新東宝俳優録3 香川京子
新東宝というと、どうしても後期の大蔵貢時代が印象が強い。研究本や関連書籍も大蔵社長時代のみ取り上げ、それ以前は無視されていることが多い。だから、あの大スターが新東宝に、というと意外な感じを持つ人も多いのではないだろうか。
元々は新東宝という名前が示すとおり、大規模ストにより撮影ができなくなった東宝から分離してできた会社である。立ち上げたのが、長谷川一夫、大河内伝次郎、原節子、高峰秀子といった大スター揃いの「十人の旗の会」であり、文芸作品なども多く撮られていたわけである。
前回の左幸子もそうだが、香川京子もスタートは新東宝だったのである。
香川京子は、31年生まれ。49年に行われた「ニューフェイス・ノミネーション」に応募し、六千人の中から一人選ばれて合格する。
母の妹の夫・つまり叔父の永島一朗が新東宝で宣伝課長をしていたため、その斡旋で同年に新東宝入りしたのである。芸名は会社で用意されていたものがしっくりこなかったため、本名の池辺香子(いけべきょうこ/旧姓)をベースに本人と家族で考えたものだという。
映画デビューは、「帰国(ダモイ)」(49年)という作品のウェイトレス役で、セリフも一言の端役であった。
注目されはじめたのは、翌50年、島耕二監督作品の「窓から飛び出せ」での小林桂樹の相手役から。予定されていたのは久我美子であったが、出演できなくなったため、急きょ抜擢されたものであった。
その後、「東京のヒロイン」(50年)、「銀座化粧」(51年)、「上海帰りのリル」「おかあさん」(52年)に出演し、人気も不動のものとなったところで、52年6月をもってフリーとなった。大映や松竹から専属の強い誘いがあったというが、プロデューサーに転向していた叔父の永島一朗にマネジメントをゆだね、フリーをつらぬくことを選んだのである。
これが五社協定ができる前だったため、今井正、成瀬巳喜男、溝口健二、黒澤明といった各社の巨匠といわれる監督作品に出演できるという幸運に恵まれたのである。
63年に読売新聞の記者だった牧野拓司と結婚。65年の黒澤作品「赤ひげ」への出演を最後に、夫の赴任先であるニューヨークに同行し、数年間女優を離れている。68年に帰国し女優に復帰しているが、テレビ・舞台へ活動の主軸を移している。
黒澤の遺作となった「まあだだよ」(93年)にも、主演の松村達雄の奥さん役で出演。彼女の演技が見事だったので、全く指導しなかったと言われている。
84歳となった現在も現役で活動中である。
新東宝俳優録2 左京路子(未知子)、左幸子
指摘があったのだが、新東宝第1期スターレットには、宇治みさ子、南寿美子、小野彰子などもいた。
南寿美子などは、54年には日活に移ってしまい、ロマンポルノの時代になっても出演を続けていたくらいなので、やはり日活俳優録(いつやるかわからないが)で取り上げるべき女優であろう。
あと、左京路子(未知子)なども第1期スターレットだと書かれていることもあり、自分もそう書いたことがあったのだが、改めて調べてみるとそれはおかしいようである。
左京路子は37年1月生まれ。本名を合満綾子という(ゴウミツと読みゴーマンではない)。日活に入社し、56年7月に本名に近い郷絢子の名で「悪魔の街」で映画デビューするが、翌月には左京路子と改名して「暁の逃亡」に出演しており、公式的には後者をデビューとしている。翌57年に新東宝に移籍にしたとある。この通りだとすれば、彼女はスターレットではなく、日活からの移籍組ということになる。
もちろん、プロフィールにはなくてもスターレットだった可能性がないわけではないが、51年の時点では彼女は中学3年に在学中であり、若すぎるであろう。太地喜和子のように、中学を卒業してすぐに東映ニューフェイスになった例もあるけれども。
さて、左京路子は新東宝に在籍しながら日米映画(新東宝初代社長・佐生正三郎が設立した会社)に出演したり、東宝系の東京映画が製作した「グラマ島の誘惑」(59年)などにも出演している。
新東宝が倒産する61年に左京未知子と改名しテレビ中心の活動を行っていたが、63年に成人映画の世界に転向した。初主演となる「不貞母娘」を監督した高木丈夫とは、黒澤映画の名プロデューサーだった本木荘二郎のことである。
