お宝映画・番組私的見聞録 -91ページ目

松竹俳優録7 高橋貞二

森美樹がガス中毒で亡くなった約1年前に交通事故死したのが高橋貞二である。個人的には、森美樹の方が先に亡くなったと思っていたので、改めて調べてみて意外な気がした。佐田啓二、鶴田浩二と共に松竹の青春三羽烏と言われていたこともあり、亡くなって60年近いが、今でもネームバリューは高い方ではないだろうか。
高橋貞二は26年生まれで、本名は高橋貞次。母の実家が松竹大船撮影所の近くにあり小学校時代に撮影所に出入りしていたこともあってか、俳優を目指すようになったようである。
43年、日大の芸術学部に進むが、大日本映画協会設立の日本映画学校の存在を知り、44年4月に二期生として同校演技科に転校する。同期生には菅原謙次、浜田百合子などがいた。戦時中でもそういった学校が開校されていたのが意外な気がする。
翌45年3月、卒業と同時に高橋は希望通り、松竹大船に入社できたのであった。しかし、終戦間近な時期と言うこともあり出演の機会はほとんどなく、たまにあっても通行人の役程度しかもらえなかった。
正式デビューは、46年の「物交交響楽」で本名で主演を演じた。しかし、それから約1年は仕出しの仕事ばかりであったが、「若き日の血は燃えて」(47年)で貞次を貞二に変え、山内明の恋敵役を演じてから注目されるようになった。
47年入社の佐田啓二、48年入社の鶴田浩二は見るからに二枚目で、スタートから華々しい活躍をしていたのに比べると、高橋の庶民的で二枚目さを欠く風貌はどこか地味であった。
「大学の虎」(50年)では、鶴田とボクシングで戦う学生の役であったが、この映画の封切り直後、高橋は飲み仲間の諸角啓二郎らと四人、酔ってバス運転手とケンカ。止めに入った警官に襲い掛かり、逮捕されるという事件を起こし、「大学の虎、大暴れ」と新聞に書かれる始末であった。しかし、当時の世間は芸能人の不祥事に寛大で、この事件もさして問題にはならなかったという。
翌51年には「大江戸五人男」で白井権八役に起用される。阪東妻三郎、市川右太衛門、山田五十鈴、月形龍之介、高峰三枝子といった大スターに混じっての起用であったが、これは「新しいスターを育てたい」という大谷竹次郎社長の声掛かりであったという。監督の伊藤大輔は当初は渋っていたが、徹底してアプレゲール(戦後派)な権八したところ評判となり、「アプレ権八」が高橋の代名詞となったくらいである。
このころ、また酒の席で仲裁に入ったつもりが、自分も加わっていたという騒動を起こしたりしている。もちろん、普段から暴力的というわけではなく、周囲からは好かれるタイプだったようだ。また、趣味で車に凝りはじめ、キャデラック、ビュイック、ベンツと乗り継いでいく。この酒好きで車好きという危ない取り合わせは、やがて彼の命を奪うことになるのである。
次回に続く。

