お宝映画・番組私的見聞録 -94ページ目

2016年回顧録 その1

例年、この時期はその年の回顧録をやっているので、今年もやってみたいと思う。と言っても、亡くなっった人を列記するに過ぎないのだけれども。
この2016年、この欄で取り上げるような人、つまり俳優・役者等で亡くなった人は少ないように思う。特に目立っているのは漫画家ではないだろうか。
神江里見(65歳)をはじめとして、聖日出夫(69歳)、ちば拓(56歳)、小山田いく(59歳)、望月三起也(77歳)、巴里夫(83歳)、高井研一郎(79歳)、たかや健二(61歳)などが亡くなっている。やはり、激務なのか60歳前後で亡くなる人が多いイメージがある。今年もちば、小山田、たかやなど少年誌を中心に活動していた人が早逝している。高井などは直前まで普通に連載を行っていたが、80直前だったとは驚きであった。
タレント放送作家とでもいうのだろうか。自らも番組で活躍した永六輔(83歳)、大橋巨泉(82歳)、はかま満緒(78歳)も今年である。永は7月7日、巨泉は7月12日とほぼ時を同じくして亡くなっている。2月に放送された「徹子の部屋」には、二人そろってゲスト出演していた。
永が初めて出演したラジオ番組は「昨日のつづき」(59年)という番組だが、早い段階で喧嘩別れをして、大橋巨泉と交代している。その巨泉と50年来の親友だったというのが、大平透(86歳)である。声優としてのイメージが強いが、元々はフリーアナウンサーで、54年のニッポン放送開局時には、フリーアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとしてドキュメンタリーを制作していたという。巨泉の亡くなる丁度三カ月前(4月12日)に肺炎で亡くなっている。
脚本家では、安倍徹郎(87歳)、松木ひろし(87歳)、大川久男(88歳)という同世代のベテラン勢が亡くなっている。
安倍は個人的には「必殺シリーズ」の脚本家として昔から知っている名前ではあった。早稲田大学出身で、卒業後はカストリ雑誌の編集部などを転々としていたが、ある時、大映脚本家養成所に入所し、池波正太郎の指導を受け、59年にデビューした。
松木は大学受験に失敗して、鎌倉アカデミアの映画科で学んでいる。54年ニッポン放送開局と同時に入社し、ラジオ番組の制作に携わる。フジテレビの開局に伴い出向し、演出だけでなく脚本も手掛けるようになる。デビュー作は「ぼうふら紳士」(60年)。
ホームドラマのコメディを得意とし、特に「パパと呼ばないで」「雑居時代」など70年代の石立鉄男主演ドラマのほとんどで、メイン脚本家として活躍した。
大川は代表作としては「ハイジ」や「ナディア」などのアニメ作品がピックアップされるが、脚本は菊島隆三に学んでいる。小林旭の渡り鳥シリーズには脚色として参加していた。次回に続く。

