お宝映画・番組私的見聞録 -89ページ目

松竹俳優録23 青木富夫(突貫小僧)+青木放屁

昔の子役というのは、片山明彦のように関係者(俳優、スタッフ)の子供だったりとか、撮影所の近辺に住んでいた子供だったりすることが多かったようである。
松竹蒲田時代、名子役と言われていた面々も大体は蒲田撮影所の近くに住んでいた子ども達だったのである。その中でも一番のスターが、突貫小僧こと青木富夫である。
青木富夫は23年生まれ。父母が幼い頃に離婚し、母・スエに引き取られる。母が本牧にバーを開店すると松竹蒲田の俳優が訪れるようになったという。その中の一人であった勝見庸太郎から、子供がこんなところで遊んでいては教育上よくないから、撮影所に遊びに来なさいといったため富夫は撮影所に通うようになったのである。
29年には正式に子役として入り、小津安二郎の「会社員生活」でデビューし、続いて小津の「突貫小僧」に出演。これが大評判となり、たちまち松竹蒲田の子役のエース格となった。ちなみに子役のトップと言われていたいたのは同じ29年入社の高峰秀子であった。
翌30年には、富夫は10本以上の作品に立て続けに出演。特に小津と斎藤寅次郎には好んで使われていた。しばらくは本名である青木富夫を芸名としていたのだが、やはり突貫小僧のイメージが強かったため、31年より突貫小僧を芸名としたのであった。
松竹蒲田撮影所は36年に閉鎖され、大船に移っている。富夫も鎌倉中学に入学しているが、39年に中退し子役に専念した。42年に応召され、パラオのペリリュー島の前線に送られたという。
46年に復員し、青木富夫として松竹に復帰した。当時23歳であり、もう小僧でもなかったからであろう。戦前の子役スターも復帰後は大部屋俳優として端役での出演が続いた。子役が大人になってもスターであり続けるのは難しい。子役出身でも真田広之や風間杜夫のように二枚目に成長すればよいが、大抵の場合、成長した姿に違和感を感じてしまうのである。
47年には小津の「長屋紳士録」で、異父弟の青木冨廣がデビューする。冨廣は前述の母スエと蒲田の喜劇役者であった小倉繁との間にできた子供であった。太っていたので、撮影所ではプーちゃんの愛称で呼ばれており、芸名も青木放屁としている。
資料では放屁は富夫について蒲田撮影所に行っているうちに関係者の眼にとまったとあるが、前述のとおり蒲田撮影所は36年に閉鎖されたので、それだとデビューまで10年以上の間があいたことになる。放屁の生年は不明だが、目に留まったのは大船に移ってからではないだろうか。「関白マダム」(53年)を最後に放屁は引退。その後に関しては不明である。
青木富夫は、54年に日活に移籍する。そこでも端役が中心のバイブレイヤーであった。しかし、辞めることなく日活がロマンポルノ路線に72年まで在籍して、フリーとなったのである。
青木富夫の顔と名を知っていても、彼がかつての子役スター「突貫小僧」だったことを知っている人は少なかったかもしれない。
04年、80歳で亡くなるまで現役でありづづけた。

 

