してしまう。ここは逆に見ると、JKと同じ夢を持ち弦ちゃんからすればダチのダチでもあるカプリコーン=五藤は、ライダー部メンバーに近しいホロスコープスでもあったとも言えるわけで、若干の立場・構図のシャッフルが始まっているかと。
・その辺りを踏まえると、やはりアクエリアス回が構成上の大きなターニングポイントであると個人的には。弦ちゃんに似たポーズ、賢吾・ユウキと同等の宇宙を目指す情熱。アクエリアス・ゾディアーツであるエリーヌは、ホロスコープスであると同時に極めてライダー部メンバーに近しいタイプの少女だった。ダチになれたはずの彼女と弦ちゃんらを別つのは、エリーヌがゾディアーツ・ホロスコープスであり、弦ちゃんは彼らを倒す者=仮面ライダーだから。ここまで確認した事柄の積み上げが、矛盾として一度収束した瞬間と言えるかと。
・ぶっちゃけこの回は、エリーヌがどう言おうと、ゾディアーツ・ホロスコープスだろうと関係ねぇ、ってダチになろうとすればいいのに弦ちゃん、と思えて仕方なかったのだけれど(もちろん弦ちゃんがダチとしてエリーヌを尊重したのもわかるんだけど)、それ以上に、「ゾディアーツ・ホロスコープスは倒さなければならないんだ」という縛りが全編通じて存在したのがフォーゼであって、この回はその矛盾が顕著に表出した、というのが実際なんだろうな、と。
・そしてエリーヌを倒さねばならなかったことへの抗いは、次ぐタウラス回に構図として引き継がれていくかと。その表れと解釈できる姿勢として、弦ちゃんはタウラス=杉浦に対しては、これまでのホロスコープスと異なり(そしてライダー部やこれまでのゾディアーツスイッチャーの一部と同様に)、その背景事情に当たり彼の悪意の要因を知ろうと試みます。こうした「ダチになろうとする相手の掘り下げ」は、これまで各エピソードで取り組まれてきていたからこそ違和感はない展開と思います。
・しかし一方で、構成上は質が変わっているはずの「杉浦=タウラス=ホロスコープスとダチになること」は、印象としては「一般ゾディアーツのスイッチャーとダチになること」と変わりがなく見えます。これはダチになることの質の変化はあくまで構図として・シリーズ構成として読み取れることである点、また、杉浦が一般ゾディアーツのスイッチャー同様生徒である点なども、そうした印象の原因と思います。ただ今回、弦ちゃんはアクエリアス回で知る仲となっていた杉浦=タウラスを、倒すよりも説得してダチになることを優先しているのは確かと思います(故にまず得意技勝負に挑んで敗れ、杉浦を戦って倒すことができなくなっているという流れがあるかと)。
・ともあれ弦ちゃんの努力の結果、ダチになれたタウラス=杉浦は自らスイッチを捨てようとしますが、それをヴァルゴが挑発、タウラスに変身させて倒し、ダークネビュラに引きずり込むことで阻みます。第2部の初期から敵ホロスコープスの幹部メンバーとして暗躍していたヴァルゴは、ホロスコープススイッチを集める一方で、撃破されたものの命を落とさなかったスコーピオン・キャンサーをダークネビュラ(偽、実際はM-BUS)に引きずり込んで「退場」させたり、コズミックステイツに倒されたアリエス・カプリコーン・アクエリアスをスイッチとともに回収するなど、弦ちゃんがホロスコープスを殺さないような、すなわち弦ちゃんが自分の友情観から生じる矛盾と衝突するのをできる限り回避するような、サポートをしていたとも言える存在だったわけです。
・そのヴァルゴが、賢吾の父・歌星博士や理事長の盟友・江本教授であり、流星にメテオの力を授けたタチバナであることが判明しつつ、弦ちゃんとライダー部に立ちはだかります。ヴァルゴ回でのタチバナ=江本=ヴァルゴは、弦ちゃんの拠って立つ「友情」を明確に敵視し、ライダー部メンバーを追い込み戦線から退かせ、弦ちゃんに友情の絆を捨てさせようとする…と、これまでの構成の流れから見ると、これは弦ちゃんのゾディアーツ倒すべしという選別的な友情観を、その友情観で線引きし難いタチバナ=江本=ヴァルゴが全力で否定するという構図でもあったと言えるのではないでしょうか。
・そこで弦ちゃんは、なおも真正面からぶつかっていき、仲間との絆の力としてのコズミックステイツで課題を達成、江本教授ともダチになると。ここに、理事長との決着にも繋がる、弦ちゃんなりの矛盾の超え方があると見ていいと思います。つまり、「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていくこと」。結局これまでダチになれた相手はどこかしらで弦ちゃんの相容れる相手だった。でも、だからこそ、それ以外の相手にも、全力でぶつかり、ダチになろうとすること。それがシリーズ構成的に弦ちゃんに求められていたものだったんじゃないか、と。江本教授自身タチバナとして弦ちゃんたちを助け、また歌星博士との友情に揺らいでいた人物でもあり、まだ構図としては弱いけれど、一つの前段階ではあると思いますが、どうでしょうか。
・そして、問題の闇ユウキ=ジェミニ編へ。ここまでの構成の流れを考えれば、タチバナ=江本=ヴァルゴの死により、サポートを失った弦ちゃんらがついに矛盾に直面したのが、まさにユウキリンチと揶揄される展開なんだろうなと。ライダー部のメンバーであり弦ちゃんの当初からのダチだったユウキのホロスコープス化という、ゾディアーツ・ホロスコープスを撃破対象とする弦ちゃんの友情観ではやはり線引きし難い事態。
・しかし、キグナスのようにゾディアーツ自身が自我を持ったといえるジェミニ=闇ユウキは、ラストワンゾディアーツのようにただ撃破対象とすることも可能だったとも思う。実際そういう話にはなっているのだけれど、その闇ユウキがユウキ本人と入れ替わってしまい、ユウキ本人が撃破対象となってフォーゼ=弦ちゃんとライダー部に追い詰められてしまう展開=俗称ユウキリンチを挟んだというのは、作り手側の悪趣味の発露と見える一方で、こうしてシリーズ構成を順を追ってみると、むしろこれまで抱えていたフォーゼと弦ちゃんの矛盾を、(ようやくではあるが)正面から受け止めようとしたスタッフのあえての姿勢とも解釈可能なんじゃないだろうかとも思います(なお、今回監督の石田監督は、一部で問題となっているクウガのジャラジ回の監督でもある)。
・ただ、弦ちゃんはやはり、ライダー部の仲間やユウキ本人を殺そうとした闇ユウキ=ジェミニを撃破しなければならない。京都回で再確認された通り、ダチを傷つけるような行いを許さないのが、弦ちゃんでもあるから。ユウキ本人を殺さずに済むよう可能な限り軟着陸を(スタッフに)試みられながら、矛盾は矛盾のままに、弦ちゃんは一度友情の崩れかけたユウキと改めてダチになる。ヴァルゴ回でも見られた「自分を曲げない」姿、「ゾディアーツスイッチャーその人は受け入れるが、その暗部は否定して怪人として倒す」姿勢を曲げないと言う形で、弦ちゃんは自身の矛盾と対峙したとも言えるのではないかと。
(・ここでWを補助線とすれば、エクストリーム回の翔ちゃんがハードボイルドになれない弱さを抱えたまま、それでもそれしか自分にはできないという形で押し切ったのと、闇ユウキ回の弦ちゃんは相似形であるとも捉えられるかなと。ユウキの正体を見抜いた賢吾はさしずめ、翔ちゃんを受け入れ共に戦うことを選んだフィリップの相似かな?)