それから10年、73年まで成人映画の世界で活躍していたたが、その後は不明である。
あと、左幸子が第1期スターレットと同期と書かれていることがあるが、彼女のデビューは新東宝の「若き日のあやまち」(52年)であり、スターレットたちとデビューが同時期という意味では「同期」という表現は間違ってはいないが、スターレットではないはずである。彼女は基本的には五社協定をものともしない、一匹狼女優であるが、この52~54年あたりまでは、新東宝の専属だったようである。もちろん、社長が大蔵貢になる前の話である。
新東宝俳優録1 森悠子、巽英子(+第1期新東宝スターレット)
さて、今回から予告とおり新東宝俳優録をスタートさせることにした。新東宝といえば、社長が大貢蔵以前と以後に分かれると思うが、主に大蔵以後を扱っていきたい。
他社のニューフェイスにあたる第1期新東宝スターレットは51年に18人が入社している。高島忠夫、天知茂、小笠原弘、松本朝夫という男性4人はよく知られているが、女性陣14人で知られているのは、久保菜穂子と三原葉子くらいであろうか。他には森悠子、巽英子というのがおり、それぞれ天知茂、小笠原弘と結婚しているのである。
天知と森悠子は共に名古屋出身ということですぐに親しくなったという。同期で先に売れたのは高島や小笠原で、天知は中々芽が出なかった。当然稼ぎも少なかったが、天知はすぐに給料を使ってしまうので、いつも彼女から借金をしていたという。借りるばかりで返すこともなかった。
そんな彼がある日突然、悠子に「そうだ君に金を返さなきゃいけないな」と言い出したという。悠子が「珍しいわね。今返してくれるの?」というと、天知は「いや金はないんだ。返すのは面倒だから、いっそのこと結婚しちゃおうじゃないか」というプロポーズ。
こうして二人は56年に結婚し、借金はなきものになったという。
こう書くと私生活ではタメ男に聞こえるが、よき家庭人で夫婦喧嘩など一回もしたことがなかったと彼女は証言している。
森悠子は女優としては、結婚してすぐ引退したわけではなく、翌57年まではその名がキャストに見られ、そのあたりで引退したようである。ノンクレジットも多いようで、出演記録に残っている作品は少ない。宇津井健主演の「警察官」(57年)は、二人が共に出演している数少ない作品である。
小笠原弘と巽英子は、天知&森ペアより一足早く54年には結婚している。巽英子は出演記録も見当たらず、この時点で引退したようである。ところで、巽英子は渡辺篤の次女である。渡辺篤史(47年生まれ)ではもちろんない。黒澤映画などで活躍した明治生まれの渡辺篤である。
小笠原は57年に松竹に移り小笠原省吾を名乗ったが、その時代に「水戸黄門漫遊記 御用御用物語」(59年)で、義父の渡辺と共演を果たしている。他にもあるかもしれないが、とりあえず見つけたのはこれである。ちなみに小笠原は格さんの役だ。
実は新東宝時代、二人が結婚する以前に「晴れ姿 伊豆の佐太郎」(53年)という作品でも共演があった。このとき、それぞれどういう状態であったかは不明だけれども。
東映俳優録50 加賀邦男、志賀勝、亀山達也
51年の東映誕生時から在籍していた役者の中に加賀邦男がいる。
加賀邦男は13年、東京は人形町の生まれ。本名は亀山邦男。慶応義塾普通部を舞台俳優を目指して27年に中退(つまり14歳のとき)、浅草・昭和座に大部屋俳優として入っている。30年帝国キネマにスカウトされ、長瀬スタジオに入社。舟波邦之介の芸名で「仇討太夫桜」でデビューする。
この年長瀬スタジオは全焼し、京都・太秦に移転。31年に帝キネが新興キネマとなり、若手二枚目として数多くの時代劇(分かっているだけでも80本以上)に出演している。
40年に東京・大泉の新興現代劇部へ移籍。このとき、芸名を加賀邦男としている。新興は統合により大映となったが、終戦直前に退社。
戦後しばらくは地方巡業ののち、50年に東横映画に入社。翌年合併により東映が誕生したので、そのまま在籍していたのである。
年を重ねてからも二枚目で、善悪どちらにも見えるので、悪人を演じじていたかと思えば、「水戸黄門」シリーズで格さんの役を演じたりもしている。
65年に東映を離れフリーとテレビや舞台が活動の中心となったが、この時点で戦後だけで300本近い映画に出演していたのである。