松竹俳優録22 片山明彦

子役スターが、そのまま俳優を続け大人になってからもスターであり続けるのは非常に難しい。片山明彦は戦前は子役スターであったが、戦後は専ら脇役として地道に活動を続けていた。
片山明彦は26年生まれで、本名は鹿児島燁彦という。苗字は鹿児島だが、本人は京都生まれで東京育ちである。父は映画監督の島耕二だが、元々は俳優で、京都の新興キネマから日活多摩川に移った際に成城に転居してきたのである。
37年、小学5年の時に田坂具隆監督に望まれ「真実一路」で映画デビューを果たしている。島耕二も俳優として出演しているが、田坂の明彦への出演要請に渋い顔をしたという。明彦自身も当時は役者になりたいとは思ってもいなかったというが、いざ撮影に入ると素晴らしい演技を見せ、田坂はもちろん、父である島も驚いたという。
島耕二は三度結婚しており、大谷良子、片山夏子、轟夕起子といずれも女優であった。明彦は大谷との間の子供だが、芸名の片山は当時の母である片山夏子からとったもので、明彦は本名の燁彦を読みやすくしたものである。
この後、日活に正式入社し、38年の「路傍の石」では、主演に抜擢されている。
島耕二は39年から映画監督に転向し、翌40年には「風の又三郎」で明彦を主役に起用している。44年まで日活に在籍し、45年5月に応召され、長崎の後方支援部隊に配属されたが、まもなく終戦を迎えている。
戦後はフリーとして、大映、東宝、新東宝、東映と各社の作品に脇役として出演していたが、「青春ジャズ娘」(53年)では主演に抜擢されている。この作品には、かまやつひろしの父であるティープ釜范や新東宝スターレット1期生の高島忠夫、天知茂、小笠原弘も出演している。
54年になって松竹に入社。「三羽烏奮戦す」では、川喜多雄二、大木実と共に三羽烏の一人を演じている。松竹では他に特にこれといって目立つ作品もなく、川喜多や大木、菅佐原英一などとの共演が多かった。
59年には大映に移籍。これは父である島耕二が大映にいたからということもあったようだ。移籍して間もなく出演した「いつか来た道」は島の作品である。続く島の監督作である「総会屋錦城 勝負師とその娘」(59年)では轟夕起子と共演。この時、島と轟は結婚しており、片山には三人目の母だったのである。大映には倒産する71年まで在籍しており、約40本の出演作の大半は島の監督作品であった。
本来、松竹俳優録というより大映俳優録に載せるべき人なのだろうが、個人的なイメージは松竹という感じなのである。
72年に病気のため俳優を休業したが、回復後はPR映画、記録映画の演出に転向したという。この辺は雰囲気も似ている田浦正巳と似たようなことをやっていたのである。
14年、88歳で亡くなっている。

 

松竹俳優録21 田浦正巳(正己)  

木下恵介に見い出された役者は多いが、その時点で比較的年齢が上だったのが田浦正巳である。木下が採用する「美少年」は10代であることが多く、田浦が木下に出会った時は21歳であった。
田浦正巳は32年生まれ。52年俳優座養成所に4期生として入所する。ちなみに同期は宇津井健、仲代達矢、佐藤慶、佐藤允、中谷一郎という錚々たるメンバーであった。
53年、木下恵介は「日本の悲劇」を撮るにあたり主役となる望月優子の息子役に新人を起用しようと考え、俳優座養成所に物色に来た際、そのめがねに叶ったのが田浦であった。木下の場合は、演技云々ではなく見た目で採用することが多いと言われるので、彼の場合も見た目で選ばれた可能性が高い。ちなみに4期生では、佐藤慶と中谷一郎が首席の座を争っていたらしい。
とにかく養成所に在籍のまま、松竹と契約し6月封切りの「日本の悲劇」でデビューを飾った。ちなみに田浦正己名義であった。いつの間にか正己が正巳になったのだが、読みは同じだし、気づかない人も多かったかもしれない。並み居る同期の中ではトップのデビューだと思われる。宇津井健も53年(「思春の泉」)だが11月封切りである。
デビュー作こそ母親を自殺に追いやるような利己的な戦後派青年という役柄であったが、その後は素直な好青年といったタイプが多くなる。学生服スターなどと揶揄されることもあるくらい、学生の役は多かった。「青草に坐す」(54年)では美空ひばり(38年生まれ)と高校の同級生役、「ここは静かなり」(56年)も高校生の役、小津安二郎の「東京慕色」(57年)では有馬稲子を妊娠させて逃げ回る年下学生なんていうのもやっている。
60年にフリーとなり、61年には新東宝最後の公開作品となった「北上川悲歌」で久々というより初の主演に抜擢されている。相手役の杉田弘子も松竹の主演女優で、俳優座の1期先輩でもある。しかし、杉田はこれを最後に結婚のため引退し、田浦も次作である東宝の「二人の息子」に出演した後、映画から遠ざかっている。
この後はテレビと舞台が活動の中心となり、数多くのドラマに顏を見せている。目立つのが「プレイガール」と毎度おなじみ「特別機動捜査隊」である。特に後者は10回以上はゲスト出演している。事件とはさほど関係ない、どうってことのない役も多かった印象がある。
74年に株式会社基(もとい、「はか」ではない)を設立し、代表取締役となってテレビCF、PR映画の制作を始めている。79年にキネマ旬報の「日本映画俳優全集」が出た時には独身であったらしいが、その後結婚したかどうかは不明だ。11年に78歳で亡くなっている。

