私は特定の人の記事や 特定の人物を否定しないよう気を付けてきましたが

 

先日のリブログで 記事内容ではないことについて 禁を破りました。

 

そうとう以前 このブログを始めるよりも遡ってさらに以前の話ですが、

 

ネット上に 支配層の使用人たちの指示のままに 賊とおぼしき人物をネット上で

 

斬って切りまくる人きりブロガーがおりました。

 

その人物のことを 思いださせるものを感じてしまったため 人違いとはいえ申し訳ないのですが、

 

あのような記事を書いた次第です。

 

おそらく そのような人物が再び現れても 私の書いたことを覚えていれば 予防にはなると思います。

 

人の文章と言うものは 太刀筋のように どんなに崩しても ある程度の痕跡がでるものです。

 

思い込みとはいえ 申し訳ないのですが、 参考までに ママにしておきます。

 

支配層側からみた賊とは 庶民の味方になる者たちです。

 

その者たちを 自身の意志で葬り去った人たちを私は忘れません。

今回はある人のブログを引用しようと思います。

 

それは、 多くの人に知ってもらいたいことがあるからです。

 

なにを? それは 多くの人が社会的な圧力を受けています。

 

その中で どれだけ努力しても 社会は あなたを潰すことができるよ ということです。

 

旨い具合に避けても 避けられません。

 

テンパってくると、

 

前の車のナンバーがやけに目につき、ナンバーに何らかの意味を見出そうとする。

 

そうなってくる人が多いんですよ。 潰されてる人っていうのは。

 

それは観察や 伝聞から そういう傾向がハッキリしています。

 

このブログの主が どういう意図で こういう記事を読ませたいのかは不明ですし、

 

庶民の味方のような内容のものです。 いかがでしょう。 私は読みません。


今回、引用させていただく記事については

多くの日本人が同意することと思います。

わたしも、この方のブログについては同意することが多いのですが、

 

今回のこの記事は、日本人の思考の限界を物語るものですので、残念としか言いようがありません。

あくまでも個人的な意見として。

 

簡単に言うと、この頃の日本で落書きがされなくなったのは、最悪の条件が揃ったからだと考えています。

 

一方でベストな条件が揃っても、落書きはされない社会は出現するでしょう。

 

矛盾しているのが、こういうことには気づかずに、マクドナルドのハンバーガーは、カビが生えないと騒ぐ。

 

日本人の限界としか言いようがありません。

 

犯罪者を受け入れて国を活性化するという方法をとった為政者は過去には実際に歴史上いますし

 

成功しています。

 

しかしその後の歴史は、よろしくない結果をその国にもたらしました。

 

難民を犯罪者と同じように考える、その思考を改めていただかないと、難民を受け入れるにせよ

 

拒否するにせよ、国際的な圧力に冷静に対応できないでしょう。


スターウォーズ最新作のネタバレが一部あります。

 

民主主義とうで使われる 民という字は元来 目にとげのようなものが刺さり傷ついた状態を

 

あらわす漢字です。

 

今回映画のネタバレは一部含まれますが、 私の書く部分の肝心なところで 上映中

 

猛烈な尿意により2分間中断しました。 なので ネタバレといえども 実際には異なる展開も

 

ストーリーには存在していて 私は見落としているかもしれません。

 

 

スターウォーズの最新作の悪の組織は ファーストオーダーと呼ばれています。

 

彼らは帝国軍と同じような軍隊を持っています。

 

主人公の仲間が 彼らの軍艦に侵入するために 小悪党と取引をし 無事侵入に成功しますが、

 

その小悪党は ファーストオーダーのほうが多額の金銭で取引をしてくれるので、

 

主人公の仲間との契約を果たしたうえで 彼らを 悪党どもに売り渡しました。

 

私が今回 取り上げたいのは、 実はここから 軍艦の中で大勢の悪党どもが この小悪党に

 

きちんと金銭を渡したという点です。

 

この後 私はトイレに行きました。

 

しかし こういう 債権債務を 確実に履行するというのは 海賊映画などでも よくあることで

 

よく 多勢に無勢の状況で 反故にしないと 悪党ながらと感心しています。

 

私は日本では 多くの庶民が 目の前にニンジンをぶら下げられて、 約束を達成しても

 

反故にされるという 現状を 情けないと感じています。

 

契約という発想は こういう信義に基づいたものという 西洋伝来の近代法は 東洋人にはなじまず

 

