お宝映画・番組私的見聞録 -88ページ目

松竹俳優録33 高宮敬二(+安藤昇)

菅原文太とくれば、高宮敬二である。新東宝俳優録で彼を取り上げなかったのは、4年ほど前にここで取り上げたことがあったからである。というわけで、その時と情報がかぶることもあると思うが容赦願いたい。
高宮敬二は79年の「日本映画俳優全集・男優編」では、生年出身地などが不明となっていたが、33年福井県生まれで、本名は掲載されている林功ではなく林勇ということが判明している。
話は松竹時代に飛ぶのだが、高宮のもとに映画出演の依頼があったという。第七グループのプロデューサー大友敏法という人で、元は新東宝で照明をやっていた人である。無論、五社協定の関係上、会社の許可がないと他社作品に出演はできないのだが、とりあえず台本を見せてもらったという。
それが「血と掟」で、安藤昇という実在のヤクザの自叙伝であった。面白いと思った高宮が松竹に相談すると、会社も気に入り映画化が決定したのである。ホームドラマの松竹がヤクザの映画とは、ヌーベルバーグやらなんやら松竹も新しいものを取り入れようと躍起になっていたようである。
第七グループとの交渉は高宮が進め、監督は第七グループの湯浅浪男が担当し、松竹は配役を決めて製作には全面的に協力することになったのである。しかし、主人公の安藤昇を誰が演じるのかが問題であった。サプライズ案で本人に出演をお願いしようということになり、松竹の担当者と湯浅そして高宮が出演交渉にあたったのである。
安藤はヤクザの世界から足を洗い、組を解散した直後で、ましてや役者の経験のないズブの素人に何ができるんだと、当初は当然のように固辞したという。しかし、説得を重ねた結果、安藤は出演を承諾。プロデューサー的な役割を果たした高宮も共演者として出演することになった。他に丹波哲郎、城実穂、江畑絢子、そして菅原文太らが出演。それにしても、新東宝の出身者ばかりである。
演技はど素人の安藤なので、台詞はその場では棒読みでやってもらい、後からアフレコで修正したという。
「血と掟」は公開されるや大ヒットし、直ぐにシリーズ第二弾「逃亡と掟」の制作が決定したのである。しかし、「血と掟」のヒットにより全国のヤクザ組織から安藤に対する反発の声があり、警察からも撮影現場で注意するように指導があったという。実際に殴り込みのようなことがあり、ここでもプロデューサー補佐も担っていた高宮が彼らの説得にあたったこともあった。
こういった経緯もあり、文太だけでなく高宮も安藤に勧められ、67年に東映に移籍することになったのである。たまにハンサムタワーズの面々が一緒に東映に移籍したと書かれることがあるが、これは正しくない。文太と高宮は一緒と言ってもいいかもしれないが、吉田輝雄は一足早く66年には東映と契約いているし、寺島達夫は64年に松竹を辞めフリーになっているのである。60年代終盤には東映の任侠映画にも顔を出して文太らと共演もしているが、東映に籍をおいたわけではなさそうだ。

 