新東宝俳優録32 鮎川浩、小高まさる

若山富三郎主演の新東宝版「人形佐七捕物帖」シリーズ(56~58年)で、その手下である辰五郎と豆六を演じているのが鮎川浩と小高まさるである。
鮎川浩は24年生まれで、本名を熊木中庸(クマキチュウヨウ)という。雑誌「スタア」のスタア社に数カ月勤務ののち、47年に新東宝に入社した。つまり、かなり初期の段階から在籍していたわけである。
悪役をやることもあるが、どちらかと言えばコメディ向けの容姿だと思う。基本脇役の中で、前述の辰五郎役も大役といえるが、一番の大役といえそうなのが、「新日本珍道中・西日本の巻」(58年)での宇津井健の相棒の記者役ではないだろうか。この作品は、新東宝創立十周年記念のオールスター映画なのである。
簡単に言えば、新聞記者が二組に分かれ取材合戦を繰り広げるというもので、表日本担当が高島忠夫と坊屋三郎に対して、裏日本担当が宇津井健と鮎川浩なのである。二階堂卓也「新東宝・大蔵 怪奇とエロスの映画史」には、「裏班は精彩をかき、地味で知名度もない鮎川は社長役の由利徹に『お前なんつたっけ』とからかわれている」などと書かれている。まあ、坊屋三郎に対抗するなら、その由利徹あたりじゃないとつり合いはとれない気がする。オールスター映画でなければ鮎川で全然OKだと思うが。
ちなみに裏日本とは、大雑把に言うとに日本海側のことをさすが、差別的意味が含まれる(と感じる人もいる)とのことから、60年代半ばから使用されなくなっている言葉である。
鮎川は新東宝倒産後は、フリーとなってテレビを中心に活動している。
小高まさるは28年生まれで、本名はそのまま小高優である。ちなみにオダカではなくコダカである。
子役出身で、小学校三年の37年、新興キネマ大泉撮影所に入り、翌38年に東宝入社。「幼き者の旗」(39年)では主役を演じている。44年に松竹大船に移り、戦後は法政大学に進学するが中退して俳優に戻っている。
新東宝入りは54年のことであるが、身長は子役時代からあまり成長せず、非常に小柄であった。鮎川以上に脇役、端役が多く、一番の大役はと言えば、やはり前述の「人形佐七」シリーズの豆六役ということになるだろうか。
小高も新東宝倒産後は、テレビを中心に活動していた。ウルトラシリーズなど円谷プロの特撮ドラマへの出演が意外ながら目立つ。まあ、警官とか工事作業員とか名もなき役がほとんどだが。
77年頃に芸能界を離れ、以降は麻雀屋を経営していたという(現状は不明だが)。

新東宝俳優録31 松原緑郎(松原光二、松原浩二)

新東宝最後のスターといえそうなのが、女優なら三条魔子、男優なら松原緑郎ということになろうか。
松原緑郎に関しては詳しいプロフィールはわからず、37年生まれで明治学院大学を中退し、59年に新東宝入社ということくらいしか判明していない。入社経緯も不明だが、おそらくはスカウトであろう。
デビュー作と思われる「0線の女狼群」(60年)こそ端役であったが、その後「男が血を見た時」「太陽と血と砂」「激闘地平線」(いずれも60年)と立て続けに主役を得ている。いずれも共演は三ツ矢歌子である。
新東宝が三ツ矢とのコンビで売り出そうとしていたかどうかは不明だが、年齢はほぼ同じ(三ツ矢が1つ上)で悪い組み合わせではない。しかし、大蔵が退陣した翌月に三ツ矢は小野田嘉幹監督と結婚し、新東宝を一足早く離れている。
61年に入っても松原は「桃色の超特急」「私は嘘を申しません」などで主演または準主演を得ていたが、新東宝は倒産してしまう。
松原が星輝美と共に主演した「狂熱の果て」は、6本のみで消滅した大宝から配給されたりしているし、やはり星輝美とコンビの「俺が裁くんだ」は、62年になって日活で公開されたりしている。
新東宝倒産直後に放送されたドラマ「恐怖のミイラ」(61年)では、多くの新東宝出身俳優が起用されているが、主演は松原で、ヒロインが三条魔子。松原の姉が若杉嘉津子、他にも舟橋元や川部修詩、泉田洋志などが出演し、三原葉子もゲストで出演している。
倒産後の松原はハンサムタワーズのメンバー共に松竹に移籍している。三上真一郎によれば、その初日は松竹大船に松原とハンサムタワーズの三人(寺島を除く)が一緒に現れたという。しかし、重用されたのは吉田輝雄と寺島達夫だけで、菅原文太や松原は脇役に終始することになる。
当初は松原緑郎のまま活動していたが、63年途中に松原浩二と改名している。移籍していきなり松原光二になったように書かれている資料が多いが、実はワンクッションあったのである。「日本映画人改名・別称事典」にも載っているし、実際に「松原浩二」のクレジットを見たこともある。少なくとも64年まではこの名前である。
正確な時期は不明だが、松竹に見切りをつけ、65年からはテレビを中心の活動とし、この際に芸名を松原光二に改めたようだ。ちなみに彼の本名は松原光一という。ここまで来たら本名でいいじゃんとも思うが、やはり佐田啓二、鶴田浩二、高橋貞二、菅原謙二(後に謙次)など「二」のついた俳優が売れていたからだろうか。同じパターンで、今井健二が当初は本名が俊一のところ俊二を名乗っていたし、俳優ではないが、円谷英二が本名が英一のところを尊敬する叔父が一郎だったため、遠慮して英二を名乗ったという例もある。
そんな中、66年には「特別機動捜査隊」に立石班6番目の男・松山刑事役でレギュラーに抜擢。前回も書いたが新東宝出身俳優が多くレギュラーまたはゲスト出演しているドラマである。
レギュラーとして安定していたが、69年に「プロフェッショナル」というアクションドラマの主演に抜擢されたことから、「特捜隊」を降板したのだが、蓋を開けると「プロフェッショナル」は迷走し、松原や地井武男、天田俊明らが18話で降板となり、タイトルを「ヤングアクション プロフェッショナル」に、キャストを森次浩司、佐藤英夫らに変え、26話まで放送された。
71年に一時的に「特捜隊」に復帰しているが、かつてのレギュラー陣がほぼ降板した直後で、里見浩太朗の高倉主任初登場の回を最後に姿を消している。
その後は、「プレイガール」や「遠山の金さん」など東映系にドラマにゲスト出演していたが、70年代後半には見かけることもなくなってしまう。
新東宝がもう少し長く続いていれば、もっと活躍できた俳優のような気がするのである。