加賀は02年に88歳で亡くなったが、その息子が志賀勝で(本名・亀山勝也)あり亀山達也である。加賀は六人の男児を儲けたが、志賀は三男で亀山は二男である。
志賀勝はすっかり有名になったが、東映入社は高校卒業してすぐの60年である。大部屋俳優として5年以上、全く無名のまま通行人などで過ごしており、「新蛇姫様・お島千太郎」(65年)が正式デビューと言われている。有名になったのはピラニア軍団がきっかけだったかもしれないが、個人的には必殺シリーズの悪役として70年代前半から認識していた。あの凶悪な顔はかなりのインパクトであった。
志賀は京都の所属だったが、兄の達也は弟より役半年早く(59年11月)、東映東京に入社している。きっかけは長兄の薫が東映東京の製作課員として勤務しており、見学に行ったことで俳優を志したという。
「男の血潮がこだまする」(61年)でデビューしたが、あまり目立つことなく脇役として活動していた。一人本名を名乗っているが、加賀の息子で志賀の兄ということは、ほとんど知られていなかったかもしれない。79年にその弟の志賀らとバッファロー軍団なるものを結成したらしいが、どうなったのかは不明だ。
亀山の現在だが、加賀邦男のウィキペディアなどを見ると三男は志賀勝と書かれているが、亀山達也については触れられていない。志賀勝の項目でも同様である。92年頃まで活動記録があるが、そのあたりで引退してしまったのかもしれない。
さて、東映俳優録もちょうど50に到達した。まだ取り上げるべき役者も多いと思うが一旦中断して、次は新東宝あたりかななどと思っている。しれっと東映を続ける可能性もあるが、そこは日曜日までに考えたい。
東映俳優録49 阿部九洲男
東映娯楽版では吉田義夫以外にも、当然悪役俳優はおり、阿部九洲男、三條雅也(小柴幹治)、楠本健二などが挙げられる。
阿部九洲男は10年生まれ。戦前は大都映画のスター俳優だった人である。この人の場合、名前を「九州男」だと思っている人が多いのではないだろうか。「九洲男」が正解のようである。「州」ではなく「洲」である。自分が持っている本でも、普通に「九州男」になっていたりするのだが、古くから互いに通用できる文字らしいので、間違いとは言えないのかもしれないが、名前(芸名だが)は正確な方が望ましいだろう。
この名前なので九州出身だと思っている人が多いと思うが、横浜の出身である。プロフィールからも特に九州に縁があるわけではなさそうで、何故「九洲男」なのかは謎である。ちなみに、北九州男という俳優がいるが、この人は名前のとおり北九州の人のようだ。
本名は伊東石太郎という固そうな名前で、29年に市川右太衛門プロに入社し、役者デビューしている。当時の芸名は春見堅太郎という、やはり堅そうな名前であった。31年に河合映画に移籍し、そのとき阿部九洲男に改名している。
その後、東活映画、宝塚キネマを経て、33年河合映画の後身である大都映画に入社した。そこで主演に抜擢され海江田譲二とともに大都時代劇の双璧となり、不動の人気を得ていた。もったいぶった大げさな芝居が多かったというが、それが逆にうけていたらしい。
42年、大都映画は戦時統制で新興キネマと合併し大映となったが、阿部は大映に継続入社している。
いつから東映所属となったかは、はっきりしないのだが55年くらいから東映作品に頻繁に顔を出すようになっているので、その辺であろうか。ただし、57年くらいまでは新東宝と並行して出演している。
以前ここで書いたチャンバラトリオの山根伸介は、阿部に師事していた。山根は56年の入社なので、東映への入社時期はそれほど違わなかったようである。山根によれば、偉ぶるような人ではなかったらしい。
東映では鬼瓦のような顔の悪役を演じていたので、知らない人が大都映画時代のスチールなどを見ると、そのあまりの違い、二枚目っぷりに驚くという。
65年に55歳の若さで亡くなっているが、「てなもんや東海道」など生前に撮影された作品が66年にも3作公開されている。
東映俳優録48 吉田義夫
「笛吹童子」「紅孔雀」「少年探偵団」「月光仮面」といった54年~61年頃にかけての少年向け映画を東映娯楽版というが、その時代劇部門で悪役を一手に引き受けていたのが吉田義夫である。ヨシダヨシオという響きは善人っぽいが、悪役である。ちなみに阪神タイガースで活躍したのは吉田義男である。