松竹俳優録32 菅原文太

菅原文太といえば、新東宝か東映で名前を挙げるべき俳優なのだが、あえて松竹での菅原文太である。
知っている人も多いと思うが、61年に新東宝が倒産した時、ハンサムタワーズ(文太、吉田輝雄、高宮敬二、寺島達夫)の面々は、揃って松竹に移籍している。
三上真一郎によれば、正確には大船に来たのは文太、吉田、高宮の三人で、寺島は何故か一人だけ京都の方に行ったのだという。しかも三人を大船に売り込みに来たのは桑野みゆきの父だったという。
桑野の父・芳郎は森永製菓の企画部に長年つとめ「森永スゥイート・ガール」の生みの親でもある。桑野通子はその一期生であり、そこから恋愛にまで発展したようである。芳郎は戦後、森永を辞め「桑野芸能社」を設立していた。マネジメントに至った経緯は不明だが、桑野父が彼らの売り込みに現れても不思議はなかったのである。
松竹が本当に欲しかったのは明らかに吉田輝雄であった。吉田は松竹が好む甘い二枚目顔だったからである。すぐに木下恵介、そして小津安二郎からお呼びがかかかっている。
一番、苦渋をなめたのは文太であった。四人の中では主演も数本あり、新東宝では一番実績があったが、男くさいタイプの二枚目であった文太は明らかに松竹の求めるそれではなかったのである。しかも、同様に決して甘いタイプの二枚目ではない寺島や、新東宝時代は単独で主役を得たことがなかった高宮でさえも、松竹では主演を得ているのである。
文太は松竹では出演本数はそれなりにあったが、主演作はなく、木下恵介に呼ばれても前回書いたように「死闘の伝説」では、岩下志麻を襲って逆に殺されてしまうような役もやっている(もっとも、この役は評価が高かったりするのだが)。
ある日、文太と三上真一郎が撮影が終わり飲みにいったらしいのだが、文太が「俺の家に行こう」と三上を横浜のマンションに招いたのである。三上によれば、隣の部屋に誰かいたようだったというが、当時なら星輝美だったのかもしれない。
それはさておき、酔った勢いもあったのか文太は三上にこう言ったという。「こんな筈じゃなかったんだ!」「こんなことなら松竹に来るんじゃなかった。約束が違う、松竹は冷たい!汚い!」と低くすすり泣いたという。
三上の想像だが、松竹は文太に美味しい話をしていたようだ。しかし、扱いは明らかに他の三人より下で本人も悔しい思いをしていたのであった。
しかし、65年に安藤昇が入社。意外なことに安藤昇を映画界に引き込んだのは松竹なのである。それには高宮も関わっていたという。安藤と文太は立て続けに共演し、文太は安藤のもとに居候するようになったという。
安藤はまもなく東映に移り、文太も東映京都撮影所で俊藤浩滋に会い東映入りを勧められ移籍を決意したのである。松竹は文太を重用していなかったのにもかかわらず、中々東映入りを認めなかったという。半年かけて説得し、67年秋ようやく松竹を円満退社したのである。実は重用されていた吉田や寺島の方が先に松竹を去っていたのである。
東映へ行ってからの活躍はご存知のとおりである。

 

松竹俳優録31 松川 勉

木下恵介の作品でデビューした役者は多いが、松川勉もその一人である。
個人的には子供のころに見た「ジャンボーグA」(73年)に出てくるPATの隊員(後に隊長)のイメージなのだが、この時すでに役者として10年選手だったとは思わなかった。
松川勉は43年生まれ。高校時代よりモデルのアルバイトをしていたといい、62年に松竹からスカウトされ、63年の木下監督作品(脚本は山田太一)「歌え若人達」で、主演デビューを果たした。大学生たちを主人公とした作品だが、松川も慶應義塾大学に入学したところだったのである。
中心となる大学生役は4人で、松川の他、川津祐介、三上真一郎、山本圭である。川津は松川と同じ慶應で、山本は成蹊大学、三上は日本大学と、大学経験のある面々だが、三上はほとんど通っていなかったという。
この作品は松川が演じる主人公が連ドラの主人公にスカウトされるというストーリーで、現実とリンクしている部分があったのである。
続く木下作品である「死闘の伝説」(63年)にも松川は出演。未見だが、あらすじを見ると「本当に木下作品なのか?」と思ってしまうような血なまぐさい作品である。
菅原文太が岩下志麻を襲うが、友人の加賀まりこが助けに入る。そこで志麻は文太を石で殴りつけたが、これで文太が死亡する。文太は村長の息子で、村人は志麻を引き渡せと迫る。まりこの父・加藤嘉は志麻とまりこを山奥の小屋に逃がすが、暴徒と化した村人に殺される。志麻の弟・松川勉も殺される。まりこも撃たれて死ぬというのが大雑把なあらすじだが、見て見たくなる話ではある。
さて、木下は演技がど素人であろうと見た目優先で主役に起用したりするので、松川はこの後俳優座養成所に第16期生として入所している。1期前の花の15期生は有名だが、16期生となると「八月の濡れた砂」の広瀬昌助くらいしか見つけれなかった。
養成所卒業後は三島由紀夫率いる浪曼劇場に入団し、舞台に立っていた。映画出演は少なかったが、テレビドラマには、よく登場いていた。と言っても当時はあまり認識していなかったのだが。
「オレとシャム猫」(69年)は石坂浩二主演のオシャレアクションドラマだが、松川は途中から登場し、石坂不在の時に代わりに主役をやったりしていた。「白い牙」(74年)では、第1話で主人公藤岡弘に射殺される悪徳刑事村木の役。その汚名を藤岡がかぶって「事件屋」として生きていくというハードなドラマだったが、村木役が松川だったとは当時は気づいていなかった。大映のドラマだが、藤岡もレギュラーの川津祐介も松竹の出身だ。
80年までドラマ出演の記録があるが、そこでぷっつりと途絶えている。その辺りで引退したと思われるが、以降のことは全く不明である。松竹俳優として書いたが、大学生だったり俳優座養成所に通ったりで実際は入社はしていないのかもしれない。木下作品に3本出た以外はチョイ役で1本出たくらいしか松竹映画出演はないのである。

