毎年 春が近づいていると 同じようなお題で 記事を書いています。

 

今回も 新社会人になろうとしている若者に 老婆心ながら 注意書きを残したいと思います。

 

工場でも 事務所でも 新しい職場に行き しばらくすると

 

会社の紹介だとか なんだかんだで 他所から 生命保険会社の営業マンがやってきたりします。

 

私からの忠告は一つだけ。

 

初対面で医療保険だとか がん保険を 営業してくる保険屋とは 永久に付き合うな!

 

ということです。

 

そういうのは、月々2000円くらいで払える チラシに時々入る 共済保険で 若いうちは十分で、

 

会社にくる お姉さんに いい かっこをしようと入るものではありません。

 

あなたのその出費は 後々 「こんな給料じゃぁ支払いが追い付かない」とか言って

 

会社への不満やら 転職の動機になったりして 貴方を不幸にします。

 

生命保険会社も 儲けなくてはなりませんが、 しょっぱなに お互いの信用を積み上げようともせず

 

いきなり こういった医療保険やら がん保険を 提案してくる保険屋は カスです。

 

もっと提案すべきものがあるはずです。

 

新社会人で なら何を提案してくれたら良いんだろうと 疑問におもうかもしれません。

 

そういう方は、 資格取得しなくていいので、 漫画でわかるファイナンシャルプランナー3級の

 

テキストでも読んでみましょう。

先日 本当の資産とは何か という記事を書きました。

 

振り返って読み返してみると、 健康な身体を親から得て 最初に私たちが身に着けたいと思うものは

 

言葉と言うスキルだなと 考えました。

 

また 仕事を得ると 次に欲しくなるのはカネであって、 仕事帰りの付き合いなんて二の次にしたい

 

と思うのが 普通でしょう。

 

カネを得るまでは 人恋しくなることも無いのが普通です。

 

草食系とか セックスレスとかいうのも、 私たちは カネがないから そんな欲求も起こらないと

 

私は考えます。

 

しかし 最近 若者も変わってきたという記事を どこかでみました。

 

それは 若いうちに 早々に 結婚している人たちが 多いというものです。

 

結婚と言うのは 昔のオジサンやオバサンが良く言いますが、

 

次の世代に託していく という考えがありますが、

 

あまりにも 現状に満足できなかったり、 自分の未来が救い様がないと さっさと子どもに託したい

 

という欲求がでるのかもしれません。 実際に ある程度 年季が入ってから 絶望しても

 

結婚 子育てと 次世代に希望を託したくても 誰も相手にしてくれなくなっています。

 

なので 十代や 二十代の前半で 勢いで結婚するというのは 大人は 口をはさんではいけないと

 

思われます。

 

このように 若者も 考え方が どんどん変わっていきます。

 

世界は 以前よりも 考え方の更新の速度が どんどん早くなっています。

 

また その更新の度合いも 劇的だったり 予想外の方向に進みますので、

 

社会をデザインしている偉い人たちの 見込みの建て方も 一筋縄ではいかなくなってきました。

 

社会をデザインしているのは 主に 賢い人たちで 高級公務員さんたちをすぐに思い浮かべます。

 

この人たちは 私たち庶民には とても解くことのできない 難しい試験を通過していますので

 

頭脳は明晰で 間違いがありません。

 

この難しい試験と言う 官僚を選抜する試験は フランスなど ヨーロッパで行い初めまして

 

明治時代の日本の偉い人たちが 向こうから輸入してきたものです。

 

しかし 元祖のフランスも 実は 中国の科挙制度を参考にしております。

 

科挙は 文章を書いたりする答案があっても 暗記が大前提になってきます。

 

この科挙が 始まった時代は 中国では 歴史の草創期を抜け出し始めていました。

 

当時の中国の賢人は 皇帝に 「国を治めるのに創業と継続のどちらが難しいと思いますか」

 

というお題を示したりしていて 守文こそ難しいのですと諭したりしています。

 

このような時に 科挙は発明されたらしいのです。

 

さて その科挙が行われる前は 中国の王朝でも官僚を選抜するのに 一定の基準がありました。

 

詩(生活に基づく倫理を頭にしっかり叩き込んでいるか)

 

経(歴史の知識をもとに論理的に考えられるか)

 

射(官僚としての体力と武芸をみにつけているか)

 

礼(行儀よく宮廷の儀式を行いえるか)

 

楽(宮廷の儀式に必要な音楽の素養がありクリエイティブか)

 