中国の ズル というのが 際立って目につきますが、 私たちも反省すべきではないでしょうか。

 

 

今度は 歌謡曲などの芸能に目を向けてみましょう。

 

日本だけでなく どの国もそうだと思うのですが 流行というものがありますよね。

 

ある人が ネット上で 「ネット発の流行は テレビで流れて 親が口にしたら終わり」 とつぶやいていました。

 

このつぶやきは その通りではないかと思います。

 

また ネット発の流行ではなくても 流行した若手の歌手が オジサンたちが口にしたとたん

 

しらける 若者は多いのではないでしょうか。

 

流行の終わりは 二つの結末を迎えると思います。

 

陳腐化 と 一般化。

 

一代限り と 末代まで。

 

なにか これはもう 陳腐化というのは モンサントの種子のようなものです。

 

こういう 次につなげられないものを 盛り上げている 文化というものに 疑問を感じますし、

 

もともと 茶化すという風潮の中で 生きている人たちに 次代に残すつないでいく文化を維持できるのか

 

非常に疑問です。

 

これは 徐々に世代を経るごとに この傾向が強くなっている気がします。

 

歌だけではないような気がします。

 

 

さて このように 芸能を見ただけでも 民が 気づかされ 民が いかに劣化していっているかが

 

わかるというものでしょう。

 

私は NHKの批判は あまりしていませんが、 それは そもそも 民が金を出し合って

 

自分たちの側に メディアを 保有する手段として有効な方法が 公共放送という理念に見ていたからです。

 

その理念を 再燃させるためには 公共放送を 税金で運営する公報放送にしてしまえという考えよりも

 

徴収した料金の 半分は (今でも分配は少しはしているようですが) 民放への分配金に増やし

 

民の力を強くする方法もあるでしょう。

 

民が このまま 自らを陳腐化させて 反省したり 主体的に思考しないならば

 

彼らなど話にならないのですから、 彼らの批判する対象 肯定する対象など 取るに足らず、

 

また ひとかどの人物になりたいのなら 彼ら民のかたなど 持ってもしかたないでしょう。

日本の難民受け入れは 国際的にみても非常に消極的だと言われています。

 

労働者の受け入れはしても 定住をともなって市民権を与える移民についても

 

国民感情も含めて 困難がともなっています。

 

今回の記事では 移民・難民の受け入れのメリットやデメリットを明らかにせず

 

国民の 移民・難民受け入れに否定的な主な原因である 外国人アレルギーについて

 

考えてみたいと思います。

 

突然ですが、 児童ポルノ違反での話題が 新聞やネットなどでも しばしば見受けられます。

 

私も児童ポルノは無くなるべきだと考えています。

 

それは 騙されたり 脅されたりして 少年少女の心身が傷ついているからです。

 

撮影したり 頒布したりするものが 無くなる日が来ることを望んでいます。

 

一方で 私は ポルノ自体が大好物で 俗物の男として よく観ています。

 

時々 興味をそそるものがあれば 一年に一度くらい気が向けば ネットで購入したりもします。

 

その時には、 必ず 18歳以上と確認できていると明示しているものを購入します。

 

なので 児童ポルノ所持というだけで 捕まる現代社会では

 

リスクが無いわけではないと思います。

 

新聞沙汰になる事件の容疑者は 児童ポルノの購入の意思があったと供述していると言いますが、

 

日本の文化的背景から言えば、 疑似的に 小柄な大人の女性を好むという傾向が

 

多くの日本男性にはあります。

 

また ポルノ業界というのは 搾取の場であることが多く

 

芸術とはかけ離れた 虐待そのものの演出があったりします。

 

日本のポルノに そういった傾向が強いと言われていますので、

 

ここ数年は 特に 日本のポルノを観る回数が減りました。

 

このように書くと

 

「この変態野郎が」 とか 「児ポ鑑賞で逮捕された人間を擁護するのか」 とか 言われそうです。

 

その点は 承っておきましょう。

 

ただ そういったことを感じたあなたは、 いつ社会人になったのでしょう。

 

仮に 20世紀には 立派な社会人の男性女性だったとしたら

 

あなた達は、 90年代に どのようにしていたのか。

 

ほとんどのかつての大人たちは オッサンたちの火遊びを笑いながら黙認し

 

また、 部下や若者を 強いて誘ったりもしていましたよね。

 

その人たちが よくもまぁ 現代では 「時代が変わった」とか ほざきながら、

 

しらばっくれて 観てるだけの漫画家などを 断罪しているわけです。

 