 

松竹俳優録30 園井啓介

木下恵介の映画ではなく、専らテレビで活躍していたのが園井啓介である。
園井は映像デビューもテレビであり、当初は映画会社の所属でもなく、もちろん歌舞伎役者だったわけでもないが、人気者になっていったテレビスターといえる存在である。
園井は32年生まれで、本名は永井弘之という。50年に都立工芸高校を卒業して新東宝の美術部に入社し、映画装置の助手を務めていたという。後に俳優を志望するようになり、53年に劇団青俳の俳優養成所に入り、翌54年に青俳に入団した。
この年、ドラマに初出演し、57年にNHKの「刑事物語」に出演。島田一男原作の4回連続ドラマで園井は刑事役を演じたようである。
58年に青俳を退団しフリーとなったが、4月スタートのNHK「事件記者」(58~66年)に山崎記者役で出演し、人気を集めた。原作は島田ということもあり、「刑事物語」が縁での出演だったのこもしれない。
映画も日活でこの「事件記者」を映画化(59年)したものが初出演となっている。映画版は62年までに10作が作られ、園井もテレビと同じ山崎記者役で出演している。登場人物はほぼ同じだが、映画版では沢本忠雄演じる菅記者が活躍する。
61年から松竹の「熱愛者」「愛情の系譜」といった作品に出演し、62年に松竹と契約している。「あの橋の畔で」4部作(62~63年)では主役に起用されている。桑野みゆきを相手役にメロドラマの二枚目イメージを定着させた。テレビの「事件記者」の出演を続けながら、映画でも「風の視線」「残酷の河」(63年)、「海抜0米」「男の影」(64年)で主演を務めている。相手役は桑野のほか、岩下志麻になることが多かった。
65年の秋に松竹を離れ、テレビの「木下恵介劇場・二人の星」で主演を務めた。相手役は小林千登勢である。木下との仕事はこれが初だったようである。
66年にNHK「事件記者」が放送打ち切りとなり、民放各社が「事件記者」を引き継ごうとした結果、出演者が分裂することになった。大半はNET(現・テレ朝)の「ある勇気の記録」を選択したが、原保美、大森義夫、そして園井はフジテレビを選択。原作の島田もこちらについたため「事件記者」のタイトルで放送された。
「木下啓介アワー・おやじ太鼓」(68年)には進藤栄太郎演じる亀次郎の四男三女の長男・武男役で出演。PART2も作られる人気作となり、全65話が制作された。個人的にも園井を知ったのはこれだった気がする。
73年に19歳年下の女性と結婚するが、この年に株の売買で得た所得を申告せず、脱税の疑いで取り調べを受け、その事実を認め追加納税の後、一切の仕事から降板した。これだけなら、まだ復帰の芽もあったかもしれないが、翌74年地検特捜部により起訴され、懲役10月、執行猶予2年、罰金2,500万円の判決を受けたのであった。70~72年にかけて架空名義で1千回もの株の売買を行い、2億1千万円設けたにも関わらず一切所得を申告しなかったことが悪質と見られたようだ。
これにより芸能界を自動的に引退する形となり、その後一切姿を見せていないようである。もちろん、現況については全く不明である。
俳優としてももったいなかったが、株の取引きにも素晴らしい才能があったようなので、その道で生きていったのかもしれない。

 

