平和維持の方法としての 集団安全保障には 人類の普遍的共通認識があってこそ。

 

それが無ければ 制裁は 単なる集団によるイジメ以外のなにものでもない。

 

では その普遍的共通認識が何かといえば 平和 その国の主権者の自由 ということが挙げられる。

 

また 集団安全保障を行使するにあたっては ある新たなる火種が発生する。

 

まず 戦争をはじめ 他国への干渉というものは 国力をお互いに消耗するため

 

その見返りが無くては 愚鈍な為政者以外は けっして行わない。

 

制裁のために出兵すれば それだけの出費があり 国内では物価が高騰するため

 

国民も国も 身をすり減らす。

 

で ほとんど古来から 現地調達ということになるが、 それは制裁を受ける国からのものになる。

 

出兵で例をあげたが それは 経済的な制裁でも同じことで

 

結局 国際秩序に基づいた制裁というものは 搾取が目的であることが多い。

 

もともとは 自由や平和 博愛 というものの言葉に 有害な意味が無いのに、

 

このように 実際に その共通認識に基づいて 国際秩序を維持していく過程で

 

最悪の結末をもたらす 悪魔のお題目となってしまっている。

 

こうして考えると 大義名分を与えないためには 国内に 主権者の自由の確保と 平和を維持することが

 

最も 為政者にとっては重要なことになり 国内の主権者をないがしろにすることは

 

命取りになる。

 

現在の世界の ほとんどの主権者は 民百姓ということに 形式上はなっている。

 

ではあるが、 その形式との乖離が激しい国家もある。

 

そうなった場合 実質上の主権者が どれだけ 筋を通していたとしても

 

世界中は 違和感を感じるだろう。

 

この筋が通っているという大義名分が そもそも 共通認識の土台である 主権者の自由の

 

主権者が入れ替わっていることが 大きな問題で 力のあるものは それを利用し

 

因果応報の 報いを避けるようにして 悪事を押し通してしまう。

 

それは 結局のところ 内乱の原因となり これは 外患 ではなく 内憂の問題として

 

平和維持の方法を あらたに 考案していかなくてはならない という。