 

松竹俳優録20 菅佐原英一

時代劇俳優が続いたが、今回は現代劇の俳優である菅佐原英一だ。菅原ではない、菅佐原である。しかし、大映の菅原謙次に似てなくもない。菅佐原は国内に約100件ほど存在する苗字のようで、確認する資料はないが菅佐原英一はおそらく本名だろう。
菅佐原英一は25年の元旦生まれ。東大法学部に学ぶが、44年に学徒出陣で陸軍の特別攻撃隊に配属されたが、無事復員した。
戦後は京浜美術工芸社に勤務していたが、53年に佐分利信によってスカウトされ、佐分利が監督・主演の「広場の孤独」で映画デビューした。続いて佐分利の「叛乱」に出演した後に、松竹に入社している。当時28歳であった。
松竹デビュー作となるのは川島雄三監督の「昨日と明日の間」(54年)で、以降「蛍草」「この子この母」(54年)、「女の一生」「貝殻と花」(55年)といったメロドラマに準主演。「第二の恋人」(55年)では、草笛光子を相手に主演に抜擢されている。
前述の大映・菅原謙次は柔道映画で人気があったが、それに負けじと菅佐原も「柔道開眼」(55年)で主演を得ている。この後も「裏町のお嬢さん」「美貌の園」(56年)、「家庭教師と女生徒」「婦人科医の告白」(57年)、「見事な求婚」(58年)と立て続けに主役を演じている。これらでの相手役は朝丘雪路、七浦弘子、小山明子、野添ひとみ、中川弘子と何故か毎回違っていたりする。
しかし、誠実な二枚目役ということもあり、今一つ個性に欠け、この後は脇に回ることがほとんどになる。61年に松竹を退社し、フリーとなってテレビドラマに顔を出すようになった。手塚治虫が原作である「ごめんねママ」(61年)や昼メロの「男の銘柄」(63年)、「スチャラカ社員」で知られる長谷百合主演の「今朝の春」(64年)など、いずれも昼の連ドラに出演していた。
この後数年で姿を消したとなっている資料もあるが、ウィキによれば、67年頃に芸能界を離れ、後に首相にもなる宇野宗佑(当時政務次官、スキャンダルのため首相を三カ月で退陣する)の秘書をやったりしていたという。67年にタレント議員のはしりであった藤原あきが亡くなった際、菅佐原が「学生時代からの夢だった」と藤原の政治基盤を引き継ぐかたちで自民党からの出馬に意欲を見せていたという。しかし、結局出馬はしなかったようで、この後についてのことは全く不明である。亡くなったという情報もないので健在ならば、92歳ということになる。

 

松竹俳優録19 松本錦四郎(穂高 渓介)