こういう基準をクリアしているものが 目まぐるしく変わる草創の時代には 求められていたのです。

 

私たちも 温故知新 で 見直すべきときに来ています。

本日の記事 狭義の新世界秩序を見直すときが来ている の続き

 

 

新世界秩序を たとえば イルミだぁ なんとか委員会だぁ 朝鮮人の団体だぁ 言ってるのが

 

高等な話題かのように ネット上では 見かけるが、

 

たとえ そいつらの結社などの悪党どもが 存在して 実際に社会を自己の利益のために

 

庶民にとって悪い方向に導いているとして、

 

私たち庶民に そんなセコイ情報を流して庶民が知ったところで 庶民の戦闘力からして

 

悪党を一致団結しても 打倒することもできないだろう。

 

庶民を雑魚たらしめんとする まさに 陰謀としか言いようがない。

 

多くの人が大好きな 日本の歴史を例にとってみると、

 

徳川の江戸幕府の末期に 志士たちが 幕府の大老が悪の根源だとか 思想家を弾圧したりとか

 

外国の陰謀だ とか言って 日本国内で 刃傷沙汰をおこしたりしてるような モノどもが

 

蠢動していた時期は まさにそれで

 

実際に 明治維新を達成する力となり 中核となりえた 人物は

 

世界の情勢以前に、 日本の置かれている現状を正確に把握し 未来絵図を

 

すでに描いて 着々と 準備をしていた。

 

それと同じで

 

悪党どもの 陰謀やら 名前をあげつらって 庶民を煽動しているというのは、

 

まさに 幕末に 蠢動していた連中と同じで にぎやかし 程度の価値しかなさそうだ。

 

この 新世界秩序は 価値観 特に 人権を中心とした 損をともなう押し付けに辟易した者たちが

 

いま 世界のいたるところで 反乱ののろしを上げている最中で、

 

対する 本丸は 国から企業に移ってきたこともあり 大資本ということで 間違いないだろう。

 

反乱の 先鋭化したところでは テロが多発している。

 

このテロの対象は 日本が永く外されていたと思われたのは、 価値観を受け入れる側であって

 

そこそこ 成功しているという 最後の希望のようなところがあったからだと思う。

 

価値観を押し付けられたものが 必ず思うのは、 「尊重してほしい」ということで

 

そもそも 人権というのは その尊重あってこそのものなので、

 

新世界秩序 は どんなにきれいごとを並べても 所詮 大義の無いものと言わざるをえない。

 

新世界秩序から 外れて いたるところで 貿易品が 流通するのかと言う 疑問だが、

 

この 尊重と 多様性とを キーワードにすることで 後発の新興国は この先

 

抜け駆けをする可能性もある。

 

こういった 事態を理解し、 見込みを建てるのが、 本来の 煽動すべきことではないのか。

陰謀論で 新世界秩序という話が しばしば出てくる。

 

若い人や 陰謀論一色になりがちなネットの世界なので ここで 新世界秩序をまとめておく。

 

新世界秩序(NWO)というのは 陰謀でもなんでもなく

 

単に グローバルスタンダードを 先進諸国が勝手に決めて

 

それを押し付けて 自由貿易を促進しよう という話が 元ネタで

 

冷戦以降 徐々に形作られてきた。

 

新世界基準 というのは、 すでに 冷戦前の 大戦中から練られていて

 

そこでは 基本的人権の尊重が 第一に思い浮かぶだろう。

 

世界人権宣言から 人種 性別 子ども といった平等と博愛の精神は

 

どの世界でも受け入れられやすい。

 

こういった 基準を 先進国として  アドバンテージのある 西側諸国の考えに基づき

 

設定している。

 

もちろん こういった基準は 西側の モノ や サービスが 売れるように 設定されていて

 

ノウハウも 植民地支配の頃より 同じような アドバンテージに基づいた基準で

 

より有利な取引を 行ってきたという。

 

それで まず人権で例をだしたが、 他にも適用できるということで、

 

公害が環境基準へと進化したり、 疫病が健康保健基準へと進化していった。

 

あまりにも 民衆にとっては あたかも 蜜のような たっせいしたら さぞ理想郷が生れるような幻想を

 

見せてくれるものだが、 その蜜をたっぷり国内に受け入れて 腹に納めてみると、

 

今まで培ってきた 文化を失ったり、 慣れない基準に右往左往して いつのまにか

 

みぐるみはがされているという 発展途上の国々や 国民の姿が 世界中に見受けられる。

 

そういう国々では 自信を失い 劣等感におそわれ、 西洋かぶれ にもなる。

 

