お宝映画・番組私的見聞録 -96ページ目

新東宝俳優録13 杉寛、林寛

前回、杉江廣太郎の話題が出たところで、その父である杉寛を取り上げたい。新東宝には林寛という役者もいて、混同している人もいるのではないだろうか。杉寛は1889年生まれで、「すぎ・かん」と読むが、林寛は1905年生まれで、「はやし・ひろし」と読む。どちらも明治生まれのベテランだが、年齢は16歳離れており、寛の読み方も違う。
杉寛は本名を杉山寛治。だから略して杉寛なのだろう。元々はオペラ歌手であり、浅草オペラの花形として活躍していた。23年の関東大震災の時は、「カチカチ山」の公演中で、狸の扮装のまま逃げ出し助かったという。
その後、オペラ界を離れ、35年に古川緑波一座に参加し、37年PCL(東宝)の「良人の貞操」で映画デビューしたが、既に48歳であった。戦後の48年から新東宝に移籍。年齢的にも老人とか住職といった役柄が多かった。
あの「七人の侍」(54年)にも、茶屋の亭主という役で出演している。記録上最後となっているのは、新東宝倒産の翌62年に出演した「重役候補生№1」で、主演の高島忠夫の祖父役であった。祖母役が五月藤江なので、元新東宝トリオによる共演であった。ちなみに、本作は1週間しか公開されず、ソフト化もされていないという、中々見ることのできない作品のようだ。
杉寛は74年に84歳で亡くなっている。
林寛は上記のとおり、「はやし・ひろし」と読むが、極東映画に同じ字で「はやし・かん」と読む俳優がおり、日活や東宝で活躍した林幹という俳優もいるのでややこしい。
さて、林寛は本名は稲垣吾郎ならぬ稲垣三郎で、東京オペラ座、石井獏一座、松旭斎天華一座など舞台の実演畑を渡り歩いていた。その後、杉寛と同じように古川緑波一座に加入し、緑波の主演映画に脇役で出演していたという。39年に日活多摩川に転じ、「風の又三郎」(40年)などに出演している。
新東宝入りは55年のこと。「明治天皇と日露大戦争」(57年)、「天皇・皇后と日清戦争」(58年)、「明治大帝と乃木将軍」(59年)で明治天皇を演じたのはいずれもアラカンこと嵐寛寿郎だったが、乃木希典はいずれも林寛が演じていた。「明治大帝と乃木将軍」などはタイトルにもなっているくらいなので、アラカンと並んで主役だったといえる。
中川信夫が監督する作品にもよく出演しており、「地獄」(60年)では、釜茹でにされたり、皮剥ぎの刑にされたりしている。後者では本物の豚の臓物の中に埋められたりして、本当に怒っていたという。
新東宝には、倒産時まで在籍しており、それ以降は主に大映京都の作品に出演することが多かった。亡くなったのは71年で、杉寛より早く亡くなっているのである。66歳であった。

新東宝俳優録12 杉江廣太郎(杉山弘太郎)、江畑絢子(+第3期新東宝スターレット)