(・余談だけれど、ここで1週挟んでしまったのが大きな痛手のようにも思う。せめて連続していれば、ここで落ちた印象を最終回で少しでも上げられたかもしれないんじゃないかと。ユウキリンチで落ちたままの印象をこじらせてしまった人を減らせたんじゃないかな…なんて><)
・さて、続くピスケス編では、ムスカ回で新入部員となった1年生2人にスポットが当たりつつ、リブラ=校長との決着が描かれる。蘭=ピスケスが完全にライダー部の仲間であるホロスコープスとなった一方、リブラ=校長は理事長を裏切った振りをしてライダー部を利用し、ピスケスのスイッチ入手に成功。ここまででホロスコープスともダチになろうとする傾向にあった弦ちゃんは、流星などが危険視しながらも校長とダチになろうとした結果、思い切り裏切られてしまうわけです。
・さらに、ついに本性を現した理事長=サジタリウス。友情を全否定する理事長は、コズミックやメテオストームを凌駕する力で校長=リブラや立神=レオを従え、学園を自らの野望のための実験場としていた。ここでの理事長は友情を否定する存在であると同時に、支配と忠誠という形で人と繋がる、まさに友情を己の中核とする弦ちゃんとは価値観を異にする存在と言えるかと(理事長がホロスコープスメンバーを利用していただけでないことは、敗北したメンバーへの寛容さや、裏切られた江本への思い、闇ユウキへの執着、後の野望の危機においても仕えようとする立神の忠義に報いるように超新星の力を使うなど、そこここの描写に現れているかと)。流星=メテオが同じ友情であっても弦ちゃんのそれとは形が異なっていたことの、その先に現れるべき、弦ちゃんの友情観にとって重大な壁と言えるでしょう。つまり、そんな理事長たちと弦ちゃんがダチになれるかどうかがキーとなる構成になっていると。
・で、これはツイッターでも触れましたが、弦ちゃんは自分たちを裏切った校長=リブラと怒りを持って戦う一方、校長がサジタリウスを守って本物のダークネビュラに消えた際は、校長の行動を「友情」故のものとして理事長に訴えかけています。これは、校長の理事長への忠誠を、弦ちゃんが自分なりに何とか理解しようと試みた証かなぁと。もちろん理事長には一蹴されてしまう種類のものなのですが。
・こうした流れの中、賢吾がコアスイッチから生まれたコアチャイルドであることが判明します。まぁ自身が人間でないことに賢吾自身がどれだけ揺れようとも、既にMEGAMAXで撫子=SOLUとの友情を交わしていた弦ちゃんが、賢吾との友情を揺るがすはずもないわけです。
・MEGAMAXでは人間でない撫子=SOLUを一度は拒絶してしまう弦ちゃんでしたが、その恋心ゆえに大きな壁を越えて行っていました。ロケットステイツの力は、そうした大きな壁を越えた友情の証であり、タチバナ=江本=ヴァルゴとの戦いにロケットステイツが使われたのも、そうした壁を越えようという方向性の提示だったようにも思います。
・ただ、逆に言えば、そういった壁を越える要素がなければダチにはなれないし、さらにゾディアーツのように悪事を働くものならやはり弦ちゃんは許さないわけで。そういう意味で、撫子を殺した超銀河王やサドンダス、財団Xに弦ちゃんが容赦がなかったのは、弦ちゃんのキャラクターとしてはむしろ当然なわけです。
・これはみんキタでも同様で、キョーダインとXVⅡの存在が明かされたその最初のシーン、悪事を働いていた&非人間という時点で、あのキョーダインは弦ちゃんにとって倒すべき存在だったのではないでしょうか。XVⅡはあくまで兵器でありキョーダインに利用される存在であったことが、あるいは利用された撫子=SOLUを重ねるようなところもあって、ダチになろうとする相手になれたのでしょう。その後レーザートラップの一件で、XVⅡがユウキを狙ったのだと思ったところでダチになるのを諦めようとし、それがユウキを守ろうとしたのだとわかったところでダチになれたというのも、彼がダチになれるかどうかのボーダーライン上の存在であったことを補強しているかと。現れたキョーダインがライダー部を裏切りXVⅡを制圧したことは、彼らが弦ちゃんとダチになれない存在であるということの駄目押しでしょうね。
・んで、これまで言及した通り、全く異なる価値観を持ち悪事を働き続けた理事長一派は、弦ちゃんにとって超銀河王やキョーダインレベルにダチになれない相手だったわけです。しかも、プレゼンターの元へ発とうとした賢吾を殺すことで、駄目押しまでするわけです。これまでを考えれば、例え敵わなくてもブチ倒すべく全力で賢吾の弔い合戦に向かっていてもおかしくないのが弦ちゃんだったかと思います。しかし最終話、「理事長を止めてくれ」という賢吾の最期のメッセージが、弦ちゃんに壁を越えさせようとする契機になるわけです。
・弦ちゃんは決戦前、宇宙へ発とうとする理事長が学食のメニューに残したスープを食します。これも理事長の理念を何とか受け止めようとする弦ちゃんなりの行動でしょう。その末に弦ちゃんが辿り着いた答えが、ライダー部のダチとともに行ったあの支配からの卒業式かと。ただ倒して全否定するのでもなく、また、ただダチになろうとして自分の価値観を押し付けるのでもなく、理事長が学園に敷いた支配の存在を認めた上で、それとは別の在り方を歩むという決意を、仲間と共に全力でぶつける…あえて用意された「卒業式」には、そのような意味があったのではないでしょうか。すなわち、「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という姿勢が(弦ちゃんが生身で戦い仲間がその思いを声で伝える、という形は、「ライダー部みんなで」という意識の現れかと)。
・…もちろん弦ちゃんは、別の在り方を歩むが故に、悪事を働いた理事長を倒さねばならないことに変わりはないのですが。その戦いにも初手でロケットステイツが使われ、壁を越えようとする姿勢を表す一方で、初めてゾディアーツを倒したベースステイツのロケットドリルキックを最後の決め手とすることが、弦ちゃんの当初からの姿勢を貫き通した形となっているとも思います。相手をできる限り受け入れようとする一方で許せないところは許さないという矛盾を孕んだ在り方を、最後まで貫き通したのがフォーゼという番組であったとは言えると思います。
