松竹俳優録2 岸恵子(+小園蓉子)
今回も大女優・岸恵子である。前回の加賀まりこで書き忘れたが、20数年前に出た「人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語」という山田太一らが著書のインタビュー本があり、それを基にしている。
岸恵子が女優になるきっかけは有名かもしれないが、49年高校生の時に同級生の友人である田中敦子(後の小園蓉子)の叔父が撮影所長の髙村潔と親友だったことからである。小園は既に「女優になりたい」と思っており、髙村に「見にこないか」と言われ、岸も関心はあったので付き添いのように撮影所に見学に行ったのである。
その際に、監督の吉村公三郎に「映画に出てみないか」と声をかけられたのである。その後、山口というプロデューサーが岸の自宅を訪れ、「お嬢さんを女優にしませんか」と言ってきたが、岸の父は難色を示したので、研究生のような待遇にしてもらい、「時々撮影所にいらっしゃい」ということになったのである。
それで、二人で土曜日になると撮影所に通うようになったのだが、所長の髙村には「女優として基礎の勉強ができるように、お小遣いを上げます」と言われ、当時の女学生には大金の千円だか二千円だかを父には黙ってもらっていたという。
通っている間には、何度も「こういう役があるから出てみないか」と誘われていたらしいが、父に「卒業するまで映画にでては行けない」と言われていたこともあり、出れなかったという。
しかし、当時は助監督だった池田浩郎に「教育映画だから」と誘われた作品は、出演を許されたという。それがCIE教育映画「アメリカ博覧会の一日」である。CIE教育映画とは、GHQが占領政策の一つとして日本人の民主化教育目的で国内各地を巡回上映した教育映画群のことである。CIEとはGHQの内部組織で民間情報教育局の略称だ。現状では、日本国内製作の作品であってもスタッフやキャストは殆どわかっていないらしい。「映画論叢」の43号には、その中の一つである「会議のもち方」という作品を中川信夫が監督していたことを発見したことが書かれている。
岸恵子の正式デビューは「我が家は楽し」(51年)になっているが、それ以前にも「真昼の円舞曲」(49年)などでロングのワンカットに出してもらったことはあったようだ。しかし、ちゃんとした出演はこの「アメリカ博覧会の一日」(おそらく50年の春休みに撮影)が初めてということになるようだ。
監督した池田浩郎によれば、両親(北龍二、望月優子)と娘がアメリカ博覧会を見に行くというものだったが、娘役に関しては池田が選んだ4~5人の女子の写真をCIEの担当者に見せたところ「女学生に見えないからNO」という返事だったという。困っていた時に思い出したのが岸と小園のことだった。本物の女学生なんだから大丈夫だろと、岸の写真を撮ってCIEの担当者に見せたところ、一発でOK、所長の髙村も「あれが使えるなら」とOKした。
で岸本人を呼んで話したところ、「あっちゃん(小園)と一緒ならいい」という返事であった。後ろめたさを感じるのか「私一人ではどうも」と言うので、池田は「わかった役をつくるよ」と小園をアメリカンライブラリーに勤務する娘役にして、二人が旧交を温めるという台本にしたという。
面白くなかったのが、実際に二人を可愛がっていた助監督の武田義晴で「出ないほうがいい」と止めたいうが、岸は「本読んで気に入ったから出たい」と突っぱねたという。
池田は、実際に動かしてみると岸はカンが鋭く、天才的な俳優の資質を持っていると感じたという。