こういった 時代の変遷というものは 日本の歴史の中でも 幾度もありました。

 

戦前と戦後などは すぐに思い浮かべることでしょう。

 

15で嫁に行き と唄にもあるくらいです。

 

現代では 男女平等ということで おなじ教育の機会や 労働力の確保という点からも

 

労使双方にとっての社会的な要請で なおさら 男性への女性の解禁といって良いか知りませんが、

 

高年齢化しています。

 

90年代と現代では違うわけですが、 その社会的な要請を かつてを生きてきた者に

 

変更を求めるとき ある意味 かなり強引なやり方、 つまり

 

警察的規制を 過剰なまでに 求めてくることになっています。

 

それは事実として ポルノをつくり 配る 者たちだけでなく 所持する者も 処罰するという

 

規制に コストとリスク 両方をともなうことをしてまで 行うのです。

 

実は… これと同じ状態が 江戸時代の初めにもありました。

 

江戸幕府の徳川家康公が 天下を治める以前は 男は 今でいうところの小学生にも

 

性行為を行ったりしていたようです。

 

そして時代が江戸時代になり 12歳以下はご法度と言うことになり、

 

ご法度を犯した者の処罰は 獄門(さらし首)という。

 

無罪だった行為が いきなりある日を境に 晒し首になる行為になる。

 

また 現代社会では 法格言に 「法の不知は許されず」 ともあるので

 

一般の市民と言うものは 生きていく上で 慎重が求められ

 

こういった 変更があまりに激しいと 世の中が停滞してしまいます。

 

ここで いったんまとめますと

 

「時代が変われば行動規範は変わり社会で生き抜くために行動規範を変えざるえない。」

 

もう一つ

 

太古の中国は身分社会で 人材の硬直化がすすんでいき

 

国と国が争う時代になってから 人材をひろく集めようと ある君主が

 

野盗や今でいう芸人など から 剣豪に弁舌家まで 国の内外から集めたそうです。

 

その結果 その君主が治める都市は 柄の悪い連中が集まってしまい

 

歴史家が100年以上たって その都市を訪れた時にも 風紀が 際立って悪かったという話があります。

 

そういった歴史は どの国でもあると思うのですが、 その結果

 

地方などは 保守的になる傾向があるのでしょう。

 

ただ、 犯罪者も人材として受け入れていた時代ならまだしも

 

こういった 史実は そのまま当てはまらない。

 

まとめると

 

「孟嘗君の故事、鶏鳴狗盗は現代日本では即適用されはしないが用心する必要はある」

 

今回 二つの話をして 導き出そうとしていることは

 

社会が求める行動規範はしばしば変わり、 もともといる人間も 行動規範を変える必要があることと

 

規範を破るリスクを持っていること。

 

それは 外国人と同様であり、 (ある意味 外国人は時代の異なるものと とらえても差し支えない)

 

日本人も外国人も その点から 同じように矯正していく必要のある同じ人間で

 

アレルギーの主な原因は 取り除くことができるということ。

 

また 受け入れるにあたって 犯罪者が来たら困るという心配事は 的を得ているが、

 

正確には 条件として 誤謬が発生しているのではないかということ。

半世紀前の東京オリンピックの後には、 一時的に不景気が発生した。

 

この不景気のあとに、 好景気が来て そしてオイルショックにより

 

田中角栄のふくらました夢が空回りしたうえで、 最悪の不景気が来たので、

 

オリンピック自体も その遠因と言われているところもある。

 

昔、東京で開かれたオリンピックは 国民に夢を与えたようで、 60、70代の方たちは

 

その当時を懐かしむ人も多い。

 

実際に新幹線や 東京タワー、高速道路など 造るべきものも重なり、

 

日本にとって良い影響があったのは間違いないだろう。

 

しかし、 当時とその後の日本の活力になったとはいえ、 多くのインフラが事後活用しきれなかったり、

 

一番大きな問題は、 オリンピック以降から 赤字国債を特例で バブルで調子が良くなるまで

 

発行し続けたことだろう。 そして現在も 赤字国債は平然と発行されている。

 

日本は かつての東京オリンピックのように、 事後も考慮したときに、 のちに活かされる

 

準備となっているのか、 

 

また本当にタイミング的に良かったのか

 

今回のオリンピックについては 庶民目線ではいまいち分からず、末恐ろしさを今から感じている。

 

実際に 今 準備している生産力は オリンピック以降 どこに振り分けられるのか。

 