松竹俳優録6 森 美樹

50年代に松竹で活躍した俳優に森美樹がいる。読み方もモリミキだし、字面だけ見ると女性?と思う人もいるかもしれないが、男性である。長身の二枚目として人気もあった。
森美樹は34年生まれ。本名は森潤といい、そのままでもいいような気がする。「みき」と言う名で男といえば、平手造酒くらいしか思い浮かばないが、それに肖ったのであろうか。よく考えると、自分の子供のころの友人に美紀と書いてヨシノリというのがいたし、サラリーマン時代の同僚に幹(みき)という男がいた。
さて森美樹だが、54年に早稲田大学英文科を中退して松竹の俳優養成所に入っている。翌55年、東京生まれの東京育ちだったが、松竹京都に入社している。同年、「顔のない男」でデビューした。実はこの作品、主演の岡田英次が怪盗ルパンを演じており、森は刑事の一人(同僚刑事に有島一郎など)として出演している。
デビュー作は現代劇であったが、時代劇の方が多く「京洛五人男」(56年)では沖田総司、「蛍火」(58年)では坂本龍馬、「巌流島前夜」(59年)では宮本武蔵といった役柄を演じている。「京洛五人男」には後に恋人となる瑳峨三智子も出演しているが、絡みがあるない含めて一緒に出演している作品は多い。
57年にはエランドール新人賞を受賞しているが、この年の受賞者は他に仲代達矢(俳優座)、川崎敬三(大映)、江原真二郎(東映)、団令子(東宝)、筑波久子(日活)、北沢典子(新東宝)といった顔ぶれであった。ちなみにこの賞は56年から始まっており、前年の第1回受賞者には石原裕次郎、高倉健、川口浩、池内淳子ら錚々たる顔ぶれであった。松竹からは杉田弘子が選ばれている。
初の主演作は「現代無宿」(58年)で、相手役は岡田茉莉子、八千草薫であった。
「忠臣蔵 暁の陣太鼓」(58年)でも主役の中山安兵衛を演じたが、相手役は瑳峨三智子であった。いつから恋人関係になったのかは不明だが、「おさい・権三 燃ゆる恋草」(60年)では文字通り二人が主演で恋人役を演じているのであった。
公私ともに順調だった森美樹だったが、60年年末封切りの「旗本愚連隊」に出演後、同時封切りの「あんみつ姫の武者修行」にも出演することになった。ちなみにあんみつ姫役は鰐淵晴子である。
その撮影中の12月4日、森は居宅でガス中毒のため死亡してしまったのである。まだ26歳の若さであった。当時はこういった事故も多かったかもしれないが、死に方が死に方だけに自殺の噂もあった。当時、同僚だった小笠原省吾(弘)などは自殺と認識していたようである。表面的には、自殺する理由は見当たらず事故死の可能性が高いが、当人のみが知り得る何かがあった可能性も否定はできない。
森の死で恋人だった瑳峨三智子の精神状態や生活も乱れていったようである。
生きていれば、もっと大スターになっていたと思われるので、その早い死が惜しまれる。

松竹俳優録5 紙 京子

1950年代に活躍した松竹女優に紙京子がいるが、やはり一風変わった芸名が目をひく。
「紙」という苗字の人は存在しており、国内に100件弱あるらしいので、そこまで希少というわけでもない。しかし、彼女の本名は針谷すみ子(旧姓)といい、本名ではないのだ。
本名かどうかは不明だが、紙恭輔という日本初の本格的ジャズプレイヤーであり、作曲家、指揮者でもある人がいる。この人は映画音楽にも携わっており、松竹歌劇団の音楽監督を務めたこともある。38年には新しく発足した松竹楽劇団の初代楽長にも招かれている。「紙京子」とはこの紙恭輔に肖った可能性もある。
紙京子は32年生まれ。49年松竹歌劇団に五期生として入る。同期に草笛光子がいた。52年、川島雄三監督の主演女優募集に応募して合格し、松竹に入社している。松竹歌劇団出身なので、紙恭輔に肖っても不思議ではないのだ。また、彼女の実家はどうやら理髪店だったらしい。理髪店つまり「髪」。「髪」では難しいので、「紙」にした、という説はどうだろうか。
さて、紙京子のデビューは前述のとおり、川島監督の「娘はかく抗議する」(52年)で、主演デビューを飾ったのである。その親友役で前回の桂木洋子も出演している。本作は思春期の女学生を主人公にした性典映画の走りで、同種の「乙女の診察室」「乙女のめざめ」(53年)にも女学生役で出演している。あと、「青春三羽烏」(53年)や「三羽烏奮戦す」(54年)といった三羽烏シリーズにも準主演級で顔を出している。「哀愁日記」(55年)では、SKD同期の草笛光子と共演している。
57年の「白磁の人」に出演した後、松竹京都の助監督である猪俣堯(後にプロデューサー)と結婚したため、ホサれることになってしまう。その後、松竹では「お富と切られ与三郎」(57年)と「大利根無情」(60年)に出演したのみで、「小天狗霧太郎」(58年)や「ご存知いれずみ判官」(60年)など東映京都の時代劇に出演している。
映画出演は60年以降、途絶えていたが、68年になって東映の「夜の歌謡シリーズ伊勢佐木町ブルース」に突如顔を出している。テレビ出演も「五条坂」(61年)という連続昼メロに出演してから、途絶えていたようなので、この間は引退状態にあったようである。「伊勢佐木町ブルース」で復帰後、テレビでは「五人の野武士」「特別機動捜査隊」にゲスト出演、そして「ああ君が愛」(69~70年)という連続昼メロに主役として登場したようだが、記録上はこれが最後となっている。
その後については、全く不明である。