54年に入社した第3期新東宝スターレットで判明している顔ぶれは、杉江廣太郎(杉江弘)、江畑絢子、三重明子、浜野桂子といったところである。
まあ、杉江、江畑あたりはわかる人も多いと思うが、三重、浜野のあたりがわかる人は、かなりの新東宝通といえるかもしれない。
杉江廣太郎は、32年生まれ。大学卒業後に入社している。新東宝のほぼ初期から末期まで在籍していた杉寛の長男である。多かれ少なかれ、そのコネはあったのかもしれない。
デビューは「次郎物語」(55年)。新東宝時代は本名の杉山弘太郎名義であった。父の杉寛も出演している。ちなみに41年版の「次郎物語」で、次郎を演じている杉幸彦(幼年時代)、杉裕之(少年時代)は杉狂児の息子たちである。
新東宝には倒産時まで在籍。杉山弘太郎としてはさほど大きな役を演じていないが、「風雲急なり大阪城 真田十勇士総進撃」(57年)では十勇士の一人・由利鎌之助、「風雲新撰組」(61年)では、沖田総司の役を演じている。
倒産後は日活に移り杉江弘と改名し、68年から杉江廣太郎を名乗るようになった。この日活時代から活躍が目立つようになり、70年代以降はテレビドラマで悪役を演じることが多い。新東宝時代の同僚でもあった丹波哲郎が主演の「キイハンター」や「Gメン75」にも、よくゲスト出演していた。98年に66歳で亡くなっている。
丹波哲郎の名が出たところで江畑絢子である。丹波との間に隠し子がいたことが後に明らかになっている。
そんな、江畑絢子は38年生まれ。デビュー作は「皇太子の花嫁」(55年)で主演の島崎雪子の妹役であった。「ノイローゼ兄さんガッチリ娘」(56年)では主演の「ガッチリ娘」に抜擢、「空飛ぶ円盤・恐怖の襲撃」(56年)でもヒロイン役を務めるなど、順調な滑り出しであった。その後は、脇に回っていたが日米映画制作の犯罪捜査シリーズ「殺人魔の接吻」(59年)では、主人公(江見俊太郎)の愛人役を演じている。主人公といっても殺し屋だが、その女なのでヒロインということになるのだろう。江見俊太郎は、新東宝時代には主役がないと書いたが、本作では主演であった。
この59年くらいで新東宝を去り、テレビ中心の活動に移行している。新東宝時代、丹波哲郎との共演も多かったので、その間にデキてしまったのであろうか。65年には、前項でも書いた「血と掟」に出演。城実穂が安藤昇の妻役であったが、江畑はその盟友(金沢重勝)の妻役であった。同じ年の「求婚旅行」の出演を最後に映画界を去っている。
三重明子は35年、芸名どおり三重県の生まれ。デビュー作は江畑と同じ「皇太子の花嫁」である。彼女も脇役専門で59年には姿を消してしまったようだ。
浜野桂子は35年静岡県生まれ。デビュー作は江畑、三重と同じ「皇太子の花嫁」である。この人はとにかく出演本数が多く、時代劇、現代劇を問わず、チョイ役も含めて百本以上にに出演しているという。脇役専門の彼女だったが、新東宝末期の61年「誰よりも金を愛す」で準主演に抜擢されている(主演は三木はのり平)。新東宝は倒産直前に退社し、テレビ中心の活動に移ったがNHKの「赤穂浪士」(64年)を最後に芸能界を引退している。

新東宝俳優録11 筑紫あけみ、城実穂(+南風洋子)

新東宝の第2期スターレットは52年に入社し53年がデビューだったようだが、男は採らず女性だけだったという。しかし、何人だったかは不明で、その顔ぶれで判明しているのは、筑紫あけみ、城実穂、光岡早苗くらいである。
筑紫あけみは、33年福岡市生まれ。デビュー当初は端役が続き、何がデビュー作なのかは、はっきりしないのだが、「花と怒涛」(54年)で突如主演に抜擢されている。出演者の顔ぶれも豪華で岡田英次、上原謙、山内明、山形勲、久慈あさみ、高杉早苗、長岡輝子などで、とても新東宝とは思えないが、本作で彼女も注目されるようになった。
「厳ちゃん先生行状記・処女合戦」(54年)では、同期である城実穂と共にヒロイン役を演じている。若杉嘉津子が毒婦を演じた「毒婦夜嵐お絹と天人お玉」(57年)では、タイトルにもある天人お玉を演じている。
大蔵体制になってからも「女体桟橋」「薔薇と女拳銃王」「白線秘密地帯」(いずれも58年)といったエログロ作品にも助演しているが、この58年に結婚し、新東宝は退社しているようである。
その後、テレビに顔を出すようになり、帯ドラマ「水道完備ガス見込」(60~63年)では、谷幹一の奥さん役でレギュラーを務めていた。63年ころに姿を消したようである。
城実穂は、32年兵庫生まれ。姫路工大付属高の庶務課に勤務した後、新東宝に入社。デビュー作は「半処女」(53年)で、南風洋子、左幸子、南寿美子と女学生ヒロイン4人のうちの一人を演じた。当初は筑紫あけみよりも扱いが大きかったようだが、すぐに脇のほうに回るようになり、メインキャストを演じることはほとんどなくなった。
唯一、日米映画制作の犯罪捜査シリーズ「女の決闘」(59年)では、主演に抜擢されている。新東宝には、60年まで在籍していたようだが、ネームバリューはあまり高くないといえる。
60年以降は、テレビドラマに顔出していたようだが、松竹の「血と掟」(65年)で、安藤昇の妻役を演じたのを最後に姿を消している。本作には城の他、菅原文太、高宮敬二、細川俊夫、江畑絢子、丹波哲郎と新東宝出身者が大挙出演している。
前述の「半処女」に南風洋子の名があるが、彼女も新東宝に在籍していたことがある。宝塚歌劇団の出身で、有馬稲子や福田公子が同期であった。その退団直後に新東宝入り(53年)しており、56年まで在籍していたのである。