一番 予想しやすいのは 国土強靭化計画に 本腰を入れるというものだろう。

 

または 考えたくはないのだが、 生産したものを 破壊して 再生産のほうに振り分けるという。

 

天災 人災と あり得ないことではない。

 

こういう予想や 見込みをたてて 政治家や官僚が オリンピックを開催していると仮定して

 

私たち庶民には はっきりと その見込みを示さないのは 黙っていうことをきいてないと

 

管理できない 支配できないという 意識と圧を感じる。

 

実際 社会の見込みや予想を示したり その素材を提供する活動をネットで行うと、

 

大企業などでは 多胡部屋行の 隠れた原因であったりもする。

 

庶民としては 見込みや予想を 多く聞いたほうが、 対策も立てやすくありがたいことだが、

 

予想が当たっても当たらなくても その通りに進めてくる支配層に遠慮してなのか

 

同じような 圧を 菩薩のような 社会活動を趣味にしている人間を懲らしめているだろう。

 

さて 途中で脱線してしまったので その脱線で結びたいと思う。

 

そういった 支配層の顔色を窺った 同調圧力を ごく自然と行っているものが多い。

 

これは最近の現象ではなく 昔からのことだろう。

 

しかし 昔と違うのは それを行う者たちが 縦のつながりを大事にするものたちではなく

 

横のつながりを大事にしたいという者たちである。

 

しかし やってることは 支配層の顔色を窺っている。

 

会社の管理について 顔色を窺うように仕向ける管理方法があって それはブラック企業の例をみれば

 

想像もつくだろう。

 

このようなブラック企業が多く出現する以前でも 企業というものはガバナンスがとれていたのであるが、

 

それはひとえに 個人個人に 礼節というか 秩序の意識があったからだろう。

 

それが 上下関係だったのだが、 今の人間の秩序意識は 次第に横のつながりというものになった。

 

会社という組織が強くなるには その横のつながりでは ほぼ負けるので

 

その代用として ブラック企業が生まれた。

 

おそらく これからは 横のつながりを普段慣れ親しんでいるものだけを受け入れる企業だけが

 

非ブラック企業になると思われる。

 

ただ 私の見込みでは そういった企業の多くは 組織変更して合同会社にするか創業すればよいのに

 

ほぼ間違いなく 株式会社という形態を選ぶ。

 

本来の救済の道を示す可能性をつぶし、 多くの庶民に夢を見させる まやかしの

 

横のつながりというものになる可能性が高い。

 

和をもって貴しとせよということを言った時代には 身分制度もあり、

 

なおかつ その和から外れているもの または囲われたものを 排除せよとは言ってない。

 

おそらく オリンピックは 形だけの幸せと 大きな負債を残すことになるのではないか。

 

こういう見込みしかたてられない。

あなたの会社には 監査役会というものはあるだろうか。

 

監査役が三人以上集まって構成してはいるが、 その監査役は

 

合議制のなかの一員ではなく 監査役会の監査役は独任制である。

 

独任制とは 説明すると 自分自身の意思で 物事に責任をもって取り組むと言ったらわかりやすいだろう。

 

日本の民主制の中には 独任制の機関というのは 他にもあって

 

たとえば地方自治における 監査委員や

 

裁判所の裁判官も 独任制と言えるだろう。

 

こうして考えると 権限を持つ者たちを 監視し 監督し 審判を下す者は

 

たいてい独任制が採用されていることが お分かりだと思う。

 

さて 民主主義社会で もっとも その監視 監督 審判 という判断を行わなくてはならない者は

 

誰か お察ししていただけるだろうか。

 

それは まぎれもなく 市民一人一人である。

 

民主主義社会での 市民とは 独任制機関である。

 

と言えるだろう。

 

政治活動で みんなの意見をまとめて上申するときに それは違うと思うが

 

みんなが言うなら 運動に協力しなくてはならないということだと、

 

市民としての権利行使に 瑕疵(傷があり) 欠缺(損なわれている) 状態であると言える。

 

このことは 市民とは 平民ではなく サムライであるべきであって

 

義務教育が施されるようになった近代の背景には そういうサムライを国民全員に

 

素養を与えるためだと思われる。

 

しかし そういった成り立ちで 四民平等になったのではない 過去があるが

 

日本は大正時代から次第に すべての日本人がサムライたるべきという国民全体の総意と

 

挫折 そして 外部からの支援を経て 今があるので

 