・…立神=レオと流星の決着にも触れておきます。流星=メテオはスコーピオン・キャンサーを撃破するなど、コズミック登場前は弦ちゃんとホロスコープスが正面から決着を着けねばならないような事態を避ける緩衝材となっていた節があり、似たような構図がここにも見受けられます。つまり、価値観を異にする相手に自分たちの思いを全力でぶつけていった結果、弦ちゃんは理事長とダチになれたのですが、一方で、「理事長への崇敬に命を捨てる」覚悟の立神に対し「仲間たちと共に生きる」覚悟を「全力でぶつけていった」流星は、しかし最後まで立神とは結び付きを得られずに、彼を事実上殺してしまうわけです。「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という姿勢の結果の暗部を、流星は背負わされてしまったようにも思えます。
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・長くなりましたが、まとめたいと思います。仮面ライダーフォーゼは一体どのような話だったのか。
・それは、「みんなとダチになると言いながらもゾディアーツやホロスコープスをダチを傷つける相入れない相手として倒し続けてきた弦ちゃんが、やがて彼らにも自分を曲げずに全力をぶつけていき、本当にみんなとダチになろうとするようになるまでのお話」ということだと思います。あくまでここまで考えた上での個人的な結論ですが。
・それに対して自分がどう思うか、付記しておきます。
・「みんなとダチになる」ということが現実的に可能かどうかと問われれば、やはり難しいと言わざるを得ません。そうした前提が頭にあると、その難しいことに挑む弦ちゃんは、現実に対して理想を追い求めるキャラクターと一見見えてしまいます。しかし実際の弦ちゃんは、これまで見たようにダチになることの優先順位をつけてしまうような、ごくごく現実的なキャラクターである面が少なからず描かれてきていました。この時点で、見る側の弦ちゃんのイメージと実際の弦ちゃんが乖離してしまっていたのは、間違いなかったと思います。私自身、愚直に理想を追い求めるキャラクターとしての弦ちゃんを見たかったという思いは今でも拭い切れません。
・しかし、こうしてシリーズ構成を追って考えた時に私が感じたのは、現実を追認するが故に悪意をも肯定せざるをえず自身を犠牲にすることでしか理想を描けないようなヒーローでもなく、現実や悪意を簡単に凌駕し純粋に理想を体現してしまうようなファンタジーとしてのヒーローでもなく、現実と共にありながらなお理想を追いかけていけるような形のヒーローとして、作り手は模索しながら弦ちゃんを描こうとしたのではないか、ということでした。
・これについて、中島氏の555・草加雅人に関するかつての言及を踏まえると、555あたりの初期平成ライダーへのカウンターとしてのフォーゼ・弦ちゃん、という趣向を想定することは容易いと思います。つまり、草加さんのような存在を否定できなかった555などのような作品たちに抗する形で、フォーゼにおける弦ちゃんの選別的な友情観は設定されていたと。
・それに対して、例えば「弦ちゃん自身が「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」になってるじゃねぇか」というdisりは、過激だけど否定し切れないようにも思えます。私としても、弦ちゃんが辿り着くよう構成されていたと考える「相入れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という地平は、結局のところ、555などの初期平成ライダーが所与のものとしていた地平…様々な価値観の者たちが互いの価値観をぶつけ合わせるしかない世界と見分けがつかないと感じるからです。弦ちゃんの基本的なスタンスはオルフェノクを決して許さない草加さんのそれと近しく、また構成上最後に辿り着いたスタンスも、木場を人間と認めながらもアークオルフェノクや人を襲うオルフェノクは撃破すべき相手だった巧のそれと変わりがないようにも思えます。フォーゼは555の枠組みを出ることができなかったという意見を全否定するのは、私には難しいです(無論、私の思考・捉え方自体が555の枠組みに囚われているだけ、という可能性もありますが><)。
・ただ、例えば巧と弦ちゃんの初期のスタンスからの変遷の有り様には、それなりの違いはあるように思います。夢を持たず無目的に流離いながら生きてきた巧は、ファイズとして夢の守り人となる方向性を得て、草加さんの価値観よりは枠組みの広い「人間」を守るべく、例え戦う事が罪であってもそれを背負い、オルフェノクでありながら「人間」として/ファイズとして戦うという地平へ辿り着きました。この時、巧は己の寄って立つ価値観≒夢を元々持たない、ニュートラルな存在だった、だからこそ、より枠組みの広い「人間」を守るという地平に到達できた、とも言えると思います。対して弦ちゃんは、元々「みんなとダチになる」とか「ダチを傷つける奴は許さない」とかの価値観をはっきりと持っているわけです、それこそ草加さんのように。己の寄って立つ価値観=オルフェノクは決して許さないという怒りをはっきりと持っていた草加さんは、その価値観の枠組みに囚われ続けて己の身を滅ぼしてしまいました。しかし弦ちゃんは、仲間の支えによって、自分の価値観を曲げることなくしかし軟着陸させ、巧のような、それまでの弦ちゃんより広い「ダチ」の枠組みに到達できたと思います。その辺り、前述のdisりに対応させるなら、最終的に弦ちゃんは「きれいな草加さん」になれたんじゃないかな、と返したいなと(我ながら珍解答だ^^;)。
・で、結局そういうところへ弦ちゃんが辿り着けたのは、「ダチを傷つける奴は許さない」という選別的な価値観との矛盾を孕みながらも、「みんなとダチになる」というもう一つの(草加さんには持ち得なかった)価値観を持ち続けてきたからじゃないかと。この2つの矛盾した価値観(あえて「正義」と言いたい)の相克は、例えばウルトラマン(特にコスモス)が、悪い怪獣はやっつける/弱い怪獣は助けてあげる、といったあたりでやはりその選択基準を言及されてしまうような、特撮ヒーローの歴史上幾分かでも触れられざるを得ない領域なんじゃないかと、個人的には思っています。その領域に対して、フォーゼ・弦ちゃんは決して背を向けていたわけではなく、矛盾を孕みながら、フォーゼなりに・弦ちゃんなりに向き合っていたのだ、と、ここまで考えてようやく、言えるようになったかな、と個人的には感じています。