新東宝俳優録30 村上不二夫(三村恭二、三村俊夫)

芸能界で長く活躍しているが、新東宝時代の印象が薄いのが村上不二夫である。
村上不二夫は28年生まれで、本名が深浦不二夫。高倉健、山本麟一、今井健二ら多くの東映ニューフェイスを輩出した明治大学商学部の出身である。
大学卒業後は商社に勤務していたが、父親と撮影監督の三村明の妹が知り合いだったという縁で、三村にスカウトされ53年末に新東宝と契約した。
当初の芸名は三村恭二で、むろん三村明にちなんだ名前であろう。いくつかの端役出演を経て本格的デビュー作といえるのが「月の光」(54年)である。まだ、大蔵就任前であり、主演は雪村いづみである。57年途中に芸名を三村俊夫に改め、58年8月に新東宝との契約を解除している。
この三村恭二、俊夫時代に30本くらいの映画に出演しているのだが、何に出演しているかと問われても、パっとは出てこないのではないだろうか。本ブログのサブタイも、新東宝時代の芸名にしようと思ったのだが、三村恭二や三村俊夫ではピンと来る人は、ほとんどいないかもと思い、知名度のある村上不二夫を優先したのである。
さて、新東宝を辞めた三村俊夫(当時)は、11月スタートした日本テレビの「遊星王子」(58~59年)で主役に抜擢されている。経緯は不明だが、テレビとはいえ主役に抜擢されたから新東宝を辞めたのであろう。「遊星王子」は「月光仮面」でお馴染みの宣弘社が放った2作目のテレビシリーズである。脚本家・伊上勝のデビュー作でもある。
三村俊夫は当時は30歳。格好良かったのかと言えば、後の印象とあまり変わりがないというのが正解だと思う。コスチュームのせいもあろうが、若干メタボに見える体形は、とてもヒーローのそれとは思えなかった。加えて、ファイティングポーズというか動きが、とても珍妙でサマになっていないのである。
ちなみに東映でやった「遊星王子」の映画版では、新人だった梅宮辰夫が王子を演じている。こちらは普通にカッコ良い。
「遊星王子」が終わった59年12月に大映東京と契約し、永田雅一社長の要望により。芸名が村上不二夫になったという。現代劇のみならず時代劇にも顔を出したりしているが、大映での立ち位置は新東宝時代と大きくは変わらず、メイン級の役に付くことはあまりなかった。67年に大映を退社し、以降はテレビに活動の中心をおくことになる。
印象に深いの「特別機動捜査隊」の村上記者役。この番組は中山昭二、伊達正三郎、松原光二など元新東宝の役者がレギュラーの刑事として出演していたが、村上記者も準レギュラーとして4年ほど出演し、時には彼が主役と言うようなエピソードもあった。
この記者のイメージが強かったからというわけではないだろうが、後にワイドショーのレポーターとして活躍するようになる。大体の人はこのレポーターとしての村上不二夫のイメージが強いのではないだろうか。新東宝でも大映でも脇役だったにもかかわらず、成功したといえる存在であろう。