この民主社会を大切にしなくてはならない。

 

たぶん日本人は 平和ボケしてしまって 独任制としての判断すべきところも

 

責任を逃れるため または 無知のため または 勘違いやだまされたうえで

 

すべて 合議制こそが 民主主義と勘違いしているふしがある。

 

 

さて

 

ここからは 市民としての素養として オマケの話をしたい。

 

私はもう あわせて20年近く お金のやり取りをともなう仕事をしている。

 

よく商売で金銭のやり取りをしていると 心理留保という(冗談で受け取ってくれという)ことが

 

あるのだが、

 

これは受け手が 冗談とは知らず 本気にするには無理がある場合以外は

 

法律的には 受け手が受け取ってしまっても問題はない。

 

たしかに 与えるほうは そういう状態を作らざるを得ないなどの事情があったり過失がなければ

 

同情の余地があり 自然と帳尻があうような 結果になる。

 

ただ経験上 ご自身で 帳尻を合わせよとしたり 逆恨みとしか言いようのない仕打ちを

 

受け手に行うと 与えた側は バチが当たる。

 

また 受け手も わざとだったり 過失があると バチが当たる。

 

不思議なものだが、 こういった仕組みを知ることも 市民(サムライ)となる素養だろう。

(追記:下記の記事内の人物の名前に誤りがありますが、ママにしておきます。)

 

人というのは 生来持っているといわれた権利があって

 

その自然の権利の中で 反論権というのが あると思う。

 

たとえば 誰かに 何かを指摘されたら 当人は 承知するにせよ不承知にせよ

 

なにか 言うべきことがあれば 言ってよい。

 

わたしは 書きたい放題 ここに書いていて これを見て 何かを思った人がいたら

 

当然 何かを ここに書いていい。

 

そして 言ったこと以上の反論は おつりがでているということで、 さらに今度は こちらからに

 

反論権が発生することになる。

 

(余談として 実は これだけ書いて ここに残さないというのは、

実社会に反論権を行使されている名分になったりもしているのではないかな。)

 

こう考えると炎上というのは 権利の行使を過剰に行うことで 発生するものだともいえる。

 

実は 炎上は するだけ エネルギーが 発散されて いつかはスッキリする部分があるので

 

まだましなのだ。

 

ましではなく 不幸なのは この反論権の行使を 行えないタイプの人たちがいる。

 

それは 性格であったり あまりにも 相手の反論が大きすぎ多すぎて対処できなかったり

 

まぁ 社会の仕組みでできない人もいる。

 

炎上をみてもわかる通り、 あれは一種のエネルギーの発散で その過程で

 

社会を よくも悪くも動かしているエネルギーだということが おわかりだと思う。

 

つまり こういった種類のエネルギーが ため込まれているという 反論権の制限は

 

地殻のプレートに圧が長年かかって 将来大地震を引き起こす引き金になっているのと

 

同じようなものである。

 

また 日本には三大怨霊ともいわれている 歴史上の人物がいる。

 

崇徳上皇様 平清盛様 菅原道真様 といった方たちは 反論権の制限をされた節がある。

 

 

で ここからが今日主張したかったことなのだが、

 

天皇陛下を どう扱っていくかという日本人の課題だが、

 

ほうっておくこと 嫌な思いをさせないこと 側近は甘やかさずに育てること

 

こういうことになるだろう。

会社には 使用人と呼ばれる 管理職がいる。

 

彼らは 経営者の指導のもと 会社の持ち主のために働き 権力を行使し責任をとらされる。

 

一般の従業員とは 一線を画す身分として 会社法にも規定されている。

 

社会全体として 使用人に当たる者たちは たとえば 公僕とよばれる方たちではないだろうか。

 

特に政治家は 民主主義の主権者である 民草の使用人ともいえる。

 

ただ私の感想では この政治家というのは この世界の裏の真の支配者の使用人であり

 

民草の使用人とは とても思えない。

 

いろいろな分野で 民草の使用人として働こうとするものは 運が悪く

 

トップにたてば おそらく史上最大の不景気になるだろうし 実際過去にそういった実例もある。

 

一流大学での教育を施されていない 民草から選出された トップは そういう憂き目にあう。

 

やはり 一流大学出身の(裏の真の支配層のお気に入りの)使用人でないと

 

社会はうまくまわらないと 民草も 偽の使用人ばかりを支持する。

 

この国は いつまでも こういった具合で 決して 民のための民による社会は実現しない。

 