個人的には70年代からよく見かけていたが、30年生まれということで、既に40も過ぎていたこともあってか、失礼ながら美人だと思ったことは一度もない。まあ、自分よりずっと上の世代の人には、そう思うことが多いのだけれども。

新東宝俳優録10 江見俊太郎(江見渉)

「東海道四谷怪談」繋がりで、江見俊太郎である。伊右衛門は天知茂、お岩は若杉嘉津子、直助が江見俊太郎だ。
江見俊太郎は23年生まれ。早稲田大学卒業後の44年、学徒出陣により海軍航空隊少尉として特攻隊に入るが、終戦を迎え復員する。
鶴田浩二が、よく特攻隊の生き残りという設定の役をやっていたが、実際は整備科の予備士官であり、特攻隊員を見送る立場だったということは今はしられているが、江見の場合は本当の特攻隊員だったわけである。
そんな、江見は45年12月に東宝に入社。その理由が武力によらずに世界と対等にわたりあえる手段は芸術しかない、との考えからであった。46年に江見渉の芸名で「民衆の敵」でデビューしている。
翌47年に東宝争議から誕生した新東宝に移っている。つまり、新東宝誕生時から在籍していたわけである。新東宝時代は準主役級ではあったが、主演はなくスターとは言えなかったが、新東宝後は悪役として確固たる地位を築いている。
59年に江見俊太郎に改名しているが、これは大蔵貢の命によるもの。同じく大蔵に変えさせられた和田孝(桂之助)や小笠原弘(竜三郎)は、その後もとに戻したが、江見は気に入ったのか、そのまま俊太郎で通している。
その俊太郎になって直ぐに出演したのが前述の「東海道四谷怪談」である。実は当初、直助役は天知茂で、江見はキャスティングされていなかった。じゃあ主役の伊右衛門は誰かと言えば、アラカンこと嵐寛寿郎が予定されていたのである。
それが何故代わったのかといえば、同じころ大映が長谷川一夫主演で「四谷怪談」をやるということがわかったからである。長谷川一夫には叶わないと周囲は考え、新東宝の御大である寛寿郎に傷をつけるわけにはいかないが、それを本人にいうわけにも行かない。どう言い包めたかは不明だが、大蔵らが寛寿郎に降りるように説得したらしい。
結局、寛寿郎は降りて、元々伊右衛門を希望していた天知にお鉢が回ってきたというわけである。そして、ぽっかり空いた直助役が江見に転がり込んだのである。江見もこの役を気に入り、自分の代表作といえばこの「東海道四谷怪談」を挙げるくらいである。ちなみに、江見はこの59年に新東宝を退社してフリーとなっている。
さて、前述の鶴田浩二と江見俊太郎には共通点がある。それは「眠狂四郎」である。実は映画で狂四郎を初めて演じたのは鶴田浩二(56年)で、テレビで狂四郎を初めて演じたのが江見俊太郎(57年当時・渉)なのである。
眠狂四郎といえば、その後の市川雷蔵や田村正和のイメージが強く、江見の狂四郎など想像しづらいかもしれないが、まあ若い頃の江見ならわからんでもない。ちなみに57年版と61年版があり、どちらも江見が演じている。
テレビ創世記からドラマに出演していた江見の主演作はこれだけではなく、「新吾十番勝負」(58~60年)のドラマ版でも主役の葵新吾を江見が演じているのである。他にも江見が主演だったドラマが見受けられる。
新東宝ではスターではなかったと書いたが、実は隠れたテレビ時代劇スターだったと言えるかもしれない。
70年代以降は、ほぼ悪役として活躍したのはご存知であろう。03年に80歳で亡くなっている。