新東宝俳優録29 沖竜次(沖啓二、高須賀忍)

新東宝の末期に活躍した俳優に沖竜次がいる。
亡くなった時の年齢から28年生まれで、詳しいプロフィールはほぼ不明だが、第7期東宝ニューフェイスだったようである。デビュー時は守谷竜次を名乗っていたようだ。その後、沖啓二と改名。守谷で検索しても作品は見つからないが、沖啓二で調べると「月に飛ぶ雁」(55年)が最初の作品として出てくる。
「幽霊タクシー」(56年)や「ぶっつけ本番」(58年)等に出演しているが、基本的には端役だったようである。個人的にもこの名前を東宝作品で見かけた記憶はない。
新東宝に移ったのは59年だったらしく、「海女の化物屋敷」に沖啓二の名が登場する。翌59年の石井輝男監督の「黄線地帯」から沖竜次に改名したあたりから、目立つ役がつくようになり、「女王蜂と大学の竜」あたりではクレジットも前の方にされるようになっている(ここでは6番目)。
石井輝雄作品で重用されるようになり、新東宝末期の61年「恋愛ズバリ講座・第三話」では、ほぼ主役の結婚詐欺師を演じている。そして石井作品ではないが「地平線がギラギラっ」で、演じた脱獄犯の一人が、沖竜次としては最も知られている役ではないだろうか。
やっとクローズアップされてきたところで新東宝は倒産。東映に移り、「太平洋のGメン」など、やはり東映に移った石井の作品に顔を出している。
テレビにも出演するようになり、新東宝出身の三輪彰が監督していた「昨日の雲は帰ってこない」(63年)という昼メロで、高須賀という役を演じていたのである。放映していたTBSから名前を変えろと言われ、高須賀忍になったのだという。
新東宝仲間の御木本伸介が主演した「柔道一代」(62~64年)には、高須賀もそのライバル役で出演し人気となっていたが、最終回収録後の64年9月に悲劇が起きる。
ここでも何度か書いているが、若松孝二監督の「誤審」という映画に出演。福島ロケで赤尾関三蔵と手錠に繋がれて川を渡るシーンがあったが、前日の台風で増水しており、二人は川に流され死亡したのである。高須賀は36歳、赤尾関は33歳であった。
前述の三輪彰はその数日前に高須賀と国際放映の食堂でバッタリ会って話をしたという。彼は「掛け持ちはしたくないが結婚したばかりで稼がなきゃいけないんです」と言っていたという。三輪は「掛け持ちはしない方がいいんじゃないか」と軽く否定したが、もっと強く言っておけばよかったと後悔したという。
実は三輪は「夜の配当」というドラマを高須賀主演で撮っていたのである。高須賀忍こと沖竜次、最初で最後の主演作品は翌65年に全4回で放送されたようである。

新東宝俳優録28 三条魔子(シークレットフェイス)