七人若衆で最年長だったのが松本錦四郎である。彼に関しては、ここでも何度か取り上げたことがあるのだが、流れ上また取り上げたいと思う。ご容赦願いたい。
松本錦四郎は33年生まれで、本名は植田浩安という。幼少時より吉村流の地唄舞をたしなむ。関西大学を卒業した55年、日活第3期ニューフェースとして日活に入社。同期に二谷英明、小林旭などがいた。当初は本名の植田浩安のままだったようだが、出演記録は見当たらない。ウィキペディアによると「最後の突撃」(57年)に出演していたらしいがノンクレジットのようだ。この後、穂高渓介に改名。初クレジット作品は「反逆者」(57年)のようで、ちなみに高校生の役だったようだ。同期の加藤博司も同様の役、この加藤は後に大映で成田純一郎として活躍する。この57年の後半は、結構穂高渓介の名が見られるのだが、大体がチョイ役である。
「月下の若武者」(57年)では藤原頼道(清水将夫)の家来という役。ちなみに新東宝で活躍する星輝美が本名の鎌倉はるみで出演している。「幕末太陽傳」(57年)では、同期の二谷英明、小林旭と同じ長州藩士の役で、一応彼らと横並びである。
裕次郎主演の「鷲と鷹」(57年)では、クレジットに「(新人)」がついている。
しかし、翌58年「お月さん今晩わ」の出演を最後に、歌舞伎役者を目指し八代目松本幸四郎(後の白鸚)の門下に入って修行する。わずか数カ月で松竹の大谷会長に認められ、歌舞伎座プロと契約。師匠の名前と一文字違いの松本錦四郎として「大岡政談・謎の逢引き」で松竹デビューする。で「七人若衆」では最年長としてリーダー格で出演。しかし翌59年、松竹が時代劇映画制作からの撤退を打ち出したことを受け、60年からはテレビに進出している。
「琴姫七変化」(60年)にレギュラー出演した後、「風雲児時宗」(61年)、「夢殿」(62年)と立て続けに主役を得ている。63年には数本の大映時代劇に出演。「新選組始末記」では、沖田総司を演じている。
そして、この63年の10月からスタートしたのが「噂の錦四郎」である。自分の名前がタイトルになり、当然主演である。設定は10代将軍家治の弟・松平錦四郎が活躍を描くというもの。徳川家治という、ほとんどスポットの当たらない将軍の弟というのがミソである。もちろん、錦四郎などという弟はいないが(実際の弟は清水重好)、いると思わせようとしたのかもしれない。番組は1年半続いたのだから人気だったのであろう。しかし、松本錦四郎の人気もこれがピークだったような感がある。
以降は、主演となることはなくゲスト出演が主となっていった。69年には後見だった大谷が死亡し、自身も方向転換を迫られ、花ノ本寿も出演した「特別機動捜査隊」や「プレイガール」「七人の刑事」といった現代劇にも出演した。舞踊公演など原点回帰を図ったりもしたが伸び悩み、次第に表舞台に出る機会は失われていったのである。そして73年、ガス自殺を遂げたのである。39歳であった。

 

松竹俳優録18 花ノ本寿

花ノ本寿は、七人若衆では最年少の15歳という触れ込みでデビューしたが、実際は18歳だったという。大谷会長の「15にしましょう」の一言でそうなったという。
というわけで、古い資料では42年生まれとなっているものもあるが、実際は39年生まれである。本名は加藤龍一郎といい、幼少時から日本舞踊を習い始め、57年に十五世花ノ本流宗家花ノ本寿を襲名している。ちなみに「ひさし」ではなく「ことぶき」と読む。
大谷会長のすすめで、58年に松竹京都入りし、「七人若衆誕生」(58年)でデビューの運びとなっている。
七人若衆の最年長だった松本錦四郎とは、若衆の後も共演が続き、「高丸菊丸」(59年)タイトルでもある主役の兄弟を錦四郎と共に演じている。京都には3年ほどいたというが、後にコロムビアレコードに入社し歌手に転向している。実際に聞いたことはないが、長唄もたしなんでいたということなので、歌唱力に問題はなかったと思われる。「花笠若衆」(62年)を皮切りに数枚のレコードを出しているようだ。
歌手活動は短期間で終わったようで、経緯は不明だが64年に若松孝二監督の「恐るべき遺産 裸の影」に出演。若松だとピンクやポルノ映画のイメージだが、本作は社会派ヒューマンドラマだったようだ。しかし、30人の少女たちの入浴シーンがあり、当時は問題視されたという。今でも問題視されそうな気はするけれども。
65年には日活に入り、武智鉄二監督の「黒い雪」、同監督の「源氏物語」(66年)主演する。「黒い雪」も裁判になった映画だったりする。出演のきっかけは、舞踊の方で武智の妻である川口秀子と親しくしていた縁で、「出てもらえませんか」と依頼が来たのだという。暗めの役が多かったかと思えば、吉永小百合主演の青春映画「大空に乾杯」や「恋のハイウェイ」(67年)に助演したりもしている。
日活は67年で退社し、以降はフリーとなるが、テレビの方にも結構顔を出している。有名なのは「怪奇大作戦」の23話京都でロケを行った「呪いの壺」で、実相寺昭雄が監督を務めている。その縁で、実相寺が映画監督を務めた「無常」(70年)にも出演している。
しかし、舞踊の仕事が忙しくなり「無常」を最後に、30歳で映画とテレビの仕事は辞めたと本人は語っているが、実際はNHK大河ドラマ「春の坂道」(71年)や「大岡越前・第3部」(73年)等にゲスト出演している。「特別機動捜査隊」には60年代から何度か顔を出していたが、70年代に入っても何度か出演している。犯人役だったこともある。
74年には実相寺が監督する「あさき夢みし」に、実相寺に懇願されて出演。「他にイメージに合う人がいない」というのが理由だった。
現在は日本舞踊の方で活躍中のようだが、若松、武智、実相寺とかなりクセのある監督に好かれた人なのである。