松竹俳優録4 桂木洋子

松竹で監督といえば、すぐ思い浮かぶのが小津安二郎だったり、木下恵介であったりすると思うが、役者たちもそういった巨匠の作品には出たいと思っていたようだ。岸恵子が「君の名は」を嫌っていたのは、そういった巨匠の作品に中々出られなくなった(後に出演)ということもあったからのようだ。
木下恵介は「木下学校」と言われるくらい若手や新人を起用するのが好きだったようだが、戦後まもなく木下に見いだされて人気だったのが桂木洋子である。
桂木洋子は30年生まれ。46年に松竹歌劇団に二期生として入る。48年、「肖像」を準備中だった木下の目に留まり、同作に出演したのがデビューである。ちなみに脚本は黒澤明であった。引き続き「破戒」(48年)にもヒロインのお志保役で起用されたのを期に歌劇団を退団し、松竹に入社した。
この後、小津の「晩春」(49年)、木下の「破れ太鼓」(49年)、黒澤の「醜聞」(50年)に出演し、「三つの結婚」(50年)で初主演となった。甘い美貌で人気を得て、純情乙女、若夫人といった役が多かった。
続く木下の「善魔」(51年)では、新人三國連太郎の相手役。ちなみに三國連太郎とは、この時の役名をそのまま芸名にしたものである。三國は「何度NGを出しても嫌な顔一つせず相手をしてくれた桂木さんには感謝している」と後に述べていたと言う記事をどこかで見た気がする。
桂木洋子は「日本の悲劇」(53年)の撮影のあとに、後に「題名のない音楽会」で知られることになる作曲家・黛敏郎と結婚した。はっきりした出会いは不明だが、当時の黛は松竹作品の劇判を手掛けることが多かったので、接点を持つ機会はあったであろう。
実はこの「日本の悲劇」の撮影後に「映画ファン」において木下と桂木の対談が行われている。桂木は「どうして私はこうそらぞらしいんでしょう。私生活で、一人で誰もいなくても気取るのです」などと自分を評している。桂木と黛の結婚についても触れており、木下は「洋ちゃんだって、黛君をわかりきってはいないけれど、結婚するのだろう」などと述べている。
結婚してからも、本数は減らしたものの女優活動は続けており、他社作品にも顔を出し、東宝の「やがて青空」(55年)では主演を務めている。大映の「親不孝通り」(58年)では、川口浩の姉で船越英二の恋人役を演じた。
最後となったのは日活の「丘は花ざかり」(63年)で、浅丘ルリ子の姉の役であった。もっと早く引退していたイメージがあったが、結婚してからも10年は女優をやっていたのである。
07年に76歳で他界した。死亡日や死因などの詳細は遺族の意向で伏せられている。

松竹俳優録3 小園蓉子(+ラッキークローバー)

さて、51年に岸恵子とともに松竹に入社した小園蓉子だったが、扱いは岸と同じで研修生という身分だったようだ。「恋文裁判」(51年)で脇役デビューしたが、松竹では岸、小園、美山悦子、日夏紀子の4人を「ラッキー・クローバー」と名付けて売り出そうとしたのである。
美山悦子、日夏紀子って誰?という人がほとんどだと思うが、自分も初耳の名前であった。無論と言ってはなんだが、「日本映画俳優全集・女優編」にもその名は載っていない。
映画情報サイト「Movie Walker」で調べると、それぞれの出演記録があった。美山悦子は、8作品が検索された。デビュー作(とは限らないが)と思われるのが「初恋トンコ娘」(51年)という作品である。「とんかつ大将」「鳩」(52年)では、小園蓉子と共演、「銀座巴里」(52年)では、岸恵子と共演している。記録として最後になっているのが「魚河岸の石松」(53年)である。
日夏紀子は、7作品が検索された。デビュー作と思われるのが「母恋草」(51年)で、岸恵子も出演している。記録として最後になっているのが「妻の青春」(53年)で、こちらには小園も出演している。美山はちゃんと役名がある役が多いが、日夏は芸者とか女中とか雑誌記者とか、役名のないものがほとんどである。
おそらく「ラッキークローバー」が全員そろった作品はないと思われるが、小津安二郎の「お茶漬の味」(52年)には、小園は女中、美山と日夏は女店員の役で出ている。鶴田浩二も出ているが岸は出演していない。ちなみに、北原三枝も女給の役である。北原は日活のイメージが強いがスタートは松竹なのである。
情報はこれくらいしかないのだが、どうやらデビューは4人とも51年で一緒だが、美山と日夏は53年には姿を消してしまったと大雑把な推測ができる。もちろん、何らかの形で女優を続けていた可能性はあるけれども。
さて、小園蓉子に話を戻すと親友の岸があっという間にスターになっていくなか、小園は足踏み状態が続いていたが、デビュー六作目となる「伊豆の艶歌師」(52年)三枚目的な役柄が注目されて撮影所内新人演技賞を受賞、続く「息子の青春」(52年)でも撮影所所長賞を受賞した。
しかし、「江島生島」(55年)を最後に松竹を去り、56年1月日活と専属契約を結んでいる。そこで「姉さんのお嫁入り」(56年)で、初主演を得る。相手役は三島耕、内藤武敏であった。監督はやはり松竹から移籍してきた斎藤武市で、これが監督デビュー作であった。
以降は、ほぼ脇役として活躍。日活には68年まで在籍していたので、日活女優のイメージが強い人もいるかもしれない。日活退社後はフリーとなり、テレビに活躍の場を移している。
一時期、ニューパールホーン・レコードの社長をつとめ、岸恵子のレコードを出したこともある。友情関係は続いていたようである。