新東宝ほぼ最後の大型新人女優といえるのが、「シークレットフェイス」こと三条魔子である。
三条魔子は、43年生まれで本名は辻井洋子という。高校二年在学中の59年8月、フランス映画「女猫」公開にちなんで募集されたミス女猫に選ばれたのがきっかけで、高校を中退して59年10月に新東宝に入社したのである。
新東宝は大型新人ということで売り出し方にこり、画面には登場するが名前は「シークレットフェイス」として発表された。閥に覆面をかぶっているわけではなく、画面に顔は出てるんだから「シークレットネーム」だろという突っ込みは当時からあったと思うが、フェイスと謳った方が話題にはなりそうである。
しかし、そのデビュー作に選ばれたのが「金語楼の海軍大将」(59年12月)なのである。怪しげな名前で売り出すからには、新東宝お得意の怪しげな作品の方が良いと思うのだけれども。
翌60年1月に公開された小畑絹子主演の「0線の女狼群」では、シークレットフェイスの名がクレジットされているが、実は同じ月に公開された「大虐殺」では、三条魔子でクレジットされているという。
かと思うえば、翌2月公開の「爆弾を抱く女怪盗」でも三条魔子だがシークレットフェイスと明記されているという。まあ、明記してくれないと三条魔子=シークレットフェイスだとわからないだろう。同月公開の「地下帝国の死刑室」では、シークレットフェイスだが、新聞広告では三条魔子になっていたという。一貫性がないのである。ちなみにこの作品では彼女は殺される役だ。
シークレットフェイス名義が使われたのが、以上が全部のようで、次の彼女の出演作である菅原文太主演「美男買います」では、三条魔子名義で、以降は三条魔子である。この作品ではヒロインで文太と結ばれる役だ。
三条魔子という芸名は、三原葉子や三ツ矢歌子など三○○子という名前が、新東宝ではゲンがいいから付けられた名前ではないだろうか。三田泰子とか三重明子なんかもいるし。「肉体の野獣」(60年)では、三田泰子、三条魔子、三原葉子が共演し、三人の名がポスターとかで並んでいたりした。
星輝美によれば、同じ十代ということもあってか三条魔子とは仲が良かったといい、星にべったりだった菅原文太、そして女優にモテたという監督の小林悟と4人で良く遊んでいたという。三条や星は当時の新東宝女優では一番若かったのではないだろうか。
新東宝が倒産すると、三条は大映に移籍する。橋幸夫主演「江梨子」(62年)という作品で、ヒロインの江梨子を演じることになり、芸名も三条江梨子に改名している。この62年には歌手としてもデビューし、浜田光夫とのデュエット曲「草笛を吹こうよ」がヒットしたことから64年に大映を退社し、歌手に転向したのである。
しかし、67年に大映レコードに移籍すると、芸名を三条魔子に戻して「三匹の女賭博師」で女優復帰した。71年、大映が倒産に伴い芸能界を引退している。所属した映画会社がどちらも倒産の憂き目にあったわけである。ハワイで日経三世と結婚し、現在はラスベガスにいるらしい。