松竹俳優録29 川津祐介

「青春残酷物語」で桑野みゆきの相手役を務めたのが川津祐介である。
川津祐介といえば、個人的には「ザ・ガードマン」(65~71年)の荒木隊員のイメージであり、松竹の俳優だったイメージは全然なかった。
川津祐介は35年生まれ。七男一女の七男らしいが、本名は川頭祐一である。松平健は、七人兄弟の末っ子なので本名を鈴木末七というが、別に川津祐七である必要はない。萬屋錦之介だって四男だが、本名は小川錦一だし。
話がそれたが、兄の一人が映画監督の川頭義郎であった。45年に松竹に入社し、木下恵介の助監督を務めていた。その関係で、木下が川頭の家を訪れることがよくあったらしい。木下の目的は末弟の祐一こと祐介にあったのかもしれない。
川津祐介は、高校受験時や慶應大学在学中に、木下から映画に出ないかと誘われていたという。そして、大学卒業を控え就職試験という時にも映画出演の話があったという。
川津は「三度目の正直で、これを逃したら生涯映画に出るチャンスはない」と思い、一度出て見る気になったという。しかし、本当の理由は当時は対人恐怖症で、人前では赤面し指先が震えてしまうことに悩んでいたからなのだという。一見真逆だが、人前で恥をかくことで、それを克服したいというショック療法みたいな考えがあり、映画に出るという自分が絶対にできないと思っていることに、一度だけチャレンジしてみよう、というのが川津の考えだったという。木下にそのことは言わなかったようだが。
デビュー作は「この天の虹」(58年)で、笠智衆、田中絹代のベテランや高橋貞二、久我美子、大木実、田村高廣など錚々たる顔ぶれの作品である。初登場シーンから150字くらいの長ゼリフだったようだが、インタビュー時は既に40年以上経過していたのにも関わらず、「僕、田舎で会社を志願した時…~…あれは働く人の血と汗が燃えているんだ」と一気に言ってのけたという。
その後、木下作品だけでなく松竹ヌーヴェルヴァーグと言われる作品にも出演し、人気スターとなっていったのである。63年に松竹を退社し、以降はフリーとして活躍。前述の「ザ・ガードマン」もフリーになった頃の作品である。
ウィキペディアには「Gメン75」でのバイクのアクションシーンで、大けがを負い、長期入院で番組も降板したとある。以前、彼の著書で「ザ・G」という番組で、飛び降りたところ受け留める人が受け止めきれず、頭を打って動けなくなり長期入院したという話を読んだ記憶がある。「ザ・G」はどう考えても「ザ・ガードマン」だと思われるし、川津の出演頻度はレギュラーとしては低かったのである。逆に出演頻度が元々低かったからこそ出ない期間が長くても当時はばれなかったともいえる。
「Gメン75」でのケガは別の話ということになろうが、番組登場から1年半。川津演じる南雲警視が主役の305話が最後の登場回となったのだが、次の306話でレギュラー三人(伊吹剛、宮内洋、中島はるみ)も降板となり、メンバーが大幅に入れ替わった。当時、川津のケガが明らかになっていなかったとしたら、それを目立たせないための大幅チェンジだったとも考えられる。あくまでも推測だけれども。

95年、60歳のときにも長くて余命三カ月と言われる病気になったが、手術成功により回復し、82歳となった現在も健在である。

 

