新東宝俳優録50 池内淳子 その2
前回の続きである。新東宝に復帰した池内淳子であったが、新東宝の経営は悪化の一途をたどっていた。元々は現代劇中心の池内であったが、復帰後はアラカンや天城竜太郎主演の時代劇にも顔を出し、近江が監督する喜劇や、当然「女吸血鬼」「黒い乳房」など大蔵新東宝のエログロ路線にも出演している。
三原葉子や小畠絹子と共演しても池内がセクシーさを要求されることはなかった。若い頃から不思議とそういった場面が想像しにくい雰囲気があったといったら無礼だろうか。
60年に入ると映画の合間に日本テレビ「今日を生きる」、平行してフジテレビ「日々の背信」といった昼メロに主演したのだが、特に後者は26%という昼番組としては驚異的な視聴率を稼いだのである。よろめきドラマブームの口火をきり、彼女を茶の間のスターダムに押し上げたのであった。ちなみに演出は後に吉永小百合と結婚することになる岡田太郎であった。
このテレビで獲得した人気が気に入らなかったのが大蔵貢である。前述の「花嫁吸血魔」(60年)は、そのドラマの放映中に封切られたものである。池内が全身毛むくじゃらの怪物に変身し、自分を罠にはめた連中に復讐していく話だ。
このような役を与えたのは大蔵の嫌がらせだという説は強いが、当時の新東宝のエログロ路線では、このようなことは普通にあったので特別嫌がらせというわけではないという説もある。干して映画に出演させないという手もあるからだ。しかし、この頃大部屋の所属にまわされ、つまらない脇役ばかり振られるようになったというのは、嫌がらせのような気がしないでもない。
60年末、彼女の新東宝との契約が切れるというタイミングで大蔵が退陣に追い込まれている。
再契約をしないという選択肢もあったはずだが、そのまま契約を続け、結局半年後の新東宝倒産まで付き合ったのであった。復帰を認めてもらった恩に報いたかったのかもしれない。78年、大蔵の葬儀にも彼女は参列している。
新東宝倒産後は、引く手あまたとなったテレビ出演が中心となったが、映画の方も東宝系の東京映画から誘いがかかり、61年6月にテレビ出演OKを条件に専属契約を結んでいる。テレビの方は「女が階段を上る時」「その道は行き止まり」(61年)等に主演し、テレビの人気女優ナンバーワンとなり、62年には日本放送作家協会の女性演技者賞を受賞している。
映画の方も、東宝の「駅前」シリーズや「社長」シリーズなどに出演していたが、やはりテレビ界で確固たる地位を築きあげ、74年からは日本テレビと専属契約を結んだりしている(但し東芝日曜劇場と劇場映画は除く)。
2010年9月26日に76歳で亡くなったが、初主演の「新妻鏡」が公開されたのが1956年の9月26日であった。
さて次回からは、松竹か東宝の俳優録を始める予定である。
新東宝俳優録50 池内淳子
大映、東映俳優録とも50までだったので、新東宝も50まででいこうと思う。40以降はさしてネタもなくて困ったのだが、その50番目を飾るのは池内淳子である。あえてここで取り上げなくても良さそうな人は避けてきたのだが、新東宝時代の彼女については個人的には印象が薄いので選択することにした。
池内淳子の新東宝での代表作と問われると、あの「花嫁吸血魔」(60年)を挙げる人も多いのではないだろうか。他に「新妻鏡」(56年)くらいで意外と思いつかないのである(あくまで個人的に)。
池内淳子は33年生まれで、本名は中澤純子(すみこ)という。日本橋三越の呉服売り場に勤務していたところをスカウトされたように書かれることが多いが、正確には三越を退社した後の54年に「サンケイクラブ」のカーバーガールに応募して合格したのが、関係者の目に留まって新東宝入社の運びとなったのである。ちなみに同じ売り場にいたという前田通子がスカウトされたのも三越退社後の話である。