誰かが得をすれば誰かが損をする世界で 打建てている理想論の民主主義に従えば

 

努力すれば報われる路があっても、 このままでは いつまでも民草は努力しても搾取される。

 

 

今日 本当に話題にしたいのは 天皇制である。

 

今の天皇陛下は 日本人みなから頭を下げられる身分であり

 

天皇陛下自身も 我々に挨拶するとき 必ず頭を下げる。

 

陛下というものが 民主主義社会で どういう存在であるべきかを 常に意識していると感じる。

 

今の陛下は そのような 立派な意識を持った方だが、

 

よく間違いおかして 自分の首を絞める選択をしてしまう 民草は こういった民主主義を

 

どう維持していくのか とか 象徴という存在をどのようにとらえ

 

天皇陛下には どうあってもらい この国でどういう役割を果たしてもらいたいのか

 

かなり 人任せになっている。

 

このことは 実はリスクのあることで、 代を重ねていくと

 

天皇陛下を担ぎ上げ 人の上に人をつくり 人の下に人をしき 虐げるという世界にもなりうる。

 

今までの歴史の中で おとなしい存在だった

 

天皇が 突然 武闘派になり 暴れまくったということも ないわけではないだろう。 日本人は

 

とにかく

 

天皇陛下には頭が上がらない。 目の前にすると 膝を屈するという本能もあるようで

 

そうなったら なかなか 反抗もできない。

 

そういう歴史なので そういう歴史を中心に学び 政治経済法律でできた社会の今を見ずに

 

歴史が必修なので さらに このまま時代が下れば

 

「万歳して死ぬ」 羽目になるだろう。

 

象徴という存在は 国民統合の象徴という いかにもわかりにくい言い方がが

 

要するに 国民の理想の生活をしていれば よいと思っている。

 

象徴という仕事だけを考えればだ。

 

そして 今の子孫が絶えそうな状況を見ると、 日本人は世界中から

 

自分の国の王様の子孫も残そうとしない まったく使えない連中だと笑いものになっても

 

おかしくないのではないか。

 

そういったことを思うと、

 

もう日本で

 

天皇陛下を 象徴にいただくのはやめにして

 

日本の領土内で 国土を分筆して

 

天皇のための 市国を造り そこに天皇庁をもうけ そこで子孫を増やし祭祀をとりおこない

 

日本民族の象徴として生活してもらうべきだと思う。

 

偽物の使用人にせよ 庶民の使用人にせよ 日本にはポストも少なくなっているし

 

どの階層にとってみても 願ってもない 案ではないだろうか。

リア獣とかリア充とかいう言葉も もう使い古されて そろそろ誰も使わなくなってきた。

 

だが、 指をくわえて羨ましがってる者たちと 人生を楽しく謳歌している人たちと

 

明らかに 世界には区別がある。

 

今回は 豊かな生活を謳歌するリア獣たちのみを 観察した結果から

 

どのような違いによって このような差が生まれたのか 指摘していきたい。

 

まず 彼らが 飲みに行く となると 彼らだけの集まりの場合は(それがほとんどだろうが)

 

彼らの友人の店に飲みに行き 友人に店を持っているものがいない場合などは

 

どこかの雑居ビルで 深夜使われていないスペースを 安く もしくは友人のつてで無料で借りて

 

自分たちで DJやったり 酒を持ってきたりして どんちゃん騒ぎをしている。

 

このように 楽しむにしても 極力 実は 金を使っていない。

 

収入に関してだが、 友人の会社や店で働いている者たちもいるようだが、

 

かなりの割合で 若い時代には どこかまったく関係ない 人様の会社で 働いている。

 

それで そこでは充実しているので かなり金を使っていると見えても 実は必死に 十年近く

 

金を貯めていて 30代に 退職していくパターンもある。

 

私は このパターンをよく目にするが、 リア獣と非リア獣の この時期の退職には

 

その後の様子は まったく違う。

 

 

さて この話は このくらいにしておくが これだけ書けば かなり仕組みも見えてくると思う。

 

今 30代 40代で この話を聞いて いろいろ気づいて 手遅れだと思われる方もいるだろうが

 

私はそうは思わない。

 

いつ気づいても そこで何もしなければ また十年後に あぁ十年前に気づいたときに 行動していれば

 

間に合ったかもしれないのに… となるのがおちだろう。

 

結局 コツコツと みな努力して 一夜にしては 誰も豊かにはなれないのだろう。