松竹俳優録2 岸 恵子 その3

岸恵子によれば、「ハワイの夜」の撮影前に鶴田浩二が失踪したという。ノイローゼ気味だったらしいが、岸との共演を周囲が反対したことがきっかけになったようだ。敏腕マネージャーで知られた兼松廉吉は全国の警察に手配するくらいに心配したというが、岸はかつて「獣の宿」で撮影に使った山中湖に違いないと直感したという。
実際、鶴田は山中湖の舟の上で睡眠薬を飲んだ状態で発見されたという。しかし、当時その事件が知れ渡ることはなかった。回復しても鶴田は岸との公演を希望し、兼松は「そんなに言い張るなら何でもすればいい」と二人をハワイへ送ったのである。
鶴田は自殺未遂騒ぎを起こすくらい岸に入れ込んでいたが、岸の方はそこまで思っていたのかはわからない。「私に関してはものすごく立派で、紳士だったし、素敵な人だった」と語るにとどまっている。
53年3月、岸は松竹に復帰する。他者に奪われるよりは自社へという松竹の考え方と、岸も以前に比べて自由が得られそうだという両者の思惑が一致したからだと言われている。
彼女をトップクラスの人気女優に押し上げたのは「君の名は」(53年)であろう。しかし、彼女の「君の名は」に対する評価は辛辣なものである。「話の内容がひどい」とか「何でこんなのに出なきゃいけないんだろう」とか、「こういったメロドラマに出されるのなら、当たらないより当たった作品に出たほうがいいわね」などクールな発言に終始している。
丁度、このころ大映から「地獄門」への出演オファーがあったのだが、松竹との再度のトラブルが予想されるのを好まず「君の名は」に出演を決めたという経緯があった。また、「君の名は」に出たために「メロドラマ女優だから」と、木下恵介などいい監督がなかなか使ってくれなかった、と岸は考えていたのである。
加えて、あくまでも立場は研修生であり、出演料は5万円で変わらず。相手役の佐田啓二は50万円である。「君の名は」は彼女を人気女優にしたが、本人にとっては良くないことも多かったようである。
54年4月には、2月に切れていた他社出演の自由もありという松竹との契約に応じると同時に、久我美子、有馬稲子と三人で「文芸プロダクション・にんじんくらぶ」を結成している。これで一気に百万円に上がったという。
56年には日仏合作映画「忘れ得ぬ慕情」に出演したが、それをきっかけに、翌57年には同作のフランス人監督イヴ・シャンピと結婚し、フランスに移住した。当時は国際結婚も珍しく、「毛唐なんかと」と否定的に見る輩も多く、横浜の家から彼女とシャンピが車で出てくると高校生に石を投げられたこともあったという。その後は、シャンピとは離婚したがパリに住居を構え、日本とパリを往復しながら女優を続けているのは、ご存知の人も多いだろう。

