人間とは 習慣を持つ生き物だ。

 

そういう言葉がある。

 

日本にもいろいろな家があるが、 これといって習慣が まったく無い家がある。

 

また 子どもが 成長過程で 何か新しい趣味などを持ち 習慣を持ち始めると、

 

それを こだわりと 問題視して 時には腕力や違法行為をもってして ぶち壊す家庭もある。

 

特に 宗教をないがしろにしている 現代日本では 習慣を持たない家が多い。

 

こういった家は おそらく没落へという落とし穴に 突然 はまることもあるだろう。

 

若者は 大学や専門学校など または 就職で実家を離れると、 人として生きるために

 

人たらんとし 新しい習慣を身に着け それを続けるうちに 自分の成長を感じる。

 

そのため 実家に帰ると 何もかもが ぶち壊しになるということを 予感し

 

多くの若者は 家に帰ることを 極度に嫌う。

 

それが 経済的に 最も 自立する確かな 方法としても 実家に帰ることを嫌う。

 

だが それも 人間として その中で 習慣を続け 自分の人格を形成しようという 人もいて

 

そういった 生活もある。

 

私は 何をすべきか とか 何が正しいか とは 示さなくても

 

背骨が一本出来るような 人格形成ができた人間は 実家に帰ることを 恥とも 嫌とも思わないだろう。

無為徒食のモノたちのことを ニートと言ったりする。

 

ニートは 勉学に努めていれば ニートではないという考え方もあるようだ。

 

この社会を繁栄させるためには 何かしら 一人一人が 実のあることを していかなくてはならない。

 

だから勉学も 修養の方法(修身) や 国の治め方(治国) や 社会の安寧の献策(平天下)が

 

専門性をもとに 答えを出し表立って献策できなくては やはり無為徒食ということになる。

 

実のあることをしていないモノというのは 金融で生計をたてているモノたちも同じだと思う。

 

貴族のような生活をする人たちが その余暇に 勉学をし 実のある貢献をしなければ

 

やはり無為徒食のモノどものだろう。

むかし

 

遷都のとき 陛下が ともをつれだって 街道を 西から東に向かっていました。

 

陛下は 国中で一番高い山が 途中にあるので その山が 早く観たくてたまりませんでした。

 

陛下は 今までいた都から 出たことも無いような方でしたので、

 

一日か 二日 みこしに揺られていれば すぐに 山が観れると思ったのです。

 

しかし 二日経っても その山は観ることができませんでした。

 

西の地域からやってきた おつきの者が そろそろだろうと思い 言いました。

 

「陛下 あの高い山が この国で一番高い山ですよ。」

 

陛下は答えていいました。

 

「頂上は 木もはえていなくて 時には夏でも雪が積もることもあるときいていたが…あれがその山か」

 

おつきの者は すかさず応答します。

 

「陛下 せっかくなので ここらで逗留しましょう」

 

そういって 陛下を 百姓家にあげて 休ませました。

 

陛下は うとうとと 眠ってしまいました。

 

起きてみると 誰もいません。

 

行列は はるか東のほうに すでに行ってしまったあとでした。

 

 

こういう お話を あなたは 聞いたことがあるだろうか。

 

この話は 聞いたことが有る人も いるかもしれない。

 

だが そのあとの話を しましょうか。 少しだけです。

 

 

 

そのあと 陛下は 庶民として育てられ 子孫を残しました。

 

今も 男系の子孫がいます。

 

そちらの子孫も 男系は ダダ一人となってしまいました。

 

しかも 今どきの 結婚できない 男子で この先 結婚 子育ての見込はありません。

 

 

陛下とは どの国でも 国民の理想の生活をすることによって その国の鏡として

 

国を富ませ 安んじます。

 

本当の陛下の家も 表向きの陛下の家も もし陛下がこのような お話の通りなら

 

その国は もうおしまいでしょう。

 

どの国でも そういう 陛下の姿が 仮にあったとしたら 国はおしまい。

ご飯に事欠く子どもがいなくなればと 収入の数パーセントを寄付にまわす。

 

これが大人であれば、 おそらく 一回こっきりだろう。

 

なけなしの 収入でできることには 限界がある。

 

大人で寄付が必要な人は 障がい者や 高齢者など さまざま思いつくが、

 

働ける人でも必要な場合がある。

 

私には 社会的抹殺が どういう内容をともなったものかが 想像がつくので、

 

嘘が無い限り できるだけ 支援したい。

 

それが 犯罪に使われない限りである。

 

食べ物が第一で 仕事をするための つなぎとして。

 