デビュー作は「皇太子の花嫁」(55年)で、役柄は皇太子花嫁候補の一人に起用された。三越入社にも反対したという池内の祖父は、当然映画出演にも反対し、池内自身もそれほど華やかな世界は好きではなかったため、当初は1本だけの約束だったというが、結局は会社側に説得されたのである。
翌56年には「新妻鏡」で高島忠夫と組んで初の主演に抜擢される。本作には前田通子も出演しているが、監督はその前田と恋愛関係となる志村敏夫であった。相手役としては、高島と宇津井健が多かった。宇津井主演の「鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)」(57年)でヒロインを演じたこともあった。その宇津井とは50年を経て「渡る世間は鬼ばかり」で共演することとなる。
56年11月に始まったニッポン放送の「おいらマドロス」でラジオに初出演するが、ここでの相手役が当時ジャズ歌手、ヴォードヴィリアンとして人気のあった柳沢真一であった。これをきっかけに交際が始まり、57年6月には婚約と芸能界引退を発表し、8月には新東宝を退社した。
57年11月に二人は結婚するが、その3カ月後には池内が実家に戻ることを強いられた。離婚は柳沢からの一方的な宣言だったらしいが、その真相が明かされることはなかった。正式な離婚は58年6月に成立、池内はこれ以降独身を貫きとおした。
復帰は素早く、10月公開の「珍日本道中・東日本の巻」に出演し、12月には正式に新東宝に復社したのである。結婚には反対していた大蔵貢がしぶしぶ容認したのは、実弟である近江俊郎の口添えがあったからだという。この間に映画界を追放状態になった前田通子も素直に頭を下げれば、復帰できたのであろうか。
長くなってきたので、次回に続く。
新東宝俳優録49 小倉繁
戦前は何本も主演作のある人気役者であったが、戦後は端役脇役に落ち着いた人は結構いると思うが小倉繁もそんな存在である。
小倉繁は1904年生まれ。25年に松竹蒲田に入社し、小津安二郎の「女房紛失」(28年)あたりから頭角を現し始める。
29年、ナンセンス喜劇を多く演出した斎藤寅次郎監督の「モダン怪談100,000,000」で国定忠治の幽霊を演じてから、ナンセンス喜劇の代表的な俳優となり、主演映画も何作か製作されている。そのチョビヒゲ姿から「和製チャップリン」と言われたが、個人的には情報を知らずに写真だけ見ると、ヒトラーを意識してるのかと思ってしまった。ちなみに小倉が蒲田で準幹部になったのと、ヒトラーがドイツで国家権力を掌握したのが、大体同じころである。
それはさておき、ナンセンス喜劇は37年頃に終わりを告げ、戦局の悪化などもあったが小倉はその後10年ほど映画に出演していない。
映画復帰は48年で、斎藤寅次郎監督の新東宝作品「誰がために金はある」で、主演は灰田勝彦、あきれたぼういずであった。小倉はそのまま新東宝に所属したが、かつてのように主演となることはなく、基本は脇役、端役が中心となった。
「若旦那の御縁談」(55年)で共演した阿部寿美子は小倉とのイキが合わなくて困ったという。監督の小森白から「小倉さんは蒲田喜劇の出なんだから芝居の質が違うんだ。相手のペースに合わせちゃダメ」と言われ、小倉のボケに乗らず自分のペースで演じてうまくいったと語っている。
月1本のペースで順調に映画出演を続けていた小倉は、58年も4月の時点で既に6本に出演していた。しかし、実はこの時ガンに冒されており、翌5月には亡くなっている。54歳の若さであった。遺作は「天下の副将軍 水戸漫遊記」で、その公開から丁度1カ月後の死であった。
小倉がガンの恐怖と痛みから狼狽している姿を見ていたというのが、仲が良かったという丹波哲郎であった。この小倉の姿を見たことが丹波が死後の世界に興味を持つきっかけになったという。