松竹俳優録2 岸 恵子 その2

前回の続きである。
岸恵子と田中敦子の入社は高校卒業後ということになったが、その直前である51年2月、岸のデビューが「我が家は楽し」に決定し、撮影中の3月に正式に松竹の専属俳優として入社した。親友・田中敦子も同時に入社し、芸名を小園蓉子とした。二人は正式に入社はしたものの、実は「研究生」という肩書だったそうである。それは結構長い間、続いたという。所長の髙村は「君はきっとすぐにスターになってしまう。急にスター扱いは悪いから大部屋にいなさい」というので、準主役をやりながら、仕出し(通行人のような役)もやっていたのだという。
岸も実は芸名をつけようとしたが、自分でつけろと言われ、気取った少女臭い名前をいっぱいつけたのだが、自分でも名前を忘れ、予定表にあった仕出しに参加しなかったため、すごく怒られ、結局本名に戻したのだという。
月給は四千五百円で、それを三回に分けて支給されるため、当時としてもタクシーにも乗れず、撮影所から歩いて帰っていたというが、よく佐田啓二や高橋貞二が車で拾ってくれたという。月給の額についても、特に不思議には思っていなかったのだが、あるときスターたちは五十万円もらっていることを知り、その差に愕然としたという。それがいつからか5万円くらいに上がったのだが、実はそれを知った佐田啓二が「あんまりじゃないか」と掛け合ってくれたのだという。
それでも社長の城戸四郎には、「君たちはまだ研究生なんだから、本来なら月謝を納めなければいけないくらいだ」と言われたという。
当時松竹で人気の男性スターといえば、前述の佐田啓二、高橋貞二、そして鶴田浩二である。
岸はデビュー二作目の「獣の宿」(51年)で、鶴田の相手役に抜擢されたが、これは鶴田自身の指名だったようである。撮影場所の京都には岸も連れて来られたのだが、彼女を見た鶴田が「あの子がいい」と選んだらしい。ちなみに本命スターとして連れて来られたのは関千恵子だったらしいが、「スターさんより君の方がいいらしい」と岸恵子に決まったのである。関とは年齢は2歳しか違わないのだけれども。
これをきっかけに、佐田啓二や高橋貞二といった人気スターの相手役を次々と務め、スター女優への道を歩き始める。そんな中、52年5月に鶴田浩二が独立し新生プロを創立する。その第1作「弥太郎笠」の相手役に岸を希望してきたのである。松竹はもちろん拒否の態度を示すが、岸自身はこれまで出演した作品で満足感を得られたのがほとんどないことや、東映の「ひめゆりの塔」への出演を松竹側が断ったりしたこともあり、「弥太郎笠」には出演したいと考え、松竹に辞表を提出したのである。この時点で岸恵子はまだ19歳であったが、女優として強い意志を持っていたといえよう。結局、「弥太郎」を監督するマキノ正博が松竹京都撮影所長の大谷博と話し合い、彼女の出演は認められた。
この共演を巡って鶴田と岸の恋愛沙汰がマスコミに騒がれたが、鶴田が岸に夢中だったのは事実のようである。続く「ハワイの夜」でも岸を相手役に希望してきたのであった。時代が時代だけに周囲は心配して、二人を離そう離そうとしたのである。もう少し続く。

松竹俳優録2 岸恵子(+小園蓉子)

