最近 また 面白いことに気付かされたので 記事を書いておきます。

 

 

英語を話せるようになるというのは、 よく大したことは無いそのくらいは という人もいるが、

 

相当の勉強時間をかけないと できない 努力が必要で 特に日本人は3000時間の学習が

 

必要と言われています。

 

私も 単語の語彙数は およそ測定すると 一万弱となってきましたが、

 

聴き取りが弱かったり文法を疎かにしてきたこともあり 5年以上日々 何かの学習をやっていますが

 

話せる段階には至っていません。

 

ですが けっこうサラッと 英語を話すことができている人が この社会には多くいます。

 

努力してきた人たちっていうのは かなりそこらへんに 存在しているということです。 ①

 

さて 話は変わって もう一つ気づいたこと。

 

それは 人に言い放った 悪口雑言 というのは 必ず 自分自身に却ってきます。

 

それは 何十年も前に 言ったことであっても 必ずです。

 

そして その因果も 個人差があるなと いう事も。

 

人によっては 目に見えて 返り討ちにあっていない人もいれば

 

過剰に叩かれている人も いると 強く感じます。

 

つまり その差異こそが 差別なんだなと言うことです。 ②

 

ですが 悪口雑言が 必ず却ってくるというのが 絶対だとすると

 

わたしは 返り討ちにあっていないで済まされている人たちへの 恨みのエネルギーは

 

どこで消化されているのだろうと 考えるのですが、

 

それも よく観察していると 親兄弟が代わりに請け負っていたり

 

時間がずれて しっぺ返しを受ける人たちもいるようです。

 

芸能ニュースなどは そういった観察の素材の宝庫ともいえる気がします。

 

芸能ニュースと言えば どうして 人は あのように応援してもらえるのかというのも

 

興味深いことです。

 

政治家にしてもそうですが、 これも 絶対的な法則を感じるのですが、

 

自分自身の努力と才能以上の協力を得ることはできないということです。 ③

 

これは 過剰に受けた恩は 必ずしっぺ返しや 返済を求められます。

 

受けるべき協力が受けられないからといって、 こういう法則があるとしたら

 

おそらく 何らかの利益があるはずです。

 

そして それは 親や兄弟に 相続されます。

 

良かれ悪しかれ。

 

独りでシコシコなにかを努力しているというのも 結局 世のためになるということじゃないでしょうか。

私は、この五年ほど、簿記2級と法律系国家資格を取得した。

 

その動機の一つを理解していただくために、 今回 記事を参照させていただいた。

 

もう ずっと前から思ってたことだが、

 

昔の社会人が 「女子供の主張を受け入れていたら社会は成立しない」 と言っていた。

 

今は その女子供というのも しっかりした女子供もいたり、 昔の言うところの女子供の男の人もいたり

 

その両方が混ざった人格があったり、 私も 人のことを正直言える立場ではない。

 

しかし、 これだけはハッキリしているということがある。

 

もし、 お役所が 好き嫌いで 審査する際に 認容するかしないか決めていたら

 

みなさんは あり得ないというだろう。

 

では 会社や実際の取引ではどうか。 それは 皆さんの多くは お役所とは違うというだろう。

 

しかし、 それでは 契約を履行することができないよ ということ。

 

それを 行っているのが、 現代人なのです。

 

私たちが 昔の人が 「女子供の意見を受け入れてたら社会は成り立たない」 と言っていた

 

核心を理解することなく、 頭ごなしに 皆さんは拒絶反応を示すでしょう。

 

簿記や法律を学べば、 基本的な社会人としての素養が身に着きます。

 

このブログで何度も 社会に出る前に どれだけ物覚えが悪くても 簿記3級と 民法商法漫画本通読を

 

薦めるのは このことなのです。

 

社会に出て 何も知らないまま 必死に生きていると 多くの敵が生れます。

 

瑕疵ある人物になった後では手遅れなのです。 (わたしがそうなんですよ。)

 

この素養をみにつけておくことは 非常に重要です。

 


人口が増えすぎたから 人口をコントロールしよう という話は理解できる。

 

しかし 多くの一般市民は 普段 コントロール 支配 管理 という形で

 

統制を受ける側にあるので どうしても 人口を抑制するとき

 