私は カネと誠意があれば この社会は どうにでもなると思う。

 

どうにもならないのは、 この二つが いつも我々に足りないからだと思う。

 

だから 私は もっと精進しなくてはならないとも思う。

ネットをやっていて ここ数年 実際の社会で生きていくうえで、 大切な気づきを得ることができる。

 

人の記事を読んでも それぞれに個性があって あらゆる意見があるという意味でも、

 

それぞれの ネットでの行いが 人の本性というものとか 欠点 長所というものが

 

垣間見ることができるとか。

 

先日 あるブログの記事に対して 読んでみて感じたことがあったので、 コメントをした。

 

私は その記事に対しての意見を述べたに過ぎないので、 その記事を書いた人への意見を書いた。

 

当然 リプライは その記事を書いた人に期待してのこと。

 

実際の社会でも 意見を求められらた 求められた人が応えるのが筋だと思う。

 

ネットで 炎上や怨恨があるのは、 記事のコメントに対して、 第三者が 当事者の記事のコメント欄に

 

横やりを入れることだろう。

 

で、 そのコメント欄が 承認制ならば、 その記事の主は 炎上や怨恨の連鎖を

 

コントロールしているということになる。

 

 

まだマシなのは、 どこかの記事でのコメントを 気に入らないということで

 

その記事の主に遠慮してか 私の記事にコメントを入れること。

 

だが、 私の記事とは なんの脈絡もない 意見が 延々と コメント欄に残される結果になる。

 

どうも 私には どれだけ丁寧に意見が書かれても 筋を通していないという意味で

 

慇懃無礼にしか感じない。

 

これで 外交をはじめとした 政治を考察しようというのだから そういう社会の常識をまずは

 

わきまえてもらいたいものだ。

 

それも 意見になっているのなら、 まぁ 時間がとれるときに ゆっくりお応えすることにしましょう。

で…

 

もう一度 このシリーズの前出の4回分の記事を読んでもらいたい。

 

直感で わからないだろうか。

 

勢力均衡と 集団安全保障という 二つの方法がとられている この世界は、

 

巨大な国が あってはならないこと。

 

国がまとまって一つになっていくよりも 大国は分割された方が

 

世界が平和になるということ。

 

これは 多様化を肯定し 世界統一政府への指向を否定するものだが、

 

まずは 皆さんには 私が思考演習していって 論理だてて説明するよりも

 

このシリーズを 何回も繰り返しよみ なぜ そのような結論が導き出される可能性があるのか

 

じっくり考えてもらいたい。

百戦してあやうからず という中国の古典にあるが、

 

最も上策とされるのは 戦わないで勝利をおさめること とある。

 

戦わずとも勝てる方法があるということ。

 

それは 強ければ強いなりに 弱ければ弱いなりに 戦わないで 自分を有利に導くことができる

 

途があるということだろう。

 

勢力均衡方式は 敵国と同等たらんとする力が働くが、

 

それは経済力や外交力 次第ということで またエスカレートをさせる。

 

もし兵力に限って 考慮するなら 少ない兵力の場合は とことん逃げる策を 前出の「孫子」にも

 

書かれているようだ。

 

そして 共通認識を駆使して 道理を実践しているうちに 大方の自国に有利な流れができる。

現代の日本は 非常に 融通の利かない国になったと思う人が多いのではないだろうか。

 

多くのサービスを受けるときに感じることは そのぐらいは 臨機応変に 対応してほしい…。

 

そう思うことも 「それは私の判断では どうにもできない」 と そっけなく断られてしまう。

 

それは 個人が歯車として 組織の一員として働いているために起きることで

 

いかんともしがたい 部分がある。

 

昔はよかった と思う高齢者の多くは こういったことを思っているふしがある。

 

つまり 個人ができることが 昔は大きく 一人一人の権限が (根拠がなくても)大きかった。

 

裁量が認められていたのは 個人の能力が 高かった部分もあるかもしれず

 

実は それだけ 決まり事がおろそかになっていた 可能性もある。

 

過去に多くの事件や大問題が発生したことを考えると 後者の部分が大きな要因かもしれない。

 

つまり 決まり事を疎かにしない 世界の共通認識を堅持する ということに 重きを置いていくと

 

かえって生活しにくく 自由度が減る社会が出現する。

 

それは 災害や戦争における 臨機応変な対応ができない社会ということでもある。

 

また 個人の能力が高くなれば 裁量権が認められる結果になっていることにも注目すべきだろう。

 

まずは 共通認識をえてそれを堅持するという 国際秩序(集団安全保障) を実行することと

 