新東宝俳優録9 若杉嘉津子

若杉嘉津子といえば、「東海道四谷怪談」(59年)でのお岩さん役がひと際有名であろうか。他にも怪談時代劇への出演が多い女優である。
若杉嘉津子は26年山形県生まれだが、28年東京生まれとなっているケースが多い。サバ読んでいたわけではなく、自分が育った勝田家の養子だったことを本人は長い間知らなかったためである。
戦後まもなく雪印乳業に入社し、同社の職場演劇に出演したことで演技に興味を持つようになり、47年大映の第3期ニューフェイスに応募し合格した。同期には根上淳などがいた。
翌48年「親馬鹿大将」でデビュー。当初の芸名は若杉須美子であった。若杉紀英子の名を使ったときもあったようである。仕事の方は割合順調であったが、52年に永田雅一社長の「大成したければ結婚はするな」という命令を破って、共同通信の記者と結婚した。これによって干されたため、媒酌人でもあったプロデューサー児井英生の勧めで、翌53年新東宝に移籍したのである。
新東宝で当初は、それほど大きな役もなく、56年に女児を出産したが、すぐに復帰。最初の仕事が中川信夫監督の「人形佐七捕物帖 妖艶六死美人」であった。このとき芸名を若杉嘉津子に改めている。
これがきっかけとなり、中川が監督した「怪談かさねが渕」(57年)では主演のお累を演じ、新東宝怪談映画の常連となっていく。また、「毒婦夜嵐お絹と天人お玉」(57年)でも主演のお絹を演じ、中川が監督した「毒婦高橋お伝」(58年)ではそのお伝役と毒婦ものでもお馴染みとなった。
「毒婦お絹」の監督である並木鏡太郎は手取り足取り教えるタイプだが、中川はほとんど口を開かなかったという。その中川が凄い染料の水の中に彼女沈められる撮影後に、「今日は大変な仕事をやってくれてご苦労様でした」と頭を下げたといい、若杉は感激したという。
彼女も新東宝倒産まで在籍し、前項の花井蘭子や沼田曜一と同様に「湯の町姉妹」(61年)が新東宝での最後の出演作となっている。
新東宝倒産後はテレビドラマ中心で「恐怖のミイラ」(61年)や「夜の扉」(61年)にレギュラー出演。「恐怖のミイラ」には、松原緑郎、三條魔子、舟橋元、三原葉子など新東宝出身者が多く出演している。
あと単発ドラマ版の「東海道四谷怪談」(61年)があったようで、若杉と江見俊太郎といった映画版にも出演したキャストが出演しているようだ。おそらく、若杉はそのままお岩で、江見が伊右衛門(映画では直助)を演じたのではないだろうか。
資料等で64年に女優を引退したとなっているが、65年放送分の「特別機動捜査隊」「鉄道公安36号」「悪の紋章」などにゲスト出演しているので、放送時期からも前年収録ではなさそうなので、65年が引退年と考えてよいのではないだろうか。
私生活では57年に離婚し、その後再婚はせず女手一つで一人娘を育てている。その娘が「特捜隊」で母親が悪役を演じているのを見て泣かれたことを、引退理由の一つにあげているらしい。

新東宝俳優録8 沼田曜一

新東宝を知らない人に、かつてこの人はスターだったんだぜと言ったら、驚かれそうなのが沼田曜一である。
若い頃は美男だったのかといえば、決してそういうわけでもなく、どちらかといえばクセのある顔立ちは、年を取ってからの印象とはさほど変わりはない。失礼ながら、主演作が何本もあったのが不思議に思えてしまうのである。
沼田曜一は24年生まれ。本名を美甘正晴という。ちなみに「みかも」と読む。日大演劇科を中退し、47年にNHK大阪放送劇団に入る一方、京都の劇団くるみ座で初舞台を踏み、同年8月松竹「女優須磨子の恋」で映画デビューも果たしている。
ウィキペディアでは47年となっているが、「日本映画俳優全集」では49年に東横映画に入社となっている。後者の方が正しい気がする。
ちなみに東横映画は47~51年にかけて57本の映画を製作しており、51年3月に太泉映画、東京映画配給と合併して東映が誕生したのである。その中で沼田が注目されたのは「日本戦歿学生の手記 きけわだつみの声」(50年)で見習い士官を演じてからのようである。ちなみに主演は東宝の伊豆肇だった。「女学生群」や「紅二挺拳銃」(50年)では、いずれも主演だったらしい。
東映誕生後に、一旦フリーとなっているが、53年に新東宝に入社。「刺青殺人事件」がその第1作目であった。結局、61年の新東宝解散まで在籍しており、主演作としては日米映画製作の「恐怖の罠」(59年)では万里昌代と共に麻薬取締官を演じたり、「闘争の広場」(59年)では小学校教師を演じており、恋人役が三ツ矢歌子、同僚役が池内淳子である。
しかし真面目な役をやっていても、やはりどこか怪しい。前項で書いた花井蘭子の遺作となった「湯の町姉妹」(61年)にも、沼田は小説家志望の青年(当時37歳)という役で出演しており、しかも主演の池内淳子に好かれているという役どころだ。
もちろん、こういういい役ばかりではなく、本来の?悪役、怪役も数多く演じている。「地獄」(60年)で演じた田村という役の方が彼には合っていると感じる。
ウィキペディアには新東宝解散後は、天知茂、宇津井健、丹波哲郎、高島忠夫、菅原文太のような成功を収めることはできなかったとあるが、元々華やかなスターのオーラは持っていなかったので、ある意味当然ではないか、と個人的には思う。脇で輝くタイプに思える。
丹波哲郎は「沼田は酒癖が悪くてキャリアをフイにした」ということを言っていたらしいが、それはあまり関係ない気もする。
晩年の民話の語り部としての活動は結構知られていると思うが、その功績で芸術祭優秀賞を受賞している。06年に81歳で亡くなっている