吉田義夫は11年生まれ。この東映時代劇で活躍していたのは40代~50代にかけての時期であり、当時既にベテランの雰囲気であったが、実は映画デビューは51年のことで、つまり40になってからのことなのである。
京都絵画専門学校(現・京都市立芸大)で、日本画を学び、在学中には左翼演劇活動も行っていたという。40年から約8年の間は法隆寺壁画模写技官として壁画の模写に従事していたという経歴を持つ。
兵役後は、美術講師を務める傍ら、いくつかの劇団に参加し、新東宝の「剣難女難」(51年)で映画デビューを果たした。
52年から東映京都の時代劇に出演するようになり、54年からその専属となっている。前述のとおり、役者としては40歳を過ぎてから活躍した人なのである。こういった経歴から扮装やメークアップには自分で工夫を加えていたという。
65年からはフリーとなり、各社の作品に登場。松竹の「男はつらいよ」シリーズには、寅さんの夢の中の悪役など、かなりの本数出演している。
個人的には、悪役というイメージは強くない。最初に吉田義夫を認識したのが「悪魔くん」(66年)か、「いただき勘兵衛旅を行く」(73年)だったからである。前者は妖怪と戦う悪魔メフィスト役で(病気で途中降板、後任は潮健児)、後者は通称貧乏神という公儀お庭番の役であった。順番からいえば前者が先だろと言われそうだが、吉田義夫に関しては後者だった気がするのだ。
ちなみに「いただき勘兵衛」は近衛十四郎の素浪人シリーズ最終作。共演が目黒祐樹とのちの妻である江夏夕子というファミリー出演であった。
最近、CSで放送された「特別機動捜査隊」の「みな殺しの歌」(72年)という回に吉田はゲスト出演。ラストに二十人はいようかという無軌道な若者たちに機関銃を浴びせ、みな殺しにするのである。どうしようもない連中だったとはいえ、今なら放送禁止になりそうな場面である。
86年、急性心不全のため75歳で亡くなった。死の直前まで俳優活動は行っていたが、晩年は趣味の油絵三昧の生活を送っていたという。
東映俳優録47 星美智子
東映ニューフェイスも最後の13期まで行ってしまったので、また時代は一気に戻るのである。
星美智子は純粋に東映の女優とは言えないが、イメージ的には東映が強いのではないだろうか。
星美智子は27年生まれ。個人的にはおばさん女優のイメージだ。50年代の作品とかで見ると大きく変わったわけでもないのだが、美人女優だったといえる。
叔母が戦前の日活スターだった星玲子で、35年8歳のとき、撮影所に遊びに行ったところ、親戚にあたるマキノ雅弘監督に「映画に出て見ろ」と言われ「少年靴屋」という作品でデビューした。
37年に日活が「悦ちゃん」製作のため一般から「悦ちゃん」役を募集した際、選ばれた江島瑠美(芸名は悦ちゃん)とともに子役として入社し、星美千子を名乗った。
数年子役として活動した後、学業に専念していたが、45年46年と大学受験に失敗。その間「お光の縁談」(46年)に出演し、高額のギャラをもらったことで「女優も悪くない」と、大学進学を断念して映画界に復帰した。
その後、大映、新東宝、松竹等の作品に出演。「飛騨の小天狗」(51年)から星美智子に改名し、53年に星玲子の夫であるマキノ光雄が重役をしている東映に招かれた。ここから約10年、星美智子は時代劇現代劇問わず、かなりの本数の東映作品に出演している。
芸能記者の加東康一によれば、星美智子に関して「事件」があった。今井正監督の「あれが港の灯だ」(61年)という作品に、東映側が星美智子の出演を依頼し、今井もそれを承諾し、ポスターを作りスチールの撮影も進んだが、彼女の出演シーンの撮影はいつまでたっても始まらなかった。ちなみに彼女の役は在日韓国人の娼婦というもの。
封切り日も間近になって、彼女が呼ばれテストは何度も繰り返されたが、今井は首を縦に振らない。今井特有の「ねばり」と思われたが、今回はそうではなかった。星美智子では撮れないと宣言し、急きょ岸田今日子を代役にたてたのである。
どうやら、今井は最初から岸田今日子を想定していたが、東映の申し出を断って紛糾するよりは、一応は星美智子を立てておいて、土壇場で岸田に切り替える腹を固めていたのではないかと思われた。