この小倉の息子が子役として活躍した青木放屁(冨廣)である。その異父兄が突貫小僧こと青木富夫で、要するに富夫の父は小倉ではないのである。富夫について撮影所に遊びに来ていた冨廣もスタッフの目にとまり、小津安二郎の「長屋紳士録」(47年)でデビューしている。太っていてプーちゃんと呼ばれていたことから「放屁」が芸名となっている。本人は意味を知っていたかどうか不明だが。
放屁は53年に引退し、その後は消息不明である。父・小倉繁は新東宝で約90本もの映画に出演しているのだが、早く亡くなったせいかほとんど注目されることも語られることもなかったりする。
新東宝俳優録48 安西郷子
三橋達也夫人として知られる安西郷子は東宝のイメージが強いと思うが、そのスタートは新東宝だったのである。
安西郷子は、34年生まれ。本名は住野町子(旧姓)という。50年にOSK(大阪松竹歌劇団)に入団。53年に川島雄三監督が松竹京都で「純潔革命」を撮ることになり、彼女も出演が決まっていたが、直前に病気で倒れて降板している。その代わりにSKDから呼ばれたのが草笛光子で、本作品でデビューを飾っている。
ところで、川島雄三といえば三橋達也であるが、当然のように「純潔革命」にも出演しており、安西は順調だったら映画デビュー作で三橋と出会うことになっていたわけである。二人の出会いがいつかは定かではないが、おそらく共に東宝所属となった57年以降である可能性が高い。ここで出会っていたら、安西の引退はもっと早かったかもしれない。
安西郷子は53年にOSKを退団し、新東宝に入社している。その8月「半処女」で映画デビュー。共演は左幸子、南風洋子らで結核で死んでいく女を演じたが、その日本人離れした美貌が評判を呼んだ。ハーフと思われがちだが、そうではないという。
新東宝では、「ハワイ珍道中」「力道山の鉄腕巨人」(54年)、「一寸法師」「風流交番日記」(55年)などに出演したが、56年に東宝の藤本真澄プロデューサーに誘われて東宝に移籍した。丁度、大蔵貢が新東宝社長に就任したのと入れ替わるような形であったが、これはたまたまそういうタイミングになっただけのようである。ちなみに三橋を東宝に誘ったのも藤本である。
東宝での1作目は横溝正史原作の「吸血蛾」で、命を狙われるモデルに扮した。金田一耕助役は池部良で、犯人役が有島一郎。監督は中川信夫だが、新東宝作品ではない。東宝では池部良や小泉博、小林桂樹との共演が多く、三橋との共演はあまりない。
初共演と思われるのが、三橋が日活を辞め、東京映画所属となっていた時の「その夜のひめごと」(57年)であると思われる。
最後の映画出演となったのは「筑豊のこどもたち」(60年)で、三橋も出演している。監督の内川清一郎は新東宝でのデビュー作「半処女」の監督でもあった。
61年3月三橋と結婚し引退したが、64年に粉ミルクのCMに長女と出演。これは寿美花代が出演していたCMだったが、家政婦にその長男(つまり高島政宏、政伸の兄)が殺される事件が発生した影響で降板したものだった。しかしその2カ月後、今度はCMに出演した三橋・安西夫妻の長女がベットから転落死するという事故が発生し、会社はタレントが出演するCMの製作を辞めたという。
02年12月、安西郷子は肝不全のため68歳で亡くなった。夫の三橋も約1年半後の04年5月に心筋梗塞のため80歳で没している。
新東宝俳優録47 天津七三郎
大映俳優録では、殺人を犯した女優として毛利郁子を紹介したが、彼女の場合は被害者にも非が認められたことや、その妻でさえ軽い刑を望んだこともあり、数年で出所している。
しかし、殺人で死刑になった俳優もいるのである。それが天津七三郎である。
あまり詳しいプロフィールはわからないが、35年生まれで本名は車與吉といい、実はそのスタートは新東宝なのである。