新東宝俳優録7 花井蘭子

新東宝の始まりは「十人の旗の会」であるといえる。メンバーは以前も書いたが、大河内傳次郎、長谷川一夫、藤田進、黒川弥太郎、原節子、山田五十鈴、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子、三谷幸子である。
通常、三谷幸子のところは、入江たか子になっていることが多く、轟夕起子や岸井明になっている資料もあるという。これは以前ここで紹介した、新東宝俳優である川部修詩の書いた「活狂エイガ学校」によれば、大河内が渡辺邦男監督に送った書面は世に出回っていないため、正確なメンバーを知っているがほとんどいないためである。
ちなみに、三谷幸子はスター女優ではなく大河内が可愛がっていた女優で、言われるままにサインしたらしい。後で事の重大さを知り、すぐにメンバーから外してもらったという。この後三谷は、脇役として主に松竹で長く活躍し、77年頃までは女優を続けていたようだ。山田五十鈴もすぐに抜け、十人といいながら実際は八人での活動であった。しかし、そのほとんどが早いうちに新東宝を離れており、比較的長く在籍していたのが花井蘭子である。
花井蘭子は18年生まれで、父親が新派の俳優である清水林之輔でその父の意向で、23年つまり5歳のときに子役として初舞台を踏んでいる。28年、10歳のときに松竹下加茂に入社し、映画デビューは「提灯」(29年)という作品である。当初は本名(清水よし子)に近い清水玲子を芸名としていた。父の林之輔は彼女を一流の映画女優に育てたいと思っており、31年に日活太秦に彼女を入社させ、芸名も花井蘭子の改めている。
37年、大河内傳次郎とともにJ・Oスタジオに引き抜かれて転社している。J・Oは翌38年、東宝に吸収され、花井もそのまま東宝の女優となっている。
で、前述のとおり新東宝に参加し、まずは「ぼんぼん」(47年)では長谷川一夫、「愛情診断書」(47年)では藤田進の相手役をつとめた。五社協定のない時代で、新東宝に籍がありながらも大映や松竹の映画にも出演していた。「細雪」(50年)では、轟夕起子、山根寿子、高峰秀子と4姉妹の長女を演じた。実際の生年は轟(17年生)、花井(18年生)、山根(21年生)、高峰(24年生)であり、花井と轟が入れ替われば年齢順どおりであった。
55年から東宝への出演が多くなったこともあり、56年に新東宝を離れ東宝と出演契約を結ぶが、その直後に脳腫瘍で入院する。58年に一度復帰するが、再び休養に入る。
61年に新東宝の「桃色の超特急」で復帰し、バーのマダム役を演じ、61年5月の「湯の町姉妹」にも旅館の女将役で出演したが、これが封切られた4日後に脳内出血により亡くなっている。まだ42歳であった。彼女の死に合わせるかのように新東宝はこの5月に映画制作を打ち切り、8月に倒産したのである。
つまり、花井蘭子は新東宝誕生期の映画と倒産期の映画の両方に出演していたわけである。