否定的な影響を受けると思う。

 

学力や 経済力 先祖伝来のあらゆる富という バックグラウンドがないと

 

私たちは 子供をもうけられない とか 収入が少ない とか 資産が増えない

 

生活が豊かにならない ということになる。

 

人口削減計画は 階層社会ヒエラルキー とは 切ってもきれない関係にあると思う。

 

ヒエラルキーの上と下では 考え方も異なるだろう。

 

上のほうは もっと減らせというだろう。

 

これは 将来の食い扶持の問題も含んでいる。

 

地球には まだ使われていないエネルギーがあるといわれているが

 

ほかの生き物との調和も考えると 限界にきているということなのかもしれない。

 

また コントロールという 支配には 適正な 人数もあるだろう。

 

過去の歴史では そうした場合、 多重支配構造とうことで 大量に人が死ぬ時代まで

 

しのいできたのではないか。 たとえば 寺社による支配 貴族による支配 武家による支配というのは

 

頭が多くなった か 足が多くなったかの違いではある。

 

 

人口削減計画としてやり玉に挙げられているのは、

 

食料や 気候 医療保険 移民であるが

 

移民に関しては これは 一般市民にとっては 唯一 その搾取される者を増やし

 

負担を減らし かつ 需要と供給のバランスの総量を増やすことになるので

 

人口削減計画とは 無関係であるし むしろ歓迎すべき対抗策といえるだろう。

 

個性の弱い民族は 移民によって淘汰される。

 

日本人は 何事につけ 自信がないのではないか。

 

食料は 将来的には 単元素から 3Dプリンターによって 電子レンジ調理機のように手軽に

 

あらゆる料理が作られる時代が来るだろうし、 あまり悲観的な要素はない。

 

そもそも 30年前の生活を送れば 30年後の生活は あまり金がかからないだろう。

 

自由に子供をもうければいい。

 

人口削減計画は 人類の問題ではなく おそらく ヒエラルキー上下間 とか 民族横関係の

 

主導権のための 口実にされている。

今回も、 思考演習をじっくり独りでする時間が無いので お題だけの提示です。

 

万札が廃止されると聴くと わたしは 株の 分割やら 統合を 連想しました。

 

100株が1000株になると 株式分割と言うことで ざっくり 株主総会の普通決議(一般には過半数)

 

1000株が100株になると 株式統合ということで 株式分割なら株主の利益になりえるが

 

株式統合は 株主の不利益になる可能性が高いので、 株主総会の特別決議(一般には3分の2以上)

 

ということに 法律で決まってます。

 

ということで、 もし 万札廃止 ということになったら、 みなさんは 誰が損をして

 

どういう目的で 誰が得をするのか みなさんで 以上を各自調べて 検証してみてください。

この世界は 以前も言ったことで 最近は 言うのも辞めていましたが

 

必ず 自由 そして 機会の平等 といったものが 無くなると思います。

 

それは もうだいぶ前から 明らかに 延長上には そういう世界が見えていましたが、

 

もう世界を牛耳る人たちは かなりあからさまに なってきていて

 

誰の目にも 日本は 住みにくくなっていくだろうなというのが わかります。

 

みなさんの多くは 絆 というものを 信じているようですが、

 

家族は核家族化して 弱体化していますし 友人や近所の人たちと助け合える人たちも

 

半分もいない可能性もあります。

 

また つながりを持てても 厳しい時代には どの国でも そういった絆をもってしても

 

社会の秩序や 慣習には勝てません。

 

戦時中 友人だからという茶さじのような救いの手がかりを頼り

 

どのくらいの人が 泥沼の中から 救い出されたでしょう。

 

また 救い出された人たちは 依怙贔屓というか 不公平をもたらす原因でもあって

 

社会を 良くするどころか さらに悪い方向へと向かい 泥沼の汚染具合は拡大していきます。

 

大昔の戦国時代には 法の行き届かないがために 泣きを見る人がたくさんいました。

 

そんな中 「任侠」 と呼ばれる 人たちが 無法地帯を 善良な道徳の念から来る衝動によって

 

裁き と 社会の調整 や 救い を行っていました。

 

そういう任侠は 日本でも 混乱の中では 度々 美談として残り 語り継がれるものです。

 