・草加さんの「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」は、本放送当時から忌み嫌われる一方で、「そういう面って誰しも持っているよね」との評も散見されていたと思います(故に草加さんは今もって愛されるキャラクターだとも個人的には思います)。で、弦ちゃんの「ダチになる相手を選ぶ」という有り様も、結局は同じように、誰しも持っている側面だと思うのです(この場合は「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」ではなくて、「俺が好きになれない奴はダチになれない」ですかね^^; 微妙だけど確かな違いで、でもやっぱり誰にでもある部分じゃないかなと)。その意味でも、草加さんが独り死を負って戦いに挑み首コキャられずを得ず、しかし弦ちゃんが仲間の存在によって軟着陸したことは、誰しもが持ち得る選別的な志向性とどう付き合っていくか、という点において、一つの解答だったんじゃないかな、とすら思います。譲れないところは譲らず、しかし相手を尊重する。言葉にすればこれだけのことが、如何に矛盾を孕み両立し難いかを、フォーゼと弦ちゃんは示しているのではないかと感じます。私も、誰かや何かを許せず攻撃的になってしまうようなとき、一度立ち止まり改めて相手を尊重できるか、そんな攻撃的な自分にひと声をかけてくれるダチがちゃんといるかどうか、そんなようなことを心に留めておきたいと思います。
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・さらに補足ですが、結局フォーゼの問題点って、冒頭に挙げたような「弦ちゃんがみんなとダチになるお話」とストレートには言い難いところだと、やっぱり思います。私が今回考えて得た結論も一つの解釈でしかなく、こんなにあーだこーだ長々しく考えずとも、はっきりこんな話と見えるような話にして欲しかった、という思いは残ります。「みんなとダチになる」というわかりやすいキャッチフレーズに応じて、弦ちゃんももっとわかりやすいキャラクターであって欲しかったと(具体的には、やはり初めから誰とでも=一部ゾディアーツスイッチャーやホロスコープスとも全員ダチに(少なくとも)なろうとして欲しかったし、ラストワンゾディアーツやホロスコープスも倒さずに受け入れようとするべきじゃなかったかなと…キャッチフレーズ通りのキャラクターであろうとするなら)。また、ラストワンゾディアーツやホロスコープスが倒さなければならない相手であることも、印象としてさほど強くなかった感があり、そのあたり設定的に強調した方が良かったかな、とか。ラストワンゾディアーツ→そのままだとスイッチャー死亡とか、ホロスコープス→そのままだと肉体も怪物化とか。理事長みたいな副作用をかなり早く出してもよかったかもしれません。塚田Pや脚本の中島氏・三条氏、メイン監督の坂本監督には、よりわかりやすいアクションエンターテイメントとしての特撮ヒーローを、次回作にて期待しています。
※ 23時ごろタイトル他微修正かけました><
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・自分がフォーゼの何に引っかかってるかについて考えてた。で結論として、結局フォーゼってどういうお話なんだかわからない、ってとこに行き着いた。
・ややこしいのは、素直に考えて即座に思い当たる「弦ちゃんがみんなとダチになるお話」とは、やっぱり思えないこと。素直にそう思えたらいいんだろうけど、全校生徒と友達になれてるわけじゃないし(まぁこれは「最後に学校全体まとめてダチになるイベント」とか相当な力技でもないとそもそも無理な話だけど)、あとはやっぱり、弦ちゃんのダチの選別(特にスイッチャーに対して)がひっかかってしまうわけで…。
・では、そうなってしまった理由を、ここではシリーズ構成から考えてみたいと思う。シリーズ構成って要するに「この話をどういう話にするか」の大まかなライン作りだと思うので。その上で、結局フォーゼってどういうお話だったのか、弦ちゃんの友情観や作中のゾディアーツの立ち位置なんかも含めて、自分なりの解釈をまとめてみたいな、と。
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・とっかかりは、終盤のホロスコープス連続登場がマジレンの冥府十神的なものとして当初から予定されていたという中島氏インタビューから(塚P発案とのこと)。
・そこから全体を俯瞰して、まずシリーズ構成を以下のような(マジレン同様の)全3部構成と仮定してみる…
第1部:ライダー部結成編(1-16話、弦ちゃん来校からメテオ登場まで…転校してきた弦ちゃんがダチになった仲間たちとライダー部を結成しゾディアーツに立ち向かうようになるまでの話)
第2部:流星との友情編(17-32話、流星来校からコズミック登場まで…本心を隠しながら幹部ゾディアーツ・ホロスコープスの一員を探す流星=メテオとぶつかり合いながら友情を深め、またライダー部の仲間との絆も確かなものにしていくまでの話)
第3部:ホロスコープス決着編(33-48話、江本教授登場から理事長との決着まで…攻勢を強めるホロスコープスとの戦いの中で、彼らを統べ友情を否定する理事長ともダチになるまでの話)
・するとここで、第1部では基本弦ちゃんと賢吾らダチになるライダー部メンバーの関わり合いが物語の中心である、と捉えられると思う。ゾディアーツスイッチャーとの関わり合いは、中島氏と三条氏で程度の差はあれ、あくまでサブという構成ではないかと(スイッチャー主体の話は、第1部終盤、ライダー部の結束が固まった後の、三浦くん回・ペルセウス回になってから)。
・んで、ゾディアーツ≒スイッチャーの暗部、というのは初期から描かれている、と感じる。オリオン・カメレオン・ユニコーン・ハウンド・アルター・ピクシス、いずれもスイッチャーの暗い衝動がゾディアーツスイッチにより晒され暴走していると見て取れるかと。
・そして、弦ちゃんのスタンスは、暗部を晒したスイッチャー自身は(倒した後で)ダチとして受け入れるが、暗部そのものは否定する≒ラストワンゾディアーツとして倒す、という形かなと。この初期からして。