今回も大女優・岸恵子である。前回の加賀まりこで書き忘れたが、20数年前に出た「人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語」という山田太一らが著書のインタビュー本があり、それを基にしている。
岸恵子が女優になるきっかけは有名かもしれないが、49年高校生の時に同級生の友人である田中敦子(後の小園蓉子)の叔父が撮影所長の髙村潔と親友だったことからである。小園は既に「女優になりたい」と思っており、髙村に「見にこないか」と言われ、岸も関心はあったので付き添いのように撮影所に見学に行ったのである。
その際に、監督の吉村公三郎に「映画に出てみないか」と声をかけられたのである。その後、山口というプロデューサーが岸の自宅を訪れ、「お嬢さんを女優にしませんか」と言ってきたが、岸の父は難色を示したので、研究生のような待遇にしてもらい、「時々撮影所にいらっしゃい」ということになったのである。
それで、二人で土曜日になると撮影所に通うようになったのだが、所長の髙村には「女優として基礎の勉強ができるように、お小遣いを上げます」と言われ、当時の女学生には大金の千円だか二千円だかを父には黙ってもらっていたという。
通っている間には、何度も「こういう役があるから出てみないか」と誘われていたらしいが、父に「卒業するまで映画にでては行けない」と言われていたこともあり、出れなかったという。
しかし、当時は助監督だった池田浩郎に「教育映画だから」と誘われた作品は、出演を許されたという。それがCIE教育映画「アメリカ博覧会の一日」である。CIE教育映画とは、GHQが占領政策の一つとして日本人の民主化教育目的で国内各地を巡回上映した教育映画群のことである。CIEとはGHQの内部組織で民間情報教育局の略称だ。現状では、日本国内製作の作品であってもスタッフやキャストは殆どわかっていないらしい。「映画論叢」の43号には、その中の一つである「会議のもち方」という作品を中川信夫が監督していたことを発見したことが書かれている。
岸恵子の正式デビューは「我が家は楽し」(51年)になっているが、それ以前にも「真昼の円舞曲」(49年)などでロングのワンカットに出してもらったことはあったようだ。しかし、ちゃんとした出演はこの「アメリカ博覧会の一日」(おそらく50年の春休みに撮影)が初めてということになるようだ。
監督した池田浩郎によれば、両親(北龍二、望月優子)と娘がアメリカ博覧会を見に行くというものだったが、娘役に関しては池田が選んだ4~5人の女子の写真をCIEの担当者に見せたところ「女学生に見えないからNO」という返事だったという。困っていた時に思い出したのが岸と小園のことだった。本物の女学生なんだから大丈夫だろと、岸の写真を撮ってCIEの担当者に見せたところ、一発でOK、所長の髙村も「あれが使えるなら」とOKした。
で岸本人を呼んで話したところ、「あっちゃん(小園)と一緒ならいい」という返事であった。後ろめたさを感じるのか「私一人ではどうも」と言うので、池田は「わかった役をつくるよ」と小園をアメリカンライブラリーに勤務する娘役にして、二人が旧交を温めるという台本にしたという。
面白くなかったのが、実際に二人を可愛がっていた助監督の武田義晴で「出ないほうがいい」と止めたいうが、岸は「本読んで気に入ったから出たい」と突っぱねたという。
池田は、実際に動かしてみると岸はカンが鋭く、天才的な俳優の資質を持っていると感じたという。

松竹俳優録1 加賀まりこ その2

前回の続きである。
65年に公開された、「雪国」と「美しさと哀しさと」という川端康成作品はほぼ同時に撮られていた。川端はとにかく加賀を気に入っており、後者に出てくるレスビアンのけい子役に抜擢された彼女と対面した時に、「私がまるで加賀さんのために書いたような、他の女優では考えられない」などと述べている。まあ、単純に加賀まりこが好みの女性だったのでは、という気がしないでもない。
これらを撮り終わった後、 夏休みをもらってカンヌ映画祭に行き、それからパリに十カ月くらいいたという。この時点で女優に未練がなくなっており、辞めるつもりだったのだという。
そこに国際電話がかかってくる。劇団四季の浅利慶太で「四季で『オンディーヌ』をやらないか」というものであった。戯曲を知らなかった加賀はピンと来なかったらしいが、実姉から「とんでもないことよ」と言われ、帰国して出ることにしたのであった。すると会場の日生劇場始まって以来の大ヒットとなったが、加賀自身は納得がいかず、初めて演技の勉強をする為に「四季」の養成所に入ったという。
「惜春」(67年)では、東宝の新珠三千代とケンカ。当時は新珠主演のドラマ「氷点」が大ヒットしていた時だった。新珠と加賀は姉妹の役で車から降り立つというだけのカットのだが、二時間ほど待っても一向に始まらない。不振に思った加賀がスタッフを追及した結果、新珠がオンエア中の「氷点」をこたつに入って見ていることが分かったのである。当時はビデオなどが普及している時代ではないので基本的にはオンタイムで見るしかないのだ。
ワンカットの撮影のためにみんな待っているのに、と頭に血が上った加賀は、新珠がテレビを見ているという家へ駆け込んで、テレビのスイッチを切り、「アンタ何様よ!」とやったわけである。新珠もまさか10以上年下の後輩女優に、どやされるとは思っていなかったであろう。スター女優というのは待たせるのが当然みたいな風潮もあったようだ。瑳峨三智子など九時開始なのに三時ころ来たりしたという。
話を「惜春」に戻すと、新珠との姉妹ゲンカのシーンでは新珠がセリフを言うた度に「ヒッ(息を吸う音)」と引くので、ケンカになって行かないので、監督に「ケンカにならないから何とか言ってください」と訴える。二人とも直接会話をしないようになっていたので、監督いびりのようになってしまったという。
後で東宝Pの藤本真澄が「新珠をいじめた加賀まりこってどの女だ」と見にきたらしい。新珠とはそれ以来、話をしたことがないという。以降もパーティなどでよく見かけることはあるのだが、どんなことがあってもお互い会釈もしなければ、絶対口を利かなかったという。
変わったところではスパイダースのリーダー田辺昭知を相手役にした「濡れた逢引き」(67年)や、父の四郎が会社を退いた後に出演した大映作品「不信のとき」(68年)などがある。本作では田宮二郎がポスターでの序列が低かったこと(加賀よりも低かった)に抗議した結果、大映を追われる羽目になっている。別に加賀のせいではないがまさに嵐を呼ぶ女である。
松竹には6年ほどいたというが、個人的にはまり松竹のイメージは感じない。東映あたりがしっくりくる勝手なイメージがある。
 