現代社会では そういった任侠は 法治社会では 必要の無い者達と 考えられています。

 

民草を思う気持ちは 強く 法にのっとって 裁き 救い を行う為政者がいる。

 

そういう ことを 私たちは 選挙制度や 官僚に求めているのではないでしょうか。

 

私 個人としては 法治社会では たしかに システムを動かす 民 も

 

その動かし方を 学ぶごとに 徐々に 社会を動かすことが可能になっていく という点で

 

任侠は それほど 必要とはされていないと感じます。

 

また 日本の任侠 というイメージは どうも 民草を踏み台にして 利をむさぼる

 

平和でお上に従順な 時代が続いた結果うまれた チンピラ文化にも見えます。

 

それでも これから先 新しい中世が出現しいくであろう 主権を主張することもできなくなっていく

 

民草にとって

 

任侠の賊を 用意しておく必要があります。

 

それは 次の印が この世界のいたるところに見え始めたので 法治社会として 私たちは

 

世界を 学び や 努力に よっては 変えられないことが 見えてきたからです。

 

その印とは

 

「裁量権を持つものが恣意的に裁量権の範囲で徐々に主権者の意図を捻じ曲げていく」

 

というものです。

 

任侠は その法やシステムを越えたところで 正しい道徳をもって 修正する

 

強い個人である必要があります。

 

というのは 集団で徒党を組む賊となり 衆を頼むとしても

 

人からの助力は 個人の能力以上の助力を得ることもできないし 得たとしても必ずバチがあたるもの。

 

なので これらに必要な教育 と その教育を行える者たちを啓蒙する文学が 必要です。

 

もし この先 世界を最初に救うきっかけが 生まれるとしたら

 

文学しかないのです。

 

かつては そういった文学を 諸子百家と 呼ばれていました。

ポピュリズムにも 二つの意味があって 大衆迎合 と 大衆煽動 があると思う。

 

60年代以前は、 どうも ポピュリズムは 肯定的な意味でつかわれることが多かったらしい。

 

社会が 絶対的真理 というものを 持っていれば

 

子どもというのは、 親 や 先生 や 国 のいう事を よく聞くのが 社会がうまく回る

 

下地を作ると思う。

 

だが 今は 絶対的真理という かりそめも 持てない時代なので

 

子どもというのは 目上の人のいう事も 一応聴くが 判断を自分でしていくというのが

 

正しいスタンスだと思う。

 

これは カオスとかいう 物理の話みたいなもので

 

混沌も いずれは 収斂していくので 自然の流れに任せるのが 一番だと思う。

 

そうなったときに 大衆迎合すれば いいんであって、

 

私は 大衆煽動としての 今のポピュリズムは たしかに否定せざるをえない。

 

そもそも 大衆煽動を ポピュリズムという定義に当てはめるのは 違う気もする。

 

おまけ…

 

芸能人もテレビも 昭和のサッカーを皆知らない時代の幼稚園児のようで

 

逆張りをせず 売れなくなったら 簡単に豹変していく。

 

これも テレビは日本の現代芸能が クッソつまらない 一つ。

かつて 日本の支配階級である武士は、 利よりも義 とか言ってたり、

 

命は一代、名は末代 と言ったりして

 

実(じつ)よりも名(な)を貴んだ。

 

そして 殿さまのよく言うフレーズに 「よきにはからえ」 というのがあるが、

 

その結果 実際の利益を得たりすると、 たいてい 実害という報いをもって最期を迎えていて

 

名目上のことだけで 我慢しておくと 実害は少ない。

 

この心がけってのは、 本当に 宗教としても 実用としても 理に叶っているのは無いだろうか。

 

多くの庶民は 雑草のように 古の人たちは

 

この実(じつ) も 名(な) も得られないことが多いが、

 

彼ら 古の人たちは 何をもって生きる力としていたのかといえば、

 

自分たちの人としての生きる手段を得ようという 強い意思があって

 

多くの現代のモノども は どうも 実(じつ) や 名(な) を得ることができないとなると

 

すぐに 生きる目的を見失ってしまう。

 

現代でも 人々は 傷つけあったり 助けあったりして お互いに係っているが、

 

決して 人 というものは、 他者によって 何かを変えられることは無いと思う。

 