ネット上でデビューは56年となっているが、天津七三郎の名が確認できるのは57年の「幽霊沼の黄金」からである。映画サイト「Movie Walker」の解説では「5期ニューフェイスの瀬戸麗子、同じく天津七三郎」と書かれている。ニューフェイスじゃないスターレットだ、とツッコミたくなるが、この文は正しいという前提では天津は5期スターレットとということになる。5期スターレットの男優で明らかになっているのは伊達正三郎くらいなので、天津がそうでも不思議はない。ちなみに当時のポスター(広告)等では、瀬戸麗子(新スター)、天津七三郎(新人)とカッコ書きがついている。
期待はされていたかもしれないが、新東宝で確認できるのは「天皇・皇后と日清戦争」「毒蛇のお蘭」など7作ほどで特に大役はなく、翌58年末には松竹に移籍している。
松竹では10本ほどの映画に出演、テレビドラマでは松竹制作の「変幻三日月丸」(58~59年)にレギュラー出演している。ちなみに主演は松竹七人若衆の一人として売り出した中山大介であった。
しかし、ヒロポンの常用で検挙されてから仕事が激減し、映画「切腹」(62年)を最後に俳優を引退して実家のある仙台に戻っていた。スターといえるような実績はなかったが、本人はスター気取りで派手な生活を送るようになっていたといい、知人から借金を重ねては派手な暮らしを続けていた。
膨らんだ借金に困窮した天津は、顔見知りだった金融会社社長の息子(6歳)を身代金目的で誘拐することを計画した。64年12月、誘拐を決行したが、車中で泣き叫ぶ子どもが邪魔になって絞殺してしまう。しかし、身代金500万を要求し、その引き渡し現場で張り込んでいた捜査員に逮捕されたのである。
一審では無期懲役だったのが、二審では逆転死刑判決が言い渡された。逆転死刑というのはあまり聞かない気がするが、やはり誘拐殺人というのは罪が重いのである。69年に刑が確定し、74年に執行されたという。39歳であった。
ところで、「天津」は「あまつ」と読むと思っていたのだが、あるサイトでは「てんしん」と読んでいた。どちらが正しいかは判断材料がないので何ともいえないのである。
新東宝俳優録46 川部修詩(川部守一)
そして、以前ここでも紹介したが川部修詩のように慰問映画班、つまりリヤカーに機材を積んで各地で映画を上映して廻るという仕事をしていた者もいる。
川部修詩は22年生まれ。日大文学部芸術科映画美学専攻に在学中の43年の応召され無線暗号部隊に配属されるが後に、前述の慰問映画班に転属となる。44年学徒動員により大学は繰り上げ卒業となっている。
川部は終戦まもない45年10月には東宝に入社、江見も12月に入社しているという。初出演は池部良主演の「破戒」(46年)で川部守一の名で出演したが、東宝争議により公開は見送られている。
47年「十人の旗の会」らと共に新東宝に移る。つまり、新東宝誕生時からのメンバーである。市川崑がアーカイブを再編集した「東宝千一夜」(47年)には助監督の役で出演いている。
50年代には「キネマ旬報」の新人論壇に投稿を始め、それが掲載されたため、仕事を干されたという。元々脇役ではあったが、学生とか新聞記者とかの端役が続いた。56年の「ノイローゼ兄さんカッチリ娘」から守一を修詩に改称したが、執筆活動は辞めず「キネマ旬報」に川部の作品批評が掲載されていた。
以前紹介した川部の著書である「活狂エイガ学校」では、「怒濤の兄弟」(57年)の撮影で監督の志村敏夫と口ゲンカをして、しばらく干されたと書かれているが、記録上はこの時期に干された形跡はない。逆に志村の方が前田通子の騒動で、この時期に新東宝を去ることになっている。志村作品では「女真珠王の復讐」(56年)の後に、出演記録のない時期があるので、そちらとの記憶違いの可能性もある。