・この「悪人その人は受け入れるが、その暗部は否定して怪人として倒す」というのが、(Wにも通じる)フォーゼの基本的な勧善懲悪観なのかなと(JKにも本人が望まぬままにライダー部に引きずり込んでいるあたりがそれに相当するだろうか)。…でもこれ、ゾディアーツに関して言えば「暗部を爆散させて昇華している」とも「怪人として爆散させてるんだから暗部込みの相手は受け入れてない」とも、どちらとも取れるんだよなぁ…>< とりあえず閑話休題。
・続いて前述の通り、第1部終盤からスイッチャー主体の話も増えると同時に、ペルセウス・リンクスら復活するラストワンゾディアーツが登場する。彼らは、同時期に登場するメテオ=流星にとっては、親友の二郎を救い得るホロスコープス=アリエス・ゾディアーツとなるかもしれない存在であり、彼らの悪事をどうするかでフォーゼとメテオが対立する構図になっているのが第2部、と。
・一方で、第2部は前述の通り「弦ちゃんとライダー部がどのようにして流星とメテオを受け止めて行くか」が中心であり、そちらのドラマにもかなりの時間が割かれることになるわけです(流星登場回/リンクス・マグネット回/ドラゴン・プロム回/コーマ・メテオストーム回/キャンサーなどのエピソードでは、弦ちゃんと流星・ライダー部のドラマが主軸であり、スイッチャーのドラマが主軸ではないと取れる)。
・そして、第1部終盤から第2部にかけて活動が活発化するホロスコープスは、「≒完全に暗部に飲まれたスイッチャーであり、故に否定せざるをえない=倒すべき相手である」という構図が用意されているように思う。その象徴として、悪女の本質をひた隠しにした園田先生=スコーピオンと悪意全開の鬼島=キャンサー、晃星学園を支配したプレ理事長的存在としての山田=アリエス、と。
・さらにその補助線として、ペルセウス・リンクスら復活するラストワンゾディアーツが、≒簡単には変わらない暗部という構図を表し、キグナス・ムスカの長谷川脚本ゾディアーツが、ラストワンゾディアーツ≒スイッチャー本人にもコントロールできない悪意という構図を再強調している、と思う。これらの補助線を得て、「コントロール不能な悪意に完全に飲み込まれたスイッチャー=ホロスコープスは、倒してでも止めるしかない」という構図が完成する(あくまで構図としてで、視聴者の印象はここでは横におく)。
・ここまでをまとめると、第1部~第2部のシリーズ構成的に、弦ちゃんはダチの優先順位を、ライダー部(ダチとして付き合っていく)>撃破後のスイッチャー(一応はダチになる)>撃破前のゾディアーツ&ホロスコープス(倒すべき相手)、とせざるを得ない流れ・構成になっている、と考えられるのではないかと思います。
・一方、にもかかわらず、弦ちゃんは最初から最後まで一貫して「みんなとダチになる」「ダチの全てを受け入れる」と言っちゃうわけです…><; その辺の発言というかキャッチフレーズと実際の優先順位との矛盾は、ユニコーンとJKの扱いの差、アルターと友子の扱いの差、スコーピオンへの容赦の無さ、コーマ回での元ゾディアーツスイッチャーへの疑いの眼、などと枚挙に暇が無い。
・第2部クライマックスのコズミック回でも、流星=メテオの本気は一度死んでまでも受け止めて罰することもないのに、山田=アリエスは宇宙空間で迷わず撃破して運良く寝たきりになっても頓着しない、というやはり扱いの差があるわけで…。でもそれも、「ゾディアーツ・ホロスコープスは否定すべき・倒すべき存在である(倒してからでなければスイッチャーとはダチになることもできない)」という構成上・作劇上の縛りがあるならば、筋は通るわけです…一応ではありますが。
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・さて、もう一度シリーズ構成から見る物語の流れに返って見ると、1部で弦ちゃんの周囲を固め、2部で身内になったハードル高い相手ともダチになるけど、その間ゾディアーツ・ホロスコープスは撃破対象であり続けた、と。これが第3部で、やっとホロスコープスとダチになれるかどうかの話が浮上する、といった構成のようです。第3部は相変わらずの2話完結スタイルながら最終回に向けて連続劇としての色合いも増してきます。ここまでは第1部・第2部を俯瞰する形で考えてきましたが、今度はここまでの流れを踏まえつつ、長くなりますが各エピソード毎に考えてみたいと思います。
・して、まず京都回では「ダチを守るためにもゾディアーツは許さない」的なスタンスが、弦ちゃん自身のスタンスであるとして再確認されます。弦ちゃんがそのように思うからこそ、弦ちゃんは自らフォーゼとして戦うのだということで、ゾディアーツ・ホロスコープスを撃破対象とするこれまでの流れ・構成を、今一度示しているかと(メインの相手がこれまで幹部として立ちはだかり続けた、まさに倒すべき相手であるところのリブラ=校長というのもその表れかな)。
・次いでカプリコーン回では、そのチャラさ・身勝手さ・弱さ故にライダー部の中でも最もゾディアーツに近しかったJKに再度スポットが当たります。ホロスコープスであるカプリコーン=五藤と同じ目的でライダー部と袂を分かつJKだけれど、弦ちゃんはライダー部の仲間であるJKを受け入れる一方で、やはりカプリコーンは撃破してしまう。ここは逆に見ると、JKと同じ夢を持ち弦ちゃんからすればダチのダチでもあるカプリコーン=五藤は、ライダー部メンバーに近しいホロスコープスでもあったとも言えるわけで、若干の立場・構図のシャッフルが始まっているかと。
・その辺りを踏まえると、やはりアクエリアス回が構成上の大きなターニングポイントであると個人的には。弦ちゃんに似たポーズ、賢吾・ユウキと同等の宇宙を目指す情熱。アクエリアス・ゾディアーツであるエリーヌは、ホロスコープスであると同時に極めてライダー部メンバーに近しいタイプの少女だった。ダチになれたはずの彼女と弦ちゃんらを別つのは、エリーヌがゾディアーツ・ホロスコープスであり、弦ちゃんは彼らを倒す者=仮面ライダーだから。ここまで確認した事柄の積み上げが、矛盾として一度収束した瞬間と言えるかと。