いろんなことで くじけている間は、 私たちは モノなんでしょう。

私たちは よく スマホやパソコンをやっていると、 いろんな情報を吸い取られていると

 

心配をしたり

 

マイナンバーで 管理されると 心配しています。

 

ですが、 よく考えてみてください。

 

情報を吸い取る人が 悪い人なら 悪い使われ方をします。

 

ですが、 あなたに ご飯をたくさんくれる 社長階級の人たちが

 

「どっかに使えるやついないかなーーーー」 と思って情報を集めていたとしたら、

 

これから先の時代の子どもたちは とっても いいことが待ち受けているでしょう。

 

だって、 これからの子どもたちは 努力や 能力を 測れるような形で

 

すべての学習は ネットとつながっていくでしょうから、 嘘がありませんし 公平です。

 

先生や 自分や 友達が どれだけ 主観で貴方を低く評価しても

 

客観的データには勝てません。

 

大人も 稼いだ金だけが すべてではなくなるかもしれません。

 

いつか 報いは 必ずくるような 方向にいっているんですね。

 

私たちが どれだけ 誰かを お祭りしても こき下ろしても もう未来は

 

庶民の手からは離れていくんですよ。

今回は 私は 全くの結論を持たずに ただ単に お題をだすだけです。

 

いま 非常に長いこと 国により 不当な拘束を いわゆる代用監獄で受けている

 

関西地方の小学校をつくろうとした オジサンがいます。

 

このオジサンは どうも 政治家と懇意にしていたりして

 

この人が いろいろ喋ると まずい思いをする人もいます。

 

仮に 出所してきたら 命を狙われるにしても まったく笑えない状態だと思います。

 

というのは 長期にわたる拘束というのは 憲法上 国家に対して絶対的に禁止されていて

 

また 裁判も受けさせない状態は 免訴 という結果にもなりえます。

 

戦後 高田事件 というのがあったことが 法律の世界では有名です。

 

また こういった免訴に関して 補償はどうなるのか という問題もあります。

 

わたし こういう素材を並べて なにが言いたいのかと言うと 皆さんに

 

こういう素材を提示して 仮に これらの事例を参考にしたら 当事者やずる賢い人たちは

 

どういう策を たてるのかな? というのを 皆さんに考えてもらいたいのです。

 

今回の件は 私は 今まで興味が無く 事件自体 よく知りませんが、

 

こういう 本来 国連の人権委員会あたりが そろそろ出てくるようになってくると

 

ちょっと興味があります。

 

いや そのくらい ドス黒いものがあると 感じたので。

日本を食べてもらう とか 日本民族を少数民族にするくらい海外から人を呼ぶ とか

 

そういうことを 実際に言ったり そういう政策を主張する方たちもいるが

 

彼らを 多くの人は 売国奴とか そう言わないまでも 非常に疑問に思っているようなので

 

ここで そうではない と 納得させる ある 説を 示してみたいと思う。

 

この説を 信じるも信じないも あなた次第だし、 一応  拒絶反応を起こすだろうが

 

そういう考えもあると 思って まず 読んで欲しい。

 

西郷どん というドラマを今 やっていて 

 

この日本の偉人が言うところによると 国の政治の根本は農業だという話だ。

 

もし 今の日本を 人の心や 富を生み出す源泉が 枯れ果てていると 思ったとしよう。

 

これを農業になぞらえると、 枯れた土地を 改良するには いくつかの方法があるが、

 

たとえば 焼き畑 というものを 転じて 国土を焦土と化すと考えてしまうと、

 

戦争と言う方法がある。

 

私たち庶民をおもうような 人たちなら なら追肥しようという考えもあるだろう。

 

そうなると、 追肥 移民難民じゃんじゃん受け入れ作戦 という考えも納得できる。

 

また イートジャパン(食べちゃって日本) とか インベストジャパン(日本を買い取っちゃって)

 

とか言う フレーズも 簿記の知識があれば まったく これを売国奴というのは 当たらない。

 

たとえば 資産が流出すれば それは 実は収入を得ることを意味し

 

費用を費やせば それは 実は資産を得ることを意味する。

 

このように考えていくと 私たち庶民が 簡単に非難している 売国奴は 実はそうではないことが

 

判明するのだ。