既に星美智子で発表されていた後の交代であり、ダメ女優の烙印を押されたような形になった彼女の映画出演は激減するのである。
加東は「作品のためなら一人の女優の立場など、どうなってもいいのか」と今井に詰め寄ったというが、今井は明確には答えなかったという。
その後の星美智子は映画の本数は減ったが、テレビなどにも顔を出すようになり、女優活動を続けている。最近では13年の作品にも、90歳近くなった彼女が出演して健在ぶりを示している。
東映俳優録46 成瀬正孝(成瀬正)、白石襄(白石鈴雄)
東映ニューフェイスの最後となる第13期の顔ぶれは次のとおりである。主に70年4月に入社し、約半年後にデビューという面々である。
成瀬正孝(成瀬正)、白石襄(白石鈴雄)、宇崎尚昭、金子洋一、久田雅臣、大泉公孝、三枝啓子、女屋実和子、亀井和子、岩本良子、小笠原正子、松下麻美子、白石恵美子、広田光穂子となっている。
ここで長く活躍したといえるのは、成瀬正孝くらいであろう。俳優となるきっかけを作ったのは意外にも波島進である。
成瀬は50年生まれで、高校卒業後上京し、アルバイト先で波島進と知り合いとなりニューフェイス試験を勧められ、合格したのである。その波島は成瀬がデビューした半年後となる「特別機動捜査隊」498話(71年)の出演を最後に引退してしまうのだけれども。
70年代半ばから80年代半ばまでは成瀬正の名で活動していた。この人も東映ニューフェイスらしく悪役向きのルックスであり、すぐにチンピラ、ヤクザといった役柄を演じることが多くなり、やがてピラニア軍団にも加入している。「仁義なき戦い」もシリーズのほとんどに出演している。
現在も現役で活躍しており、悪役以外つまり善良な役を演じることも最近はあるようだ。
もう一人、活動期間は短かったが白石襄についても記しておこう。実は手元の資料には彼の項目はないので、何年生まれとかも不明である。同期の成瀬が50年だから、その近辺であることは間違いないだろう。
当初は白石鈴雄の名で活動しており、これが本名ではないだろうか。その活動で有名なのは資生堂「ブラバス」のCM(71~74年頃)である。階段を必死に駆け下りる男、何事かと思えば落ちてくる猫をキャッチするというようなCMを覚えているだろうか。その外人ぽい顔立ちの二枚目が白石である。ちなみに団次郎や草刈正雄は同じ資生堂「MG5」のCMを同時期にやっていた。
その白石が唯一出演したドラマが前述の「特別機動捜査隊」である。波島が降板してすぐの507話より登場した。役名はそのまま白石刑事である。二年ほど出演して、映画の方に進出するのである。その際に白石襄と改名したようだ。実は「特捜隊」には、502話より水木襄がレギュラー入りしており(役名はそのまま水木刑事)、当初は白石が水木より先輩刑事という描写があったが、すぐに逆になった。いくら水木襄が若く見えるとはいえ、ニューフェースで10期も先輩の水木が後輩役では違和感ありまくりである。
その共演経験のある先輩の名前を白石は芸名にしたのである。本人の意思か会社の提案かは不明だが。
白石襄としては「狂走セックス族」(73年)での主演が初仕事となるはずだったようだが、バイク事故で出演不能となってしまうのである。
その代役に抜擢されたのが白井孝史(滋郎)であった。実は白井は13期ニューフェイス試験では不合格だったのである。しかし、東映芸能学院で学び、東映京都と契約。前述の成瀬正孝や13期の女屋実和子、前回の小林千枝も出演している「女番長ゲリラ」(72年)でデビューしていたのである。
白石は復帰後、「女番長玉突き遊び」「衝撃!売春都市」(74年)等で準主演の役を演じているが、「テキヤの石松」(76年)を最後に姿を消してしまったようである。もちろん現状についても不明である。
白石襄(鈴雄)ではわからないが、ブラバスのCMの人といえばわかる人もいる、そんな存在といえるのではないだろうか。
東映俳優録45 小林千枝
東映ニューフェイス12期の中で、ネームバリューは高くないが、映画出演本数でいえば同期の宮内洋や片山由美子を大きく上回っているのが小林千枝である。
チョイ役も多く、メインキャストととなることはほとんどないのだが、大部屋の人よりは目立つといった感じだろうか。「不良番長」シリーズや山内えみこ主演の「ネオンくらげ」シリーズ、他にも「女番長ゲリラ」とか「番格ロック」といったズベ公ものなどといったアダルト路線の映画には、かなりの頻度で顔を出している。