・ぶっちゃけこの回は、エリーヌがどう言おうと、ゾディアーツ・ホロスコープスだろうと関係ねぇ、ってダチになろうとすればいいのに弦ちゃん、と思えて仕方なかったのだけれど(もちろん弦ちゃんがダチとしてエリーヌを尊重したのもわかるんだけど)、それ以上に、「ゾディアーツ・ホロスコープスは倒さなければならないんだ」という縛りが全編通じて存在したのがフォーゼであって、この回はその矛盾が顕著に表出した、というのが実際なんだろうな、と。
・そしてエリーヌを倒さねばならなかったことへの抗いは、次ぐタウラス回に構図として引き継がれていくかと。その表れと解釈できる姿勢として、弦ちゃんはタウラス=杉浦に対しては、これまでのホロスコープスと異なり(そしてライダー部やこれまでのゾディアーツスイッチャーの一部と同様に)、その背景事情に当たり彼の悪意の要因を知ろうと試みます。こうした「ダチになろうとする相手の掘り下げ」は、これまで各エピソードで取り組まれてきていたからこそ違和感はない展開と思います。
・しかし一方で、構成上は質が変わっているはずの「杉浦=タウラス=ホロスコープスとダチになること」は、印象としては「一般ゾディアーツのスイッチャーとダチになること」と変わりがなく見えます。これはダチになることの質の変化はあくまで構図として・シリーズ構成として読み取れることである点、また、杉浦が一般ゾディアーツのスイッチャー同様生徒である点なども、そうした印象の原因と思います。ただ今回、弦ちゃんはアクエリアス回で知る仲となっていた杉浦=タウラスを、倒すよりも説得してダチになることを優先しているのは確かと思います(故にまず得意技勝負に挑んで敗れ、杉浦を戦って倒すことができなくなっているという流れがあるかと)。
・ともあれ弦ちゃんの努力の結果、ダチになれたタウラス=杉浦は自らスイッチを捨てようとしますが、それをヴァルゴが挑発、タウラスに変身させて倒し、ダークネビュラに引きずり込むことで阻みます。第2部の初期から敵ホロスコープスの幹部メンバーとして暗躍していたヴァルゴは、ホロスコープススイッチを集める一方で、撃破されたものの命を落とさなかったスコーピオン・キャンサーをダークネビュラ(偽、実際はM-BUS)に引きずり込んで「退場」させたり、コズミックステイツに倒されたアリエス・カプリコーン・アクエリアスをスイッチとともに回収するなど、弦ちゃんがホロスコープスを殺さないような、すなわち弦ちゃんが自分の友情観から生じる矛盾と衝突するのをできる限り回避するような、サポートをしていたとも言える存在だったわけです。
・そのヴァルゴが、賢吾の父・歌星博士や理事長の盟友・江本教授であり、流星にメテオの力を授けたタチバナであることが判明しつつ、弦ちゃんとライダー部に立ちはだかります。ヴァルゴ回でのタチバナ=江本=ヴァルゴは、弦ちゃんの拠って立つ「友情」を明確に敵視し、ライダー部メンバーを追い込み戦線から退かせ、弦ちゃんに友情の絆を捨てさせようとする…と、これまでの構成の流れから見ると、これは弦ちゃんのゾディアーツ倒すべしという選別的な友情観を、その友情観で線引きし難いタチバナ=江本=ヴァルゴが全力で否定するという構図でもあったと言えるのではないでしょうか。
・そこで弦ちゃんは、なおも真正面からぶつかっていき、仲間との絆の力としてのコズミックステイツで課題を達成、江本教授ともダチになると。ここに、理事長との決着にも繋がる、弦ちゃんなりの矛盾の超え方があると見ていいと思います。つまり、「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていくこと」。結局これまでダチになれた相手はどこかしらで弦ちゃんの相容れる相手だった。でも、だからこそ、それ以外の相手にも、全力でぶつかり、ダチになろうとすること。それがシリーズ構成的に弦ちゃんに求められていたものだったんじゃないか、と。江本教授自身タチバナとして弦ちゃんたちを助け、また歌星博士との友情に揺らいでいた人物でもあり、まだ構図としては弱いけれど、一つの前段階ではあると思いますが、どうでしょうか。
・そして、問題の闇ユウキ=ジェミニ編へ。ここまでの構成の流れを考えれば、タチバナ=江本=ヴァルゴの死により、サポートを失った弦ちゃんらがついに矛盾に直面したのが、まさにユウキリンチと揶揄される展開なんだろうなと。ライダー部のメンバーであり弦ちゃんの当初からのダチだったユウキのホロスコープス化という、ゾディアーツ・ホロスコープスを撃破対象とする弦ちゃんの友情観ではやはり線引きし難い事態。
・しかし、キグナスのようにゾディアーツ自身が自我を持ったといえるジェミニ=闇ユウキは、ラストワンゾディアーツのようにただ撃破対象とすることも可能だったとも思う。実際そういう話にはなっているのだけれど、その闇ユウキがユウキ本人と入れ替わってしまい、ユウキ本人が撃破対象となってフォーゼ=弦ちゃんとライダー部に追い詰められてしまう展開=俗称ユウキリンチを挟んだというのは、作り手側の悪趣味の発露と見える一方で、こうしてシリーズ構成を順を追ってみると、むしろこれまで抱えていたフォーゼと弦ちゃんの矛盾を、(ようやくではあるが)正面から受け止めようとしたスタッフのあえての姿勢とも解釈可能なんじゃないだろうかとも思います(なお、今回監督の石田監督は、一部で問題となっているクウガのジャラジ回の監督でもある)。
・ただ、弦ちゃんはやはり、ライダー部の仲間やユウキ本人を殺そうとした闇ユウキ=ジェミニを撃破しなければならない。京都回で再確認された通り、ダチを傷つけるような行いを許さないのが、弦ちゃんでもあるから。ユウキ本人を殺さずに済むよう可能な限り軟着陸を(スタッフに)試みられながら、矛盾は矛盾のままに、弦ちゃんは一度友情の崩れかけたユウキと改めてダチになる。ヴァルゴ回でも見られた「自分を曲げない」姿、「ゾディアーツスイッチャーその人は受け入れるが、その暗部は否定して怪人として倒す」姿勢を曲げないと言う形で、弦ちゃんは自身の矛盾と対峙したとも言えるのではないかと。
(・ここでWを補助線とすれば、エクストリーム回の翔ちゃんがハードボイルドになれない弱さを抱えたまま、それでもそれしか自分にはできないという形で押し切ったのと、闇ユウキ回の弦ちゃんは相似形であるとも捉えられるかなと。ユウキの正体を見抜いた賢吾はさしずめ、翔ちゃんを受け入れ共に戦うことを選んだフィリップの相似かな?)