新東宝俳優録6 中山昭二

当時、歌舞伎や日本舞踊から転身した映画スターというのは多かったが、バレエダンサーから俳優に転身した経歴を持つのが中山昭二である。
中山昭二は28年生まれ。戦時中は横須賀海兵団の少年水測兵であった。バレエを始めたきっかけ等は不明だが、47年に小牧正英バレエ団に入団している。小牧正英は東映の「少年探偵団」シリーズで怪人二十面相を演じたこともある。
その後、アーニー・パイル舞踊団を経て三橋蓮子舞踊団の所属。52年、日劇ショー「パリの唄」に出演していたところ、ジョセフ・スタンバーグ監督に見いだされ、アナタハン島事件を描いた日米合作映画「アナタハン」に出演することになる(配給は東宝)。本作には当時は新人だった根岸明美、近藤宏、菅沼正らも出演していた。ちなみに菅沼とは「特別機動捜査隊」でも主任(中山)と部長刑事(菅沼)という関係で共演している。
この出演をきっかけに俳優に転身し、翌53年に新東宝に迎えられ、「憲兵」で主役デビューした。大蔵時代で同じ中山が主演の「憲兵とバラバラ死美人」(57年)や「憲兵と幽霊」(58年)と混同しそうだが、こちらの「憲兵」は、共演が岸恵子、藤田進、堀雄二、三浦光子、小沢栄太郎などで、後の「憲兵」映画とは全然違う作品だといえよう。
ちなみに大蔵以前の新東宝では「戦艦大和」(53年)、「ジャズ娘乾杯」「次郎物語」(55年)などに出演していた。
新東宝時代は主演または準主演として活躍したが、59年にフリーとなり、その後東映と契約した。
61年に横山道代と結婚。それ以前は、ハワイで活躍していた古城あけみと婚約までしていた時期があったが破局したという。
東映に行ってからはテレビ出演が増え、「ヘッドライト(後に青年弁護士に改題)」(62~63年)に主演。その「青年」を演じていた63年から前述の「特別機動捜査隊」に藤島主任として登場した。まだ30代半ばであったが、この頃からリーダー的な役が多くなり、「ウルトラセブン」(67~68年)では、キリヤマ隊長役を演じることになる。この時期「特別機動捜査隊」の方では、捜査二課の係長に就任したことになっており、ほとんど主演していない(後に何事もなかったように特捜隊に復帰)。
本人も「おれの代表作は結局セブンかな」と言っていた(らしい)ように、「中山昭二」ではピン来ないが「キリヤマ隊長の人」と言えばわかる人も多いのではないだろうか。
70年代以降は、時代劇などで悪役を演じることが多くなり、「顔は知っているけども、名前は…?」という人も多かったと思われる。98年に70歳で亡くなっている。

新東宝俳優録5 泉田洋志(今清水基二)その2、堀雄二

前回の続きであるが、泉田洋志(当時・今清水基二)は、やはり東宝から移ってきた市川崑監督の「三百六十五夜」(48年)に強盗の役で出演するのだが、助監督だった内川清一郎に「殺陣を付けてくれないか」と頼まれたのである。現代劇なので「技闘」と呼ばれるようになるが、泉田が柔道5段であったこともあるが、他の作品で立ち廻りのある役をやっていたのを見ていたことで推されたのであった。
主演の上原謙の家に忍び込んで、上原につかまるというのが泉田の役だが、そのシーンのアクションを泉田本人がつけたのである。これが好評で、それ以降現代劇の技闘は泉田が一手に引き受けることになったのである。
しかし、当時は「技闘」をクレジットする習慣はなく、技闘師・今清水一としてその名が出ることはほとんどなかった。
この「三百六十五夜」で、上原の仇役に大抜擢されたのが堀雄二である。第1期東宝ニューフェイスであり、三船敏郎、久我美子らと同期だったのだが、東宝がストライキ続きなのに業を煮やしたのか、すぐに新東宝に移籍してきたのである。この東宝ニューフェイスから新東宝に来たのは堀と野上千鶴子だけだったらしい。
泉田と堀は同じ東京下町の出身であり、しかも同じ早稲田(堀は中退)ということもあってか、気があったという。一度、泉田と堀、そして新人女優だった河端佐代枝、海はるこの4人で飲みにいったことがあったが、堀と河端は後に結婚したという(後に離婚)。
堀は50年には大映に転じ、51年に甲斐はるみと再婚している。54年に東映に転じ、「警視庁物語」シリーズ(56~64年)の全24本に長田部長刑事として出演。期間から考えると本来は東映俳優として書くべきだったかもしれない。その後「七人の刑事」(61~68年)の赤木係長としてお馴染みとなる。それにしても若い頃から、貫禄のある顔立ちで(22年生まれ)実年齢より15歳くらいは上に見えていた。
さて話は戻るが、役者としては大役を演じることは少なかった泉田が、一度主役に抜擢されかけたことがある。それが「恐怖のカービン銃」(54年)で、大映からきた田口哲監督が泉田を抜擢しようとしたが、そのとき三本の映画に掛け持ちで出演していたため、断念せざるを得なかったのである。代わりに抜擢されたのが天知茂であり、天知はこれをきっかけに軌道に乗っていくのである。
今清水基二から泉田洋志に改名するのは56年「銀蛇の岩屋」という作品からである。先輩俳優である倉橋宏明から「一緒に改名しないか」と勧められ、法華経の行者からもらった名前が「泉田洋志」だった。ちなみに倉橋は、それまで「大杉晋」という芸名だった。師匠の清川荘司などは、今清水の方がいいと言っていたが、一度変えた以上は泉田で行くつもりだったという。
泉田は59年頃からテレビの方でも活躍し始めている。明日香実という新東宝の後輩が「黒帯先生」(59年)というテレビ映画に抜擢され、「柔道のほうをお願いします」と言われ参加したのがきっかけだったという。
泉田は新東宝の倒産まで在籍はしていたが、すでにテレビの方が忙しくなっており、倒産前後のことはあまり詳しくないと語っていた。倒産以降テレビが活動の中心となっているが、実は60年代後半は多くのピンク映画に出演している。