松竹俳優録1 加賀まりこ

今回から松竹俳優録である。とはいうものの新東宝、大映、日活のように終焉を迎えてしまった会社は関連書物や研究サイトなどがあり調べやすいのだが、松竹のように延々と存続している会社は逆に調べにくく、まとまった資料も見当たらない(あるかもしれんが)。であるから、脇役、大部屋クラスの人は調べにくく、割合スター俳優中心になるかもしれない。
で最初は加賀まりこである。43年生まれで本名は加賀雅子という。父は大映プロデューサーの加賀四郎。高校時代から六本木界隈を遊び場にしており、「六本木族」の元祖的な存在であった。六本木の「キャンティ」にも通っており、そこには野獣会のメンバーが集まっていたため、彼女も野獣会のメンバーと思われているが本人は「あれは田舎者の集まり」と否定している。
60年にドラマ「東京タワーは知っている」にズベ公役で出演したのが初出演で、61年には高校中退。翌62年日テレの「ノンフィクション劇場/中間世代」で六本木族相手にインタビュアーを務めている。本人談によれば、これは潜入レポで隠しカメラで撮影を行ったりしたという。従兄弟が日テレに勤めていたので出ることになったという。未成年のほぼ素人を危険と思われている場所に行かせるのだから、今なら問題になりそうである。
この62年にはドラマ「四十八歳の抵抗」に出演。これは彼女が「週刊朝日」の表紙(秋山庄太郎撮影)になったのがきっかけで、起用されたという。その直後には連続4回のドラマ「潮騒」にヒロインとして出演。相手役は石坂浩二で、加賀の記憶では本名の武藤兵吉名義だったとうが、ドラマデータベースでは本作から石坂浩二に改名したとなっている。ちなみに、石坂と加賀はこの後(時期ははっきりしないが)同棲生活を送ったこともあるらしい。
この後、松竹の篠田正浩と寺山修司に神楽坂の路上でスカウトされる。篠田の方は、通学帰りだった彼女を何度も見かけていたといい、「潮騒」など出演ドラマも見ていたという。そして「涙を、獅子のたて髪に」の主役に起用されたのであった。
これには事情があり、最初は主演である藤木孝の相手役には桑野みゆきが予定されていたという。人気歌手だった藤木は直前に渡辺プロを辞め、俳優へ転身しようとしていたのである。そんなこともあり、渡辺プロは藤木を使うんだったら今後いっさい協力しないと圧力をかけてきたのだという。そのゴタゴタから桑野は降りてしまい、新人でいくしかないということになり、加賀に目をつけたのであった。篠田には「私のことよく知りもしないで主役に使うなんて大丈夫なんですか?」などと言ったらしい。
この映画デビューの後で、加賀は正式に松竹と専属契約を結んだのであった。父の四郎とは仲は良かったが、父のいる大映には行く気はなかったという。自分の力で役を得ても、父の七光りと思われるのが嫌だったからである。
こうして松竹女優の加賀まりこは誕生したが、本人も言う通り怖いもの知らずで、大監督であった渋谷実であろうと「クソジジイ」とか平気で目の前で言い放ち、周囲をハラハラさせていたという。しかし、この渋谷にも木下恵介にも不思議と彼女は気に入られていたようである。
長くなってきたので次回に続く。