もともとの 西洋の基準のバックグラウンドのない 東洋人、中東人、アフリカ人などは

 

西洋以上に、 西洋かぶれの結果、堕落し 退廃的な状態を醸し出したりもする。

 

そういう状況が 煮詰まってきて、 そのことを知ってか知らずか、 もしくは日本人だけ知らなかったのか、

 

各地の 原住民が 武装蜂起したり、 テロ行為に及ぶ おおもとの原因になっている。

 

これが そもそもの 新世界秩序と その結果である。

 

だが、 この新世界秩序は たしかに 狭義の新世界秩序である。

 

しかし、 コアは 上記のとおりであり、 トランプの出現も こういったところから説明もつく。

市井では 人の噂というものが目に付きます。

 

その人が聞こえない場所に行くと 噂話が始まったりするのです。

 

噂には 良い内容の噂もあるでしょうが、 ほとんどの場合 誰かを否定するための陰口です。

 

陰口と言うのは 民衆にとっては 武器であり 世論を形成していく手段になっています。

 

また 懲罰的だったり 矯正(だれかの間違いを正すため)だったりしますが、ほぼ感情に基づいています。

 

ひろく公論に決すべし という言葉がありますが、 密かに悪意を共感して自分の目的を達成するという

 

陰口の伝播は 民衆が得意とするところで 如何に民衆の本質と 民主主義が相いれないかが

 

想像できるというものです。

 

噂と言うものは 止めさせることができません。 できるとすれば、 それは民衆を支配する者が

 

命令という形で行わなくてはならないのですが、 それができている当たり、 まさに日本の社会のあり様が

 

よくわかるというものです。

 

なので 今回はあえて 陰口を叩くルールを はっきりさせておくべきだと思い 記事を書きます。

 

ルールを示して置けば 陰口の拡大という現代日本の現状が示す 非民主主義的な様相のなかにも

 

いくつかの決まりを設けることで 手続きを踏んでいるということ自体が 近代的な社会に近づくことが

 

可能だからです。 これは 他の社会、他の時代に対しての 言い訳にもなりますし、

 

民衆が 将来 多くの理由で しっぺ返しを受ける際の 免責にもなるでしょう。

 

 

否定するための陰口を叩く というのは いくつかのリスクがあります。

 

それは 否定するという持論が 一般に受け入れられない場合があること だったり

 

否定するという他人を貶める行為は 反感を蓄積させ あなたにも いつか却ってくるというものです。

 

なので 陰口を叩く前に 自然法というか 万人に共通する認識を得る必要性と

 

人格否定の内容の陰口を 徹底的に避ける必要があります。

 

ただ、 共通認識というか 一般常識に関しては ほとんどの民衆に これを身に着けさせることは

 

不可能で、

 

ただただ、 人格否定の内容の陰口だけは 叩かないこと を まずは第一に気を付けるべきでしょう。

 

陰口と言うものは 先ほども書いた通り 間接的な 懲罰 や 矯正 を目的としているようなので、

 

やはり 適正な 基準というものも 必要になってきます。

 

必要最小限の陰口に抑える努力をする。(消極原則)

 

事実や事実と思しき事項と比較して適当な度合いの陰口にする(比例原則)

 

同じ事実の案件であるなら人それぞれ異なる対応をしない(平等原則)

 

そもそも、 事実認識 が可能なのかは 当事者でさえも困難であるので

 

ほぼほぼ陰口を叩くことになると、 その部分で間違いが生じて

 

必ず 何らかの 因果応報による バツがくだるものだが、 最低でも このぐらいの覚悟ができている

 

民衆で 赤信号みんなで渡れば怖くないとでもいった 気持ちでいるようだ。

 

必ず 民主主義の理想とされてきた 基本的人権は このままいくと、 民衆からは はく奪されるので

 

このぐらい 教示しておくべきだと思い 今回 書き残しておくことにしました。。

本当の資産とは という お題で よく記事を見かける。

 

金持ち父さん という書籍を随分と前に人に教えてもらい 一読したことがある。

 

教えてくださった人も そうだったが 多くの人が 納得し その通りだと思っても

 

実際に その通りに行動しているとは思えない その後であることが多い。

 

日々 働いていると 金持ち父さんというロバートキヨサキ氏の主張など 馬の耳に念仏という結果になる。

 

今後の日本は 高齢化が進み 多くの人が 独り身の認知症になる危険性がある。

 