新東宝俳優録27 高倉みゆき

大蔵貢の愛人と言われたことで、世間の記憶に残っているのが高倉みゆきである。
高倉みゆきは34年生まれで、本名は和田道子(旧姓)。市立銚子高校卒業後の53年、東宝に入社するが大部屋暮らしで、役らしい役がつかず、55年東映京都に移籍する。「紅孔雀」5部作で本名のまま脇役として本格的なデビューを果たす。「百面童子」(55年)など、東映娯楽版と言われる時代劇への出演が多かった。
しかし役には恵まれず、女優を辞めようかと思い始めた57年6月にアジア映画祭のパーティにホステス役で出席したところを、大蔵貢にスカウトされ、翌7月に新東宝に移籍したのであった。そして「戦雲アジアの女王」(野村浩将監督)で、いきなりの主演を飾るのである。
最初、新東宝本社に呼ばれた高倉は大蔵にプレゼントを渡され、仕事の話をしなかったので「何か誤解している」と入社をためらったという。野村監督には「もし仕事中に社長が変なことをいったら、直ぐに辞めて帰ってもいい」と言われたという。しかし、大蔵は「その気」だったのである。
続く「天皇・皇后と日清戦争」(58年)でも昭憲皇后役に抜擢。明治天皇役の嵐寛寿郎は「事実と違いすぎる」とこのキャスティングには反対したという。アラカンと高倉では30歳以上の年齢差があったが、実際は皇后の方が年上だったからである。しかし、大蔵はそれを突っぱね高倉で強行する。高倉は「皇后女優」と言われるようになったが、それは、やがて「大蔵天皇」に対しての意味になっていった。
「新東宝秘話・泉田洋志の世界」によれば、彼女のもとには、大蔵から時計、ネックレス、指輪など次々と贈り物が届けられたという。彼女の出演するセットにも連日、大蔵は現れ監督そっちのけで演出を加えたりする。しかも五時になれば、彼女を夕食に連れて行ってしまうので、その日の撮影も終了せざるを得なかったという状況であった。
大蔵の行動がエスカレートする中、母娘二人暮らしだった高倉の母がガンで死亡する。その通夜の席でも大蔵は彼女に関係を迫って口説いたところ、当然ながら高倉は「今はそんなことを考える余裕はありません」と拒絶したのである。
すると大蔵は本社にマスコミを集めて記者会見を開き、既に噂にはなっていた高倉との関係を一方的に発表したのである。それが有名な「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」という発言である。
これらのことから、高倉みゆきは大蔵の愛人だったという話が定着してしまったが、星輝美や泉田洋志などは高倉について「マジメでとても心優しいいい人だった」といい、男女関係はなく、あくまでも大蔵の一方通行だったと証言している。大蔵からの貢ぎ物などは、断り切れなかったということであろう。
高倉みゆきは名誉棄損で告訴することも考えたというが、時間と金のかかる裁判のことを考え断念したという。それで、世間は彼女が大蔵のいったことを黙認したと捉えたのである。本当に男女関係がなかったかどうかは知る由もないが、なかったからこそ、大蔵が必死になっていたのではと考えた方が辻褄はあう。
この後、高倉は新東宝を退社、フリーとなり細々と女優を続けていた。64年には日本テレビの出版部長と結婚し、69年に引退したようである。

新東宝俳優録26 大空真弓

新東宝出身(大蔵時代)なのが、意外に思える女優といえばまずは池内淳子、そして大空真弓といったところだろうか。
大空真弓は40年生まれ。本名は中田佐智子(旧姓)という。東洋音楽高校2年の時に、新東宝スカウトマンの目に留まり、高校卒業した58年に新東宝に入社している。
このさわやかな芸名を付けたのが大蔵貢らしい。一応意味があり、「大」は大蔵の大、「空」は美空ひばりの空、「真弓」は大蔵の娘の名前をもらって命名されたとのこと。大蔵の力の入れ方からも期待の存在だったことがわかる。しかも、デビューする前から58年度のポスターに同社のトップクラスと名を連ねていたという。
デビュー作は近江俊郎監督の富士映画「坊ちゃん天国」(58年)で、主演の高島忠夫の妹役であった。それ以来、この坊ちゃんシリーズには多く出演している。本作には三木のり平や清川虹子、藤村有弘なんかも出演している。
ちなみに公開日は58年1月で、前回の小畑絹子の新東宝デビュー作「女の防波堤」とほぼ同じ時期である。
初年度は大蔵も本体のエログロ路線には出演させたくなかったのか、高島主演の富士映画への出演が多い。しかし、本体への出演が全くなかったわけではなく「汚れた肉体聖女」(58年)なんていうのにも出演している。修道尼の学園が舞台で、大空真弓と高倉みゆきが同性愛の末、心中してしまうというような話で、タイトルやプロットはいろいろ想像させるが、出演者が出演者なので。
58年度は十本に出演する活躍で、58年度の製作者協会新人賞を受賞している。これは各社1名づつといった感じのようだが、翌59年に新東宝で受賞したのは星輝美であった。
出演者クレジットは2番目が多かったが、「十代の曲り角」(59年)で、単独初主演を得る。富士映画だが、女番長になった大空が売春組織から不良少女を救うという話である。「大学の御令嬢」(59年)も主演だが、何故かフィリピンからの留学生という設定だ。本作では初めてハンサムタワーズの4人(菅原文太、吉田輝雄、高宮敬二、寺島達夫)が向かいの下宿屋に住む大学生4人組として顔を揃えている。
大空真弓はこのころ並行してテレビにも出演しており、日曜劇場「カミさんと私」(59年)ではプロデューサーの石井ふく子と出会っている。
新東宝倒産後は、東宝系の東京映画と専属契約を結び、「駅前シリーズ」などに出演していた。
彼女の人気を決定づけたのは、映画よりもドラマの「愛と死を見つめて」(64年)で主演の軟骨肉腫の女子大生を演じてからである(Pは石井ふく子)。テレビでの活躍が多く、新東宝女優のイメージは薄れていったと思われる。
ちなみに「時間ですよ」の第一シリーズ(70年)で、当初、松の湯の息子一郎(松山英太郎)の嫁を演じていたのは大空である。しかし、わずか7話で降板。確か妊娠出産のためだったと聞いている(もちろん相手は勝呂誉のはず)。8話から代役として登場したのが松原智恵子だったのである。シリーズは長く続き、完全に松原智恵子のイメージになってしまったけれども。
このときの大空の腹の中の息子が後にいろいろとやらかすのである。