 

松竹俳優録17 中山大介、川田浩三

七人若衆は全員が「七人若衆誕生」(58年)でデビューしたわけではない。七人の中で一番最初にデビューしたと思われるのが、中山大介である。
ネット上では、ほとんど情報のない俳優だが、ちょっとではあるが「日本映画俳優全集・男優編」にはプロフィールが載っていたりする。それによれば、中山大介は38年生まれで、本名は大久保喜雄という。
詳しい経緯は不明だが、高校在学中の55年、大映京都の「新・平家物語」でデビューし、まもなく松竹京都に入社し「元禄美少年記」に出演している。大船の現代劇「ここは静かなり」(56年)などに出演した後、七人若衆の一人に選ばれている。しかし、七人若衆企画は二作品のみで頓挫し、中山も「朝焼け雲の決闘」(59年)を最後に映画からは遠ざかっている。
しかし、テレビに活躍の場を移し、松竹制作の「変幻三日月丸」(59~60年)では主役を演じた。確か「テレビ探偵団」で、その映像の一部が流れたことがあるので、最低でもその+αは映像が存在しているということだろう。有名所では、高木新平や松山容子が出演、以前ここで紹介したが、誘拐殺人事件を起こして死刑になった天津七三郎も出演していた。
「変幻三日月丸」が終了した後は、NHKの子供向け海洋時代劇「渦潮の誓い」(60年)でも主演に抜擢されたようである。共演は宮土尚治こと当時12歳だった桜木健一である。「柔道一直線」で名を知られるようになるのは69年のことである。しかし、この番組は当時のNHK会長の子ども番組から暴力場面を追放するという方針のため、1クールを終えたところで「月下の美剣士」などと同様に放送中止となってしまったのである。そのあとは日本電波制作の「風雲児時宗」(61年)に出演記録があるが、これが最後となってしまったようである。ちなみに主演は松本錦四郎で、秋葉浩介(大谷橋十郎)の名も見える。
七人若衆の中で、一番情報がないのが川田浩三である。何年生まれとか、入社の経緯とかは全く不明なのだが、記録上のデビュー作は「七人若衆誕生」である。記録では映画出演は全部で7作しかないが、「剣風次男侍」(59年)は、花ノ本寿、松本錦四郎と三人で出演しているが、川田は自害する役どころのようだ。
記録上最後となっているのは松竹ではなく、第二東映の作品だ。里見浩太朗主演の「桃太郎侍 江戸の修羅王/南海の鬼」(60年)で、当時よくあった一時間弱の長さで、前後編に分かれているタイプだったようだ。川田は侍の一人のようだが、特別目立つような役ではなかったようだ。
これが最後かどうかはわからないが、テレビ出演の記録もなく、いずれにしろ川田浩三はこの辺りで姿を消したのは確かであろう。

 

松竹俳優録16 大谷ひと江(嵐徳三郎)、大谷正弥、大谷橋十郎(秋葉浩介)