新東宝には、61年の倒産時まで在籍していたので、つまり最初から最後までいたわけである。しかし、端役脇役に終始したため、そのネームバリューは高くない。
倒産後はフリーとなり、テレビ出演が主となったが、大蔵映画制作などの成人映画にも出演。「0歳の女」(64年)や「艶説四谷怪談」(65年)では、初の主演も経験している。
70年には、出版社サンデーアートに入社し編集者に転向したが、73年には俳優業に復帰し、NHKの大河ドラマにも出演した。
83年には、初の著書である「B級巨匠論 中川信夫研究」を出しており、87年に出したのが前述の「活狂エイガ学校」である。
記録上は、92年頃までドラマ出演を続けており、06年に83歳で亡くなっている
新東宝俳優録45 五輪のバラ娘
それが「五輪のバラ娘」である。五輪と言ってもオリンピックではない。ハンサムタワーズといえば、菅原文太、高宮敬二、寺島達夫、吉田輝雄の四人組であることは有名だが、その女性版もつくろうということになり、五人のほぼ新人女優が選ばれ、そのユニットに名づけられたのが「五輪のバラ娘」という名なのである。
その個々の名は書かれていなかったが、五人で写った写真があり、苗字のみがそれぞれに書かれていた。そこから判断するとメンバーは星輝美、松原由美子、天草博子、花園あやめ、瀬川美智子であったようだ。
星以外知らない名前ばかりという意見も多いと思うが、いずれも新東宝の末期、59年頃に入社したと思われる女優陣である。新東宝スターレットの募集は5期までだったはずだが、その後に入社(58年)した星輝美は自分を6期であるという言い方をしている。また自分以外の四人はさらに後の7期であると述べている。
正式には募集していないと思われるので、内部的にそういう呼び方をしていたのか、星が個人的に思っていただけかはわからない。星以外の四人についてはそのプロフィールは一切不明である。
松原由美子は出演本数は多い。検索で15本出てきたが、それだけに端役も多い。星が主演の「少女妻恐るべき十六才」では、売春組織から抜け出そうとして殺される役である。
天草博子は10本出てくるが、彼女には1つ大役があった。「花嫁吸血魔」(60年)で、怪物に変身した池内淳子に殺される三人娘(天草、三田泰子、瀬戸麗子)の一人を演じている。これのみで覚えている人も多いかもしれない。
花園あやめは6本だが、半分は時代劇である。芸名も時代劇向けに付けられていると思われる。「御存知黒田ぶし決戦黒田城」ではヒロインを演じている。彼女のみテレビドラマデータベースで名前が1作だけだがひっかかる。「人形佐七捕物帳」(60年)で、主演は若柳敏三郎で、本ドラマには宇治みさ子、松本朝夫、鮎川浩、矢代京子、瀬戸麗子、日比野恵子、天知茂といった新東宝勢がレギュラーまたはゲスト出演していたようである。
瀬川美智子は写真では一番地味な顔立ちに見えるのだが、出演作も4作しか見当たらない。しかし「思春の波紋」という新東宝教育映画部作成の作品では星の友人役として出番も多いようである。
しかし、3人までは揃うのだが、5人全員が揃った作品はないようである。それでは売り出しようがない。ハンサムタワーズも四人が揃っている作品は2作しかないが、大蔵貢の退任で企画が停止してしまったのである。「五輪のバラ娘」も同じ理由かもしれない。星以外の四人については、新東宝倒産後の活動記録は見当たらないので、引退を余儀なくされたのかもしれない。東映に移った星輝美も一年程度で引退してしまったので「五輪のバラ娘」というフレーズも人々の記憶から消えてしまったのであろう。当時、PRされていたかどうかは不明だけれども。
新東宝俳優録44 坂東好太郎
坂東好太郎は1911年生まれ、本名を本間健太郎という。22年に澤村健太郎として初舞台を踏み、24年からは坂東好太郎を名乗っている。