松竹俳優録28 桑野みゆき

そもそも松竹ヌーベルバーグと言われるようになった最初の作品が大島渚監督の「青春残酷物語」(60年)であり、その主演女優が桑野みゆきである。
桑野みゆきは42年生まれ。母親が戦前に松竹女優として活躍した桑野通子であることは有名だが、31歳の若さで子宮外妊娠のため亡くなったのは46年のこと。みゆきはまだ3歳であり、母親が有名女優であったことを知ったのは小学生になってからだという。
54年に日活の「緑はるかに」の子役募集に応募(公開は翌55年)して、最後の七人にまで残った。選ばれたのはご存知、浅丘ルリ子であったが、桑野みゆきもノンクレジットではあるが出演しているという。ちなみにこの時の最終候補というのが浅丘、桑野の他、山東昭子、滝瑛子、榊ひろみ、田村奈己というみんな後に女優となった錚々たるメンツだった。みんな当時10歳~13歳で、最年長の15歳だった久保田紀子と浅丘で最終的には争われたという。ちなみに久保田も大映女優となっている。
さて、桑野みゆきはこの後、東宝の「柿の木のある家」(56年)や日活の「飢える魂」(56年)等に出演。まだ14歳の少女を巡って、東宝、日活そして松竹が引き抜き合戦を展開したという。結局、母と同じ松竹を選び、57年に専属契約を結んでいる。
松竹でのデビュー作は「正義派」(57年)という作品で、出番は2シーンのみであった。また、この年には自らの作詞である「あの日のお母さん」という曲でレコードデビューもしている。
初主演となったのは「野を駈ける少女」(58年)で、相手役だった山本豊三とは「純愛コンビ」として売り出され、当然共演も多かった。ここまでは、順調に活躍はしていたものの作品的にも演技的にも注目すべきものはない、と「日本映画俳優全集・女優編」には書かれている。
そこで「青春残酷物語」である。清純派のイメージをかなぐり捨て演技的にも注目を浴びたのである。大島は「太陽の墓場」も、桑野主演で考えており、桑野自身も意欲的だったのだが、清純派のイメージが壊れるのをよしとしない関係者のつぶれ、前回書いたように炎加世子が抜擢されたという経緯があったのである。
松竹では、この後も大船メロドラマと言われる清純なヒロインといった役柄がほとんどであったが、彼女は結構他社の作品にも出演している。東宝の「僕たちの失敗」(62年)や大映の「駿河遊侠伝・度胸がらす」(65年)、日活の「夜霧の慕情」(66年)東映の「残侠あばれ肌」(67年)といった具合である。中でも黒澤明作品である「赤ひげ」(65年)への出演は有名であろう。
松竹への企画の不満を持っていた彼女だったが、松竹の「堕落する女」(67年)で主演となり娼婦にまで身を落とす役柄を演じ、再びメロドラマのヒロインからの脱皮をはかるかに思われたが、実はこれが彼女最後の映画出演となったのである。
本作が公開される直前に結婚し、引退してしまったのである。相手は食品会社の副社長で大恋愛であったらしい。もちろん周囲は猛反対していたようだが、25歳という若さで芸能界を去っっていったのである。80年の情報では、一男一女の母として主婦業に専念していたというが、後に離婚記事が出ている。実際のところは不明である。

 

松竹俳優録27 炎加世子

子役の話が続いたが、この辺りで松竹ヌーベルバーグである。と言っても全然詳しくないのだが、その代表的な女優と言われたのは炎加世子であろう。41年生まれで本名は奥津賀世子(旧姓)という。炎という芸名も凄いが、その顔つきも鋭い眼光の睨み付けるような眼が印象的であった。関係ないが、速水亮は炎三四郎という芸名だったことがある。
さて炎加世子は高校在学中から劇団に所属したり、東宝のニューフェイスに合格し研究生として通っていたこともあったらしいが、卒業後は浅草六区で軽演劇に出ていたという。そこで前田通子の座長公演である「ずべ公天使」が行われており、そこで彼女は評判になっていたらしい。その縁で東映の「ずべ公天使」(60年)にも出演し映画デビューを飾っている。ただし、チョイ役であり主演は小宮光江で、山東昭子なんかも出演していた。
小宮光江は2年後に自殺してしまうが、炎加世子もこのころ心中未遂事件を起こしている。その理由が「何をやってもつまらなくて、生きているのが無意味で、彼と一緒に死んだらいいかなと思った」と後に語っている。その直後に大島渚にスカウトされ、「太陽の墓場」(60年)で主演に抜擢されたのである。
彼女でよく取り上げられるのが「セックスするときが最高ね」という発言。実はこれには裏があったようで、最初にこの記事が出たのは映画公開の直前で(ようするにタイアップ記事)、インタビューで「じゃあセックスしているときはどうですか?」という質問に「夢中になっていないバカはいないでしょ」と返したところ、そこだけ抜き出されたというのが真相だったようだ。
彼女に詳しいサイトによれば、これは松竹による彼女を売り出すための戦略だったのではと考えられている。まだ10代の娘が「セックス云々」と発言したというのは、当時としては非常に刺激的で興味を惹いたことは間違いない。けっして笑顔を見せなかったのも戦略の一つと考えられている。笑顔を見せなかったのではなく、そういった写真を使わせなかったのではということである。
とにかく「太陽の墓場」はヒットし、彼女も松竹に入社。「乾いた湖」「悪人志願」と言った主演作が立て続けに公開されたのである。しかし、翌61年に大島が松竹を去ると、彼女も松竹を退社し、以降はテレビが活動の中心となっている。つまり、松竹に在籍したのは2年足らずだったのである。
63年に三塚勝広と結婚(何をしている人かは不明)し、テレビ出演は69年までその記録がある。「マグマ大使」(66年)にもゲストで出たようだが、印象にあるようなないような。まあ、見返せばすぐにわかると思うけれども。