松竹では「七人若衆誕生」(58年)という映画で七人の新人を売り出そうとしていた。その七人とは林与一、花ノ本寿、松本錦四郎、中山大介、川田浩三、大谷正弥、大谷ひと江のことである。
この中では、林与一くらいしかわからん、という人も多いかもしれない。ちょっと詳しい人なら花ノ本寿や松本錦四郎くらいまではわかるだろうか。この企画、次作の「七人若衆大いに売り出す」(58年)で終わってしまい、中山や川田は大いに売り出せず、まもなく姿を消していく。
大谷姓の二人に関しては自分は全く知らなかったが、歌舞伎に詳しい人なら大谷ひと江が嵐徳三郎(七代目)のことだとわかる人もいるのだろう。
大谷正弥、大谷ひと江は日大芸術学部在籍中、国劇研究会の公演で歌舞伎を演じた事が、松竹会長である大谷竹次郎に認められ、学士俳優の第一号として56年に初舞台を踏んだのである。無論、大谷というのは会長の姓を与えられたものである。このときに採用されたのが、二人の他に同じ日芸から三人(大谷山三郎、大谷田文次、大谷妹尾)と、早稲田大出身の大谷橋十郎であった。
学士俳優ということで、梨園の中にはその存在を嫌う者も多く、舞台を共にすることを拒否する者もいたという。
やがて橋十郎は松竹家庭劇への移籍を命じられたため、学士俳優を脱退するのだが、秋葉浩介の名で一時期「琴姫七変化」や前述の松本錦四郎が主演の「噂の錦四郎」といったテレビで活躍した。しかし、松竹サイドから芸能界には戻らない約束だったクレームが入り、干されてしまったという。秋葉浩介の名が短期間で消えたのは、そういう事情によるものだった。
大谷正弥は63年まではその名で、以降の66年までは坂東竹之助として舞台に立っていたらしいが、その後のことは不明である。現在、竹之助の名は三代目に受け継がれている。
大谷ひと江は、その名では71年まで活動し、前述のとおり嵐徳三郎(七代目)を襲名している。この襲名は大谷会長の肝いりで、この名跡を預かっていたアラカンこと嵐寛寿郎に直接、会長が話をつけたという。
87年に蜷川幸雄演出から「王女メディア」の主演を依頼され、国内はもとより、海外公演でも高い評価を受けている。元々は平幹二朗の代役であったが、10年以上にわたりメディアを演じ続けた。
00年3月に体調を崩して休演し、療養を続けたが同年12月に死亡した。一度、病気を苦にした飛び降り自殺と報道されたが、自殺の目撃情報はなく、その後の報道では一転して心不全による病死ということになったらしい。66歳であった。その真相は不明である。

 

松竹俳優録15 望月優子(美枝子) その2

前回の続きである。47年7月、望月美恵子は、滝沢修、宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場、略して民芸(第一次)に参加した。
翌48年に、松竹の「四人目の淑女」に出演の声がかかった。映画は戦前の「夫婦太鼓」以来だったが、生活のためにと出演する。彼女はナイトクラブの踊り子の役で、踊り子としてのキャリアを買われたに過ぎなかった。
民芸の俳優がそろって共産党に入党したとき、彼女は同調せず、49年民芸解散後、再び松竹の「初恋問答」「夢を召しませ」に脇役で出演した。50年12月、民芸は劇団民芸として再建され、彼女も参加するが、まもなく松竹にすすめられて契約、民芸を退団して映画に転身した。
でその契約第一回出演が「カルメン故郷へ帰る」(51年)だったのである。以降、松竹作品におかみさん、おばさん役で使われるようになり、「飛び出した若旦那」(51年)から、20年以上使っていた芸名の望月美恵子を望月優子に改めている。
そんな彼女が木下恵介の「日本の悲劇」(53年)で、突如主演に抜擢される。ラストで彼女演じる戦争未亡人は、電車に飛び込んで自殺するのだが、本当に飛び込んだと思わせるような迫真の演技だったという。この演技で、毎日コンクール主演女優賞に輝いたのである。
春秋プロに招かれ、「狂宴」(54年)で二度目の主演、東宝の成瀬巳喜男監督にも招かれ「晩菊」(54年)に出演。有馬稲子、杉村春子、沢村貞子らと共演し、第6回ブルーリボン助演女優賞を受賞している。
55年からはフリーになり、57年には東映で今井正監督の「米」に出演。夫役が加藤嘉で、娘役に抜擢されたのが前年にデビューしたばかりの中村雅子である。前回書いたとおり、18歳離れているが中村雅子は異父妹である。役柄どおり、母子にしか見えないけれども。
中村雅子と加藤嘉はこの後も共演が続いたこともあってか、翌58年に結婚したのである。望月もよもや、自分よりも年上の男と妹が結婚するとは思わなかったであろう。映画の方はキネマ旬報ベストテンの第一位に選ばれ、望月も今度はブルーリボン主演女優賞を受賞している。
71年、参議院議員選挙に社会党公認で全国区で立候補。田英夫、安西愛子に次いで第3位で当選した。しかし、77年7月の参議院議員選挙では全国区で55位となり落選し、社会党を離脱。10月からは、舞台で「獅子」を制作・演出を兼ねて上演していた。しかし、その3日目には体調が悪いと入院し、やがて昏睡状態に陥った。そして、12月1日にはそのまま亡くなったのである。病名は転移性肺腫ガンで、60歳であった。まさに波乱万丈な人生だったといえよう。