いま 結婚して子どもがいる人も 離婚し 母子家庭となり などと いつ不幸に見舞われるかわからない。

 

夕刊の一面の特集記事で 年に一度は見かける 成年後見人制度 というのは 今後

 

大きく活用されていく 社会的な制度だろう。

 

後見人に指名されるような方たちなら 普通に勉強していることだが、

 

財産の管理は 後見人は ほぼほぼ保存行為に限られてくる。

 

たとえば、 被後見人の財産管理において 投資信託や株式投資に回して 利ザヤを稼いだりすると、

 

御用になり 実際に すでにそういう行為に及んだ方もいるようで 国家試験の過去問か練習問題でも

 

その事例を勉強した。

 

そのため 指名に当たっては 後見人候補の収入と資産状況も審査されるようである。

 

ただ 国も この場合に重要視するのは 話を聞くと 資産ではなく収入だという話だ。

 

つまり 収入が候補者自身の資産の運用益のみだと 忌避されるというようなことを聞いた。

 

思うに 収入を得るのも 資産運用の利子を得るのも 両方とも ある日突然ゼロになるリスクはあるが

 

やはり 収入というのは 資産以上に重要だという見解であるということだろう。

 

本日の本題は 本当の資産とは である。

 

私たちは 資産を形成するには なんらかのカネを投資(金をかける)しなくてはならない。

 

命の次に大事なものは 何かを考えていくと 私たちはその答えを追求することができるだろう。

 

子どもの頃に読んだ少年少女漫画によると、 どうも 私たちはやたらと 友情やら仲間やらを

 

命を削っても大事にしてきた。

 

だが どうだろう。

 

現実問題として考えてみると、 仲間や友達を失うような状況は 死亡や転勤など 日常で潜んでいる。

 

そんな時 あなたは もっと大切な足掛かりとすべきものがあるだろう。

 

金(資産)、 健康、 スキル(技能知識)、 仕事(収入) といったものである。

 

裸一貫になった時 あなたは どのような順序で 金をかけるべきか。 生き抜くためにである。

 

ここまで書いてきた 五つを改めて 箇条書きにするので 皆さんは 各自 考えてもらいたい。

 

・健康

・スキル(技能知識)

・仕事(収入)

・金(資産)

・仲間(人財)

 

私の場合は この箇条書きの上からの順番で優劣があると思っている。

 

皆さんはいかが?

今年度私が目標にしていた国家試験の合格発表がありました。

 

結果は 合格でした。

 

しかし 今回は 勉強仲間がいて 初めて思ったのですが、

 

私は 努力もしましたが 運が良かったなと 強く感じました。

 

なので 具体的に何の試験なのかは 今回以降 書きません。

 

同じように努力していたり 私以上に試験内容のことを良く勉強していた人たちが

 

残念な結果だったこともあるからです。

 

今回は そうしたことが 起きないように それぞれの人たちにとって難しい試験に

 

これから臨む人に向けての エールと注意点を書いていきたいと思います。

 

まず 運と書きましたが、 運とは何だと思いますか?

 

私は 文学や劇、それに ノウハウ本を 今までみてきたり 実体験やいろんな人の体験を通して

 

次のように 運を集約します。

 

運の悪さとは= 王道の非遵守(順守)率 × ( 事件発生数 ÷ 過失発生数 )

 

つまり 運を上げるためには 王道を知り、 過失を少なくすればいいのです。

 

独りの努力で 過失を少なくすることはできますが、 王道は 先生(師)から学ばなければなりません。

 

過失を少なくするとは 教科書や参考書を繰り返し読み

 

過去問を繰り返し解いて出題者の意図を知り 予想問題もやってみる ということでしょう。

 

王道と言うのは どのような順序で勉強したら良いのか どういった参考書がいいのか

 

一番出題者の意図を知ることができる過去問の解説はどこにあるのか などといったこと。

 

こういう王道を 私は運よく知ることができたなと 一年目に受講したフォーサイトの専任講師に

 

非常に感謝しています。 おかげで2回目の独学の指針になり 合格できたからです。

 

王道をいくつか紹介しますが、 これは どんな試験でも言えることだと思います。

 

・掲示板に翻弄されるな…

 

学習サイトの多くには掲示板があります。 ここでは 受験生が 質問をして受験生が答えているのも

 

見受けられます。 まず まだ合格していない者たちが 答えているわけです。 私は この点よりも

 

プロの解説以上の解説を始めたり 予想問題でもレア問題についても 質問をしたりしていく結果

 