31年、松竹下加茂撮影所に時代劇スターとして迎えられ、映画俳優に転じた。翌32年「世直し大明神」で主役デビューを果たし、この時の相手役であった飯塚敏子とは何度も共演し、35年には結婚することになる。高田浩吉や林長二郎(長谷川一夫)とともに、下加茂の三羽烏と呼ばれるようになり、多くの時代劇に出演した。37年には林長二郎が東宝に去り、下加茂のトップスターとなっている。
41年、戦時中の映画統制により下加茂作品は13本にまで減ってしまう。そんな中、夫婦で「報国劇団坂東好太郎一座」を組み、各地を慰問巡業している。
戦後は、48年に大映京都に入社。「木曾の天狗」では阪東妻三郎と共演している。大映では準主演、助演が中心となり、50~51年にかけては本名と一字違いの本間謙太郎を名乗っている。翌52年のアラカンと共演した「あばれ熨斗」からは坂東好太郎に戻しているが、その後の大映での主演はいずれも孫悟空を演じた「西遊記」「大暴れ孫悟空」(52年)、「殴り込み孫悟空」(54年)等にとどまっている。三本作られたので好評ではあったのだろうが、やはり孫悟空は二枚目が扮するより、エノケンや堺正章のような「猿っぽい」人の方が似合っていると思う。
55年からは日活に転じ、「甲武信獄伝奇」(56年)などに主演するが、日活は現代劇が中心なので「若いお巡りさん」など現代劇で助演をすることもあった。そして、58年からは新東宝に転じたのであった。
戦前の全盛期には六大スター(大河内、阪妻、寛寿郎、千恵蔵、右太衛門、長二郎)に次ぐ存在と言われていたが、ピークは過ぎていた感もあり、新東宝でもアラカンの助演に回ることが多かった。新東宝では「生首奉行と鬼大名」(60年)など主演は2本のみで、60年には東映に転じている。62年「まぼろし天狗」を最後に映画界を離れ、歌舞伎に復帰している。
戦前は松竹の顔であり、戦後は各社を転々とし新東宝には2年いただけなので、この「新東宝俳優録」に入れるのは適していないかもしれないが、新東宝にいたイメージは意外に強い気がするので、あえて入れてみた。
ちなみに、「坂」東好太郎であり、「阪」東妻三郎、や「板」東英二は字が違うので、注意しよう。
新東宝俳優録43 舟橋元
舟橋元は31年北海道生まれ。本名は舟橋澄(きよし)という。法政大学予科在学中の48年、東映の前身である東横映画の第1回ニューフェイス募集に合格し、大学を中退して同社に入社している。デビューは端役であったが、その年の「月光城の盗賊」であった。しかし。まもなく退社し、劇団ひばり座に入り舞台に出たりしていた。
50年、東映東京撮影所の太泉演技協団に入り、「きけわだつみの声」に出演、正式に東映東京に入社したのは52年のことである。そこで佐分利信が監督する「人生劇場」(二部作)で主役に抜擢される。「むぎめし学園」(53年)でも主演を得るが、この後フリーとなり、新東宝の「戦艦大和」(53年)に準主役で出演する。この後、東映の「早稲田大学」等に出演した後、新東宝と専属契約を結んだのである。短い間に黎明期の東映を出入りしているが、なじめなかったのか結局、新東宝にしばらく定着するのであった。
しかし、翌54年からは高島忠夫、宇津井健など新スターの台頭やその太めの巨体が災いしてか、主演は「巌ちゃん先生行状記 処女合戦」(54年)や「若人のうたごえ」「背広さんスカートさん」(56年)などにとどまり、脇に回ることも多くなっていった。
「雷電」(59年)では相撲取り(江戸嵐)の役なので、体形的には合っていたといえるが。体形といえば「弥次喜多珍道中」(60年)や「風雲新撰組」(61年)では、西郷隆盛の役をやったりしている。
新東宝には倒産目前まで在籍していたが、そんなに長くいたっけ?という印象である。特に58年あたりからは存在感が薄い気がする。