 

松竹俳優録15 望月優子(美枝子)

「カルメン故郷へ帰る」(51年)で、高峰秀子の姉役を演じたのが望月優子である。当時34歳であったが、松竹の契約女優としては、これが出演第1作目であった。後に母物映画女優として知られることになるが、イメージとしては地味ではないだろうか。しかし、この人の生い立ちは非常に複雑で、経歴も波乱に富んでおり、それを追っていくだけで長編ドラマができそうでなのである。
望月優子は17年生まれ。本名は美枝子といい、母は下宿屋の娘で父は板橋というその止宿人であった。しかし、二人は結婚に至らず、3歳のときに子供のいないメリヤス商・里見夫婦の養女となっているので、本名は里見美枝子となる。まもなく、養父は養母の愛人を傷つけた罪で1年間の刑務所暮らしを送ることになる。そして1年後の出所の直前に養母は家出してしまったのである。
しばらくして養父は後添えを迎え、彼女にとって義理の弟となる二人の男児を設けた。彼女は29年に尋常小学校を卒業するが、女中奉公を嫌って、養父にも黙って高等女学校を受験し入学する。しかし、制服も買えず、授業料も続かずで1年ほどで中退に追い込まれたのである。
30年5月、養父の弟の娘二人が入団していた榎本健一のカジノフォーリーに彼女たちの口利きで入団する。エノケンに「脚を出してみな」と言われ、スカートを少し上げると「あしたから、おいで」と言われたのが入団試験だったという。彼女は望月美枝子の芸名でコーラスガールの一人として初舞台を踏む。
先輩には5歳上の竹久千恵子、1歳上の梅園竜子がいた。まもなくエノケンが脱退し、新カジノフォーリーが旗揚げされる。新しく振付師として入団した石田守衛の指導でバレエの基礎訓練を受け、梅園と二人でデュエットを踊るまでになった。
32年にカジノフォーリーを退団し、竹久が新宿のムーラン・ルージュに入団するにおよび、望月も踊子として入団する。この頃、養父が他界し、小学生だった義理の弟二人の面倒を見ることにする。また、自分を養女に世話した女性に教えられ、実母と再会。実母と鍍金業の夫との間には6人の子供がおり、その三女が中村雅子で後に望月の手引きで女優となっている。雅子は後に22歳上の加藤嘉と結婚するので、加藤は望月の義弟という関係になる(加藤の方が4歳上)。
35年8月、古川緑波一座に誘われ入座するが、翌36年3月にムーランに戻り、11月には再び退団。宝塚ショウ、新生新派などを経て、41年に出版社に勤めていた鈴木康之と見合い結婚をする。媒酌人は川端康成夫妻であった。
新生新派にいた頃、「夫婦太鼓」(41年)で映画に初出演しているが、映画自体にさほど興味はなく、以降は戦後になるまで映画出演はない。
43年に長女を出産、45年の終戦直後に長男を出産するが直ぐに亡くなっている。
とここまでが戦前編。これでも端折って書いているのだが、次回の戦後編に続く。