新東宝俳優録25 小畑絹子(小畠絹子)、斎藤千弥子(斎藤チヤ子)

58年に彗星のごとく現れ大活躍したのが小畑絹子である。
新人には違いないのだが、31年生まれなので、当時27歳。スターレット1期生の久保菜穂子(32年生まれ)や三原葉子(33年生まれ)よりも年長である。生家は赤坂の元子爵家で、本名は大久保禮子。高校卒業後は鏑木汽船という会社でOLをやっていたが、スカウトされ教育映画に出演することになる。
秀英社スミダプロの「えんぴつ泥棒」(57年)で女教師役でいきなりの主演。続く新映プロ「愛の星座」(57年)でも女教師役で、こちらも主演であった。芸名は木崎伸子といい、どちらも監督は中川順夫で、中川信夫ではない。後者の「愛の星座」が何故か新東宝で配給されることになり、試写を見た大蔵貢が彼女を気に入り同年、新東宝に入社することになったのである。
新東宝でのデビュー作は「女の防波堤」(58年)で、芸名は小畑絹子となり、これもいきなりの主演であった。それまでのお堅い教師役から一転、いきなりの特殊慰安婦役である。その後も「薔薇と女拳銃王」「毒蛇のお蘭」(58年)と主演が続き、新東宝エログロ路線のエース的存在に躍り出るのであった。かと思えば、「母恋鳥」(制作は中川プロ)で得意の?女教師役をやったりもしていた。
以降も「水戸黄門とあばれ姫」(59年)、「0線の女狼群」「黒い乳房」(60年)などでも主演を務めたが、61年の新東宝倒産とともにフリーとなっている。
活動の中心をテレビとしたが、映画の方も63年に松竹と優先本数契約を結び、「一〇〇万人の娘たち」(63年)「ケチまるだし」(64年)などに出演、「お座敷小唄」(65年)から芸名を小畠絹子に改めた。67年に松竹と解約した後は、日活や東映の映画にも出演している。
テレビの方も個人的には、あまり見た記憶はないのだが、現代劇時代劇問わず数多くのドラマに顔を出している。芸名の方も80年代に小畠きぬ子から小畠キヌ子と表記が変化し、90年代にまた小畠絹子に戻したようである。記録上は02年までの活動が確認できる。
小畠絹子が新東宝デビューを飾った「女の防波堤」で、やはり映画デビューしたのが斎藤チヤ子(当時は本名の千弥子)である。16歳の女子高生だったが、スカウトされ学校は通ったまま端役ではあるが出演にいたっている。しかし、元々はウエスタン歌手を目指しており、59年にウエスタンカーニバルに出演したところ1位となり、これを機に新東宝は退社している。わずか1年余りで、ほとんど端役であったため、彼女のスタートが新東宝だったことを知る人は少ないと思われる。
61年に歌手デビューし、芸名を千弥子からチヤ子としたが、その美貌とスタイルを買われて女優としてのオファーが増えていき、次第に歌手活動より女優活動に重きを置くようになっていった。本数は多くないが、67~69年にかけては日活映画によく顔を出している。
彼女で有名なのは、円谷プロの特撮ドラマ「怪奇大作戦」(69年)の実相寺昭雄監督の25話「京都買います」ではないだろうか。個人的にもここでの印象が強い。
彼女の活動記録は70年以降は見当たらず(歌手としても)、69年いっぱいで芸能界を退いたのではと思われる。

