勧善懲悪がなぜいけないのか ということを よくわからない方は多いと思う。

 

なので 簡単な説明を まず しておきたい。

 

勧善懲悪とは 善を人にすすめて、 悪を懲らしめるというものだ。

 

一見 聞こえはいいが、

 

まず 善をすすめるというのは 善とは人にすすめられてやるものか と言う話がある。

 

そうとう前に テレビで毎日のように「一日一善」と 言っていた立派な方がいたが、

 

一日に一善しかしないのか とか 一日一善で満足できるのかと言う話だ。

 

また 悪を懲らしめるというが、 悪人と言うのは根っからの悪人もいるが

 

悪人に悪人にされたような 泣きっ面の悪人もいて そんな悪人にバチを当てる行為と言うのは、

 

字のごとく 泣きっ面にハチというやつだ。

 

こうして考えると、 人を裁くのは 非常に危険で 裁くにしても 本当に事前に

 

きちんと基準や手続きを決めておく必要がある。

 

それに気づいた昔の人たちは 法の支配というものを建設していった。

 

私たちは 井戸端で オバチを当ててやろうという密談や テレビで犯人捜しをして糾弾するのは

 

本来 おかしなことだと思わなくてはならない。

 

私は こういうことを 今までの人生で 人に諭されてきた部分があり

 

なにも 現代社会の在り方を 自分ですべて学んだわけでは無い。

 

現代社会の理解は 非常に重要で 現代社会の理解と 歴史の理解は 相互にバランスよく

 

育てていかないと、 先人が知恵を絞って 共存共栄できる理想の形に向かっている現代社会を

 

未来にすすめていくことはできないだろう。

 

もし 歴史の理解だけを育てていけば 行ったことも見たこともない過去を想像し

 

そのまま社会に全員が社会に参加していけば おそらく 理想とはかけ離れた

 

過去に出現していた 阿鼻叫喚の世界に向かっていくこともあり得る。

 

さて 話を戻して 勧善懲悪という考え方は 実は危険だと言うことを 最初に言ったが、

 

このような危険性を避ける知恵の一つに このような決まりが日本の法律にもあると思う。

 

「容疑者は自己に不利益となる自白を強要されない。」 とか

 

「唯一の証拠が自白である場合は罪に問われない」 というようなものだ。

 

では 他人の証言なら 証拠として良いのだが、

 

実は 人の証言と言うのは 非常に証拠として疑わしいものがある。

 

これは人を裁くための素材である証言に限らず、

 

人の言葉というのは そもそも自己に利益になることしか 話さない傾向がある。

 

たいてい こうなってくると 人は 本当のことでも その人に利益があることを感じると、

 

中立の状態では 内心 却下してしまうものだ。

 

その発言者が 自分自身と利益を共有するモノかどうかが 問題となっていき、

 

人の言葉を採用するかどうかは 好き嫌いという判断基準になっていく。

 

一方で 他人自身にとって不利になることを真実を証明するために発言するのも

 

信じるのも信じないも どうも それまでの経過からの好き嫌いという癖がついているようにしか思えない。

 

こうやって考えると、 主権者として取るべき道はここに導き出されると思う。

 

人の発言とはどのような内容でも疑う事。

 

もう一つ別の側面から…

 

まず ジャッジする際に、他人の証言と状況証拠との整合性がとれていて、

 

あとは物的証拠等だけが見つからないとしよう。

 

こういう場合から導き出される答えは一般化できると思う。

 

これまでの他人の証言に偽りがあることを疑い、状況を再度検討するという方法が最も論理的。

 

つまり中世の民主主義社会以前では、 自白の強要と証拠のねつ造で

 

無理やり論理的な欠落のあなを埋めて 最も気楽な答えに導いていた。

 

最も気楽なのは 持つものたちである支配者が ずっと持ち続けることなどという 庶民にとって

 

良いことは一つもないものだった。