(・余談だけれど、ここで1週挟んでしまったのが大きな痛手のようにも思う。せめて連続していれば、ここで落ちた印象を最終回で少しでも上げられたかもしれないんじゃないかと。ユウキリンチで落ちたままの印象をこじらせてしまった人を減らせたんじゃないかな…なんて><)
・さて、続くピスケス編では、ムスカ回で新入部員となった1年生2人にスポットが当たりつつ、リブラ=校長との決着が描かれる。蘭=ピスケスが完全にライダー部の仲間であるホロスコープスとなった一方、リブラ=校長は理事長を裏切った振りをしてライダー部を利用し、ピスケスのスイッチ入手に成功。ここまででホロスコープスともダチになろうとする傾向にあった弦ちゃんは、流星などが危険視しながらも校長とダチになろうとした結果、思い切り裏切られてしまうわけです。
・さらに、ついに本性を現した理事長=サジタリウス。友情を全否定する理事長は、コズミックやメテオストームを凌駕する力で校長=リブラや立神=レオを従え、学園を自らの野望のための実験場としていた。ここでの理事長は友情を否定する存在であると同時に、支配と忠誠という形で人と繋がる、まさに友情を己の中核とする弦ちゃんとは価値観を異にする存在と言えるかと(理事長がホロスコープスメンバーを利用していただけでないことは、敗北したメンバーへの寛容さや、裏切られた江本への思い、闇ユウキへの執着、後の野望の危機においても仕えようとする立神の忠義に報いるように超新星の力を使うなど、そこここの描写に現れているかと)。流星=メテオが同じ友情であっても弦ちゃんのそれとは形が異なっていたことの、その先に現れるべき、弦ちゃんの友情観にとって重大な壁と言えるでしょう。つまり、そんな理事長たちと弦ちゃんがダチになれるかどうかがキーとなる構成になっていると。
・で、これはツイッターでも触れましたが、弦ちゃんは自分たちを裏切った校長=リブラと怒りを持って戦う一方、校長がサジタリウスを守って本物のダークネビュラに消えた際は、校長の行動を「友情」故のものとして理事長に訴えかけています。これは、校長の理事長への忠誠を、弦ちゃんが自分なりに何とか理解しようと試みた証かなぁと。もちろん理事長には一蹴されてしまう種類のものなのですが。
・こうした流れの中、賢吾がコアスイッチから生まれたコアチャイルドであることが判明します。まぁ自身が人間でないことに賢吾自身がどれだけ揺れようとも、既にMEGAMAXで撫子=SOLUとの友情を交わしていた弦ちゃんが、賢吾との友情を揺るがすはずもないわけです。
・MEGAMAXでは人間でない撫子=SOLUを一度は拒絶してしまう弦ちゃんでしたが、その恋心ゆえに大きな壁を越えて行っていました。ロケットステイツの力は、そうした大きな壁を越えた友情の証であり、タチバナ=江本=ヴァルゴとの戦いにロケットステイツが使われたのも、そうした壁を越えようという方向性の提示だったようにも思います。
・ただ、逆に言えば、そういった壁を越える要素がなければダチにはなれないし、さらにゾディアーツのように悪事を働くものならやはり弦ちゃんは許さないわけで。そういう意味で、撫子を殺した超銀河王やサドンダス、財団Xに弦ちゃんが容赦がなかったのは、弦ちゃんのキャラクターとしてはむしろ当然なわけです。
・これはみんキタでも同様で、キョーダインとXVⅡの存在が明かされたその最初のシーン、悪事を働いていた&非人間という時点で、あのキョーダインは弦ちゃんにとって倒すべき存在だったのではないでしょうか。XVⅡはあくまで兵器でありキョーダインに利用される存在であったことが、あるいは利用された撫子=SOLUを重ねるようなところもあって、ダチになろうとする相手になれたのでしょう。その後レーザートラップの一件で、XVⅡがユウキを狙ったのだと思ったところでダチになるのを諦めようとし、それがユウキを守ろうとしたのだとわかったところでダチになれたというのも、彼がダチになれるかどうかのボーダーライン上の存在であったことを補強しているかと。現れたキョーダインがライダー部を裏切りXVⅡを制圧したことは、彼らが弦ちゃんとダチになれない存在であるということの駄目押しでしょうね。
・んで、これまで言及した通り、全く異なる価値観を持ち悪事を働き続けた理事長一派は、弦ちゃんにとって超銀河王やキョーダインレベルにダチになれない相手だったわけです。しかも、プレゼンターの元へ発とうとした賢吾を殺すことで、駄目押しまでするわけです。これまでを考えれば、例え敵わなくてもブチ倒すべく全力で賢吾の弔い合戦に向かっていてもおかしくないのが弦ちゃんだったかと思います。しかし最終話、「理事長を止めてくれ」という賢吾の最期のメッセージが、弦ちゃんに壁を越えさせようとする契機になるわけです。
・弦ちゃんは決戦前、宇宙へ発とうとする理事長が学食のメニューに残したスープを食します。これも理事長の理念を何とか受け止めようとする弦ちゃんなりの行動でしょう。その末に弦ちゃんが辿り着いた答えが、ライダー部のダチとともに行ったあの支配からの卒業式かと。ただ倒して全否定するのでもなく、また、ただダチになろうとして自分の価値観を押し付けるのでもなく、理事長が学園に敷いた支配の存在を認めた上で、それとは別の在り方を歩むという決意を、仲間と共に全力でぶつける…あえて用意された「卒業式」には、そのような意味があったのではないでしょうか。すなわち、「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という姿勢が(弦ちゃんが生身で戦い仲間がその思いを声で伝える、という形は、「ライダー部みんなで」という意識の現れかと)。
・…もちろん弦ちゃんは、別の在り方を歩むが故に、悪事を働いた理事長を倒さねばならないことに変わりはないのですが。その戦いにも初手でロケットステイツが使われ、壁を越えようとする姿勢を表す一方で、初めてゾディアーツを倒したベースステイツのロケットドリルキックを最後の決め手とすることが、弦ちゃんの当初からの姿勢を貫き通した形となっているとも思います。相手をできる限り受け入れようとする一方で許せないところは許さないという矛盾を孕んだ在り方を、最後まで貫き通したのがフォーゼという番組であったとは言えると思います。
・…立神=レオと流星の決着にも触れておきます。流星=メテオはスコーピオン・キャンサーを撃破するなど、コズミック登場前は弦ちゃんとホロスコープスが正面から決着を着けねばならないような事態を避ける緩衝材となっていた節があり、似たような構図がここにも見受けられます。つまり、価値観を異にする相手に自分たちの思いを全力でぶつけていった結果、弦ちゃんは理事長とダチになれたのですが、一方で、「理事長への崇敬に命を捨てる」覚悟の立神に対し「仲間たちと共に生きる」覚悟を「全力でぶつけていった」流星は、しかし最後まで立神とは結び付きを得られずに、彼を事実上殺してしまうわけです。「相容れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という姿勢の結果の暗部を、流星は背負わされてしまったようにも思えます。
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・長くなりましたが、まとめたいと思います。仮面ライダーフォーゼは一体どのような話だったのか。
・それは、「みんなとダチになると言いながらもゾディアーツやホロスコープスをダチを傷つける相入れない相手として倒し続けてきた弦ちゃんが、やがて彼らにも自分を曲げずに全力をぶつけていき、本当にみんなとダチになろうとするようになるまでのお話」ということだと思います。あくまでここまで考えた上での個人的な結論ですが。
・それに対して自分がどう思うか、付記しておきます。