国の裁量権を確保し自由を維持するために 国の能力を底上げする必要がある。

 

国の能力の底上げは 主権者の能力の底上げということ。

 

つまり民百姓の一人一人が能力をあげる。

 

一、共通認識の各自の確認

 

二、主権者(国民構成員)の理解と能力の底上げ

 

三、集団安全保障の実施

 

四、勢力均衡を配慮し干渉の手段を削減する話し合い

 

五、搾取の理由と原因である干渉の放棄を目標にする

 

六、自立した国内経済

平和維持の方法としての 集団安全保障には 人類の普遍的共通認識があってこそ。

 

それが無ければ 制裁は 単なる集団によるイジメ以外のなにものでもない。

 

では その普遍的共通認識が何かといえば 平和 その国の主権者の自由 ということが挙げられる。

 

また 集団安全保障を行使するにあたっては ある新たなる火種が発生する。

 

まず 戦争をはじめ 他国への干渉というものは 国力をお互いに消耗するため

 

その見返りが無くては 愚鈍な為政者以外は けっして行わない。

 

制裁のために出兵すれば それだけの出費があり 国内では物価が高騰するため

 

国民も国も 身をすり減らす。

 

で ほとんど古来から 現地調達ということになるが、 それは制裁を受ける国からのものになる。

 

出兵で例をあげたが それは 経済的な制裁でも同じことで

 

結局 国際秩序に基づいた制裁というものは 搾取が目的であることが多い。

 

もともとは 自由や平和 博愛 というものの言葉に 有害な意味が無いのに、

 

このように 実際に その共通認識に基づいて 国際秩序を維持していく過程で

 

最悪の結末をもたらす 悪魔のお題目となってしまっている。

 

こうして考えると 大義名分を与えないためには 国内に 主権者の自由の確保と 平和を維持することが

 

最も 為政者にとっては重要なことになり 国内の主権者をないがしろにすることは

 

命取りになる。

 

現在の世界の ほとんどの主権者は 民百姓ということに 形式上はなっている。

 

ではあるが、 その形式との乖離が激しい国家もある。

 

そうなった場合 実質上の主権者が どれだけ 筋を通していたとしても

 

世界中は 違和感を感じるだろう。

 

この筋が通っているという大義名分が そもそも 共通認識の土台である 主権者の自由の

 

主権者が入れ替わっていることが 大きな問題で 力のあるものは それを利用し

 

因果応報の 報いを避けるようにして 悪事を押し通してしまう。

 

それは 結局のところ 内乱の原因となり これは 外患 ではなく 内憂の問題として

 

平和維持の方法を あらたに 考案していかなくてはならない という。

勢力均衡 と 集団安全保障。

 

この二つが 戦争を回避するための 伝統的な手法だろう。

 

勢力均衡方式は 第一次大戦前まで 各国が行っていた手法で

 

軍拡競争を招くが 一方で 話し合いによる 軍縮も可能ということになる。

 

考え方としては 相手が百万人の軍事力なら こちらも 百万人の軍備にしようということ。

 

そして 相手が 他国と同盟したら こちらも他国と同盟して 勢力の均衡をはかろうとする。

 

なので、 勢力均衡方式は いったん 戦火の口火が切られると 大きな戦になる。

 

集団安全保障は フランスやドイツの哲学者が近代に発明したもので

 

第一次大戦後 実施にうつされていった。

 

これは 世界全体が 参加した 国際連盟という形になっている。

 

戦争というものは おそらく 集団安全保障 というものが主流になったことで

 

以前よりも さらに 大義名分が 大事にされることになった。

 

大義名分のない 戦争は 起こせない世界に なったということは

 

実は 人類にとっては 非常な進歩だと 私は思う。

 

そのため 筋が通っている 国というものは どれだけ 弱小国であっても

 

生き残ることが 可能になる。

 

正直 一見 出鱈目なことであっても チンピラであっても 国際秩序を構成している

 

共通認識を理解して 筋を通していけば なんとか生き延びるのだ。

 

また この集団安全保障 という形は 仮に 鎖国をすることが可能な国家があると

 

あまり機能しないと 考えられる。

 

なぜなら 世界の制裁がなされても 単独の国家で 経済的に自立しているならば

 

なんらの効果も及ば差ないから。

 

そのため そういった国自身も 周辺国も 勢力均衡方式を取り入れなくてはならないことになる。

 

この場合 先に書いた通り 戦争を回避したり 平和を維持するためには

 

軍縮の話し合い や 実施が 可能で マストである。

 

これが 現代に考えられる 一般的な平和維持の基本的な考えだと思われる。