そんなこと知らなかったという気持ちになったりさせたりで、 本当に王道から外れる結果になります。

 

時折様子をみたり 頑張ろうね という程度なら良いです。 またブログなら やり取りが無い分

 

お互い長期的にせよ または潜在的であっても 炎上はしません。

 

・模擬試験マニアになるな…

 

国家試験は 過去問と同じような問題、応用的な難問、余計に知っていないと解けない超難問。

 

この三つから出題されていると思います。

 

模擬試験は この最後の余計に知っていないと解けない超難問のオンパレードで

 

これにかまけていると 正直追い付きませんし、基礎や中級の足元がぐらつきます。

 

最後に(おまけ)

大学や国家試験と言うのは たかが試験ですが、 新世界秩序が打ち立てられていく今後

 

合格する意味が大きいと思っています。

 

新世界秩序は 努力が報われる世界です。

 

人気の無い私が国家資格をどう活かすかは 人気のある人以上の課題が必要ですが、

 

新世界秩序には この国家資格や大学というものが たいへん武器になるものです。

 

ある種の身分制もありますが、 そちらのほうは、 収入に生産性を掛けた値によって上下が決まります。

 

つまり 投資家が一番上になるわけです。

 

一方で、 高い年収を持っていても働かない者 や 普通の年収なのに搾取されてきた者 は

 

年収だけではわからない 報いというものが 良かれ悪しかれかえってきます。

 

私は 新世界秩序がどういったものか ある程度 情報として流れてきましたが、

 

詳しいことは ほのめかす程度にして 皆さんが知りつつ修正していくという手助けをしたいと思っています。

結論から言うと バカを減らす努力をしてきた結果、天才が減ったので バカに寛容になれという。

 

バカは天才と言う財産を生み出す費用だと考えてもらいたい。

 

いろんな経済活動とか 人の頭で考えることの多くは 何をやっても 行ってこいになることが多い。

 

それは 質量保存の法則のようなもので、 ゼロサムゲームとも表現されています。

 

だからこそ 付加価値創造とか イノベーションとか 学者や偉い人たちが盛んに言っています。

 

価値を創造するというのは、 ゼロサムゲームの中では非常に大変なことで 困難が伴います。

 

ほぼ日常的に 常識のある人たちは 学んだことや経験した範囲 社会的に許される範囲で

 

物事を思考し 解答を導き出します。

 

しかし 例外がいます。

 

それは バカと天才です。

 

両者とも 学んだことや経験した範囲 また内心において 社会的に許される範囲 これらを

 

越えた バカなりの 天才なりの 新たな範囲で 物事を思考します。

 

すると 新しい 解答が導き出されます。

 

こういったことで 新たな価値の創造や イノベーションが 起こりえると思うのです。

 

しかるに 現代社会は バカを徹底的に潰してきました。

 

こういったブログをみて、 「たいしたこと書いてない」 とか 「人と違うこと言えば良いと思ってる雑魚が」

 

とう 思う人が多いのでしょうが、

 

それは たとえ 私のブログが バカの範疇でも 天才も同じような行為に及んでいる限り

 

天才を生み出す費用を惜しんでいるということになります。

 

本来 社会が徹底的に潰したかったのは わがままなバカ とか 時には

 

わがままな天才 も  潰す必要があるからだと思われます。

 

わがまま というのは えてして人のいう事をきかないもので、

 

バカも天才も わがままだと 常識というルールを逸脱して 役に立たない価値しか生み出さなかったり、

 

わがままで人のいう事をきかないだけに、 努力を怠り 何も生み出さない バカや天才になるから。

 

結局、 そういうことを改めて反省し、

 

わがままを矯正すべきで バカも天才も矯正すべきではないでしょう。

 

付加価値創造や イノベーションを生み出す 源泉である バカと天才は 国の宝です。

 

つまり国力の源泉です。

 

人口が多い国は 極端なバカや天才の量が この日本よりも はるかに 元来多いのですから、

 

ただでさえ限られた バカや天才を 減らしてどうするのでしょう。

勧善懲悪がなぜいけないのか ということを よくわからない方は多いと思う。

 

なので 簡単な説明を まず しておきたい。

 

勧善懲悪とは 善を人にすすめて、 悪を懲らしめるというものだ。

 

一見 聞こえはいいが、

 

まず 善をすすめるというのは 善とは人にすすめられてやるものか と言う話がある。

 

そうとう前に テレビで毎日のように「一日一善」と 言っていた立派な方がいたが、

 

一日に一善しかしないのか とか 一日一善で満足できるのかと言う話だ。

 