新東宝を離れてからは、テレビドラマを中心に活動していたが、古巣東映製作の「新撰組血風録」(65年)の近藤勇役で、栗塚旭や島田順司とともに人気を得た。ほぼ同じスタッフ、キャストで製作された「燃えよ剣」(70年)でも、当然近藤勇役であった。
基本的には、テレビはゲスト出演がほとんどなので、この近藤勇役で記憶に残っている人が多いかもしれない。その後は、大の酒好きがたたってか、糖尿病に苦しみ、最後の出演作となったNHKの少年ドラマシリーズ「コロッケ町のぼく」(73年)では、ほとんど視力を失っていたため、台本に顔をくっつけるようにして読んでいたという。夫人が説得して降板させ、新東宝の同僚でもあった中山昭二と交替している。このあと、療養生活に入ったが翌74年に亡くなっている。43歳の若さであった。
話はそれるが、映画データベースで検索すると「恐るべき女子学生 思春期前期」(64年)というピンク映画の製作者として舟橋元の名が出てくる。同一人物かどうかは確認できないが、ピンク映画の製作には意外な人が関わったりしているので、本人でも不思議ではない。
新東宝俳優録42 坊屋三郎
坊屋は1910年北海道生まれ。出生時の本名はは石川博であったが、まもなく養子に出され柴田俊英となっている。北海中学を経て、日本大学芸術学科に進み、在学中の32年からテナー歌手としてオペラに出演したりしていた。
36年に吉本興業に入社し、坊屋三郎を芸名としボードヴィリアンとして舞台にたつ。翌37年、同じ吉本の川田義雄(後に晴久)、芝利英と「あきれたぼういず」を結成する。芝利英は坊屋の実弟(本名・石川正)であり、芸名はシュバリエのもじりである。後に芝の北海中の同級生であった益田喜頓も加わってカルテットとなり、新しい形の歌謡漫談で大人気となり、ボーイズブームを呼んだ。
39年には斉藤寅次郎監督「ロッパの大久保彦左衛門」にグループで映画初出演を果たしている。
しかし、この年川田を除く三人は新興キネマ映画部に五倍のギャラで引き抜かれる。川田の代わりに山茶花究を加え第二次あきれたぼういずとして活動を始めた。ちなみに、吉本に残った川田はミルクブラザースを結成する。
第1時ほどの人気は得られず、43年にあきれたぼういずは解散。芝は応召され、45年に戦死したという。
47年の東宝「婿入り豪華船」で、坊屋、益田、山茶花が顔を揃えたのがきっかけで、三人であきれたぼういずを再結成している。グループとして、松竹、新東宝、大映、太泉、東映と各社の映画に出演していたが、52年にグループは解散し、それぞれが役者として活動するようになる。益田は日活の「刑事物語」シリーズの主演など、山茶花は黒澤明の「用心棒」での丑寅の親分など悪役としても活躍する。
坊屋は52年から東映の準所属となり、渡辺邦男監督に重用されるようになる。その渡辺が55年に新東宝に本部長として迎えられると、坊屋も翌56年からは新東宝専属となったのである。
新東宝では、専ら近江俊郎が監督する富士映画作品への出演が多い。「新妻の実力行使」(57年)では、素人探偵と密輸団のボスという二役で主演に抜擢されている。鳴門洋二の初主演作である「底抜け三平 危険大歓迎」(61年)を最後にフリーとなり、テレビでの活躍も多くなる。
74年松下電器の「クイントリックス」の外国人との掛け合いCMが人気となり、「英語でやってごらんよ。あんた外人だろ」は流行語にもなった。この年には「おしっこしたくなっちゃった」なるシングルレコードを出したりもしている。
実弟の芝利英や、かつての同僚の川田義雄(50歳没)、山茶花究(56歳没)が若くして亡くなったなか、益田と坊屋は長寿で、特に坊屋は「まだ生きてます」をネタにするくらいであった。02年に92歳で亡くなっている。