 

松竹俳優録26 田中晋二、有田紀子

伊藤左千夫の「野菊の墓」は、過去に3度映画化されており、その第1作は「野菊の如き君なりき」(55年)のタイトルで木下恵介が監督したものである。主演は共に当時15歳の田中晋二と有田紀子であった。ちなみに2作目(66年)は太田博之と安田道代(大楠道代)で、3作目(81年)は、桑原正と松田聖子である。
田中晋二は40年生まれ。52年、小6の時に民芸が大映と提携した「花荻先生と三太」の主演募集に応募し、主役の三太には選ばれなかったが、その友人役で映画デビューしている。
54年、松竹の「二十四の瞳」に12人の小学生の一人として出演がきまりかけ、監督の木下とも面接を行っているが、1年生のころを演じる彼に似た子供がいなかったため、出演は見送りとなっている(つまり子役は1年生役12人と、成長した6年生役12人が選ばれた、ほとんどが実の兄弟であった)。そのあと、長門裕之主演の日活「七つボタン」(55年)に予科練の一人として出演している。
そして、前述の「野菊の如き君なりき」の政夫役に抜擢される。実は政夫役は一般公募されたのだが、木下の目にかなう少年がいなくて困っていた時に、田中のことを思い出したのだという。概ね好評を得て、田中は松竹と専属契約を結んだのである。
木下作品には、自作の「夕焼け雲」(56年)にも主演し、「太陽とバラ」(56年)では中村賀津雄を助演している。この2作でも有田紀子と共演している。
有田紀子も40年生まれで、女優にあこがれ学習院女子中等科に在学中に木下に手紙を書いたことがきっかけで民子役に抜擢されたという。学習院は映画出演を認めておらず、転校して映画に出演したのである。木下作品は前述の田中と共演した3作品だけである。この後、学業に専念し、58年早稲田の文学部演劇科に進んだのだが、それを知った多くの少年たちが早稲田を受験したという逸話がある。
「でんでん虫の歌」(58年)で映画復帰し、ドラマ「大学は花さかり」(60年)等に出演している。
61年には民芸の俳優教室に入り、本格的な女優を目指そうとしていた。大学卒業後は、主にテレビが活動の中心であったが、64年に印刷機械会社の社長と結婚し、芸能界を引退してしまった。
田中は57年以降も木下作品には、重要な役どころで顔を出しており、59年からは他の監督作品にも出演するようになっている。しかし、木下作品ほどの役を得ることはできず、「さよなら列車」(66年)を最後に松竹を去っている。ドラマ「昔三九郎」(68年)へのゲスト出演が記録上最後となっており、その後のことは不明である。
二人とも20代のうちに芸能界を去ったようだが、どちらも代表作は「野菊の如き君なりき」ということになるのだろう。

 

