さて、一つ前の記事は盛大に忘れて(苦笑)、ようやく本題。
仮面ライダーWという作品の軸について、昔のツイートを補足しながら考えてみたい。
…考えるという割には、直感的だけれども。



けいおん劇場版情報見て直感した。仮面ライダーWは日常系特撮だったんだ。(既出?)

翔太郎が依頼を受け、フィリップが検索、亜樹子がスリッパを振るい、照井が切られ役となる(ぇ)。現れる悪女、憎みきれない敵、そしてライダーがドーパントと戦い、勝利する。その繰り返し。繰り返されるそれは非日常的だが、間違いなくそれが劇中の翔太郎たちの日常だ。

日常系だからこそ主人公の翔太郎は成長する必要が無い。成長のドラマが動き出したとたん、日常は崩壊する。そこには結果として、それ以前との決定的な変化があるからだ。だから翔太郎は、1年を通したドラマを持つことが許されなかった。日常を永遠に生き続ける、主人公であるがために。完璧なハーフボイルドだから、ではない(それはあくまでエクスキューズでしかない)。

逆に、性格が変化し成長してしまったフィリップは、禊を受ける必要があった。翔太郎とともに、互いの欠点をを補完しあう日常に戻るために。だから消滅した。ある意味では存在のリセットだ。そして物語に「フィリップと翔太郎が共に補完しあう」日常が必要であるからこそ、二人の関係性が衝突と共に構築されていったであろうビギンズナイトからの一年も、フィリップのいない翔太郎が1人努力する一年も、描かれない。翔太郎の終わらない日常のために、フィリップは復活しなければならなかった、とも言える。

照井が復讐心への傾倒と昇華とを繰り返したのもそのためだ。それが彼の日常であり、彼に与えられた役割だからだ。そしてシュラウドを許し完全に復讐心を昇華した彼に残されたのは、翔太郎たちを引き立てる役目でしかない。終盤何度となく傷つき、また最終回にアクセルに変身しなかったのも、そのためであろうか。

冬の劇場版タイトルがスカルに乗っ取られているのも同様だ(注:Wパートのタイトルは「仮面ライダースカル メッセージforダブル」…)。照井と亜樹子の結婚もまた、関係性の激変による日常の終焉であり、故にW本編に取り込まれるべきではない。逆説的に、だからこそTV版で終わらない日常世界となったWの最終作でもある。

園咲家は翔太郎たちの日常において、実は特に重要ではなかった。必要なのは倒される敵としてのドーパントであり、園咲家は背景組織でしかない。財団Xも同様で、だから翔太郎たちは、日常世界=風都から離れた財団Xを追わない。追う必要が無い。彼らは既に物語の枠組みから消滅している。風都という箱庭世界の枠組みから。

だから別に刷毛がイービルテイルでも、テラー流兵衛が翔太郎の日常に現れるドーパントと大差ない「弱さを持った人物」であることがわかればそれでいい。「ガイアインパクトが何だかわからない」でも、翔太郎たちの日常には影響がないので別にいい。そんなもの知る必要はない。

Wが一定の人気を勝ち得たのも、けいおんなどに並ぶ日常系作品の1つだと捉えれば、まさに時流を掴んだのだと納得がいく。日常という枠組みさえ守られていれば、矛盾は大して気にならない。

つまり、Wのメインテーマは「左翔太郎のライダーとしての日常」だったのだ。

ああ…このところ「Wのテーマってなんだったんだ!」という問いに答えが出なくて、故にほぼアンチ状態だったんだけれども、これですっきりした。ようやくぬるい感覚で(イライラせず)Wを見られるような気がする。

改めて全話見返してみるのも良いかもな…アンチになるきっかけだったエクストリーム回も受け入れられるかもしれない。とまぁ自己完結してしまいましたよ!



ああ、自己完結しているが故に、これ以上の補足がないw

強いて言えば、「怪人との戦いが日常」っていうのは昔からの特撮も実はそうで、1話完結型であった昔の特撮の方が、実はそういうところが顕著だったのではないか、という点。
(だからいわゆる昭和からのファンが付いたのかな?と。当人らが意識していたかどうかはわからないけど。)

付随して、Wを含む平成ライダーはそれを「敵は完全には滅ばない」という形で「永久に続く日常」にしうる土台があったのだという点。
以降のツイートでも触れてるけど、響鬼とかそんな感じだし。

ただ、このテーマの捉え方って、結局アンチ的な視点からでしかない。
(Wの箱庭的、そういうアニメ的なところが嫌いってアンチはそれなりにいる。)
信者というかファンというか、Wを最後まで肯定的に捉えた人らはどう思ってるのかな?
反応してくれる人がいれば教えてくださいm(_ _)m


そんな尻切れトンボ気味に、仮面ライダーWのツイートまとめはいったん終了。
さて、次はどうするかなぁ(あれ?カブトは?