ちなみに、「不良番長」シリーズには、12期では瀬尾節子なども3本ほど出演しているが、それのみで終わってしまったようである。
かなり大人びた顔立ちで、まあ若い頃の夏木マリをイメージしてもらえればよいだろうか、実は50年生まれで片山由美子より1歳若いのだが、実年齢よりは10歳くらい上に見えるタイプである。
悪女っぽい顔立ちともいえるので、「プレイガール」には、かなりの本数に(おそらく悪女役で)ゲスト出演している。初期の第6話(69年)から終盤の285話(74年)まで、少なくとも24本に出演しており、ゲスト出演としては1,2位を争うのではないだろうか。同じようにゲスト悪女の多かった大堀早苗は、番組終盤にメンバーとしてレギュラー入りしたが、小林は次番組「プレイガールQ」(74~76年)の後半になってレギュラー入りを果たしたのである。
「プレイガールQ」は、「プレイガール」と違って資料もなく、CSで放送されたのも1話と最終話のみであり、しかも最終話はOPが欠けており、レギュラーメンバーの一部がよくわからないという状態であった。その最終話を見て「チエ」と呼ばれているのが、小林千枝だと判断したことを以前ここでも書いたが(この時点では顔がはっきりわかっていなかった)、その判断は正しかったようだ。52話からの登場だったらしく、半年ほどのレギュラーだったようであるが、おそらく唯一のレギュラー番組だったのではないだろうか。
映画は75年頃、テレビは82年あたりまで出演歴が確認できるが、04年にまた小林千枝の名が見られる。同一人物なのか、同姓同名の別人かどうかは不明である。
東映俳優録44 片山由美子(+第12期ニューフェイス)
宮内洋、旭洋一郎、中島信義、榊浩子、小山陽子、ひろみどり、上岡紀美子、小林千枝、梶原真由美、瀬尾節子、藤井まゆみ、片山由美子。
ここは何といっても宮内洋、片山由美子の知名度が高いだろう。ひろみどりも地味ではあるが長く女優を続けている。
片山由美子は49年生まれ。中学二年の時に東映児童劇団に入団。劇団のメンバーで構成されるコーラスグループ「ヤングフレッシュ」の一員として、「ひよっこりひょうたん島」の主題歌のコーラスにも参加しているという。
そして高校生の頃、前回も書いた「ジャイアントロボ」(67年)にレギュラー出演。翌年、東映のニューフェイスとなったわけである。東映京都に配属。京都生まれではあったが、育ちは東京である。
京都では宮内洋も出演している「やくざ刑罰史私刑」(69年)を皮切りに「異常性愛記録ハレンチ」など石井輝男監督の作品に続けて起用され、「徳川いれずみ史責め地獄」(69年)では。由美てる子が失踪したため、その代役で前半部分主演に抜擢されている(クレジットやポスターの扱いは小さい)。
東映がこの手の映画を前面に押し出していたときで、まだ20歳前だった片山もなくなく裸になっていた。本人も自分は時代劇向きのルックスではないし、裸の仕事ばかりだし、東京で現代劇をやりたいと悩んでいたところに、「プレイガール」の大久保プロデューサーを紹介してもらったという。
東京へ行って初めてレギュラーであることを聞かされたといい、75話(70年)より参加し、結局ラスト(74年)まで出演した。茶髪でメイクも派手め、私服もプレーガールそのものだったという片山は、自分には合っている仕事だと思ったという。お色気シーンも京都で鍛えられ、平気になっていたようだ。
個人的には、本放送で「プレイガール」を見たことはなかったが(子どもだったこともあるが、当時北海道に12CHの系列局はなく、放送自体されていなかった気がする)、もし見ていたら「あのジャイアントロボの西野隊員がたった3年で、こんなに派手に」と思ったかもしれない。ちなみにメイクはブリジット・バルドーを意識しているようだ。
ただ東映専属のため、ギャラは安くて苦労したという。ちなみに、東映ニューフェイス出身で「プレイガール」に抜擢されたのは、応蘭芳(5期)、八代万智子(5期)、宮園純子(7期)、そして片山由美子だけである。また、片山と同期の小林千枝が次番組「プレイガールQ」(74~76年)の後半にレギュラー入りしている。