松竹俳優録25 設楽幸嗣

今回は戦後の子役である。50~60年代の名子役といえば設楽幸嗣である。
設楽幸嗣は46年生まれ。5歳のとき、「夢と知りせば」(52年)の子役を探していた松竹の中村登監督に目に留まり、同作品でデビューした。父・幸聖が当時、松竹洋画宣伝部員だったことから出会ったということであろう。ちなみに、幸聖は後に日本正統運命学会長になっている。よくわからんが、占いの関係であろうか。
デビューするや否や、たちまち他の監督からも引っ張りだことなり、川島雄三の「とんかつ大将」、佐々木康の「母の山脈」、小津安二郎の「お茶漬の味」等(いずれも52年)に出演した。
53年に玉川学園の小学部に入学した際、藤本プロの所属となったため、「白魚」、「サラリーマンの歌」といった東宝映画や新東宝の「純情社員」等にに出演している。
55年からは松竹に戻り、川頭義郎の「子供の眼」(56年)、五所平之助の「黄色いからす」(57年)は評判となり名子役の名を欲しいままにしていた。「どろんこ天国」(58年)では、主演に抜擢されるまでになっている。小津作品の「お早よう」(59年)や「秋日和」(60年)なども有名であろう。
平行してテレビにも進出しており、「宇宙船エンゼル号の冒険」(57年)や「黒帯探偵」(58~59年)、「CQ!ペット21」(60~61年)など少年向けドラマに出演していた。
学業の方は、中学、高校と玉川学園に進み、65年に国立音大の作曲科に入学している。作曲家の武満徹は彼の叔父にあたり、その影響もあったのかもしれない。武満は松竹映画の劇判を担当することも多く、設楽のデビュー作を監督した中村登とコンビを組むことが多かった。それに設楽が出演していることもあった。
大学在学中もNHKの連続テレビ小説「おはなはん」(66~67年)などに出演することもあったが、69年3月の大学卒業を機に俳優業からは引退し、音楽の道に進んだ。
現在も作曲・編曲家、音楽プロデューサーとして活躍しているようだが、「テレビ・映画の劇判も80年代以降の一時期手掛けていた」とあるので、現在はこの辺の活動はしてないのかもしれない。

 

松竹俳優録24 横山準(爆弾小僧)、アメリカ小僧、末松孝行

松竹蒲田には突貫小僧以外にも「○○小僧」と名付けられた子役がいた。由来は不明だが、爆弾小僧と名づけられたのが横山準である。
横山準は28年生まれ、本名は横山昇一という。33年に松竹蒲田に入社し、「島の娘」でデビューした。35年の「若旦那春爛漫」から、突貫小僧に続けとばかり、爆弾小僧と名付けられる。突貫は小津安二郎作品が中心であったが、爆弾は「有りがたうさん」「按摩と女」など清水宏作品が多かった。
この爆弾と突貫、葉山正雄とアメリカ小僧の四人が蒲田の子役四天王と呼ばれていた。この4人全員が出演しているのが清水の「風の中の子供たち」(37年)である。この四人以外にも菅原秀雄、加藤清一、末松孝行なども名子役と言われていた。
爆弾小僧は40年の「ともだち」から横山準に改名、これは映画法による戦時統制のためだという。突貫も本名の青木富夫に戻したのはこのころだった可能性が高い(前回は戦後復帰後に改名と書いた)。
アメリカ小僧もこの時に、末松孝行と改名したと「日本映画俳優全集・男優編」には書かれているのだが、前述の「風の中の子供たち」には四天王の他に末松も出演しているので、これは誤りであろうとウィキには書かれている。アメリカ小僧が末松でなければ、その正体は不明としかいいようがないのである。何故アメリカ小僧なのかは不明だが、いい家庭の坊ちゃんタイプだったという。
さて、横山は「みかへりの塔」(41年)に主演後は脇役にまわり、戦後も引き続き松竹に在籍していた。「シミ金のスポーツ王」(49年)、黒澤明の「白痴」(51年)などに出演、「三百六十五代目の親分」(52年)を最後にスクリーンを去ったという。以降のことは不明である。
アメリカ小僧とされていた末松孝行だが、ウィキペディアによれば生年生地は不明で、本名は同じ、活動期間は35~43年とあり、その後の消息は不明とあるのだが、95年に発売された「人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語」というインタビュー集に末松光次郎という人が登場している。録音や編集をやっていた人だが、元子役であったという。しかも24年生まれで、蒲田撮影所の子役であり、突貫小僧や菅原秀雄、加藤清一らと共演していたという。大船に越して来てからも、撮影に呼び出されており、43年に徴用されるまでは役者として活動していたらしい。戦後は役者ではなく録音部に所属し、停年まで撮影所で過ごしたという。
これらの話から末松孝行と末松光次郎は同一人物である可能性が高い。孝行は本名となっているが、ソ-スが間違っていることもよくあるのである。