新東宝俳優録24 星輝美(+菅原文太)

前回、ちょっと話題が出たところで星輝美である。彼女については以前書いたことがあるので、重複する部分もあるかもしれないが、まあその辺は容赦願いたい。
星輝美は名古屋生まれで、本名は鎌倉はるみ。まだ中学生だった時に近鉄の社内で新東宝のプロデューサーである佐川滉にスカウトされたという。
中学の夏休みの時に、佐川に「撮影を見学にいらっしゃい」と言われ、上京して見に行くと急遽「花売り娘で歩きなさい」と言われワンシーン出演しているのが、石井輝男の監督デビュー作でもある「リングの王者 栄光の世界」(57年)である。
「日本映画俳優全集・女優編」では41年生まれとなっているが、それだと中学生としての年齢が合わないので、42年か43年生まれではないだろうか。まあ病気その他でずれるケースもあり得るけれども。
そうこうしているうちに彼女の友人が日活の津川雅彦の相手役募集に勝手に写真を送ったのだという。スターになった人には、何故かこの手のエピソードが多い。そして最終選考まで清水まゆみと共に残ってしまったのである。佐川に相談したら「日活で1年武者修行していらっしゃい」と言われたので、日活に1年いることになったのである。
津川主演の「月下の若武者」(57年)が日活女優デビュー作となったが、基本的には大部屋的な扱いでチョイ役ばかりだったという。ちなみに本名の鎌倉はるみで出演していた。翌58年、佐川から「そろそろ帰ってきた方がいいんじゃないか」と言われ、大蔵貢が日活の堀久作社長とかけ合い、日活を円満退社で新東宝に復帰?したのである。まあ、日活では目立たなかったので、あっさりと返されたが、「同期」の清水まゆみが後にスター女優になったように、星輝美もそのまま日活にいたらどうなっていただろうか。
58年8月、新東宝に正式入社し、大蔵から星輝美の芸名をもらったのである。新東宝での正式デビュー作となったのは「女王蜂の怒り」(58年)だが、実は三ツ矢歌子がやるはずだった役を大蔵が強引に切り替えたのだという。三ツ矢はスタッフ陣にも人気があり、石井のお気に入りでもあったので、現場では星にきつかったらしい。その後も結構、石井作品には出演しているが大蔵に言われて嫌々出ていたという。
大蔵は高倉みゆきはもちろん、星輝美もお気に入りだったようだが、世間的には人気のあった前田通子や三ツ矢歌子は、さほど気に入ってはいなかったように思える。もう一人、本作で共演の菅原文太も星が大のお気に入りだったようだ。年齢的には文太が7~8歳上だが、新東宝入社はほぼ同時期ということもあり、仲はよかったようである。
文太は自分の仕事がない時は、いつも彼女を迎えに行っていたというし、彼女の撮影が終わるまでは自分は絶対に帰らなかったという。二人は結婚するのでは、という噂まで出ていたらしい。
96年に行われたインタビューで星は新東宝時代の思い出はと聞かれ「やっぱり文ちゃん(菅原文太)かな」などと答えているので、まんざらでもなかったのだろう。
星は新東宝倒産後は、東映に移籍したが3本ほどの出演であっさりと引退している。