新東宝俳優録4 泉田洋志(今清水基二)、清川荘司

新東宝好きな人なら「新東宝秘話・泉田洋志の世界」(鈴木義昭著)を読んでいる人も多いのではないだろうか。
新東宝誕生時から在籍していた俳優・泉田洋志へのインタビューをもとに構成されている本である。大蔵以前の新東宝の様子もわかる貴重な資料ともいえる。
泉田洋志は24年生まれ、本名を今清水英一という。早稲田大学に在学中に仙台予備士官学校に入学する。45年に仙台の部隊に見習い士官として配属されるも終戦を迎え、大学に復学し46年に卒業する。士官学校を出て、早大を卒業しているのだから中々のエリートなのである。
たまたま、新聞広告で見た東宝ニューフェイス募集の記事を見て、受験するも不合格に終わる。あの三船敏郎を生んだ第1期ニューフェイスの試験である。しかし、この結果に納得がいかなかった今清水青年は、遠い親戚だという浪曲師・広沢虎造を尋ねる。すると広沢は「わかった。この名刺を持って撮影所へ訪ねていきなさい」と言ってくれたという。
もう一人、尾上桃華という戦前の日活時代劇で活躍していた俳優にもツテがあり、「何とかするよ。清川荘司っていう東宝の有名な俳優さんに頼んであるから」と言われたものの待てど暮らせど返事はこない。
すると今度は撮影所に行き、清川荘司に直談判したのである。「ダメならダメとはっきり言ってくれ」というと清川は「何カ月かかるかわからないが待ってくれるか」と言われたという。すると、翌日に電報が来て「すぐに東宝に来い」というので、それで入社できたのだという。
ちなみに、清川は20年に国活巣鴨撮影所に入社以来、大部屋俳優として松竹蒲田、日活太秦、J・O、東宝と渡り歩いてきたベテランである。
今清水青年の初仕事は入社したその日、黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」で、顔ははっきり映っていたという。しかし、入社から三か月後、東宝の大ストライキが始まる。その過程で新東宝が誕生するのは前にも書いたとおり。
今清水の場合は、師匠である清川が新東宝に移り、「おいで」と言われたので、付いていかないわけには行かなかったのである。
47年の新東宝第三回作品であるエノケン主演の「九十九人の花嫁」に、今清水基二の芸名で清川荘司と共に出演したのが公式のデビューである。ちなみに大蔵時代の「九十九人目の生娘」(59年)とは何の関係もない作品である。
ちなみに、新東宝には戦前から仇役で活躍していた役者がいっぱい集まっていた。菊池双三郎、瀬川路三郎、鳥羽陽之助、杉寛、小島洋々、冬木京三、高松政雄、沢井三郎、大谷友彦、国創典(邦創典)、若月輝夫、前述の尾上桃華、東映で取り上げた阿部九洲男などもおり、今清水は役者の中では一番若かったという。高松や邦は新東宝倒産まで在籍していた。
この項、次回に続く。