また 悪を懲らしめるというが、 悪人と言うのは根っからの悪人もいるが

 

悪人に悪人にされたような 泣きっ面の悪人もいて そんな悪人にバチを当てる行為と言うのは、

 

字のごとく 泣きっ面にハチというやつだ。

 

こうして考えると、 人を裁くのは 非常に危険で 裁くにしても 本当に事前に

 

きちんと基準や手続きを決めておく必要がある。

 

それに気づいた昔の人たちは 法の支配というものを建設していった。

 

私たちは 井戸端で オバチを当ててやろうという密談や テレビで犯人捜しをして糾弾するのは

 

本来 おかしなことだと思わなくてはならない。

 

私は こういうことを 今までの人生で 人に諭されてきた部分があり

 

なにも 現代社会の在り方を 自分ですべて学んだわけでは無い。

 

現代社会の理解は 非常に重要で 現代社会の理解と 歴史の理解は 相互にバランスよく

 

育てていかないと、 先人が知恵を絞って 共存共栄できる理想の形に向かっている現代社会を

 

未来にすすめていくことはできないだろう。

 

もし 歴史の理解だけを育てていけば 行ったことも見たこともない過去を想像し

 

そのまま社会に全員が社会に参加していけば おそらく 理想とはかけ離れた

 

過去に出現していた 阿鼻叫喚の世界に向かっていくこともあり得る。

 

さて 話を戻して 勧善懲悪という考え方は 実は危険だと言うことを 最初に言ったが、

 

このような危険性を避ける知恵の一つに このような決まりが日本の法律にもあると思う。

 

「容疑者は自己に不利益となる自白を強要されない。」 とか

 

「唯一の証拠が自白である場合は罪に問われない」 というようなものだ。

 

では 他人の証言なら 証拠として良いのだが、

 

実は 人の証言と言うのは 非常に証拠として疑わしいものがある。

 

これは人を裁くための素材である証言に限らず、

 

人の言葉というのは そもそも自己に利益になることしか 話さない傾向がある。

 

たいてい こうなってくると 人は 本当のことでも その人に利益があることを感じると、

 

中立の状態では 内心 却下してしまうものだ。

 

その発言者が 自分自身と利益を共有するモノかどうかが 問題となっていき、

 

人の言葉を採用するかどうかは 好き嫌いという判断基準になっていく。

 

一方で 他人自身にとって不利になることを真実を証明するために発言するのも

 

信じるのも信じないも どうも それまでの経過からの好き嫌いという癖がついているようにしか思えない。

 

こうやって考えると、 主権者として取るべき道はここに導き出されると思う。

 

人の発言とはどのような内容でも疑う事。

 

もう一つ別の側面から…

 

まず ジャッジする際に、他人の証言と状況証拠との整合性がとれていて、

 

あとは物的証拠等だけが見つからないとしよう。

 

こういう場合から導き出される答えは一般化できると思う。

 

これまでの他人の証言に偽りがあることを疑い、状況を再度検討するという方法が最も論理的。

 

つまり中世の民主主義社会以前では、 自白の強要と証拠のねつ造で

 

無理やり論理的な欠落のあなを埋めて 最も気楽な答えに導いていた。

 

最も気楽なのは 持つものたちである支配者が ずっと持ち続けることなどという 庶民にとって

 

良いことは一つもないものだった。

体調が悪い とか やる気がなくなった という 心身ともに抵抗力が下がっている人の中には

 

ネットの情報をみて ケムトレイル とか 食品の添加物 などのことが気になると思います。

 

ですが 私は最近 閃いたのですけど、

 

そう思う 多くの人は 毒を盛られてるんじゃないんですか?

 

マーガリンや 清涼飲料などの心配よりも デスクの上に置きっぱなしのマグカップや

 

トイレに立って戻ってきてから飲むペットボトルなどの心配をしたらどうでしょう。

 

 

子供の時に 同級生がいない間に 飲み物に唾を入れているような連中は

 

勉強のできない子供のほうが割合としては多いですよね。

 

勉強のできる支配層の陰謀よりも 市井に住む あなたの仲間を疑ったほうがいいと思います。

 

こういうことが仮に真実だとしても 実際には 社会を動かす者たちは より多くの物資を持っています。

 

物資の中には 衆生庶民という モノども も含まれています。

 

私たちは 彼らを敵に回してはいけませんし、 彼らを恨むべきではない。

 

この辺の調和の真理を探り当ててからでないと どうも 勝ち目はない気もします。