・「みんなとダチになる」ということが現実的に可能かどうかと問われれば、やはり難しいと言わざるを得ません。そうした前提が頭にあると、その難しいことに挑む弦ちゃんは、現実に対して理想を追い求めるキャラクターと一見見えてしまいます。しかし実際の弦ちゃんは、これまで見たようにダチになることの優先順位をつけてしまうような、ごくごく現実的なキャラクターである面が少なからず描かれてきていました。この時点で、見る側の弦ちゃんのイメージと実際の弦ちゃんが乖離してしまっていたのは、間違いなかったと思います。私自身、愚直に理想を追い求めるキャラクターとしての弦ちゃんを見たかったという思いは今でも拭い切れません。
・しかし、こうしてシリーズ構成を追って考えた時に私が感じたのは、現実を追認するが故に悪意をも肯定せざるをえず自身を犠牲にすることでしか理想を描けないようなヒーローでもなく、現実や悪意を簡単に凌駕し純粋に理想を体現してしまうようなファンタジーとしてのヒーローでもなく、現実と共にありながらなお理想を追いかけていけるような形のヒーローとして、作り手は模索しながら弦ちゃんを描こうとしたのではないか、ということでした。
・これについて、中島氏の555・草加雅人に関するかつての言及を踏まえると、555あたりの初期平成ライダーへのカウンターとしてのフォーゼ・弦ちゃん、という趣向を想定することは容易いと思います。つまり、草加さんのような存在を否定できなかった555などのような作品たちに抗する形で、フォーゼにおける弦ちゃんの選別的な友情観は設定されていたと。
・それに対して、例えば「弦ちゃん自身が「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」になってるじゃねぇか」というdisりは、過激だけど否定し切れないようにも思えます。私としても、弦ちゃんが辿り着くよう構成されていたと考える「相入れない相手=ゾディアーツ・ホロスコープスにも、自分を曲げず全力でぶつかっていく」という地平は、結局のところ、555などの初期平成ライダーが所与のものとしていた地平…様々な価値観の者たちが互いの価値観をぶつけ合わせるしかない世界と見分けがつかないと感じるからです。弦ちゃんの基本的なスタンスはオルフェノクを決して許さない草加さんのそれと近しく、また構成上最後に辿り着いたスタンスも、木場を人間と認めながらもアークオルフェノクや人を襲うオルフェノクは撃破すべき相手だった巧のそれと変わりがないようにも思えます。フォーゼは555の枠組みを出ることができなかったという意見を全否定するのは、私には難しいです(無論、私の思考・捉え方自体が555の枠組みに囚われているだけ、という可能性もありますが><)。
・ただ、例えば巧と弦ちゃんの初期のスタンスからの変遷の有り様には、それなりの違いはあるように思います。夢を持たず無目的に流離いながら生きてきた巧は、ファイズとして夢の守り人となる方向性を得て、草加さんの価値観よりは枠組みの広い「人間」を守るべく、例え戦う事が罪であってもそれを背負い、オルフェノクでありながら「人間」として/ファイズとして戦うという地平へ辿り着きました。この時、巧は己の寄って立つ価値観≒夢を元々持たない、ニュートラルな存在だった、だからこそ、より枠組みの広い「人間」を守るという地平に到達できた、とも言えると思います。対して弦ちゃんは、元々「みんなとダチになる」とか「ダチを傷つける奴は許さない」とかの価値観をはっきりと持っているわけです、それこそ草加さんのように。己の寄って立つ価値観=オルフェノクは決して許さないという怒りをはっきりと持っていた草加さんは、その価値観の枠組みに囚われ続けて己の身を滅ぼしてしまいました。しかし弦ちゃんは、仲間の支えによって、自分の価値観を曲げることなくしかし軟着陸させ、巧のような、それまでの弦ちゃんより広い「ダチ」の枠組みに到達できたと思います。その辺り、前述のdisりに対応させるなら、最終的に弦ちゃんは「きれいな草加さん」になれたんじゃないかな、と返したいなと(我ながら珍解答だ^^;)。
・で、結局そういうところへ弦ちゃんが辿り着けたのは、「ダチを傷つける奴は許さない」という選別的な価値観との矛盾を孕みながらも、「みんなとダチになる」というもう一つの(草加さんには持ち得なかった)価値観を持ち続けてきたからじゃないかと。この2つの矛盾した価値観(あえて「正義」と言いたい)の相克は、例えばウルトラマン(特にコスモス)が、悪い怪獣はやっつける/弱い怪獣は助けてあげる、といったあたりでやはりその選択基準を言及されてしまうような、特撮ヒーローの歴史上幾分かでも触れられざるを得ない領域なんじゃないかと、個人的には思っています。その領域に対して、フォーゼ・弦ちゃんは決して背を向けていたわけではなく、矛盾を孕みながら、フォーゼなりに・弦ちゃんなりに向き合っていたのだ、と、ここまで考えてようやく、言えるようになったかな、と個人的には感じています。
・草加さんの「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」は、本放送当時から忌み嫌われる一方で、「そういう面って誰しも持っているよね」との評も散見されていたと思います(故に草加さんは今もって愛されるキャラクターだとも個人的には思います)。で、弦ちゃんの「ダチになる相手を選ぶ」という有り様も、結局は同じように、誰しも持っている側面だと思うのです(この場合は「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」ではなくて、「俺が好きになれない奴はダチになれない」ですかね^^; 微妙だけど確かな違いで、でもやっぱり誰にでもある部分じゃないかなと)。その意味でも、草加さんが独り死を負って戦いに挑み首コキャられずを得ず、しかし弦ちゃんが仲間の存在によって軟着陸したことは、誰しもが持ち得る選別的な志向性とどう付き合っていくか、という点において、一つの解答だったんじゃないかな、とすら思います。譲れないところは譲らず、しかし相手を尊重する。言葉にすればこれだけのことが、如何に矛盾を孕み両立し難いかを、フォーゼと弦ちゃんは示しているのではないかと感じます。私も、誰かや何かを許せず攻撃的になってしまうようなとき、一度立ち止まり改めて相手を尊重できるか、そんな攻撃的な自分にひと声をかけてくれるダチがちゃんといるかどうか、そんなようなことを心に留めておきたいと思います。
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・さらに補足ですが、結局フォーゼの問題点って、冒頭に挙げたような「弦ちゃんがみんなとダチになるお話」とストレートには言い難いところだと、やっぱり思います。私が今回考えて得た結論も一つの解釈でしかなく、こんなにあーだこーだ長々しく考えずとも、はっきりこんな話と見えるような話にして欲しかった、という思いは残ります。「みんなとダチになる」というわかりやすいキャッチフレーズに応じて、弦ちゃんももっとわかりやすいキャラクターであって欲しかったと(具体的には、やはり初めから誰とでも=一部ゾディアーツスイッチャーやホロスコープスとも全員ダチに(少なくとも)なろうとして欲しかったし、ラストワンゾディアーツやホロスコープスも倒さずに受け入れようとするべきじゃなかったかなと…キャッチフレーズ通りのキャラクターであろうとするなら)。また、ラストワンゾディアーツやホロスコープスが倒さなければならない相手であることも、印象としてさほど強くなかった感があり、そのあたり設定的に強調した方が良かったかな、とか。ラストワンゾディアーツ→そのままだとスイッチャー死亡とか、ホロスコープス→そのままだと肉体も怪物化とか。理事長みたいな副作用をかなり早く出してもよかったかもしれません。塚田Pや脚本の中島氏・三条氏、メイン監督の坂本監督には、よりわかりやすいアクションエンターテイメントとしての特撮ヒーローを、次回作にて期待しています。